2022年9月18日日曜日

鬼の姿

鬼の噂やそれに右往左往する洛中の様子を伝えた『徒然草』第50段、一度は疫病をめぐって記した。(「鬼のそらごと」)一方では、この段を絵にする注釈が行われ、眺めていて同じく興味深い。

兼好の文章を絵にするという労作は、まず松永貞徳の『なぐさみ草』(慶安五年、1652)によって成された。絵は数えて156枚、全作の三分の二に近い段を取り上げたという計算になる。その中で、第50段を対象とする絵は、記事の後半の内容にスポットを与えた。「鬼が出た」と聞いて人々が集まり、逃げるのではなく、その姿を一目見ようとする。結局は待ちぼうけ、はてには群衆の喧嘩にまで展開したとのことだった。絵の内容は、挑発的なものだと言わなければならない。鬼は雲の中に座り、人びとをあざ笑うかのように下に指をさす。そのような鬼に見られていることなどまったく知らず、男たちは二つの集団に分かれてはでに喧嘩を始めようとする。いるはずもない鬼が生き生きとした姿や仕草をもって読書する人の目の前に現われ、男女入り混じった群衆が男ばかりの戦闘集団と化け、しかも周到に用意された武器代わりの長い棒を一様に振りかざしていた。兼好の記述からはみ出した絵は、注釈というより解釈、その自由自在な読み方はこれまた考えるほどに楽しい。

この『なぐさみ草』の構図は、広く読まれ、しかも『徒然草』の絵画化に大きく寄与した。その一例をここに報告しよう。徳川美術館蔵には「徒然草絵巻」(十二巻)がある。同美術館の公式サイトには、第三巻からの一場面を公開し、その構図はまさに慎重丁寧に『なぐさみ草』のそれに従い、再現したものである。読み比べてほしい。

素朴で飾り気のない木版印刷の絵注釈、豪華絢爛で一点しか存在しない絵巻。しかしながら、この両者の距離は、今日のわたしたちが漠然と思い込んだ感覚よりはるかに近かった。目の前の二枚は、その動かない実例だと言ってよかろう。

0 件のコメント: