2016年12月31日土曜日

絵解き

年末の最後の数時間をまるで噛みしめるように大事に過ごしている。今年は、一つの原稿に取り掛かっており、とりわけ充実な時間だと感じる。こんどのテーマの一部は、絵解き。絵画伝統の重要な構成をなした数々の活動記録などに思いは馳せつつ、先週、メトロポリタン美術館での鮮明な記憶がときどき蘇る。

美術館での解説は、いまやほとんどどこも電子メディアに頼るようになった。古風のレコーダーを貸したり、有料無料のアプリを提供したりして、とにかくますます便利になるものだ。その中で、先日のMETでは、人集りに近づいて見たら、キューレーダと思しき方が、大きな手振りや自信溢れる声をもって、ギリシアの彫刻を解説しているところだった。思わず聞き入れ、はっと気づいたら時間を忘れたぐらいだった。その時、頭に浮かんだのは、まさに絵解きという言葉だった。さらに言えば、これについての一つの新しい認識だった。絵解きとは、絵の内容を解説する、伝える、ということにばかり注目していたのだが、その活動が成り立ち、しかも聞く人に夢中にさせるためには、それを繰り広げる本人の人間としての魅力、語り部としての表現力もけっして見逃してはならない。伝えられている知識とは別に、あるいはそれと同等に、その場を作り出す力は、簡単に描写できない分、もっともっと考えたい。

このような思いを頭の中で反芻しながら、つぎに目撃した一時は、より意味深い。中国美術の展示室に入り、別の方による中国絵巻についての解説が終わろうとしたところだった。かなりのスペースを割いて展示されているのは、かつてじっくり読み直した「晋文公復国図巻」全巻と「胡笳十八拍図」部分だった。熱心な見学者からは、展示は本物かといういかにも素直な質問が飛び出された。両方とも上質な複製だと見受けられる。しかしながら「よく分からない」との返事だった。どうしてそこで答えを濁らすのか、ちょっぴり不可解だった。

2016年12月26日月曜日

久米仙人の姿

クリスマスが近づくなか、ニューヨークでの休暇を続ける。明るく、温かい日差しを愉しみつつ、広大な中央公園を南北に半分近い距離を歩き、MET(メトロポリタン美術館)に入った。入場料はほぼ日本の国立博物館の倍になることに驚きを覚えながらも、溢れんばかりの訪問客にまじり、館内をゆっくり見てまわった。なにがともあれ、やはり日本関連のものを確かめておきたい。

絵巻や屏風だけでかなりの空間をもつ大きな展示室を構えている。中でも、りっぱな六曲一双の「徒然草図屏風」(個人蔵)をつくづくと見入った。説明文は、短いながらも、徒然草についての絵画表現の伝統や、ドナルド・キーン氏の翻訳を引用してのエピソード紹介など、あくまでも丁重そのものである。紹介文が触れたのは、つれづれの序段、色欲に惑わされる久米仙人の第八段、それに鼎に頭を突っ込ませた仁和寺法師の第五十三段である。もともと版本の挿絵まで視野に入れれば、徒然草を題材とする画像作はけっして少なくはない。ただ、画題が集中しているわりには、構図において互いの踏襲は意外とすくなく、絵師たちの活発な創作が非常に目立つものである(随筆と絵)。ここの久米仙人は、まさにそれの好例である。仙人の失敗談を描くにあたり、ほとんどの絵は空中に、あるいは地面に落ち転んだ滑稽な格好を競って描くのに対して、目のまえの屏風に見えるのは、あくまでも神様らしく空中に佇む、颯爽とした神様らしい姿である。久米仙人の失敗は、このつぎの瞬間に訪れてくる、ということだろうか。

同じ展示室には、さらに伊勢物語、平家物語、南蛮などの屏風が出品されているが、個人的にいちばん思いを馳せる「保元平治合戦図」はついに見かけられない。ただ、同美術館は兜鎧の類の蒐集や展示にかなりの力を入れているらしく、その展示ホールに、日本の甲冑がここでも一室を占めていることを特筆しておきたい。

2016年12月16日金曜日

歌の夕べ

年末にかけて、しばしの休暇を取った。今年は、ニューヨーク。噂通り、東海岸の冬も厳しい。マイナス20度のところから出かけてきても、それにはまったく負けないくらいの厳しい寒さなのだ。もともとマンハッタンの夜でもビジネススーツに身を固める颯爽としたニューヨーカーたちの出で立ちを見ての感覚にもつながるのかもしれない。

到着の夜、さっそく文化の町にふさわしい集まりに足を踏み入れた。あのカーネギーホールだった。上演されているのは、一人のソプラノによるコンサートで、しかも一晩だけのステージだった。舞台に上がったのは、二十人足らずの楽団、一人の上半身を裸にする男性のダンサー、そしてずっとグレーのドレスを身に付けたままの歌姫だった。歌のテーマは戦争と平和。歌の言語にも、オペラの常識にも教養をまったく持ち合わせていない者として、ステージの真ん中上に映し出される字幕をずっと目で追い続けるはめとなった。映し出されたのは、単純でいて飾り気のない言葉に綴られた、どっちかといえば素っ気ないセリフだった。ただ歌声は、ときどき楽器と完璧な和声をなす、なんとも美しくても、われを忘れさせてしまうものだった。

これもいまごろのニューヨークのスタイルだろうか、アンコールの拍手に答えて、歌姫はマイクを握って突然に喋りだした。それも即興でいながらも、とんとも滔々と淀みなく、魅力的だった。語られたのは、深刻な世の中と人間の運命、音楽の力だった。超満員の観客たちの、歌を聞く以上に真剣に聞き入る姿からは、アメリカの底力を垣間見た思いだった。

2016年12月10日土曜日

ツイッターの使い方II

マイナス20以下の気温が続くなか、今学期の講義は無事に終了した。最後の二回のクラスは、学生による発表にあてた。新しい方法を案出し、読者を楽しませながら学習成果を披露するというものだった。そこに印象深い一つがあった。

取り上げられたテーマは、今度も芥川龍之介の「藪の中」。今度は、ストーリをいじりながら語り直すというものだった。そこでその新意というのは、なんとツイッター利用というものだった。ただ本もののツイッターに発信するのではなく、あくまでも真砂、多襄丸、武弘などの作中の人物に揃って疑似的に発信させるものだった。いわばツイッターのスタイルをふんだんに用いての、それぞれの発言をもって物語を再構成するというものである。同じ出来事をめぐる断片で、個人的な思惑や自己の都合に立脚する相互矛盾の言い分が並べ、それにより特異な空間を織り出すという芥川の文学世界の再現にまさにピッタリの着想だった。そこで繰り広げられたのは、パンチの利いた表現や予想しなかった証言などもさることながら、「@」や「#」などの意味ありげな記号などの活用があった。聞く者の笑いを誘い、しかもツイッターの熱心なユーザーほど、そのトリックに引き込まれたものだった。

時を同じくして、テレビ番組は今年のノーベル文学賞についての研究者たちによる過熱な議論を伝えている。そこで初めて気付かされたのは、音楽や演奏の場がなければけっして伝わらないから歌のセリフが文学ではない、という論法だった。そのような理屈に沿うならば、いまの実験はまさに純粋に文字を用いての実践なのだ。しかしどんなに成功したにせよ、これが歌以上に文学に近いと言えるのだろうか。興味深い質問だ。

2016年12月3日土曜日

新語・流行語

今学期の講義はあと一週間のみとなった。師走に入り、時の移り変わりに敏感で、しかもそれに対する表現も豊富なことを日本文化クラスでやはり触れておかなければならない。そんなことで、金曜日の授業の話題の一つに、いまや風物詩的な存在になったあの「新語・流行語大賞」をとりあげた。

どうやら今年の表彰対象に対して、例年以上に異論の声が大きい。流行と名乗りながらも、それと認定したいものと、実際に流行したものとの距離、表現しようとする意図や用いられた文脈もさることながら、いわゆる忌み言葉などの言語の位相、はたまた現実的な選抜委員会の構成など、関心が大きい分、議論も多岐にわたる。それらをつまみ食い的に読みながら、海外に身を置く者としてやはり日本を語るにはもってこいの実例なのだ。まずはあのPPAPがしっかりと入っている。NHKのニュース番組にまで取り上げられ、政府見解としてクールジャパンの代表的な存在に祭り上げられたものだ。クールな日本と意味不明なこれとの関連について、個人的には理解に苦労するところはいまでも残る。それが分かっていても、「これ、きっと今年の紅白にも登場するぞ」と軽く無責任なコメントを飛ばして、熱心な学生たちから軽い笑いを誘った。

一方では、これを議論する手頃な資料は、ノミネートが公表された日に発表された英語の年間流行語だった。今年のそれは、おなじくトランプ現象を指すもので、その中身を意味する「post-truth」なのだ。ただこちらの場合、メディアは一通り取り上げてはいるが、対象は一語のみで、入選発表も、派手な儀式も、そして複数のカテゴリーも一切ない。そして現実的に教室に座っている若者たちに質してみても、まったくの無反応だった。どうやら認知に関して日本語以上に実際の言語生活からかけ離れていて、興味深い参照を提供してくれた。

2016年11月26日土曜日

ネット授業II

授業の日程のない木曜日にネットを通じて遠隔の授業をした。今年に入ってからの二回目の経験である。学生たちが集まったのは、トロントにある大学。そこの先生に誘われ、日本語の勉強をしている三年生の学生たちを対象にしたものである。今度は、特設ページ「生活百景」を取り上げた。

講義はすべて日本語でとの指示を受け、その通りに進めた。普段の教育がしっかりしていることがはっきり見て取り、さほど手加減をしていないこちらの話し方にはきちんとついてくれて、ビデオカメラの画面から見るかぎりでは30人近くの学生がだれ一人注意を切らさなかった。質疑応答の時間となったら、特設ページ制作の苦労、絵巻が盛んだった時代の様子、絵をもって伝達する物語の面白み、さらに現在における絵巻へのアクセス方法など、多岐に渡りながらも要領の得た、真面目な質問がつぎからつぎへと飛び出してきた。ただそれでも担当の先生は自分のクラスの反応にどうやらこれでも十分満足したわけではなく、ネット講義の録画をあらためて見ることを学生たちに課し、その上、受講のコメントなどを書くことを要求しているらしい。そこからさらにどのような声が上がってくるやら、とても楽しみにしている。

同じキャンパス当てのネット授業は、三年前にもあった。あの時はたしか専用のビデオ会議の設備を使っていた。それに対してこんどはブラウザベースのもので対応した。実際に使用したのはZOOMという、ネット講義をホストする機関が採用しているシステムだった。驚くぐらいスムーズに接続され、スライド用のサブのスクリーンまで用意され、二時間の時差を隔てた遠距離の学生たちとほぼ同じ空間にいる感覚で自由な会話が出来た。技術の進歩をあらためて実感した。

2016年11月19日土曜日

Classical Kana

しばらく前に制作した「動画・変体仮名百語」ウェブページは、ほぼそのままの形をもってアップルのアプリになった。「Classical Kana」という名を与え、二日まえからiTunesにて公開した。いわばiTunesデビューは、個人的にはまったく新しい経験であり、この試みははたしてどのように受け止められ、どのような展開が待ち受けているのか、ただワクワクしながら見守っている。

