2022年8月27日土曜日

音声書籍

Googleメールボックスで広告のフォルダに自動的に振り分けられたメールのタイトルを眺めたら、Audibleからの一か月無料体験の誘いがあった。音楽ではなく、時事や朗読などをBGMのつもりで聞いている身としては、これを良いことにサービス利用を再開した。

個人アカウントに入ったら、これを一年ほど利用してから、二年前ほどに停止を選んだ。時間がずいぶん経ったのに、アマゾンへのアクセスのパスワードは変わらず、サイトに保存された個人情報も、支払い方法も、そして利用期間中に購入したタイトルもすべてそのままなのだ。一方では、あのころコインで決まったタイトル数だけ利用するというシステムが廃止され、代わりに会員となる期間中には聞き放題、会員を止めたらタイトルへのアクセスは無効、言い換えれば会員の料金はあくまでもコンテンツの利用であり、個人所有はタイトルの個別購入に限るという、分かりやすいと言えば分かりやすい方針に転換された。

サイトの宣伝によれば、12万以上のタイトルが収録されているとされる。しかしながら、よく眺めてみると、時の流れと連動するタイトルはいまでもかなり限られている。フィクションの分類の、ほとんど最初のページから昔の名作、いわゆる著作権が切れた作品が登場してしまう。いまを時めく作品の音声化は、まだ理解されていないんだと感じさせる。二年前に利用を停止した理由も、たしかにここにあったのだと思い出された。

2022年8月20日土曜日

読則実例

先週取り上げた山東京伝の「読則」。それが作品の中でどこまで実際に応用されたのか、おもわず検証してみたくなった。幸いその実体はすぐ分かり、律儀に実施されているのだと、小さくほっとした。

述べられた「印」は、あわせて五つあった。『八重霞かしくの仇討』を披き、目で追っていくと、六丁裏~七丁表の見開きにそれらをすべて用いたことを確認できた。便宜に番号をつけて順に見ておく。

①〔よみはじめ〕。読み出しの部分は左の端に来た場合などは必要がないが、このページのように真ん中で文章が始まり、左側に文字のグループが複数あって、はじめて用いられた。

②〽。この記号は、人物の会話を表わすための定番のもので、いまさら必要だとはとても思えない。ただ、そのような会話が記述の文字の中に入りこんだ場合などは、やはりあると助かる。

③〔つぎへつづく〕。このページにある会話などを読まないでページを捲り、つぎのページにある文章を読み終えたあと戻ってくる、という指示なのだ。いまの感覚からすればかなりユニークだ。

④▲。■●など複数挙げられた中の一つ。文章の続き具合はこれでよく分かる。

⑤〇。長文の説明に、「唐土の小説に却説の両字を用る所に此印をおく」とある。内容的に新たな展開を示すことだろうが、いかにも読書人らしい工夫なのだ。

ちなみに、「〽」の記号を京伝は「小かぎ」と読む。いま、多くの人はこれの読み方も、入力の仕方もよく分からないと言えよう。調べたら、「庵点(いおりてん)」、庵の形をしているからこの呼び名となり、ウィキペディアにはこれの項目が立てられている。ユニコードは、「U+303D」。知っておくと便利だ。

2022年8月13日土曜日

読則

山東京伝の合巻『八重霞かしくの仇討』(1808年)。その扉に刷られた文字を読めば、意外な内容にいささか驚く。普段なら、作品の内容やら出来栄えやら、作者の思いを語るに最適のこの場所に、「読則」と掲げられている。

その最初の二行は、これだ。

予が著述の絵草紙、すべてかならず読則あり。本文、画にへだてられて読がたきも、此則によりて読ば、埜馬台の詩に蜘の糸を得たるが如くなるべし。

あの野馬台詩の典拠まで持ってきたのだから、恐れ入ったものだ。述べられていることは、それ自体は分かりやすい。絵の中に大量の文字が入り、しかも絵の空白を埋めるような恰好で配置していくものだから、その文字情報を読む順番を説明している。「〽」「▲」「〇」などなど、分断された文字の塊の続きを示す記号が用意され、親切とさえ言える。しかしながら、このような文章読み取りに関する基本的な方針は、はたして京伝という一人の作家の、「予が著述」云々で開陳すべきことだろうか。時はすでに文化年間、膨大な数の黄表紙の作品がとっくに世を賑わせたなか、読者がそこまで基本的な知識を必要としていたのだろうか。

それにしても、あの右へ展開する縦書きの実例は印象に残る。(「縦書き右へ」、「縦書き右へ二例」)丁寧に読んで確認したいものだが、京伝には、そのような対応をしたことがあるのだろうか。はたまたなんらかの記号でも用いられていたのだろうか。興味深いことだ。

2022年8月6日土曜日

故人を偲ぶ

朝起きて、北京大学厳紹璗先生の訃報が目に飛び込んできた。日付は6日、時差の関係で同じ日にニュースが地球を駆け回り、伝わったという結果になる。さっそく古い写真を一枚選び、SNSに貼り付けた

写真が撮られたのは、1985年1月、ちょうど修士論文を書くために苦闘していた時期だった。あのころ、テーマをどう選び、アプローチを如何にするかで、真剣に苦労していた。まさに学問の仕方をその基礎から学ぼうとしていた。その中で出会った厳先生は、まさに颯爽として古典の中を自由自在に往来していた。時代、ジャンルなどの拘りなどをまったく気にせず、とにかく中国との関連という一点で斬新な成果をつぎつぎと世に送り出した。まるで眩いような存在だった。同じ京都に、古典に志す中国人の先輩がいる、しかも研究をものにしているということだけで、なぜか大きく励まされた思いだった。

書誌学、比較文学の大家として、厳先生の中国や日本での華やかな業績などは、枚挙に暇ない。一方では、いまから思えば、研究などでじっさいに交わることはなく、研究会などに同席することすら一度もなかったようだ。ただ、共通の親しい友人が多く、おかげで懇親会などのような場で時間を共にすることは妙に多かった。もともと日本や中国に滞在する機会の少ないことにあわせて考えれば、不思議なぐらいだった。いうまでもなく、そこから習った多くのことは、貴重で忘れがたい。

厳先生のご冥福をお祈りする。