2009年12月12日土曜日

匿名の絵師

日本と中国の絵画史に興味を持つ人に、絵師(画師)と聞けば、どのような異なるイメージ、ひいては学問的な問題意識が戻ってくるのだろうか。

中国のそれをまず考えてみよう。最初に語られてくるのは、間違いなく長い、長い名前のリストだ。なんの予備知識なしに付き合わされたら、まずは圧倒されて、おもわず浮き腰になって逃げ出したくなるものだ。その下敷きになるのは、「画論」と(現代の人々によって便宜に)呼ばれる膨大な文献群だ。そこに記されたのは、とにもかくにも画師の名前のリストであり、その伝記であり、作品の目録である。しかもそれらの名前同士にはれっきとした上下関係が形成され、東晋の顧愷之、南朝の陸探微、唐の吴道子、閻立本、宋の李公麟、李唐などをトップにして、かれらが生きていた時期だけではなく、その後の世代にもずっと師承されるものだった。ここには実際の作品があったかどうかはむしろ二次的なものになってしまう。たとえ作品があって、そこからなにも突飛なものが認められなくても、その歴史的な評価には一向に差し障りがないまま、何時まで経っても文人たちによって嬉々として語り伝えられるものだった。

これに対して、日本のこととなるとどうだろうか。絵師と言えば、まず人間としてのイメージが浮かんでくるのかもしれない。ただ残念なことに、『絵師草子』に描かれたあの滑稽な顔だ。しかもそれが偶然な現象ではないことを物語っているかのように、『宝物集』に収められた貧乏絵師の妻の訴えなど、平行する説話は枚挙に遑ない。このことは、個々の絵師の生活実態、社会やその社交的な生活圏での地位、絵描きとして腕前、周りからの絵や絵以外のことへの期待、などなどのこととはさほど関係がなかったとさえ言える。言って見れば、匿名に終始する絵師という、時代通じての一つの文化的な現象なのだ。たとえ無類な日記記録者が世に出て、その記録者自身が絵の所有、絵の鑑賞、ひいては絵の作成に情熱を燃やしたとしても、名前のある絵師が不思議なぐらい顔を見せてくれない。

中国のありかたはある程度理解できるにしても、日本のこの現象はなぜかとてもミステリアス。その答え、はたしてどんなところに求めるべきだろうか。

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