2007年11月27日火曜日

鼠への視線

前回に続いて、もうすこし『鼠の草子』のことを書いてみよう。

鼠を主人公に据えたこの作品は、室町、江戸を通して、絵巻、絵本とさまざまな形で制作、出版され、膨大な数の読者に楽しまれた。『鼠の草子』は読者享受という意味でも、御伽草子の代表作だったに違いない。

一方では、この作品は、ユニークで、どこか取り扱いにくい。

作品においては、鼠たちはあくまでも鼠の顔と体をしていて、人間の服装を身に纏い、人間のように会話をし、活動をする。御伽草子の作品群には、いわゆる「異類物」と呼ばれるものがあり、他には、猿、猫、狐、などなど人間の周りに生息するさまざまな動物たちが主人公となり、似たような方法でストーリーや絵の中で活動した。これらの動物たちに、人間の、いたって人間的な行動をさせることによって、作者や絵師は人間社会への観察や思いを表現し、そしてその主人公が動物だったがゆえに、表現が自由であり、思い切った風刺や批判がしやすくなる。さらにところどころにその動物らしい行動や発言を入れて、ユーモラスな愛嬌とした。

このような表現を楽しみ、今日の読者に伝えるためには、たいてい「かわいい」という一言でそれを処理してしまう。いわば今日の漫画の作品に登場する宇宙人たちを眺めるときと同じ立場を取る。人間ではない姿に、人間だという仮想を成り立たせた上で、それを楽しむ。しかも動物を人間らしく行動させるという表現の方法まで、われわれはそっくり受け継いでいる。一番最近の例だと、テレビコマーシャルに乗って一躍有名になった北海道犬の白いワンチャンだ。「話すんだ」との会話をもって、しゃべる犬という事を受け入れれば、あとは「友達の輪」である。

しかしながら、『鼠の草子』である。ここで難解なのは、人間の姿をした鼠たちは、同じストーリーの中で、人間らしく立ち振る舞いをする隣の画面では、人間の服を脱ぎ捨てて、鼠の本性をあらわにする。それも大群で登場し、人間の生活の空間を食いちぎるという、どう考えてもかわいくない生態を見せる。不気味なことに、人間の服装を纏わなければ、いっぺんにしゃべらなくなる。人間のために作られた豪華で綺麗な絵巻、絵本の作品において、このようなまったく対極する鼠たちの二つの顔に直面し、それを同等に眺めるという視線は、今日のわれわれには、持たない。

これこそ遠い昔の中世的な感性の一角だろうか。人間である以上、感性が続く。一方では、理性で理解できても、いまやそのまねが出来ないものもある。人間の感性の継続と、その断絶を、鼠への視線を通じて感じ取った思いがする。

弥兵衛鼠絵巻(慶応義塾大学蔵)より

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