2009年2月28日土曜日

かぐや姫の読み比べ

「竹取物語」をめぐる講義を終えて、ストーリの内容や人物などについて学生たちにそれぞれの読み方を書いてもらった。大学内のネットワークにクラスのコーナーを構えて、実名で短い読書感を投稿させ、クラスの学生だけそれを読み合わせるという形を取る。もともと自由活発な議論をさせることを目的としていたものだが、それにしても、あまりにもユニークな見解が記されて、いささか困惑を覚えたぐらいだった。

かぐや姫が主人公の話だから、女性の美貌、その力強さ、あるいは万能で超人的な存在ぐらいのことは期待していた。しかしながら、そのような分かりきったことへの言及は、けっきょくサボり気味の学生から穴埋め的に聞こえてきた程度だった。多くの学生はやはり自分で考えて、しかもほかの人とはちょっと違う意見を出そうと努力した。ただその意見の内容となれば、ちょっぴり奇想天外。かぐや姫の昇天を人生の無常、ひいては竹取をもって仏教的な教えだとしたのは、まだ序の口。極端な議論となれば、かぐや姫を可哀そうな孤児とみなし、したがって竹からこれを見つけた竹取翁夫婦のことを、身寄りのない子供を献身的に養ったとして親切な人だと決め付ける。一人の意見では、かぐや姫の性格を分析して、丁寧な言葉を選んで求婚者たちを断ったのだから、日本社会の礼儀正しいことを現わしたものだと言う。さらに数人もの学生が、ストーリの語ろうとするものが意味不明だとして、これを日本文化の曖昧さに結びつけようとした。きっと十数年前のあのノーベル受賞講演のことをどこかで読んでいたに違いないなあと妙になっとくした。

このような議論は、言ってみれば日本文化へのステレオタイプの議論の見本のようなものだろう。いうまでもなく日本の古典、日本文化への知識の不足に由来するものだ。限られた知識の中でやりくりをするために、ついつい知っていること、あるいはみんなに言われていることを持ってきて、すこし無理があっても、関連を拵えて対象にくっつける。しかも本人としては、場合によってはかなりの満足を感じて自慢にするものだ。

このような学生は、考えようによれば、とても教えやすい。基礎知識を持ってきて説明してあげれば、目が輝いて、新天地を見つけ出したように喜ぶ。教える立場にいる人間もやりがいを感じる。だが、それがともかくとして、知識があまりにもないと、独創のつもりでいても、つい短絡な議論になるしかないということを、むしろ教壇に立つ自分に、ある種の警戒として訴えているように感じてならない。

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