2010年3月27日土曜日

毛髪の美術品

大学美術学科の年度行事として、世界の有名芸術家を招いての公開講演が週末に行われた。登壇されたのは、谷文達というニューヨーク在住の現代芸術家である。違う学科からも関心が寄せられたこともあって、似たような行事としてはかなり大人数の聴講者があつまった。

100327この芸術家の仕事は、まったくユニークなものだ。いくつか同時進行で進められているプロジェクトの一つには、人間の毛髪を材料に用いて作った世界文明のモニュメント群というものがある。代表的な文明を選び、擬製の文字を使って巨大な幕を作りあげ、それによって囲まれた空間に洗練された象徴的なアイテムを配置して、立体的な展示空間を演出する。どこにも存在しない文字は、本物まがいでそれによって記録された文明をきわめて抽象的に提示し、一見して圧倒されて、りっぱというほかはない。

作品のスケールは、とにかく大きい。たとえば中国をテーマにしたものは、実寸大のレンガを作り、それを用いて長城の一角を再現したが、その材料もすべて髪。これだけで四トンの髪の毛を使ったという。そして、文字の幕を作り上げるために、四人がかりで二年半もの時間を費やしたとか。聴講者の中からはさっそく作成の方法についての質問が上がったが、ビニールに髪の毛を敷いて粘着剤を施し、固まったらビニールを剥がしたら完成だよとこともなげに答えが戻ってきた。単純なほどに、辛抱強い作業を想像させられて、感動さえ覚えた。

芸術家が述べたコメントの一つはとても印象的だった。髪の毛とは、丈夫で時間の流れに勝つものだと、その実例としてエジプトの、ヨーロッパの装身具や飾り宝石が挙げられた。一種の人間の排泄物でありながら、人間の体の他の構成とはまったく異なる持久性をもつ物質だと認識させられて、はっと思わされた。

一方では、講演の前夜、極小規模の夕食に招待されて、芸術家とゆっくり会話する機会があった。その中で、日本の尼寺で伝わる毛髪の絵のことを紹介したが、長い旅からの疲れもあったせいか、まったく反応がなくて、ちょっぴり残念だった。

2010年3月20日土曜日

絵巻の裏に糊あり

たまにする趣味の一つには、書の表装がある。宣紙に書かれた書の裏にさらに一枚同じ宣紙を裏打ちすると、見えはびっくりするぐらいに変わってしまう。だが、あくまでも一種の遊びなので、それに用いる糊を専門店で探しもとめるようなことはなく、料理用の片栗粉を使って手軽に作ってしまう。

専門の世界ではどういうものになるのだろうか。きっとしっかりした伝統に支えられて、百年も千年もの歴史に沈殿されたものが伝わり続いてものに違いないと想像していた。そのような漠然とした関心に応えて、数日前のNHKのニュース番組は、まさにこのテーマを取り上げてくれた。それも絵巻修復を手掛かりとし、江戸初期の「平家物語絵巻」が大きく画面にクローズアップされた。特製の糊というのは、なんと長年の黴によって作り出されたものだと始めて知った。テレビカメラは修復の工場の裏側に回り、黒ずんだ水の下に隠された真っ白の糊を捉えて見せてくれた。そして、そのような歴史の年輪を一身に受けた糊の制作に科学のメスが入り、いま流行りのバイオテクノロジーが運用されて、同等の糊が化学製品のように作り出すことに成功し、洋画の修復の分野も含めて世界的に注目されたと報道された。

短いニュースは、時間にかかる一連の数字を立て続けに並べて、想像をそそる。曰く、絵巻の最善の状態を保てるためには、100年に一度は裏の紙を取替える。伝統の糊は、製造の周期が10年に上る。ハイテクを用いて製造に成功した糊は、わずか2週間で作り上げられる。そして製品としてのそれを確認するためには、伝統の糊と比較するために、同じ材料の書を表装したものを同じ環境に置いて観察を続け、これまですでに3年10月の時間が経ったが、いまだ表装された作品に差が見出せない。とか。

複数の時間軸の中で、あらたな人間の創造が、無限の広がりを呼び起こしていて、ささやかな壮大さを感じ取った。

2010年3月13日土曜日

iPadで絵巻を?

