2009年3月7日土曜日

悪玉に仕上げられた絵師

今週、学生たちと一緒に読んだは、「漢宮秋」という元の雑劇である。話の主人公は、匈奴と婚姻を結ばせるために、漢の皇帝の宮殿から送り出された薄幸の美人・王昭君。だが、長い歴史の中で、王昭君の生涯にかかわった漢の皇帝や匈奴の王はおろか、彼女本人まで「四大美人」などとラベルの付いたグループの中の一人に過ぎなかったのに対して、ここに登場した一人の絵師が、しかしながらいつまでも特筆され続ける突飛な存在となった。それは、毛延寿という名の憎まれた悪玉の人間だった。

毛延寿の名前を記した古い記録は、遠く晋の時代の『西京雑記』に遡り、西漢の首都長安をめぐるさまざまな出来事の一つとして、絵師の嘆かれるべし運命を伝える実例として語られた。話のあらすじはこうだ。漢の後宮に選ばれた王昭君がかれに賄賂を送らなかったことが理由で顔を醜く描かれ、やがて匈奴に送り出される運命に強いられ、絶世の美人を不本意に失った皇帝が毛延寿を死刑に処す。この出来事は、それ以来千七百年もの歴史において、すこしずつ形を変えながら語られてきた。たとえば賄賂を贈ろうとしなかった王昭君の理由一つを取り上げてみても、家族の貧乏ということを始め、賄賂を求める悪事への反抗という正義感、そのようなことがとり行われているのに気づかなかったという無知あるいは純情、はたまた自分の美貌への自信など、あれこれと数えられる。ストーリの結末は、毛延寿の処刑だ。これには、先の古い記録から衝撃的だった。殺されたのは毛一人のみならず、その同僚の絵師たちがことごとく首を斬られたのだった。それも「捨市」といって、市場での見せしめの処刑だった。考えてみれば、罪の内容よりも、首斬りそのものに人々が関心をもっていたことだろうか。

一方では、元の雑劇は、このストーリの展開にさまざまな形で想像を膨らませた。まず毛延寿その人は、まるで近隣の人を訪ねるかのようにいとも簡単に匈奴の王宮に現れる。しかも王昭君をわざと醜く描いたのだから、それを綺麗に描くことぐらい手の内であって、そのような絵を携えて匈奴の王に進呈すれば、絶世の美人を奪い取ることを目標とする戦争が忽ち目の前に展開されてしまう。やがて予想通りに美女を手に入れたが、漢と匈奴との二つの世界は簡単に越えられるものではなく、その境界だとされる黒龍江に王昭君が身を投げて自害してしまう。

毛延寿をめぐる伝説は、いまでも続いている。一番新しいものと言えば、2008年に49話のテレビドラマに作られた。そこでは、王昭君とその家族は、彼女を救い出すために醜く描かれようと必死に工作したのだが、その方法とは、毛に賄賂として一軒の家を贈るという、こちらはまったく新意のないものだった。

だが、長い歴史の中で毛延寿の伝説に疑問を投げた人がいなかったわけではない。それの一番強い声は、宋の詩人王安石をあげるべきだろう。「意態由来画不成、当时枉殺毛延寿」(「明妃曲」)との一句は力強い。人間の顔や精神は描ききれるものではなく、毛延寿もあくまでも理不尽な犠牲だったと詩人が言う。絵師の力量を客観的に眺めたいという、人々の直感にかなえるものだろう。しかしながら、はたして人間の精神は、描ききれないものだろうか。詩人の主張のこの前提は、むしろ大いに議論すべきものを育んでいる。また別に考えたい。

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