2020年10月31日土曜日

YouTubeチャンネル

YouTube。特別に意識しないままかなり頻繁に使っている。自作の朗読動画の公表をはじめ、学会発表やネット授業のための動画送付、ひいては個人的な動画保存にいたるまで、あれこれと用途が広がっている。一方では、そのわりには発信の場としての形をあまり整えていない。ここ数日、これを見直し、ちょっとだけ作業を試みた。まずは手始めに、チャンネルの整理である。

「チャンネル」という名前は、そもそも誤解を誘う。こう名乗る以上、複数に設けることが前提のようだが、ほんとうは一人のユーザーにはチャンネルが一つしか作れない。もともとどうしても特定のチャンネルを開設しようとするなら、それ専用のアカウントを取得するという抜け道はある、個人的にはこれまで「Old Japan Redux」と「Canada Japanese Video Cotest」という二つのチャンネルを制作、管理している。

今度は個人のチャンネルを対象とした。チャンネルを形作るためには、公開のビデオに加えて、バナー、チャンネル紹介、それにプレイリストという、いたって簡単なツールしか与えられていない。そこでとりあえずはバナーを拵えた。画像一枚という、かなり単純なものだが、取り掛かってみると、対応すべきことは多い。まずはテレビからタブレットや携帯などさまざまな環境が想定されるので、画像のサイズは、2560x1440ピクセルが理想とされ、2048x1152ピクセルが最小限のものだ。手持ちの画像から一部切り出すという方法なら、まずは満足なリソースが少ない。それでも、朗読作品からの画像を用いて、一通り簡単なものを作った。ちなみに画像を重ねたり、タイトル文字を調整したりするには、パワーポイントが一番手っ取り早い。

さほど深く考えることなく、「声の栞・古典/Classics in Voice」というタイトルをつけた。日本の古典を声で伝える、しばらくはこの方針を続けたい。少しずつ内容を充実させていかなければならない。

声の栞・古典/Classics in Voice

2020年10月24日土曜日

敵討ち再考

黄表紙『敵討義女英』。この作品のキーワードは、いうまでもなく「敵討ち」だ。しかもそれにかけての、女性の中の英豪たる小春という一途な女が主人公である。ただ、今日の感覚で一読すれば、だれもが解けない疑問に打たれる。そもそも小春は命を落とした悲劇的な人物であり、敵討ちの対象となってしまい、その行為に参加したような運命ではなかった。それなのに、その彼女がどうして英豪と称されたのだろうか。遠く江戸の読者たちがこれを盛んに読み、大いに共鳴を感じていたからには、それなりの理由が存在し、今日とは違う、今になったら失われた考えがこれを支えられていたはずだ。それはなんなのか。

つぎの推論はいかがだろうか。敵討ちを最上の使命としたのは岩次郎だ。ただ、この秘密を知った小春は、すでに岩次郎と心身一体となった。岩次郎によって自分の父親を失いたくない。一方では、どのような形にせよ、岩次郎の敵討ちを中止させてしまったら、かれの生涯の目標を奪ってしまう結果となる。このようなジレンマに押されて、小春はついに自分の命という、以上の二つの選択に比較して小さいと本人が判断するものを差し出したということだ。言い換えれば、敵討ちという大義名分は、それだけ拒めない威力があったものだ。この話の出自は、『源平盛衰記』における文覚上人の出家談だったことはよく知られている。だがそこには、男女の情愛や欲望があっても、それ以外のものはなにもなかった。だからこそ、敵討ちという新たな論理を持ち込んだことは、まさに黄表紙作品の創造であった。しかもこれははっきりと江戸の人びとの感性に訴え、根強い理解や共感をもって受け入れられたと言えよう。

この作品をあらためて読み返したのは、今週水曜日に行われたネット授業のおかげだ。誘ってくださった板坂先生や多くの感想を寄せてくれた学生たちに感謝したい。

2020年10月17日土曜日

JSAC

年に一度のJSAC(カナダ日本研究学会)は、オンライン開催で今日と明日の二日の日程で行われている。初日は予定通りに終わり、あわせて12本の発表と、太神楽実演、リモートレセプションと、ぎっしりしたスケジュールとなった。プログラムのハイライトについて、noteで簡単に報告しておいた。(JSAC2020年年次集会

