2009年2月22日日曜日

かぐや姫の昇天

来る月曜日の講義は、「竹取物語」を取り上げる。短いバージョンのものを選ぼうと、『今昔物語集』に語られたそれを用いる。そして、今度のクラスでは初めて絵巻の画面を用いる予定だ。

いずれも江戸時代に入ってからの作だが、「竹取物語」を描いた作品の数が多い。その多くが非常に綺麗な状態で今日に伝わり、しかもかなりの点数のものが全作インターネットで公開されている。国会図書館九州大学附属図書館龍谷大学電子図書館立教大学図書館諏訪市博物館などは、その中の代表的なものだ。

かぐや姫を主人公とするこの物語は、いうまでもなく、その出生、求婚者への難題、かぐや姫の昇天といったエピソードを基本構成とする。これらの内容を描く画面をそれぞれ比較することだけでも、かなり楽しい。

たとえば、物語のハイライトとなる昇天である。竹取という伝説においては、これはそもそも非常に大きな対立を抱えた結末だ。一方では、来迎によりかぐや姫と天上界とのつながりが分かり、この世の人とは本質的に違うという事実が明らかになる。そのような憧れの人をこの世で生活を共にしたことを、物語の主人公たちは内心自慢さえした。しかしながら、かぐや姫の昇天は彼女をこの世から永遠に失うということを意味し、かつての喜びがすべてそっくりそのまま悲しみとなる。絵巻の画面は、したがってこの二つの対立した要素をしっかりと表現する。来迎は、祥雲に乗った乗り物に集約する。もちろん仏教伝説における数々の往生物語の再現だ。来迎の乗り物が輿だったり牛車だったりし、取り巻く天女たちが日本風の服装あるいは唐風の服装を身にまとう。しかも乗り物がいまだ空っぽの到来もあれば、姫が中に乗って去っていく構図もある。これに対して、後者の、人間の世から消えてゆくかぐや姫を止めようとする表現は、意外と共通していた。武士たちの唐突な登場だった。かれらは鑓を握り、弓を構え、ひいては天女たちとの距離をすこしでも短く詰めようと思ったからだろうか、建物の屋根の上に陣取る。(写真は諏訪市博物館蔵『竹取物語絵巻』より)

八十年代後半、かぐや姫の物語がめずらしく映画化された。宇宙船云々との宣伝文句に惹きつけられて、大学院生の友人と数人で公開早々に映画館で見た。現代風のラブロマンスのストーリに仕立てられたことなど、ほとんどなにも印象に残っていないが、最後の昇天の場面は、一筋のライトによって身を包んだだけの、あまりにも安逸な作りだったため、かなりがっかりしたことだけはいつまで経っても覚えている。六年ほど前にこのストーリは、今度はなぜか血みどろな復讐劇としてテレビドラマに復活した(「怪談百物語・かぐや姫」)。ハイライトの昇天は先の映画の構図をほぼそっくりそのまま応用した。この世に存在しないあり様へのビジュアル的な想像力とは、そんなに簡単に進歩するものではないものだとなぜか妙に合点した。

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