2020年3月14日土曜日

鬼のそらごと

「新型コロナウイルス」、この言葉はいまや実際の伝染者とともに、凄まじいスピードで地球を回り、口から口へと広がっている。机の前にじっと陣取りしながら、つい『徒然草』第五十段(GIF動画参照)を読み返した。

兼好の筆にかかったのは、鬼についての二つの出来事と、思わぬ落ちだった。都には、「女の鬼になりたる」(鬼になった女)が連れられてきた、また鬼が一条あたりに現われたとの噂があった。どちらも突拍子のないことだが、しかしそれよりも驚いたのは、都の人々の応対だった。なんと鬼から逃げるのではなく、まったく逆に集まってこれを見物しようとした。これを記す兼好でさえ、さすが自分が出かけなかったが、確認するための下の者に行かせた。けっきょく鬼が現われなかったが、それより前に待ち受けていた人間同士が「闘争」(喧嘩)を繰り広げたのだった。この鬼に纏わる騒動は、やがて現実の中でのほんものの疫病につながった。「二三日人の患ふ事」と締まったが、想像してみれば、きっと「二三日」程度の生易しいものではなかったのだろう。

兼好のこの記述は、いろいろな角度から解読されてきた。とりわけ疫病との関連において、つぎの見解が残っている。「此の時も此の鬼の沙汰におどろきてともにいひあへる族は此のわづらひをうけしなり。心を動ぜざる大丈夫は煩ひもおのづからせぬなり。」(浅香山井『徒然草諸抄大成』、1688年刊)曰く、あるはずもない鬼に心を惑わされたからこそ疫病に罹ったのだ。たとえ疫病がやってきても、正しく心を待つことが大事なのだ。その通りだろう。ただ、さらに一歩踏み込んで考えてみよう。鬼のような噂は、まさに「そら事」(妖言)、そのような正体を持たないものには惑わされてはいけない。しかしながら、「コロナ」のような正体を持つものについて、これをまるで「そら事」のように扱ってしまえば、とんでもないしっぺ返しを喰らうのだと、覚悟を持たなければならない。

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