連綿した変体仮名の短文に対して動きを通じて書写の順序を提示するというのは、この作品の狙いである。ウェブページをデザインした時点から、スマホなどの縦長の小さなスクリーンでの利用を想定していた。縦に延びる文章のありかたもさることながら、このような知識の吸収は、スマホを手にするような状況によりマッチしていると漠然と感じたからである。しかしながらこうは書いていながらも、スマホで使うアプリとパソコンでアクセスするウェブページとの違いについて、はっきりとした認識を持っているわけではない。ただなんとなくスマホのアプリとなれば、これに関心を持ってくれたり、実際に使ってくれたりする人々の顔がもうすこし見えてくるのではないかと想像はしている。なによりも隙間時間も利用可能なスマホと、しっかりと座って対峙するパソコンとは、どうも利用の状況が違う。しかもさっと取り出して真剣な眼差しでクリックして見つめるスマホは、すくなくとも大学などといった勉強の場においては、かなりの道具になっていることを実感している。はたしてこの観察は正確かどうか、思う通りにこれまでウェブページを見てくれたのともうすこし違う人々の手元に届けられるかどうか、これ自体も一つの興味深い観察対象である。

プログラミングの勉強や実践は、昔はかつてかなりの時間を費やした。ただいまになっては、そのような気力も実力もすっかり失せてしまった。そこへ思わぬサポートに恵まれた。同じ勤務校に所属する教育ツール開発のメンバーが快く制作に携わってくれて、このアプリの誕生に結びついた。そのような献身的な努力に感謝しつつ、「Classical Kana」というアプリが有意義な利用を得られるようにせつに願う。

Classical Kana

2016年11月12日土曜日

ツイッターの使い方

今週の後半、国の祝日にあわせて大学では二日の休講となっている。この日程を活かして、小さな研究交流が行われ、取り上げられたテーマの一つには、教育の現場におけるSNSの利用報告があった。招いてきた講師は、大学の教室にツイッターを持ち込んだ若いロシア文学研究者だった。そのユニークでエネルギッシュな実践からは、いろいろと有意義なヒントを得た。

紹介された利用法から、つぎのような内容がとりわけ記憶に残った。特定の講義や学習テーマにあわせて専用のツイッターアカウントを作成して、教育者が中心とする発信源とする。バーチャル的な繋がりを意図的に現実の活動と連動させ、たとえばグループによる映画鑑賞などを組織して、その場で発信をクラス活動として学生に課し、最少の発信数などを明確にして、それをそのまま学習評価の対象とする。教室の壁を乗り越えて、教育者同士の協力関係を利用して複数の大学、ひいては違う国々の組織と共同行動を起こし、交流を体感させる。ツイッターで交わされた議論はそのまま忘れるのではなく、特設のウェブページを用意して交信内容を整理した上でアーカイブし、これからの参照と再利用に備える。最後に研究者の本領を発揮して、これらの活動から生まれた研究者、教育者同士の連帯をベースにし政府からの研究助成を申請し、その下で文学教育に関連するオンラインとオフラインの活動を展開していく。

以上のような実践を聞いて、思わずワクワクしてくる。一方では、一つのプラットフォームを真剣に利用するために、やはりさまざまな場面を見極め、予期せぬ可能性を確かめておいて慎重に取り掛からなければならない。とりわけツイッターのようなサービスは、稼働の仕組みを絶えず変化しているので、このような判断はときにはきわめて難しい。

"I'd Like to Know More About ..." Workshop

2016年11月5日土曜日

邯鄲の夢

今週の文学の授業で取り上げたのは、三島由紀夫の「近代能楽集」の巻首を飾る「邯鄲」である。いうまでもなくあの邯鄲の夢を語り直したもので、人生の無意味を悟った男が苦労をして夢の世界を訪ね、その結果、人間の世に戻り、生きていくことを選ぶという、いわば悟りの逆行をたどる、三島一流のヒネリがふんだんに盛り込まれたものである。

関連の記録を調べれば、「邯鄲」は三島が25才のときの作品であり、しかも活字になると同時に京都の舞台で上演された。そのような作品を、言葉通りの、全員二十歳そこそこの三十二人の若者たちとともに、グループ発表、全員による短文での発言やクラスでの議論などの形でじっくり読み解くことは、まさに得難い経験なのだ。悟りとはなにか、生きることの意味、劇中の男が生きる意欲を得た理由と論理など、大きくて重いテーマがつぎからつぎへと飛び出した。一人の学生が「儚い夢」という表現を覚えたと言い出したら、別の学生は「life is but a dream」との訳語を紹介した。そこで、人生イコール夢だという表現を聞いてどう理解するかと問いただしてみたら、その答えの多種多様なことに思わずびっくりしてしまった。なかにはなんと歌のセリフを口ずさんで、「人生は色々、楽しいこともあれば悲しいこともある、まるで夢だ」との珍回答まで戻ってきた。おもわず「みなさんは間違いなく英語話者だと分かった」と、無責任なコメントに口を走った。

夢というテーマでちょうど短い論考をまとめ、この週末、その二校に取り掛かっている。それとも関連してあらたに気づいたことをここに併せて記しておこう。伝説の地である邯鄲は、いまは人口百三十万というかなりの規模の地方都市になっている。観光資源には、まさにこの夢の話が筆頭に挙げられる。具体的には「黄粱梦呂仙祠」という観光地があり、その中心となる「盧生殿」には、夢見る盧生という男の石像が鎮座する。ただ、日本でのほとんどの伝説において、主人公が座って夢の世界に入ったのと違い、盧生はまるで涅槃図を型取ったように横になっている。いささか奇想天外な構図だ。

2016年10月29日土曜日

PPV

前回の話題を続けたい。まず、SNSで何人かの方がここでの議論を言及をし、とりわけ図書館情報の専門家の方が学生からの疑問に答える具体的なリソースである「明探」を教えてくださり、あわせて感謝をしたい。有料データベースの利用は、それが大いに価値あるものであるからこそ、有料という前提を問題視するものではない。当面、変化を期待したいのは、あくまで料金支払いの方法や工夫である。

そこですぐ戻ってくる答えの一つは、あの「PPV(Pay Per View)である。主にケーブルテレビなどにおいて二、三十年ほど前から大規模に利用されている方法であり、いまは多くのデジタルデータベースなどにも導入されている。現に、個人的には利用していないが、CiNiiにおいて「サイトライセンス個人ID」を取得した研究者なら一部の学術論文をPPV方式によって購入できるようになっている。ここまで現実的にPPVの方式が動いているものなら、メジャーな新聞データベースなどは、迅速に取り入れて当然なことであり、また一日でも早く実現してほしい。一方では、すでに十年近くまえのことだが、海外にいる中国研究者の話によれば、たまに中国を訪ねる楽しみの一つは、学術論文データベースから論文購読に使うプリペイドカードを纏めて買って持ち帰ることだったと聞く。オンラインでの支払い方法が大いに発達したいまは、おそらくそこまでユーザーに苦労を掛けることはなくて済むことだろう。

ところで、「PPV」という言葉はどうやらなかなか日本語にはならない。辞書などを調べたら、「ペイ・パー・ヴュー方式」との答えもあるが、とても日本語とは認めたくない。「見た分に応じて料金を支払う方式」との説明も見かける。英語に由来するコンセプトということには違いないが、中身は分かりきったことだから、なにも英語の語彙構成に拘らなければならないということでもないだろうから、「分散料金」など日本語の語彙を打ち出して、正面から取り掛かるべきだろう。

2016年10月22日土曜日

有料データベース

研究者たちの集まりに参加する楽しみと言えば、多様な発表に接することもさることながら、多くの場合、正式な日程以外での会話から有意義な交流が生まれてくる。先週週末、バンクーバーで交わされた話題の一つには、日本研究に大事なツールである新聞などの有料のデータベースへのアクセスがあった。

その会話によって触発されたあれこれと考えを反芻しているうちに、先日、格好の実例に出会った。大学の研究室のドアを叩いて入ってきた熱心な学生は、切実な表情をして、明治の新聞記事にどうやってアクセスするかとの相談を持ちかけてきた。当然ながら、現実的にはお手上げだと答えざるをえない。考えてみれば、「聞蔵II」、「ヨミダス」、「毎索」など、日本のメジャーな新聞はいまはどこもデジタル検索に対応しており、日本の大学にいれば、おそらくどれも当たり前のように簡単に利用できることだろう。しかしいざ海外に身を置いてみれば、どれも高価な利用料を特徴とするそれらのリソースは、まるで別世界のものであり、日常的には予想にも寄らない。このような現状を変えるための手がかりは、あるいは研究機関の連合体、あるいは日本研究や教育を支援する公の機関の力を借りなければならないのだろう。

自分が取り掛かっている研究課題はもちろんのこと、とりわけ若い学生たちの日本への熱心な眼差しを見れば、やはり手を貸したくなり、エールを送りたい。ただ同じことは、たとえ日本にいても、高額なリソースへのアクセスということで、地域や教育機関の規模による格差がすでに出来上がっていると聞く。デジタルというメディアの性格からすれば、縁の遠いはずのものであり、真剣な対応が待ち遠しい。

2016年10月15日土曜日

学会旅行

この一週間は、もっぱら学会参加のために時間を費やした。普段なら、大学講義が続いている間には遠慮してとても実行しづらいものだが、連休に重なるという幸運にも恵まれ、学期が始まるまえから慎重にスケジュール組み合わせのやりくりをし、思いっきり行動に移った。そのため、日曜日の出発で京都で四泊し、その足で途中下車ならぬ「降機」の形でさらにバンクーバーで二泊した。

数えてみれば、学会の会場に朝から晩まで座り続けたのはあわせて五日。時差も十五時間と二時間という中で、意外とまったく疲れを覚えていない。いうまでもなくすべて刺激の多い研究発表のかずかずのおかげだと言わなければならない。はっきりと記憶に残るものを取り上げてみても、絵巻の構図を析出してそのままマンガ作りに応用する試み、映画撮影にあたっての具体的な記憶と個人史、社会の移り変わりの中での女性の地位とその変化、戦争テーマの商業映画にみる記憶作りと社会道徳の形成、アメリカでの日系移民たちのローカルな言語と語彙、などなど、じつに多彩なものなのがあった。いつもながら学会に出かけるということは、さまざまな流動する考え方に接し、研究現場にこだまするなまの声や切実な苦労を交流し、語り合うことに醍醐味がある。この一週間もまさにその通りのもので、数えきれない会話を通じて旧交を温め、新しい出会い恵まれた。一方では、立派な業績を持っていながらも、研究者としての発言の仕方をしようとしない、これまでには経験したことのないような方と質疑応答の形で対話を交し、個人的に見識を広めることができた。

二番目の発表は、旅の連続という理由もあって特別に調整してもらい、学会のほぼ最終の時間台に組まれている。その結果、最初の学会は一番乗り、二番目の学会は終盤を待つというユニークな結果になっている。そのいずれの場合においても、それぞれの形で楽しんでいる。

「大衆文化の通時的・国際的研究による新しい日本像の創出」キックオフミーティング
Globalizing Japan

2016年10月8日土曜日

名作を読む

三年ぶりに開講する近代文学をテーマとする講義では、読書リストに「藪の中」を加えた。繰り返し読んできた名作だが、その時その時の学生の顔ぶれにより、いつでも新鮮な経験が得られるものだ。今年も例外ではなかった。

クループ分けをしておいて、それぞれ担当の作品について調べてきたことを話してもらうという形を取る。今年の発表では、藪の中に落とされた櫛がクローズアップされて、そこからはなんと黄泉の国でのイザナギとイザナミの様子にまで話が及んだ。「羅生門」以下、縷々作られてきた映画のことも紹介され、短い予告編は程よい材料となった。そこからさらに話題が広がり、新出のビデオゲームの名前が上がり、そのゲームの規模はと訊ねたら迷いなく100時間ぐらいかかるとの答えが戻ってきて、こちらは思わずびっくりした。一方では、この作品の場合、けっして殺人の真相探しに走らないようにと事前に念を押したものだが、その代わりに出てきたのは、女性が夫を庇うために嘘を付いたのではないかとの珍説が説かれて、いささか意表を突かれた。

