2009年7月4日土曜日

会話の日常

大学の研究室にいれば、ときどき誰かがドアを叩く。たいてい教えた、あるいはこれから教えるであろう学生だが、大学という場にさほど縁のない人も現れる。勇気をもって訪ねにやってきたということが顔に書いてあるような、畏まった姿勢であり、こちらもいつになく丁寧に対応する。

そのような知らない人々との会話は、どこかスリリングでさえある。まずどの言語を使うかを判断するところから始まる場合が多い。英語が母国語かどうかは、ほぼすぐに見当がつくが、英語でなければ、それが中国語、日本語、ひいては韓国語のどれかとなると、服装や身なりでは簡単に見分けられない。中国語だと言われても、台湾や香港ならなんとか気づくが、マレーシア、ベトナム、あるいはインドネシアなどとなれば、本人が説明するまでとても区別がつかない。しかも共通の母語が中国語だと互いに了解したとしても、そのまま英語での会話を続けたいとの人もけっして少なくない。

短い会話を成し遂げるためには、互いにどのような知識を持ち、どの分野に関わり、どういう結論が期待されるかを把握することが肝心だ。なにせ突然持ちかけられてくる話題は、あまりにも広い範囲にわたる。それこそ小学生でも知っている漢字の書き方や意味から、骨董品の鑑定メモ、自作の漢詩、法律書類の説明など、見ず知らずの人にさっと見せてよいものやら、あるいは逆に知らない人だからこそ見せてしまったのではないかと、こちらが考えさせられるものばかりだ。

先日もそのような訪問客がいた。今度は、本人では解けないという一点の禅詩を持ち込まれた。努めて分かりやすい言葉に置き換え、似たような詩の読解要領などまで交えて説明してあげた。こちらの話をどこまで理解してもらえたのだろうか、あのようなアプローチではたしてためになったのだろうか、その人が帰った後もなぜかしばらくずっと気になっていた。

大学という職場ならではの、一つのユニークな日常風景である。

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