100313 世を賑わせるアップルの新製品「iPad」の発売がいよいよ近づき、商品予約の受付も去る週末に正式に始まった。好事者たちの強い期待が否応なしに高くなり、さまざまな予想、予測、予定が盛んに飛び交う。その中で、上質なブログの文章もあった。英語で書かれたもので、書物とiPadとの交差において日本の絵巻が大きくクローズアップされたのである。意外な思いをもって興味津々に読んだ。

思い切って新商品の肩を持つ立場で予測を試みるとすれば、この新しいタイプの機械は、かつて音楽や音声メディアに斬新な可能性をもたらしたiPodと同じように、人々の読書の経験、ひいては書籍生産のありかたに大きなインパクトを与えるのではないかと想像する。そうであることを期待したい。書籍で読む情報や知識には電子メディアの形で接したい、在来の出版などの枠組みに捕らわれることから新たなありかたを経験したいというのが、一読書人としての切な思いである。このような話題になると、すぐ書物の感触、匂い、気持ちの持ち方などの反論が戻ってくる。個人の感情を述べるものならば、それまでのことだが、新しい技術の変化を考えるためにこれを語るとなれば、不思議な気がしてならない。書物から電子メディアへの転換は、まさに大きな革命だ。たとえて言えば竹簡から巻物に、巻物から冊子本に転換するものであり、そのようなメディアとしての本質的な違いを認めなければ、大事なことを見落としてしまうことにほかならない。

ところで、技術の進歩や可能性を大いなる興奮をもって議論するのはよろしいことだが、だからといってiPadと絵巻とを繋げるのは、いささか的外れだったと言うべきだろう。いくら画面をクルーズアップして、それを滑らかに、綺麗に見られたからと言って、絵巻というメディアのあるべき鑑賞に対応できたとはほど遠い。新しいメディアの真骨頂は、あくまでもその特徴を生かした情報の提供、伝達にあることだろう。過去にあったメディアの再現は、どう考えても付加的なものであって本質に関わるものではない。

それにしても、絵巻とiPadとを交差させた文章は、なぜか大目に見てあげたくなるような、微笑ましい思いで読了した。

2010年3月6日土曜日

政治批判の絵

『古今著聞集』には、絵師をまつわる数々の興味深い逸話が収録されている。その中で活躍した絵師の一人は、鳥羽僧正という名を持つ。語り種に残ったかれの伝説には、真正面から一つの政治活動に絵を生かしたエピソードがあった(第395話)。

まず、この鳥羽僧正の絵描きの腕前が一流だった。法勝寺金堂の扉絵を描いたとの実績をもつ。今日の事情に置き換えれば、さしずめどこかの都市シンボル建築に署名で壁画を創作したといったところだろうか。そこで、そのかれがつぎのような出来事に関わった。朝廷に貢ぐ供米が集められたところ、不意に辻風が吹き通った。その瞬間、なんと積み上げられた供米が俵ごとに舞い上がった。これを運び込んできた人々が慌てふためいて走り回り、これを押さえようと必死だった。これを目撃した鳥羽僧正はその様子をさっそく絵に納めた。評判の絵師の作品ゆえに、それがさっそく権力の中心者である白河法皇の御覧に持ち出された。しかしながら、その白河法皇が構図や人物の生き生きとしたことに共感したのみで、絵の意味することを読み解くことができなかった。鳥羽僧正本人に問いただしてようやく理解ができた。俵が舞い上がったということは、その中に米ではなくて、誤魔化しの糟糠しか入っていなかったからにほかならない。事情が分かった法皇はそれなりの対応を取り、それからは似たような不正が根絶されたと説話が結論した。

中世における絵の創作とその享受のありかたをめぐる一幕として、はなはだユニークなものだった。絵師の腕前よりも、なにを画く、なにを伝えるのかということがはっきりしていたものだった。しかも説話が伝えていることを信じるとすれば、鳥羽僧正の行動は、一つの政治批判として、単なる言論表現に留まらず、政策の実施、政治運営の結果にまでつながったのだから、大したものだと敬服せざるをえない。