若い学生たちは、いずれもこの作品についての予備知識がない。しかも歴史や古典について、きわめて限られた知識しか持たない。それでも、真剣に調べたら、それなりにユニークな読み方を展開している。勉強や知識吸収のプロセスは、生き生きとして魅力的だ。

2016年10月1日土曜日

打ち言葉

一年以上前にはなるが、「EMOJI」のことが話題になり、ここで触れてみた。ここ数日なんとなく気づいたのだが、どうやら日本での日常において、これへの注目がさらに進化し、対象が「文字」から「言葉」へとますます存在を大きくし、いつの間にか「打ち言葉」という捉え方をもって語られるようになりはじめたらしい。

新種の言葉が現れたとなれば、やはり興味深い。ただ、関心をもってあれこれと実際の用例を探ってみたら、やはり絵文字、顔文字などがその核心の構成をなしている。かなり人為的に作り出されたこの概念は、話し言葉や書き言葉に相対するだけの規模、影響力、利用実態などがはたしてあるかどうかは別として、「話すこと」と「書くこと」に対峙する姿勢を持っていることだけは、はっきりした事実だ。そのほとんどの用例は、口で伝えることも難しければ、ペンなどで書こうと思ってもまず無理な相談だ。ただ一方では、現状として「打つ」という行動もかなり覚束ない。キーボートならたしかに打ったり、叩いたりはする。しかしスマホなどとなれば、入力の効率化から画面をプッシュすることに限界があり、そこからの脱出として、フリック、スワイプ、アルテなどと呼ばれる入力方法がつぎからつぎへと案出されている。そう遠くないうちに、指を滑らせて入力するのが主流になるのかもしれない。

正直に言うと、打ち言葉と呼ばれるこれらの表現には、個人的には疑いが多い。若者が実際に使っているところを目撃すれば、いつも反射的にその同年代の人にそこに書かれたもの意味が理解できるかどうか確認したくなる。完全に共有されていない「打ち言葉」は、相互理解さえ拒絶するようなものでしたら、そもそも言葉だと言えるかどうか、心もとない。

2016年9月24日土曜日

図書館カタログ検索

いまや大学図書館では所蔵資料のデジタル化や全点公開が驚くスピードで進められている。今週になって個人的にあらたに気づいたのは、筑波大学図書館での公開である。所蔵の貴重書など約一万点のものを、すべて図書館検索システムに統合して、検索画面から資料をそのままブラウザの上で閲覧できるようになっていて、きれいな高精細の画像と軽快な閲覧環境が提供されていて、なかなか読み応えがある。

検索のシステムは、耳新しいもので、なによりもその名称は「Tulips Search」とあって、日本語にさえなっていない。システム開発や応用、そしてなによりも他の大学や研究機関への広がりなど、関心あることは数多くある。それはさておくとして、まずは短く検索を触っての、ささやかな苦労とやりくりをここに記しておきたい。目的は、オンライン公開をしている資料群の全容を眺めてみたい、というものだ。そこで、そのトータルのリストを出してもらおうとしたら、なかなか簡単には実現できなかった。繰り返しの試行錯誤のすえ、ようやくつぎの二つの方法にたどり着いた。「Tulips Search」の隣に位置する「OPAC検索」の画面から、「資料タイプ」として「貴重」を選ぶ(6611件ヒット)、あるいは、公開資料の図書館記録に記された「OPAC上で画像が見られます」という記述を、そっくりそのまま「Tulips Search」の検索欄に貼り付ける(9806件ヒット)。ここからさらに絞って検索を試したら、それまた不可解な結果が残る。一例として「草紙」と追加の条件を入れれば、「さうし」、「艸帋」、「雙紙」がヒットするが、「草子」は含まれていない。

「Tulips Search」の導入は、カレントアウェアネス・ポータルによれば、すでに二年半もまえのことである。ただ現在の古典籍公開の規模に達したのはいつごろだったのか、すぐには分からない。思ったほど大きな告知や、話題を攫ったほどの注目がなかったのではないかと勝手に想像してしまう。もともともしそうだったとすれば、デジタル資料がいつの間にかわれわれの日常に変わったという事実を物語るものとして、素直に嬉しい。

Tulips Search

2016年9月17日土曜日

ポンチとポン地

漫画の歴史を語るうえでは、「日ポン地」の存在を避けては通れない。ただ、貴重な出版物のわりには、その全容、そしてその具体的な作風やアプローチなどがいまだ深くベールに隠されたままだ。

タイトルの意味は、あくまでも「ニッポン」と掛けた「日本のポンチ(絵)」といったところだろう。ここに、まずは「ポンチ」という言葉の生まれつきに謎が多い。いうまでもなく横浜で発刊されたあの「The Japan Punch」の系譜を受け継いだものだろうけど、しかしながら、それがローマ字表記に直されるにあたり、「パンチ」でもなければ、「プンチ」でもなくて、「ポンチ」に落ち着いだのは、どのような経緯、あるいは発音の訛が裏で作用していたのだろうか。同時代の国木田独歩による「上等ポンチ」、風刺漫画に実際に見られる「ポンチ絵」などの用例からにして、「ポンチ(絵)」という言葉への認知は、広く確認できるのだ。一方では、「風俗画報」の臨時増刊として刊行された「日ポン地」における「地」の意味についての詮索もあるようだが、おそらく特別に深意があるわけではなく、最初の「日」という文字に対応して仮名ではなくて漢字をもってきたというレイアウト上の考慮が基本だったのだろう。いわゆる変体仮名が通行していたころのことであり、「ち」と読ませる「地」の表記は、スタンダードなものだったことを忘れてはならない。

「日ポン地」には、意外と簡単にアクセスできない。国会図書館でデジタル化されたそれは、館内閲覧の対象にとどまり、ジャパンナレッジに収録されたそれも個人向けサービスでは閲覧できない。この現状は、一日でも早く変わってほしい。

ジャパンアーカイブズ

2016年9月10日土曜日

ネットアクセス

新学年は、二日あとにいよいよ始まる。今度は、二つのクラスとも満員で、いつものわくわく感に加えて、ちょっと覚悟して臨むようにしている。あれこれと準備を整えているのだが、とりわけ教室でのネットアクセスの方法をここにメモしておく。

クラスでは、もはや黒板を使わず、それに当たるところにスクリーンを下ろしている。講義に合わせてスクリーンに映し出すのは、画像などを多用するパワーポイントと、空白のグーグルドキュメント。後者のほうは、文字をタイプして見せる以外、学生たちに一斉にコメントや答えなどを入力させるという使い方も併用し、そのためドキュメントの共有を、リンクさえ分かれば匿名でも編集できるように設定しておく。クラウドからのアクセスを前提とするので、USBメモリーに入れてそれをパソコンに差し込むという面倒は避けられる。一方では、オンライン利用にあたり、教室のような公共の場所で毎回パスワードを入れたりするようなプロセスを努めて避けたい。その方法として、毎回の講義に使うパワーポイントのファイルのリンクをその都度空白のグーグルドキュメントに記入し、そのドキュメントは、短縮アドレスサービス(いまは「bit.ly」)を利用して呼び出す、というやり方を取っている。

以上のような流れは、ここ数年すこしずつ模索してたどり着いたものだ。去年までは、上記のリンク記入のステップは、「Linoit」を利用していた。手軽でレイアウトも見やすい。しかし、いつの間にかそのサービスは大学の構内利用から除外されたらしく、教室からだけはアクセスできなくなった。このように、環境の変化にはつねに慎重に対応せざるをえないということも、現在のネット利用の一つの側面だと覚えておきたい。

2016年9月3日土曜日

図書検索

新学年が始まろうとしている。今学期の担当は、近代文学と歴史という二科目、いずれも講義が中心の、大人数のクラスだ。文学のほうは三年ぶりに開講するもので、毎回すこしずつ違う内容を取り上げ、自分にとってけっして身近ではない小説などを読むきっかけを作ろうと心がけている。そこで、準備に取り掛かって、さっそく気付かされることがあった。

学生たちに提示する参考資料を決めようと、大学図書館のカタログを検索し、あの「ebrary」はますます充実するようになったことを実感した。大学関係者としてだけ利用できるものだが、保存なら自由に指定する枚数をPDFに変換し、オンライン閲覧の状態なら書籍にテキストファイルの形でアクセスできる。さらに驚いたのは、検索対応の内容だった。簡潔な作者の紹介を探そうと思ってカタログに作者名を入れたら、さっそく期待したものにたどり着いた。よく見てみれば、七百頁を超える書籍の中の、ただの二、三頁分量の章段のタイトルが、そのまま独立した検索項目としてヒットしたのだった。図書館カタログの対象は書名、著者名、分類といった伝統的な枠組みは、いつの間にかすっかり様変わし、図書はもはや検索の最小単位ではなくなった。

今週はじめに、digitalnagasaki氏はそのブログで国会図書館のデジタルコレクションの検索内容への細かな、あくまでも利用者の立場からの指摘を記した。図書検索の実態とユーザからの期待、そして検索システムが対応できる情報量の爆発的な増加に伴い、図書館側の対応も急速に変わり、目が離せない。

国デコの使用感

2016年8月27日土曜日

劇画・絵師草紙

「まんが訳」。古典文学を読もうとすれば、古代と現代の言葉の差を埋めるために、作品の現代語訳が必要となる。同じく、日本語を使わない他言語の読者のためには、その国の言語に合わせた外国語訳が作成される。ならば、現代的な感性で絵巻を楽しませるには、漫画を持ってくるのがいたって自然な展開であろう。

以上の理屈に立脚して、一つの具体例を提示するために、あの「絵師草紙」を取り上げた。漫画のスタイルとして、数枚からなる一冊よりは、ユニークな体裁を獲得した四コマ漫画を選んだ。デジタルの方法で作成するので、GIFフォーマットを応用して一コマずつ動かし、さらにその中の一コマにのみ小さな動画を組み入れた。原作は三段からなる作品なので、バランスよく一段ずつ三作の、あわせて九作を仕立てた。なお、すでにデジタル化して公開されたものを利用するという漠然とした前提から、画像は国会図書館所蔵の模写を用いた。中世の絵巻を見慣れた目には、最初はかなり違和感のある画面と感じられるが、漫画というコミカルなスタイルには意外とマッチして、むしろ楽しい。

劇画と名づけて九作の四コマ漫画を小さなサイトにまとめた。今度は、作業を進めながら、完成した作を順番にSNSに公開する方法を取った。少ない数ではあるが、「いいね!」やリツイート、そしてコメントまでもらえた。それにより、予想もしなかった人々の目に触れ、自分も励ましを得て、良い経験だった。

劇画・絵師草紙

2016年8月20日土曜日

フォト・コンテスト

地元にある日本総領事館は、「フォト・コンテスト」を主催し、その授賞式が行われた。三回目に数える同行事は、年々応募作品が増え、日本との交流を形にするユニークなものとなっている。ゲストとして招待されて式に参加し、パネルに制作された作品を眺め、それを撮影した人々の話を聞き、楽しい一時を過ごした。

授賞式で挨拶に立ったのは、総領事のほか、審査員の代表の一人がいた。これまで二回、いずれも入賞の実績を持つ方で、今年は審査の立場に回った。その挨拶では、写真撮影、そしてその鑑賞について、いきなり「料理のようなものだ」と比喩し、ちょっぴり面食らった発言が飛び出した。優秀作を決めるまでの苦労を伝えようとしたものだろう。それに続いて、入賞者たちによる作品の解説が披露された。どの写真にも、それぞれの工夫や計算があり、そして忘れがたい経験や記憶が伴うものだと、数々の思い出話とともに、あらためて知らされた。