勉強になった内容は多くあった。「役員報酬」ではカルロス・ゴーン事件、「公共政策」では中央と地方、「満州国」では防疫と人体実験、「日本2020」では失ったオリンピックや地方の祭り、「地震」では日本の東北とカナダのバンクーバー、などなど、発表のテーマからはちょっと予想もしなかった方向へ話が広がり、聞いていてあれこれと新しい知見に惹かれた。個人的にとりわけ考えさせられたのは、「バーチャル研究旅行」。学生たちを日本に連れて行くことをこれまでの仕事のハイライトだとずっと捉えてきた自分としては、バーチャル日本旅行とは、想像もできない存在だ。ただ、現実問題として、これまでのような旅行はいつになったら可能になるのか、見当も付かない。となれば、バーチャル旅行は自然に選択に上がってくる。考えてみれば、語学のクラスがとりわけその通りだが、すべての勉強はバーチャル的なのだ。人為的に作り上げた限定的な環境において、目標とする言葉をすこしずつ伝え、覚えさせていくものだ。そのような文脈の中で、旅行だってバーチャル的体験させることは、一切体験できないより、積極的な要素が大いにあるのだろう。このような割り切った考えは、あるいは必要になってくるのかもしれない。

明日には、わたしも一つの発表を予定している。『徒然草』の絵注釈を取り上げる。日本の知識人の随筆、そしてそれへのビジュアル的なアプローチにすこしでも関心を呼び起こすことができればと、丁寧に話を展開したいと思う。

2020年10月10日土曜日

講義ビデオ

ここ数日、講義用のビデオを一つ作成した。久しぶりに取り掛かる作業で、パソコン環境の変化を探りつつ、それなりに試行錯誤をした。二、三メモしておく。

いま、講義ビデオを作成しようと思えば、ZOOMを代表とする講義用のプラットフォームを利用して、講義する様子をそのまま録画することがまず考えに浮かんでくるのだろう。一方では、パワーポイントを使いなれた人なら、それをベースにして、音声をスライドに合わせるという方法もよく取られる。目下の作業は、いわば一度だけのことで、そして一通り話したのを編集して要らないものを削ることが想定され、途中にビデオも挿入したいから、講義録画を止めた。後者のやりかたは、かつて集中的に利用したが、今度の場合、画像数が多く、そのため音声を小分けに振り当てることは面倒だ。そこで折衷した案を用いた。まず講義の内容を録音し、それを聞き直して編集する。つづいてパワーポイントのファイルを独立の画像に保存し、それを音声に順番をおって被せる。この作業は、単純なほど良いので、これまでMovieMakerのような機能限定のものを用いたが、今度のビデオや動画の挿入により、かなりの制限を感じた。やむをえずPremiereを起動し、いささか大げさだが、一通り動画ファイルを仕上げた。作成したものをYouTubeにあげ、これで組織者へのファイルの明け渡しも簡単になった。

講義にビデオを利用することは、リモート教室が普通になったいま、たしかに便利だ。ただ、これに頼りすぎると、どうしても一方通行的な講義になってしまう。避けたいものだ。聞く人との交流のための工夫は、つぎの課題だろう。

2020年10月3日土曜日

盛遠物語

三週間先にあるネット授業が予定されている。それへの準備に取り掛かり、黄表紙『敵討義女英』を取り出した。これの朗読動画を制作したあと、物語のハイライトである小春の死についてかつてここで書いてみた(「袈裟御前から小春へ」)。これを講義の内容の一部とし、関連の資料を確かめ、スライドに纏めた。

このような限定的な用途においては、オンラインでのリソースがすでにほとんどの期待に応えてくれている。いまの課題である黄表紙作品の出典としての『源平盛衰記』の記述をめぐり、まさに一つの実例を示してくれた。盛衰記のデジタル底本を求めてみれば、バージニア大学図書館が公開している「Japanese Text Initiative」がさっそくヒットし、利用しようとする巻第十九「文覚発心附東帰節女事」から関連の段落を簡単に取得できた。講義の資料としてビジュアルの要素が大事なので、『源平盛衰記図絵』を思い出し、盛遠の行動とその悲劇はドラマチックで絵になるだろうと目論んで調べたら、はたしてその通りだった。画像も国文学研究資料館が提供している。写真はその画像の一部だ。さらに、この話を敷衍して一篇の短編に仕立てた芥川龍之介の創作を思い出し、それも「青空文庫」からアクセスできた。一方では、版本の画像なら安心して使えるが、電子テキストになれば、一度入力のプロセスを通過したので、やはり用心が必要だ。はたして盛衰記の電子テキストにおけるこの段落には、「吊には御渡候まじきやらん」という妙な一行があり、手元の底本と読み比べてみれば、「弔」の誤りだった。OCRによる入力作業の痕跡が残されてしまったという結果だろう。

デジタルテキストなら入力の精度、版本などの電子画像なら対象となる伝本など、古典のデジタル化は一度で終わるようなことではけっしてない。複数の公開、そしてさまざまな利用への対応など、これからはもっともっと多彩多様なリソースが現れてくることだろう。利用者としては、ただ待ち遠しい。