一方では、大学で日本について勉強をしている若者たちは、多く日本に出かけていても、残念なことに、いまだこのような行事に勇気をもって参加しているわけではない。それにしても、学生の一人は、入賞を果たした。作品は、スマホで撮った浅草の空。行事の間、その学生の親とゆっくり会話を交わし、子どもの成長を見守る親の視線に接することが出来て、思わぬ有意義な経験だった。

ジャパン・フォト・コンテスト2016年入賞者発表

2016年8月13日土曜日

ドイツ初期銅版画

短い日本訪問が終わり、昨日無事帰宅した。東京にいる最終日には、時間のやりくりをして、上野周辺を歩き、世界遺産ということでずいぶんと話題になった西洋美術館の中に入った。企画展として、メッケネムという、これまでにはまったく知識になかった名前とその作品群を取り上げている。駆け足で見て回った。

銅版画は、これまで翻訳されたヨーロッパ作品などであれこれと見たことがあって、西洋的なものだという印象をもつ。しかしながら、展示されたものに目を凝らしてみれば、まずはそのサイズが小さいことに意外を覚えた。あえて言えば、平均的にはあの浮世絵の半分以下だろうか。もちろん色は白黒である。西洋絵画を汲み、絵にはたしかに影があるが、それも申し訳程度で、とても写実的な油絵の比較にはならず、見るものには相当な想像力が要求されるものである。展示企画のアプローチとして、聖と俗の対立を打ち出したが、作品の内容からすれば、あきらかに前者のほうが充実している。宗教のエピソードなどは繰り返し表現されたのに対して、世俗を題材にしたものはきわめて数少ない。「挿絵」という言葉はおそらく典型的なヨーロッパの出版様式に属するものであり、それをぴったりと具体化したのは、ほかでもなく銅版画だったという認識を新たにした。

西洋美術館も、おなじく常設展なら写真撮影が可能となっている。常設展のホールでは、多くの人々が携帯電話を絵に向けている。照明は、あくまでも普通形蛍光灯。カメラにはまったく不親切な環境だが、それでも一通り記録を残すためにシャッターを押した。

聖なるもの、俗なるもの

2016年8月7日日曜日

アーカイブ

京都に来ている。数泊しかない短い滞在で、ほとんど通り過ぎの日程だが、運良く「ARC Days 2016」の開催に間に合い、押しかけて参加し、充実した発表の数々を聴講してきた。

二日にわたる今度の集まりは、今年度に採用された新たなプロジェクトの構想報告がその主な内容である。語られたテーマは、じつに多種多様で、聞く人をわくわくさせて、刺激の多いものだった。個人的には、文学、歴史、文化の文献を横断的に取り扱うSNS型電子テキストアーカイブと、ARCの所蔵に新たに加わった「酒呑童子絵巻」をめぐる総合的研究にはとりわけ興味をもった。前者は、テキストへの注目にあらたにスポットライトを当て、後者は貴重なコレクションが増えたことによる総合効果を具体的に示すものである。一方では、アーカイブが大きなキーワードになったことにちょっと意外な気持ちだった。今度の発表の中には、中国の考古成果や近代演劇記録、日本の相撲絵、はてには建築関連の都市地面情報など、じつに広い分野にわたるもので、アーカイブのデザイン、利用環境構築、新たなデータの作成など、研究の基礎になることへの注意と、地味な労力が積み重なることの意味にあらためて気付かされた。

シンポジウムの会場は、びわこくさつキャンパスにあった。ちょうど大学のオープンキャンパスがとり行われ、想像を遥かに超えた人出があった。もうすこしで会場に遅れてしまうところだった。若者たちの熱気を身近に感じ取れて、思わぬ思い出になった。

ARC Days 2016

2016年7月30日土曜日

システムを訓練する

数週間まえ、変体仮名の解読をサポートするユニークなサーチエンジンが公開され、古典へのアクセス、とりわけデジタル化された日本の古典籍の利用、活用に関心をもつ人々の中で少なからずのインパクトが走った。サーチエンジンの仕組みは、「ディープラーニングに基づいた字母の認識」であり、いわゆる深層学習を真正面から古典文字の読解に応用したものである。

システムの解説において、製作者は簡潔にオリジナルデータの由来とその使用に触れた。それを一読して、言いようのない新鮮感に心を打たれた。それは、製作者がなにげなく用いた「訓練」という一語に凝縮される。曰く、「ニューラルネットワークの訓練データ」、「約8,800画像の一部をベースとして訓練を行い」、そして、「当システムが学習していない漢字等」、云々。このような立場は、デジタル技術を驚いて眺めていたり、ひいてはいまだにパソコンに使わされていて苦労を嘆く人々には、とても思いつかない。新しいシステムには、まるで人格のようなものを与え、それと平等に付き合い、認識や処理の作業を分担してもらっている。

訓練を経て変体仮名の読解をものにしたシステムは、したがって肝心の変体仮名の知識についてシステム製作者に頼っていなかった。言い換えれば、製作者は、この特定のテーマについて、これまで貯蓄されてきた人間の知識を惜しみなくシステムに与え、覚えさせ、その上、そのような知識を持たない個々人に戻してもらう。記録や伝播に続くもう一つのデジタルのあり方をここに見たような思がする。

変体仮名の画像認識システム(α版)

2016年7月23日土曜日

デジタル・古典研究

明日から荷造りを始め、来週の前半には日本への短い渡航が予定されている。今度の目的は、国文学研究資料館主催の「大規模学術フロンティア促進事業」第二回国際集会への参加であり、一時間の報告枠をいただき、「デジタル時代と古典研究」をテーマとする発表をさせてもらうことになっている。

いまさらながら、大きなタイトルを付けてしまったものだと、勇気あると言うか、無謀としか言いようがないと感じる。そして、なによりも、このデジタル時代というものは、まるで生き物のように、どんどん変容し、進化する。一例として、今度は「くずし字」をめぐる諸研究を持ち出して議論を試みようと考えた。そもそもここ一、二年の間にこれへの関心がどんどん加熱し、鮮やかなアプローチが競うように現れた分野だから、これに注目したのだ。ただ、それにしてもたとえばあの「変体仮名の画像認識システム(α版)」の登場、そして「国文研データセット簡易Web閲覧」の迅速な対応など、次から次へとの展開には、目を瞠るようなものがあった。発表資料を一通り準備出来たあとになって、急いで対応し、しかも配布資料のレイアウトという単純な理由から、すでに用意した内容を割愛せざるをえない結果まで生まれた。

今度の集会は、聴講自由だけではなく、インターネットでのライブ放送まで予定されている。研究発表のオンライン放送は、これまでに何回か経験し、自分で主催する行事でも試みたことがある。ただ、いずれの場合もさほどの参加者は得られていなかった。今度はいかがだろうか。関心のある方々、ぜひ時間を見つけて覗いてください。

日本古典籍への挑戦―知の創造に向けて―

2016年7月16日土曜日

漢籍リポジトリ

ますます大きな規模のデジタルデータ公開が続き、古典研究を含むさまざまな分野においてその基盤がすこしずつ整い、オリジナルデータを整理したり、異なる次元の情報を付け加えたりするような課題は、つぎからつぎへと具体的になってきた。デジタル環境におけるつぎなる大きなうねりを迎えようとして、基本となる方法論を見定めることが要求されてくる。その一例として、今年三月から公開した「漢籍リポジトリ」の紹介文は、たいへん興味深い。

中国の古典籍を対象とするこの大きなリソースは、四庫全書のような底本を頼りにしつつ、デジタル環境でのテキストの未来形を探ろうとしている。そこで、いわゆる古典のありかたをめぐり、文献学的に理路整然と述べている。そこで使われている中心的なコンセプトは、つぎの四つのレベルに別れるものだ。いわく、著作、表現形、体現形、個別資料。かつて軍記ものをテーマに過ごした学生時代のことを思い出しながら、「平家物語」のありかたに添って上記の概念を説明するとなれば、「平家物語」とは著作、覚一本とは表現形、日本古典文学大系に収録されたのは体現形、そして架蔵の1976年第19刷の二冊は個別資料である。四つのレベルにあるこのような概念とその相互関係は、いたって明晰にして分かりやすい。ただ、文献学を体系的に勉強していないので、この四つの用語は、はたして十分に共有されているかどうか、にわかに答えを知らない。

あらためて紹介文を読みなおして、そのタイトルに「デジタル文献学」と大きく名乗っていることに気づく。デジタル時代の必要に応じての文献学、言い換えればデジタル環境の必要に備えての関連概念の整理だという理解も成り立つことだろう。そうなれば、デジタル環境の確立は、在来の文献学のさらなる発展に直接に繋がるという側面も、見逃してはならないだろう。

デジタル文献学が漢籍と出会う

2016年7月9日土曜日

サイドサドル

この街には年に一度の大きなお祭りがある。スタンピードという名前のロデオだ。それの開幕を宣言するのは、ダウンタウン中心を練り歩くパレードだ。今年のそれは、七百を超えるグループを数え、延々と二、三時間も続いた。好天に恵まれ、ついカメラを引っ掛けて見物に出かけてきた。

パレードは、さまざまな団体や会社によって各自に演出されるもので、言葉通りの多種多彩だった。手作り感溢れる幼稚で素朴なものを微笑ましい思いで眺めてみたら、そのつぎには長い列を成す軍人が闊歩し、りっぱな戦車が暴れだす。なんとも楽しい。その中には、まったく予知せず、知識ゼロのものも現われたりして、意外と知的な刺激を覚えたものもあった。例えば右の写真。颯爽とした美人の乗馬姿に感嘆して眺めたら、体を捻って左側に向かって馬上に座ったのを確認して、あっけに取られた。なにかの一時の戯れとしか思えなかった。しかしながら、同じグループのメンバーたちを見れば、女性たちは全員この乗り方をしていて、しかもいずれも古風な身なりをしていて、いかにもエレガント。これにはきっとしっかりした伝統に則っているものだと気づいた。調べて見ればたしかにその通りだ。古い記述は古代ギリシアの文献まで遡り、しかも現代ではイギリスの女王がこの格好をした写真がウェキペディアに掲載されている。通称は「サイドサドル」、この乗り方と、これのための鞍の両方を指す用語である。

ちなみに「サイドサドル」にたどり着くまでの経過を記しておきたい。この乗り方はきっとヨーロッパ的なものだと予想し、英語で「乗馬の姿勢、両足を同じ側」と漠然した言葉を入れてネット検索したら、一発でこの用語がヒットされた。一方では、同じ言葉を日本語で入れると、とても同じ結果には繋がらない。曖昧検索の実力と、言葉の違い、この二つのことを具体的に示した得難い実例だった。


2016年7月2日土曜日

ワッショイワッショイ

七月一日はカナダ・ディ。国の祝日であり、各地でさまざまな行事が取り行われた。気候が申し分ないこともあり、ちょっとだけ足を伸ばして、近くの温泉観光地に日帰りで行ってきた。地元の人や観光客が大勢集まり、ささやかなパレード、それから真夜中近くまで続く花火大会など、言葉通りの休日を楽しんだ。

パレードの先頭には、市長を載せたオープンカーとりっぱなバンドに続き、「日本人会」と名乗る浴衣姿の人々が一番乗りだった。同じグループによる行列は、ちょうど六年前にも目にしたことがあって、あの時の花によるお神輿は今年も同じく担ぎだされた。それに加えて、お神輿の数はさらに増え、右の写真のように、手作り感が溢れるものも登場した。「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声は、たしかにお祭りそのものだが、巨大な折り鶴を鎮座させたことには、さすがに自由な想像力が伺われる。アニメや漫画とはまた違う、もう一つの日本像が隠されたような思いに、一瞬胸が打たれた。

カナダ・ディに限り、人々は口々に「Happy Canada Day」と挨拶を交わす。個人の誕生日やお正月なら、すなおに「おめでとう」と訳すものだが、これの場合、はたしてどのような日本語に置き換えるべきものかと、ちらっと困惑した。花火の最後の一発が空に消えたあと、数えきれない若者たちは、誰からともなく一斉に「オー・カナダ」を歌いあげた。これまたいかにもカナダらしい一時だった。


2016年6月25日土曜日

動画・変体仮名百語

変体仮名をテーマとする教育ソフトは、どうやらちょっとしたブームになっていて、最近いくつも開発され、公開されている。その中に、あえて一つのセットを加えた。名づけて「動画・変体仮名百語」。課題とするのは、いわゆる「連綿」である。高精細のデジタル画像で公開されている平安、鎌倉時代の絵巻などの作品から百のフレーズを選び、その筆順をそれぞれ示すことを中心の内容とした。

思えばすでに二十年近くも前になるが、「kanaCLASSIC」というタイトルのCD-ROMを作成したことがある。あのころ、日本語テキストさえ英語バージョンのパソコンでは対応されておらず、日本語を画面に写しだすだけで大変な苦労があった。そこで、変体仮名の学習というテーマについていえば、あの作品で意図的に実現したのは、仮名の筆順を動きをもって表現することだった。しかしながら、自分として少なからずに自負していたこのアプローチは、その後は意外とまともに受け止められていない。筆順を知ることは、変体仮名を習得するうえでいうまでもなく大事なことであり、しかもそれを伝えるには、紙に印刷された媒体では自ずと限界があって、デジタル技術の得意とする分野なのだ。このような考えから、いまごろの方法などを活かし、GIFファイルの方法で動画ファイルを作成し、特設のウェブサイトに纏めた。

このサイトにおいて、ささやかなおまけとして小テストを用意した。プラットフォームに頼らず、スマホも含めて、インターネットのブラウザから日本語を入力して、テストに答えてみることが可能になっている。変体仮名についての知識をすでにお持ちの方は、この小テストから試してみてください。

動画・変体仮名百語

2016年6月18日土曜日

「志流」を知る

右の二文字は、「清水寺縁起絵巻」(巻上第一段)の詞書から切り取ったものである。これだけ見せられても、すぐにはなにを意味するのか見当もつかないだろうが、上下の文章にあわせて読めばいたって分かりやすい。いわゆる変体かなで、それぞれ志と流を字母とした「しる」という二文字であり、「知る」である。

ここまで読んだら、文字画像に動きが加えられていることにお気づきだろう。二つの文字を知る、知ってもらうために、すこしだけ工夫した。今日の仮名は、その大半において、平安や中世の文献においてすでにかなり形の近いものが認められる。一方では、今日と同じ形の仮名は、同じ音を記録する複数の字形の一つに過ぎず、広く使われていながらも、結局今日まで受け継がれていない字形のほうは圧倒的に多かった。志流という二文字も、そのような忘れられたものである。そのため、文字がどのどのような形をし、ように書かれ、なにがそれの核とした内容だったかということは、古典勉強においての入門の知識である。それを説明し、同時に文字の美しさを伝えるためには、デジタル表現による動きが一つの有力な手段に違いない。

動画は、いわゆるGIFである。いまやかなり頻繁に見かけられ、作成や編集にも、スマホのカメラアプリ、ウェブベースの作成ツール、ビデオからの変換など、さまざまなアプローチが用意されている。その中の一つを見つけて、パソコンに入っている標準装備の描画ソフトに合わせてGIF制作を試みた。筆の動きや流れまで表現しようと心がけたが、はたしてその出来栄えは如何だろうか。

志流(原典

2016年6月11日土曜日

男か女か

ここ数日、小さなプロジェクトに取り掛かり、「国文研古典籍データセット(第0.1版)」に収録されている「唐糸草紙」を読み返している。いわゆる御伽草子の一篇であり、これまで多くの本文研究などが施されている。当面の課題は、この国文研本の翻刻と読み下しであるため、本文の内容を注意深く読んでいるうちに、予期せぬ小さな発見もあった。

木版や書写本の形態にわたる多数の伝本が存在しても、本文レベルの異本間の違いは、漢字の当て字や仮名遣い(は・わ、い・ひ、を・お、など)に止まるというのは、この作品群の特徴である。しかしながら、それでも時にははっと思わされるような本文の齟齬が現われてきて、目を凝らして読み返し、理由をあれこれと推測せざるをえない。たとえば、「男」と「女」とが入れ替わっているのだ。国文研本に見る「万寿は男とも思はず十二三の者が」(下21オ)という一文は、通行の御伽草子では「女とも思はず」となっている(写真左、国会図書館蔵「からいとさうし」)。一方では、おなじところは男とする伝本もたしかにあり、写真右は霞亭文庫蔵「からいとさうし」の該当するところである。この文章の意味は、現代風に言い換えれば「大人にもなっていない小さな子ども」といったところだろうが、それでも「男」と「女」とを自由に取り替えられるという言語感覚は、やはりすぐには馴染まない。

なお、上記のデータセットには「国文研データセット簡易Web閲覧」を用いてアクセスしている。じつに軽快に動く電子データの閲覧環境が構築されていて、いま問題にしている箇所もここをクリックすればすぐに見ることができる。

2016年6月5日日曜日

「生活百景」のリンク

「古典画像にみる生活百景」を公開してすでに四ヶ月ほど経った。ここ数日、そこに用いたオリジナル画像をあれこれと読みなおしているうちに、半分程度を占めるリソースの「e国宝」については、作品のリンクではなく、表示画面のリンクを添えるべきものだと気づいた。とんでもない手落ちをしてしまい、慌てて集中して作業を再開し、「e国宝」関連のリンクを改めて取得し、サイトを更新した。

正直に言うと、サイト制作をしているうちに、オリジナル画像への連結には、少なからずに気になっていた。作品の、複数の巻がある場合巻の、リンクを用いていて、短い作品なら大して問題にもならないが、長い作品となれば、所定の段までたどり着くことにはまず一苦労だし、屏風など画像密度の高い作品となると、目指すところを探しだして特定することは、見慣れない読者には、あるいは急いで見ようとする場合において、それなりに負担となる。それに対して、いま更新したリンクについては、クリックするとさっそくほぼ同じ構図のものが一発目の前に飛び出してくれて、じつに使いやすくて、気持ち良い。

このささやかな経験から、「e国宝」の行き届いたデザインにあらためて感心した。しかも英語や中国語など違う言語にまで対応してくれている。もともと「e国宝」は、使い方の説明を丁寧に提示しているが、ただそのような説明文をゆっくり読むような習慣は個人的にいまだ身についていない。あえて付け加えるならば、現在表示画面へのリンク取得という機能のボタンは、「URLの表示ボタン」という説明が施されていて、必ずしも明確ではないことをここに記しておこう。

2016年5月28日土曜日

フェスブック・デビュー

いまさらながら、フェースブックはほとんど使っていない。自分のIDこそ、十年近く前からすでに取得しているのだが、あくまでも学生たちに唆られるまま、かれらの活動を見守るための受け身的な行動だった。そのような経緯から、かなりの数に上る友達招待にもほとんど応じないでいる。そこで「生活百景」サイトをきっかけに、近世文学を中心にした研究者たちの集まりに参加させてもらい、すこしずつ発言を試してみようという気持ちが生まれた。先週公開した黄表紙の動画はちょうどほどよいテーマであり、これを知らせるために、はじめて進んで書き込みをした。いわば遅ればせながらの実質的な「デビュー」だった。

結論から言えば、予想を大きく上回る手応えを得た。実際に発信してみて、いわゆる実名という仕組みのありかたをあらためて知らされた。集まりの登録者が「Like!」をクリックしてくれると、その人の名前が周知され、そしてその人の友達にこの動画の存在が伝わる結果になる。実際にクリックしてくれたのは、多くはこれまで交流のない方々ばかりだった。一方では、とても活躍されていて、このような小さなプロジェクトをわざわざ報告するわけにはいかない方々の名前も入っていた。そのような名前を拝見して、やはりなによりも嬉しい。一方では、伝わってきたもろもろの出来事にこちらから「Like!」をクリックしようと思っても、そのようなオプションが用意されていたり、いなかったりして、戸惑いも少なくなく、いまだ周りの若い人に説明してもらいながらの手探り状態だ。

ちなみに、黄表紙動画の知らせに対する反応数字をここに記しておこう。アナウンスしてまる一日経った時点では、「Like!」は24人、シャアは7人だった。そこから、動画のほうでは、一番目は54回見られ、四番目は7回見られた。万単位のヒットが当たり前というYouTubeでは、話にもならない数字だろうけど、40分以上の動画を一気に見ていた人がたしかにいたことは、一方ではとても嬉しい。しかも、そのような研究者に紹介されて、若い学生や熱心な学習者たちの視野に入るのではないかと想像し、そう願っている。

2016年5月21日土曜日

黄表紙朗読動画

だいぶ前から始めている「音読」の試みは、しばらくはまったく続けていない。ここ数日、手元の仕事が一段落し、なにかデジタル関連の作品を作ってみようという気持ちが起こった。今度は、単なる音声ファイルに留まらず、画像も同時に活かそうということで、動画にまとめることを目指した。作業の対象にはじめて黄表紙の作品を取り上げた。

底本がデジタル化されて公開されていて、かつ翻刻も行われたものを、ということで、さほど多く考えずに『敵討義女英』を選んだ。この作品は、全部で三十帖、翻刻された活字は七千文字弱、原稿用紙に直せば約十八枚という計算になる。普通のスピードで朗読したら、ちょうど四十分程度に収めた。黄表紙の作品群の常として、画像と文字の比率はほぼ同分量であるため、画像にクローズアップして人物の様子や行動、活動の経過や結果を見せながら、とりわけくずし字によって記録された文章と音声との対応を明示することに重点を置いた。それにより、文字そのものの形もさることながら、絵の中に入り込んだレイアウト、地の文と会話との距離、そして人物同士の呼吸の合った掛け合いなど楽しい要素が多数あり、動画を無心に見て行けば、その不思議なリズムに魅せられるはずである。江戸のストーリを耳から理解する、くずし字をとにかく目で追って慣れていくという、楽しみにも勉強にも参考になれればと願っている。

デジタル画像は、国会図書館で公開されたものから、一番解像度の高い画像ファイルを用いた。ただその画像は、周りの空白をそのまま残されているなど、ほとんどまったく手入れされていない。見やすいように、色のトーンを変えたりして、最小限の調整を加えた。そして、動画の公開にはYouTube利用した。さまざまなデバイスで簡単にアクセスできる上、コメントは入力する方法も用意されているので、関心のある方はぜひそこからも意見を残してください。

黄表紙朗読動画『敵討義女英』

2016年5月14日土曜日

子どもの姿

すでに六年前にもなるが、東京にある大学の学生たちのためにネットを通じて講義するという機会が与えられ、それがずっと年一回の形で続けられてきた。数えて六回目のそれは、この間の水曜日に行った。今度取り出したテーマは、絵巻にみる読み書き。一回目からずっと続いてきたやり方に従い、前もって四十分程度の内容を動画で用意し、それを見せたうえで、残りの半分ぐらいの時間をかけて学生たちとの会話に当てた。カルガリーにいながらにして日本の現役の学生たちとの交流は、このうえなく楽しい。

学生たちの発言を聞いて、とても印象に残った一つがあった。読み書きや手習いということとなれば、どうしても子どもの姿が対象となる。そこで、絵巻にみる子どもだが、わたしの目には、それらはいきいきとして、貴重でいて、なんともありがたい。この印象にはすこしも疑いを持たなかった。しかしながら、教室の中の学生たちに無理やり子どもの姿を見ての印象を聞いてみれば、なんと「老けている」、「男女の差は小さい」、はてには「可愛くない」と、じつに面食らった、意外なものだった。考えてみれば、思いつくものがないわけでもない。いまごろの学生たちは、少年少女の絵となれば、それこそあの漫画風のものが圧倒的になり、たとえ表現が極端に限られた絵文字といえども、そのような流れを汲んで、大きな目や誇張された表情など、抽象的でいて、視覚を刺激するものばかりだ。そのような描き方をすっかり慣れ親しんだ目には、絵巻の、半分剥落された人物などは、やはりどうしても物足らないと、率直にそう思うことだろう。

思えば極端なほどに仕上げられた今日の漫画風の子どもの姿は、一つの審美観を反映しているには間違いはないが、現実からかなりかけ離れていることを忘れてはならない。たとえて見れば、あの浮世絵と当時の実際の舞台俳優との距離ぐらいはあるだろう。後々の時代の人々の目には、漫画風の顔などは、似たようなインパクトを持つものに違いないと、なぜか漠然と想像したくなった。

2016年5月7日土曜日

底本の間違い

ここ数日、小さなプロジェクトに取り掛かり、室町時代物語の一篇「あきみち」を読み返している。いわゆる典型的な奈良絵本の体裁をもっていて、その流麗な変体仮名は、やはり見つめるほどに魅入られてしまう。そこで、底本に見られる興味深い一例をここに記しておきたい。

物語の主人公であるあきみちの妻がはじめて登場したところである。美人を形容する常套文句が用いられ、「みめかたちよにならびなき(見目、形、世に並びなき)」との描写が読まれる(六オ)。しかしながら、あまりにも言い慣れた文章だったからだろうか、なんとここだけ書写する人が緊張が切れて、二回書いてしまった。底本を翻刻した『御伽草子』(日本古典文学大系)もこれを見逃せず、「誤りと見て、改めた」と慎重に注釈を添えた(396頁))。ここに、底本をあらためて見れば、同じ文章であることには違いはないが、しかしながら、使われたかなのうち、「め」と「き」は違う字母のものなのだ。この事実からは、底本書写のどのような状況が推測できるのだろうか。書写のプロセスは、はたして読み上げられたものを聞き取りながら進められたのだろうか、それとも元となる文章を書写する者その本人が目で追いながら書いたのだろうか。普通に考えれば、後者のほうが自然に思われる。ならば、書写する人において、違う字母をもつ仮名は、どこまでも同質なものだったと認識されていたという結論にたどり着くことだろう。

ちなみに、底本は国会図書館に所蔵されている。デジタル化されてインターネットで公開されているので、簡単に閲覧することができる。古典文献へのアクセス環境の激変には、いまさらながらそのありがたさを噛みしめるものである。

2016年4月30日土曜日

旭日小綬章受章

昨日、平成二十八年春の叙勲が発表され、旭日小綬章を授与されることになった。日本時間の29日早朝の公式発表であり、インターネットサイトなどに朝五時にそのニュースが流され、受章者の名簿が印刷された新聞が届けられるちょうど同じ時間帯だった。それからはまる二日以上の時間が経ち、数えきれない祝福の言葉が舞い込んできた。

このような勲章に預かり、あるいは一番驚いたのは、自分自身かもしれない。どのような基準を持ち出しても、また大学教育、学術研究、社会活動のどの方面を対象にしても、自分よりはるかに輝かしい業績を成し遂げた名前は、無数にある。一方では、素晴らしい職場に恵まれ、仕事の環境も、そして個人的な知識や能力も、多くの意味でゼロからの出発で、年月の流れとともに、どれも大きく様変わり、無から新しい姿が生まれた。このことを素直に誇りに思いたい。これを思うほどに、思わぬ身震いを覚える。いまこの瞬間の気持ちを忘れず、この身に余る名誉を励ましとし、これまでの教育や研究に弛まずに努めたいと思う。

じつは、同じく昨日に、勤務校では大掛かりな行事が設けられ、勤続25年の教職員が表彰台に立たされ、記念のネクタイピンを与えられ、大学総長との記念写真を撮影された。自分もその中の一人であった。勤務の大学は、ちょうど設立50週年に当たり、表彰式を司るその総長本人も、まさに25年前から大学に勤務しはじめた工学部の教授である。若い大学の一端は、このようなところにもよく現れている。

2016年4月23日土曜日

Adobe

デジタルの作業は、いまや簡単に取り掛かれるようになったとも言えるし、逆にたいそう煩雑になったとも言えよう。それはともかくとして、個人的には、とにかくなにかを実現しようとする結果をまず明らかにし、そこからツールを探し、やり方を覚えるという方針で臨んでいる。今週のそのような経験は、読書の間の息抜きのための一時として、Adobeと遊んだ。

思いついた実現の内容とは、動画作成の一つだ。音声と静止画像を合成したら、りっぱな動画となる。そこで、そのようなものに、さらにあらたなレイアを一つ付け加え、かつ時間の移動にしたがい、そのレイアの位置を小まめに移動するというものである。分かりやすく言えば、動画にタイトルを加えるようなものだ。ただ、そのタイトルページを、つねに時間の展開にそって自由に配置を変えたり、移動させたりすることを可能にしたい。いまや動画作成ツールは無数にあるのだが、一見簡単なこの狙いを完璧に実現してくれるものに辿り着くまでは、けっこう苦労した。結論から言えば、理想なツールとは、Adobe Premiereだ。まさにさまざまな注文に答えてくれるように豊富なオプションを用意し、そしてなによりもテキパキと軽快に動くものである。

いうまでもなく、Adobeとはいまやメジャーなソフトであり、コストもけっして安くない。さいわい、教育関係への対応は積極的に取り組んでいると見え、勤務校のサーバーからはそれのフルパッケージをあっけないくらい簡単にダウンロードできた。ただし、そのサイズはなんと20ギガで、一遍に20ものソフトをすべてパソコンに入れてしまい、それの取捨選択を一切させてくれない。気前がよいのやら、わざと苦労をかけて気軽な利用を阻止しようとしているのやら、その意図はよく分からない。

2016年4月16日土曜日

籌木と紙

遠く平安時代でのトイレ事情とは。このフレーズを出すだけで、すぐ素直な関心が集まる。カナダの若い学生たちを相手にする教室でも繰り返し取り出される話題の一つだ。とりわけ「餓鬼草紙」に描かれたあの有名な場面、今日まで伝わっていること自体が、一つの奇跡に近い。関連の書籍などをめくってみると、絵画資料の力に魅せられて、それこそ一つのスタンダードとして繰り返し取り上げられている。

それにしても、画面を見つめれば、解けない疑問は後から後から湧いてくる。たとえば、用便の後片付けに使われるあの小さな木切れ。呼び名は、たしかに籌木をはじめ、かなりのバージョンがあった。世界のどこかでいまなお実際に似たものが使われているだけに、その作りと用途などは分かりやすい。しかしながら、それがはたしてある種の繰り返しの利用なのか、それとも一度きりの使い捨てなのか、かならずしも回答は自明ではない。子どもがあたりまえのように手に握っていて、かつ地面に多数散乱されているところからみれば、使い捨てだろうけど、一方では、今日の考古学の発掘でトイレと思われるところで多数発見された籌木の実例から見れば、使い捨てにしてはあまりにも数が少ない。さらに、もっと不思議なのは、同じ地面において木切れとともに紙切れもほぼ同分量に捨てられていることだ。紙と木が同時に使われていた。あの時代は、紙とはかなり高級なものだったと理解されているので、両者の共存とは、なにを意味するのだろうか。

考古学の発見と言えば、トイレで見つかった籌木は、どうやら手習いの道具の再利用の実例もあったとされる(『水洗トイレは古代にもあった』、43頁)。紙が普及されたころには、手習いといえばもちろん紙だったに違いない。ならば「餓鬼草紙」の地面に捨てられた紙と木切れには、さらに手習いという共通項を持っていたことになる。いうまでもなく、それが同時期に行われたはずはなく、軽く数百年もの時間差があったことだろう。

古典画像にみる生活百景・便所

2016年4月9日土曜日

OneDriveの変化

クラウドサービスの利用は、Dropboxから始まった。日常のファイルを複数のパソコンやタブレット、スマート携帯同士でつねに同期するという利用方法は、クラウドへの入門であり、いまやそれの基本形となった。そして、このDropboxに続いて本気に利用したのは、OneDriveだった。Windowsのアカウントをそのまま利用できて、そのブランドネームに安心を覚えたのがそもそもの始まりだった。

そのOneDriveだが、ここ数日、予想も付かないような方針変換が起こった。数ヶ月まえ、100ギガの無料空間を一年限りで利用できるというのがあって、それを入手し、一年経ったらどうなるものやらと気にしながらも、デジタル写真の最近数年分をそこにコピーした。外出先からの写真アクセスなど、何回か助かり、ありがたい思いだった。しかしながら、そこへ突然のようにOneDriveの無料利用空間は一律5ギガまでという知らせが送られてきて、手元の複数の端末に一斉にそのような警告が仕切りなしに飛び出した。なんの説明もなく、猶予の期間は数週間。無料のサービスとはいえ、ここまで無愛想な対応は、ブランドの割にはめずらしい。さっそく対応策を取った。さいわい写真が中心の利用なので、代用は複数にある。とりわけ実質に無料で無限利用できるGoogle Photos、それから1テラバイトが謳い文句のFlickrが魅力的だ。ファイルのフォルダ構造をそのまま使えないことは、これまで敬遠していた理由だったが、いざ写真を移動してしまえば、画像検索や専用ツールの活用など、画像ならではの利用の可能性は確実に広がった。

思えば、クラウドサービスは、まだまだその完成形を見せていない。そのため、普通のユーザーとして、使い方や特徴を理解し、強いられる変化に機敏に対応せざるをえない。それから、利用できる空間の制限も前提として受け入れざるをえない。用途や目的などを考えぬき、それに合わせて複数のサービスを同時に利用するというのは、現時点での一つの方法だと言えよう。

2016年4月2日土曜日

ヤフー絵巻

「ヤフー」と「絵巻」とは、さすがに簡単に繋がらない。しかしながら、そこへYahoo Japanが設立20週年の行事として、オリジナル絵巻が作成され公開されたとの記事を読んで、意外と思い、さっそく開いて覗いた。さすがに会社の規模や文化的な蘊蓄にふさわしく、丁寧に制作されていて、じっくりあっちこっちとクリックして、楽しい。

絵巻には間違いないが、作品としては特別にこの言葉を出しているわけではなく、従って絵巻の枠組みに拘る姿勢も最初からない。まずは作品全体は左から右へと展開しているものだ。画像のスタイルも、色の使い方も、文字の描き方も、どれを取ってみても、アメリカ発祥の技術、そして会社からにして自然なこととして、西洋的な雰囲気を前面に押し出している。内容の設定は、あくまでも単純にして最小限の情報にとどまり、物事の名前と時間軸との対応のみに集中し、それぞれの物事にリンクを添えるようなことさえしなかった。読者と作品とのインタラクティブな交流の方法としても、小さな窓を開き、時間軸に添って前後に動かすことしか用意しなかった。ただ当然ながら、ビジュアル表現という方法を取った以上、これに伴う工夫は要求され、「Wikipedia」を分厚い本、「2ちゃんねる」を屏風とするなど、考えさせる要素は数多く隠されている。

あれはいつごろのことだったのだろうか、短い日本訪問のおり、街角でヤフーがモデムを無料配布しているとの光景を目にして、はたしてどのようなサービスを提供されているものやら、とても不思議に思い、かつそれとは最初から無縁だと残念に思った記憶はいまでも脳裏にある。あれははたしてどのようなサービスだったのだろうか。目の前の絵巻からはついに探しだすことができなかった。

インターネットの歴史

2016年3月26日土曜日

読書の姿

平安時代における読書の様子といえば、「源氏物語絵巻・東屋」の画面がすぐに思い浮ぶ。絵と文字の両媒体の併存、読まれる声に耳を傾けながら絵に見入るとの享受の方法、そしてそのような様子がまとめて一枚の画像に収められ、千年に近い時間を経て今日に伝わるという事実、これらは何重も重なり、人を惹きつけて離さない。現に教科書や辞典などでは、この画面が繰り返し取り上げられている。

その中で、「絵巻で見る平安時代の暮らし」と題する三省堂による特設ページを見て、あらためて感心を覚えた。すでに三年ほど続いてきた連載もので、絵巻の場面を選んで、特定のテーマに絞って解説をするという内容である。この東屋の場面も解説の対象となった。この場面をめぐり、六人の人物と、あわせて二十六も数えるアイテムに記号や数字を付けて、丁寧に対応する言葉を添えた。もともと解説はかならずしも完璧だというわけではない。たとえば、浮舟の前に置かれた冊子本を「冊子の絵」と決めつけれれているが、右近の手の中のものと照らしあわせて、文字を記されたものがあってもおかしくなかろう。また、ストーリの説明にまっすぐ「源氏物語」の本文を引用し、詞書の存在をまったく無視したのも残念だと言わざるをえない。しかしながら、解説文は、あくまでも慎重で丁寧だ。この場面に関して言えば、あまり触られることのない無名の二人の女房について、右近の読み聞かせに聞き入っているとの説は、この場の空気を理解するうえで、なんとも素晴らしい。

ここでは、解説の内容よりも、表現方法のありかたが気になる。トレースを加えた画面に数字を入れるということは、あくまでも紙印刷という媒体からきた制限によるものだ。インターネットで伝えるとなれば、電子媒体の利点を生かさなければ意味が半減する。そのような可能性は、いくらでもあるはずだ。そのようなものは、模索されていない、さらにいえば、だれでも安心して気軽に使えるようなフォーマットがいまだ開発されていないことこそ、今日における読書の姿を映し出すことも含めて、むしろ見逃してはいけない大事な課題なのだろう。

絵巻で見る平安時代の暮らし

2016年3月19日土曜日

Kobo Glo HD

研究休暇のまっただ中ということで、読書する時間がだいぶ増え、普段は読みたくても手が出ない読み物もどんどん乱読の対象に加わった。その合間に、読書のツールをいじり、あれこれと試してみた。ここ数日、手元にあるテキストファイルのものを取り出し、タブレットで開いた。あらためて気づくものだが、タブレットは具体的な用途に対して、そのサイズの手応えは微妙に違い、けっして大きいほど良いという単純なものではない。PDFのファイルなら快適であっても、テキストファイルとなると無駄が目立つ。そして、なによりも目の動きからくる疲れだって、無視できない。

そこで、思いついて本棚の奥に押し込まれた電子書籍リーダーを取り出した。数年前に購入した「Kobo Glo」という機種だ。使い方を確かめてみたら、テキストファイルへの対応にはまったく問題はない。必要とする最小限の条件とは、縦書きと振り仮名への対応という二つだけだった。いずれもEPUB3への変換というプロセスさえ取れば、スムーズに実現できた。あとは使用するフォントを変えてみたり、EPUBファイル変換にあたってカバー代わりの画像まで探して添えたりして読書環境を微調整したら、タブレットとはまた一味違う読書ツールが生まれた。さすがに軽くて、集中出来て、しかもなによりも目に優しい。

調べてみれば、「Glo」の発売は、すでに三年半前のことである。そのあとも、Koboはほぼ年一回のベースで製品を更新し、その一番新しいモデルは、カナダでは一年前に発売した「Glo HD」だと分かった。日本語の書籍が中心なので、すこし前なら日本での購入が要求されるが、いまごろは、そのような境界線もすでに存在しなくなった。近くの電気屋に行って、棚に置いてあるものをさっと手に取って支払い、戻ってきたらパソコンに繋げることもなくすでにこれまで購入した書籍を含む個人のKoboコレクションに完璧にアクセスできた。小さなデバイスの進化は、使いやすさの実現をもってユーザーに実感させている。

2016年3月12日土曜日

黄表紙に読む忠臣蔵

すでに二週間もまえのこととなった。大学に知名の学者を迎えて、忠臣蔵をテーマにする講演が行われた。講演は、歌舞伎と黄表紙という二つのメディアの交差から江戸の文化を読み解き、そして両者を繋げるスポットには忠臣蔵を据え付けるという、鮮やかなアプローチを取って展開してくれた。

改めて考えてみれば、黄表紙の作品群は、不思議な魅力を持っている。それの大きな特徴は、なんと言っても、絵の中に入り込んだ膨大な分量の文字だろう。今日の平均的な読者には、この文字情報は、まずは一つの壁となり、気軽な接近を拒んでいると言わざるをえない。しかしながら、想像するには、江戸の人々には、これら文字は、けっして負担でもなんでもなく、作品が身近なものとなるための前提であり、必須条件である。このようなスタイルの読み物の流行は、江戸の社会における識字率の高さを物語っていることには間違いがないが、そこは、仮名主体の文章ということがミソだろう。試して同時代の中国のことを思い出してみれば、老若男女に幅ひろく受け入れられるような、情報密度の濃い読み物は、いささか簡単には思い当たらない。

会場には、六十名を超える学生たちが集まり、けっして身近だとは言えないテーマを熱心に聞き入った。若者たちからの質問や書き残してくれたコメントなどからは、知的な刺激のほどがよく伝わっている。それから、講演のスタイルとして、浮世絵や黄表紙の絵をとにかく数多く、スクリーンいっぱいに出したから、視覚的なインパクトが大きかった。なにはともあれ、黄表紙とパロディという二つの言葉でも関心ある学生たちの記憶に植え付けることができれば、十分な収穫だと言えよう。

Chūshingura & the Edo Literary Imagination

2016年3月5日土曜日

スピーチ・コンテスト

今日の一日は、勤務校での年に一度のメイン行事である日本語弁論大会の開催に過ごした。スピーチのコンテスト、発想もやり方も明らかに西洋的なものだが、それでもカタカナ言葉を頑なに不用にして、あくまでもやや古風の言い方としての弁論大会と名乗り続けている。

スピーチを披露したのは、いまどきの大学生。ステージに上がったのは、新たな知識や学習環境に足を踏み入れたばかりの新入生もいれば、大学という場の苦労も楽しみも知り尽くして卒業を間近に控える学生もいる。かれらが真摯に語られたことの多くは、言葉通りの二十歳前後の若者が抱く夢や理想であり、そして家族や友人との暮らし方であり、恋愛ひいては結婚への憧れと戸惑いである。外国語勉強をもって身につけ始めたばかりで、表現力には不自由で制限が多いものだが、それでも、あるいはそれだからこそ、各自の考えや経験を率直なセンテンスにして素直に持ち出している。若い人たちの等身大の、フレッシュな言葉の数々に、いつもながら聞いているこちらのほうこそ心が洗われる思いがするものだった。

今学期は、いわゆる研究休暇を取っている。職場での日常の仕事に携わらないという仕来りにはなっているが、それでもカメラを持ち出し、写真と録画の監督役を買って出た。画像、映像での記録や共有にはずいぶんと便利になったものである。ほぼリアルタイムで結果をYouTubeとGoogle Photosにアップロードし、関係者にリンクを知らせるだけで作業完了である。いうまでもなく個人名ではなく、組織の名前をつかって専用のアカウントを取得して発信地とするという、利用者に誤解を与えないように心がけている。

2016年2月27日土曜日

学習する貴婦人

大学の演劇学科の学生たちによる舞台は、毎年りっぱなラインアップを組んでいる。今学期のそれは、モリエール作の「Les Femmes Savantes」である。十七世紀半ばの作品だが、日本では、「女学者」というタイトルでなんと十点以上と数える訳本が出版され、十九世紀の終わりには翻案作まで作成されたほどの名作である。同じ学部の教員ということで無料で劇場に入ることになっているのだが、そうでなくてもぜひとも観てみたいものだった。

とにかく楽しい舞台だった。ステージ上の大道具こそ、最初から最後までなに一つ変わらなくて、予算の限界を見せてはいるが、俳優たちの身に纏う服装は、奇を競うものだった。どこまで原作の意図を反映しているか定かではないが、とにかく鮮やかでいて、色彩の饗宴にふさわしいものだった。高くふくらませた髪型や、正統的なロココ調の誇張されたスカートをベースにして、はっきりした時代感覚を醸し出す一方で、なぜか帽子代わりの髪飾りには思い切って遊び心を前面に押し出した。女性たちの頭の上を飾ったのは、花束、書籍、望遠鏡、船、鳥かごと、目を疑うぐらいの精巧なものだった。昔の歌舞伎という精神をまさに共通していたのではなかろうかと、つい勝手に想像してしまった。長くて凝りに凝ったセリフも、分かりやすい英語に直されて、まるで歌声のハーモニーを連想させるような勢いで滔々と流されてくるものだった。

劇場にはかなりの観客が入っていた。スケジュールによれば、二週間続いた上演で、今日はその千秋楽。しかしとくべつにこれといった演出はなかった。そう言えば、この「千秋楽」という言葉も、英語の表現では「クロージング・ナイト」で、じつに素っ気ない。

The Learned Ladies

2016年2月20日土曜日

Old Japan Redux 2

一度は予告まで出したのだが、学生たちの学期レポートの中から代表作を選んで小さな一冊にするという作業はようやく完成し、勤務校の公式サイトで公開した。予想よりはずいぶんと長く時間を掛けてしまった。言い訳に聞こえるが、やはり若い学生たちはとても忙しい。そして、複数の人々を巻き込んでのことだから、一つひとつのステップは余裕をもって進めざるをえない。

収められたものは、そのハイライトについて前回短く触れておいた。それよりも、若者たちの想像力をすべて反映したものにはとてもならない。題材もアプローチもまずは重ならないように心がけ、似たものがあった場合は一つだけに留めることにした。あとは、使われたフォーマットも、ここに見られるもの以外では、特設のウェブページ、パンプレット、パこそコンゲーム、はたまた立体的なオブジェ、毛糸による人形、ひいては英語による巻物、などなど、あげて見ればじつに驚くぐらいの広い幅になる。それに対して、ここではあくまでも一つの読み物としての形に収斂した。いわば学生たちの学習成果のショーケースであり、そしてはっきりしたサンプルとして機能し、これからのクラスのためには目に見えるスタンダードになる。

この一冊も、もともとは前作と同じくGoogle Playを利用して公開する予定だった。しかしながら、現在同じサービスは利用停止ということを知った。ほかに安心して利用できるものはすぐに見つからず、しかもなによりも、電子ブックだから便利だという実感がいま一つ薄い。そのため、とりあえずPDFの形でダウンロードしてもらう方法を取った。電子出版は、いまだたしかなスタンダードの獲得に至っていないことをあらためて実感した。

Old Japan Redux 2


2016年2月13日土曜日

グーグル・サービス

グーグルとは検索を意味するとの認識は、いまやかなり浸透されている。一方では、検索を利用しようと集まったユーザーは、あわせて用意されたさまざまな便利なツールに気づき、それらを試すようになる。このような書いているわたしも、知らず知らずに惹かれて、いつの間にかかなり熱心なユーザーとなってしまった。そして結果的にグーグルが選択的に、ときには意図的に下した決断に振り回され、付き合わされる結果になる。

ここ数日の体験の一つを記しておこう。前学期の学生レポートから数編選んで纏まりのある一冊にするという、去年のいまごろに編み出したやり方を繰り返そうと、学生たちとのやりとりを続けた。それが一段落して、いざ同じく「Google Play」にアクセスしたら、書籍の形にすることへの対応はなんと数週間まえに閉鎖されるようになったことを知った。その理由には、さまざまな推測がされてはいるは、公式的な知らせは一切ない。そして、その目で見れば、ここ数日に入ったニュースには、あの「Picasa」の終了予告だ。こちらのほうは、電子出版とは比べ物にならないぐらい桁違いの影響が出てくるだろう。さらにグーグル地図では、地元の情報を提供させようと、あれこれと奨励措置まで用意されているが、個人の提供による写真の地図での表示は、いつの間には取り除かれた。かつてここでも記した「ストリート個人ビュー」も、リンクがあっさり切れてしまった。いずれも会社の都合による決定であり、それなりの周知さえ行われることなく、あくまでも利用しようとして初めて気づくといったようなものだ。もちろん、新しく加えられたものもある。今日気づいた「n-gram」というユニークな検索と表示は、じつに秀逸で、実用的でいて遊び心もある。そしてこちらもほうも、同じくどうやら正式に知らせた上での登場ではなく、関心があるユーザーなら自分で見つけ出して利用するという形態なのだ。

結局のところ、ここに「サービス」という名の提供者と利用者との間のユニークな関係性が出来上がっている。サービス、しかも無料となれば、提供者の取捨選択と、軽薄な責任感に直結することだろう。あえて言えば、利用者を利用するという暗黙の前提と、失敗や閉鎖を恐れない実験性なのだろう。これ自体は、いまの時代を映し出すユニークな「文化」だと認識しておくべきだろう。

Google books Ngram Viewer

2016年2月6日土曜日

ビデオ・エッセイ

今週、インターネットで語られる話題の一つには、YouTubeで公開されている映画の構図についての解説ものがあった。一つの作品として、分類されて「ビデオ・エッセイ」と言われる。アップロードされてわずか二週間ぐらいしか経っていないが、すでに13万回以上閲覧され、300近いコメントが残されている。

作品は、15分と、いわゆるオリジナルYouTubeものの中ではかなり長いものの部類に属し、そのため、まずは真剣にとりかかることを要求する。その内容といえば、かなりの数の映画から、代表的な場面を数秒程度切り出して繋げ、せりふなどを省いて統一した背景音楽を配し、その上、作者自身による、はっきりはしているが、さほど工夫されたとも思わない解説の音声を加えたものである。一つひとつ選ばれた映画の場面は、とにかく美しい。贅を尽くした色の饗宴から、古き好き映画への記憶にいたるまで、見ていてとにかく飽きない。肝心の構図について解説は、フレームの使い方や、見る人の視線の誘導とコントロールなど、テーマも内容もさほど独特なものがあるわけではない。むしろこれまでは学術書や大衆向けの解説書において繰り返し語られたもので、ところどころもどかしさを感じさせられるぐらいだった。しかしながら、映画の解説なら、ビデオはやはり似合う。そしてオンラインでの手軽でいて確実な閲覧方法も、大きく寄与したものだ。

作品のタイトルは、そのまま日本語に直せば、「物語を伝えるための構図」である。映画という言葉は、特別に出ているわけではない。いうまでもなく、構図の原理から理解しようと思えば、なにも映画に限るものではなく、テレビドラマも、漫画・コミックも、西洋の古典絵画も、どれについてもこの魅力的なタイトルで見直すべきだろう。そして、絵巻も、その例に漏れない。

Composition In Storytelling

2016年1月30日土曜日

描かれた事故

「古典画像にみる生活百景」は、あくまでも画像の選択に注意を払ったもので、それぞれの画面についての説明となれば、いまだゆっくり吟味する余裕はなかった。一例をあげるとすれば、世間の出来事の一つとして「事故(馬)」の項目があった。簡単な説明に「通行人の一人がすでに倒れている」と何気なく書いた。もちろん原作には文字の注記はなく、倒れた人ははたしてただの通行人なのかどうか、そしてどのような状態になっているのか、まったく知る由はない。

一方では、この場面を見つめているうちに、三条公忠の日記である「後愚昧記」の中で伝えられたつぎの記事が視野に入ってくる。永徳二年(1383)五月十日に記されたものである。実名はなく、年齢はわずか十二歳だった「衛府長」という人間についてのものである。馬に乗って、九条大納言教嗣の行列に加わっているうちに、牛童が牛車に牛を取り替えようとして牛を逃し、その牛が馬の間に追い出されて馬を驚かせ、あっという間に取り返しの付かない惨劇を引き起こした。日記の記述はつぎの文言となる。「馬驚出之時、(衛府長)忽落馬、被踏頸骨、両眼出云々、遂以死去、不便々々」。文字の数こそ多くないが、なぜか異様に生々しく、恐ろしいぐらい印象に残る死に様だった。

人間の良き友だった牛や馬も、時と場合によれば人の命を脅かす可能性を十分に持っていた。そのような実態を文字文献によって確認して、はじめて画像資料の重みや奥行きが見えてくる。「百景」の場面の一つひとつに同じレベルの注釈が望ましい。それははたしてどこまで実現できるものだろうか。

2016年1月24日日曜日

生活百景

小さなプロジェクトを一通り完成し、数日まえから勤務校の個人サイトで公開した。主に絵巻など古典画像から、分かりやすい日常生活の風景をちょうど百の場面を選び、ほぼランダムに配列してまとめた。名づけて「古典画像にみる生活百景」。

選んだ内容は、その大半において、絵巻などに特有の本筋の物語と関係ない余白的な場面である。そのため、物語の紹介は最初から無用とし、場面自体も分かりきったものなので、思いつきのささやかなツッコミをメモとして添えた程度だ。画像ソースは、すべてインターネットで公開されている高精細で利用できるものに限る。日進月歩に進化する環境への敬意と、それに見合う利用の可能性を模索しようとするのが狙いの一つである。これに関連して、模写本への注目をとりわけ強調したい。画像提示の方法は、クローズアップしたものを同じスタイルでトレースした。統一したイラスト風の画像は、古典画像同士の同質性を強調し、いわばビジュアルインデックスの役割を成して、オリジナルものに視線を向けるように仕向けようとするものである。

新しい試みであるため、問題は少なくない。それぞれの場面は、意味内容が明瞭であっても、それを特定する言葉の選びとなれば、あまりにも幅があって、どれか一つにしようとすれば、任意な操作が自然と入ってくる。そもそも画像インデックスがもともとの狙いなので、一旦言葉を通過しなければならないものなのか、そうでなければほかにどのようなものが考えられるのか、技術の可能性も含めて、これからもっと模索すべきものである。いずれにせよ、古典画像をもっと身近なものするための一つのステップとしたい。教育の場などで利用されるよう、願っている。

2016年1月16日土曜日

デジタル公開・日本

先週ここで触れたニューヨークパブリックライブラリのデジタル公開について、そのあとやや長めのレポートが出された。感心の向きにはあわせてお読みください。そこで、日本での公開はどうなっているのだろうか。とりあえず個人的に関心をもっている日本の古典について眺めてみた。出発点は、とりあえず「デジタル・リソース(増訂版)」のリストである。

タイトル数と、公開に携わっている機関の名前を見れば、その規模はけっして小さくはない。中では、かなり早い時期に公開されたもの、あるいは最初からカタログ代わりに取り掛かったもので、画像の存在を知ってもらいたいが、デジタルで見てもらう考えを持たないものはさておくとして、わりあい高精細の画像を作成し、公開したところも多い。上記のリストを手がかりに順番にクリックしていけば、いくつかの共通項がすぐに見つけ出すことができる。まずは多数の機関が利用しているのは、「Flash」の方法での表示である。そして、公開にあたっての最大の不安は、不正利用という名の転用である。そこで、表示の窓を小さくしたり、煩雑にロゴを入れたりして、転用を不可能にすることができないと分かっていても、それをすこしでも不便なものにするという方針を取っている。タイトル公開についての図書情報や利用方法の提示はまったく統一しておらず、機関同士の比較や同じ基準での利用は、ほとんど不可能に近い。デジタル公開の基準、公開方法の確立と共有、そして技術力など限られた機関や個人のための手助け、これらはいずれも緊喫した課題である。いたって自然なことだが、これらの解決策は、まずは資料をたくさんもっている機関、あるいは研究を仕事とする国の研究所に期待するものだろう。

一方では、公開されているものの中で特出しているのは、やはり「e国宝」。このリソースが存在しているおかげで、日本の古典を語るうえでどれだけ安心した拠り所が得られたか、日本の外への発信のためにどんなに自慢ができたのか、まさに計り知れない。


2016年1月9日土曜日

アメリカのデジタル公開


新年早々、伝わってきたニュースの一つには、ニューヨーク・パブリック・ライブラリがデジタル公開をリニューアルした、というものがあった。所蔵をデジタルで公開するという事業をかなり早い時期から取り掛かっている知名な公立図書館、このブログでもじつに十年も近い前に一度はとりあげた。さっそくその公式サイトに入ってみた。確かにいろいろなところで変化が起こっている。一方では、十年のわりにはユーザーをびっくりさせるような変化はそんなにない、というのが率直な感想だった。

あのスペンサーコレクションを擁している図書館であり、日本の古典もかなり入っている。そこで、さっそく「emaki」で調べたら、352件のヒットが戻ってきた。タイトルに纏められたものではなく、あくまでも一枚いちまいの絵が対象となっているので、そこからの不便はどうやらまったく問題とせずになってきた。ヒットされたものに添えた情報には、カタログ情報よりも、まずは永久リンク、ダウンロードリンク、そして商業利用の規則などに関する情報が前面に押し出された。デジタルリソースである以上、デジタルなりの利用をまず想定するという気配りは素晴らしい。中でも、引用規則についての対応は特筆すべきだ。リンクをもって同じページの下部に誘導され、そこにはなんとMLA、Chicagoなど四つもの引用規則に基づく実際の表記が明記されている。学術利用を前提として、研究者には引用をさせたい、それにあたっての利便を提供し、かつ基準を明らかにするということは、これからのデジタルリソースの利用全般において先駆的な作業だと評価したい。

肝心なデジタル画像だが、ダウンロードのリンクを詳しく見れば、300pxと760px、あまりにも小さくて、現実的な使い道があまり考えられないものとともに、一部については、なんと6500 x 4200px(一枚につき80メガ)の精密画像を提供している。精細画像あるなしの基準は不明だ。ただ、このような不統一、不親切さには、おそらくだれも意見をせず、ただただすこしずつの進化を静かに待ち続けることだろう。

The New York Public Library Digital Collections

2016年1月2日土曜日

申と猿

申年が明けました。謹んで新年の挨拶を申し上げます。

申は猿。日本には猿がたくさん棲息しているからだろうか、昔話や絵巻の画面には、猿が頻繁に登場してくる。それは、山や野原で群を成して自由に走りまわることもあれば、人間の生活の場に飼い馴らされた形で顔を覗かせることもある。後者の場合になると、長い鎖に繋がれ、建物の柱に止められたり、あるいは今日のペットと同じく飼い主によって町中に連れ出されたりする。一方では、その猿の登場は、馬とよくペアとなる。中世の馬厩の端っこに、まるでお決まりの風景のように猿が添えられ、そのような画例はほとんど数えきれない。馬と猿とのこの関係性の理由については、かならずしも明らかに説明されていない。魔除けというのがほぼ定説で、ひいては科学的に猿が馬の疫病防止に役立っていたとも推測されている。はたしてその通りだろうか。

新年早々、写真を一枚撮ってみた。中国から持ち帰った、中国風の根付だ。ここでの馬と猿との組み合わせには、しかしながらはっきりした理由がある。すなわち、馬の上を狂ったように自在に飛び回る猿、「馬上瘋(封)猿(候)」という言葉を具現したものだ。いわば官本位という社会での出世願望への祝言的な飾りである。