2014年1月25日土曜日

鵜の寿命

今年も「日本語作文ボード」を再開した。すでに三年目に入るが、その年度に卒業する学生たちを対象にしたクラスが全員で運営するサイトで、週一回の更新をしている。今年の学生数は11名、いずれも個性豊かで、やる気いっぱいだ。学期を通して十二編を書き上げるという予定で、まさに作文のマラソンである。

ukawiさっそくやや意外な話題が取り上げられた。日本旅行の思い出を記したものだが、なんとわざわざあの長良川の鵜飼を見物してきたものだった。宇治川の鵜飼しか思いになかったのだから、虚を突かれて、クラスではなんとか場を凌ぎ、パソコンの前に座ったらあれこれと調べてみた。鵜の鳥を道具にしての漁は、せいぜい釣り人の享楽なものだとばかり考えていたのだが、なんと「隋書」に記されたものでは100尾を下らないと言い、さらに明治時代の記録だと、一晩で一羽の鵜が300尾を取ってきた、とか。ただそれでも特権や援助が付きもので、強力な経済活動には程遠いということには変わらない。それから、観光のハイライトになっているだけに、ショーとしての要素は強い。ただし、どうやらそれだけでは捉えきれないところがあり、鮎などの魚が、釣り糸と闘わなかった分、新鮮でいて骨が柔らかく、旨味が上等だ、とか。

しかしながら、鵜の首に輪を取り付けるということ自体、いまごろの西洋的な発想だと、どうしても動物本位の疑問が付きまとう。じじつ、同じ作文に寄せられたコメントには、さっそく「鵜が可哀想だ」と書き入れられた。じっさいに見物してきた学生は、これについての答えをきちんと抱き、「普通の鵜の寿命は四五年、鵜飼に使われた鵜は二十年近く生きられる」との知識をすらすらと披露した。動物を道具に用いる実践になると、このような回答は、観光地などではっきりと用意され、大きく伝えられたのだと、感心した。

日本語作文ボード

2014年1月18日土曜日

ストリート個人ビュー

20140118ストリートビューは、グーグル地図の大事な一部分だけではなく、いまやほかのオンライン地図のスタンダードにまでなっている。その中で、グーグルはまた新たな試みを始めた。ユーザに写真投稿を呼びかけ、公式のストリートビューの一部分として地図の上で公開するというものである。そのような「個人ビュー」は、公式サイトからキーワード検索などでもアクセスできるが、地図の上にアイコンを引っ張ってストリートビューを使う方法だと、公式ビューは線、個人は丸い記号と、完全に一つのインターフェースに集合されている。

個人でも画像データを制作できるということは、スマホなど携帯ツールの機能向上に頼るところが多い。どこでグーグルは「sphere(球形、天体)」と名乗る360度写真フォーマットを用意し、だれでも手軽に撮影ができるようになった。しかもたいていのスマホカメラでも、じつに良い画質のものが出来て、実際に使用されている公式ビューの画像とはさほど変わらない出来栄えになっている。おまけにスマホのGPS機能を活かしたら、位置情報まで記録されて、場所特定の作業さえ自動的に完成される。公式ビューに個人のものを加える理由については、街角の違う表情を伝えたいとの説明が行われている。考えてみれば確かにその通りだ。街の風景は、まさに時間とともに刻々と変わり、ストリートの表情を成している。そのような無限を埋めるには、個人ユーザーの参加はまさに一つの新たなスタートだ。

興味深いことに、個人ビューのクレジットの付け方だ。共通したインターフェースからアクセスできて、あくまでも公式ビューの一部分と化したそのような画像データには、グーグル+のユーザ名をそのまま用いたのである。つまり画像は投稿してグーグルに渡したのではなく、あくまでもユーザ同士で共有するというものである。しかも共有したあとの確認やアクセス数の報告など、グーグルは丁寧なフォローを忘れない。一人でも多くのユーザを誘い、慎重に枠組みを建てる努力を見逃してはならない。

Google Maps | Views

2014年1月11日土曜日

異界RONIN

「47 RONIN」は、日本に遅れて地元の映画館にやってきた。クラスでは「忠臣蔵」のことにあわせてこれまで二回もこれを話題にしたから、見ておかなくてはということになった。平日を選び、それなりの期待をもって、映画館に入った。3Dバージョンで撮られているのだから、製作者の力の入れようを感じずにはいられなかった。

宣伝にもあったように、なぜか「セップク」には異様なほどの執着ぶりだった。普通の映画なら一回で十分な内容なのに、ここでは二回もじっくりと見せた。47人の最期となると、たしかに予告編にあったように全員一堂に集まり、介錯なしで短刀一本で命を終わらせた。それもまるで団体体操よろしくと、白装束を脱ぎ捨てるところを一斉にやりきることで視覚の美を表現した。なにからなにまで奇想天外で、短冊だけは生々しく用意され、そして主人公をこい恋慕する女性の手に握られるところで幕が落ちた。もともとそういう目で見ると、映画全体はどこまでもフェックション。庭園といえばサイズも橋の作りもまったく異界もの、刀がスポットライトを受けて奇跡として手に入ったとしても、裸の刀で鞘はなく、布でも纏いあ20140111げられたような格好となった。悪役の手助けに空を飛ぶ魔物の女性が加えられたが、せっかく道成寺があるのに、竜のイメージと変わってわずかなヒントも台無しになった。しかも悪の権化なる吉良を倒した最後の立ち回りでは、その命を断ち切った方法は、やはり腹に斬りつけたものだった。

しかしながら、この映画を見に行ったよとクラスで触れたら、先生が不思議だという雰囲気になって学生たちに笑われた。事実、映画館では、平日だとは言え、観客はわずか数人、それも全員友達連れではない男性だった。一つの映画として、どうしてここまで評判が悪くなることが可能なのか、それがミステリーになりそうだ。画面やストーリへのつっこみを入れたり、滑稽さを取り出して笑ったりするのも一つの楽しみ方だが、このように映画鑑賞をしたら、製作者にはやはり失礼なのかな。

2014年1月5日日曜日

セレネの馬

20140104大英博物館には、数えきれない秘宝が陳列されている。そのスケールには、まさに見るものを圧倒する迫力がある。古代ギリシアの展示ホールを歩いていて、思わず足を止めた一点があった。真っ白の大理石で彫られた馬頭である。ほぼ実物大のサイズを持ち、傷だらけで、斜めに石の台に載せられている。広い空間の中で、言いようのな生命力を迸り、絶大な存在を見せつけている。

添えられた説明文をゆっくり読んだ。彫像は紀元前5世紀のものである。アテネの神殿の東側の切妻壁に彫られ、月の女神セレネを乗せる二輪戦車を引っ張る群馬の中の一匹である。説明文曰く、「馬は徹夜の疾走に疲れきったーー目が膨れあがり、鼻の穴が広がり、口が大きく開く」。セレネの馬は、明らかに大英博物館の自慢の一つである。同館の公式サイトはこの一点のために特別な一ページを用意し、さらに詳しい情報を提供している。それによれば、同じ切妻壁の彫像はほとんど失われたが、女神セレネのトルソー(頭および手足のない裸身の彫像)はいまだアテネに残されている。さらにこの馬頭の彫像は、古代ギリシア彫刻の展示品の中でもっとも著名で、一番愛されていると結論している。同じページにはさらに音声案内の音源まで公開し、馬頭の裏側という、切妻壁の飾りとしては見えないはずの部分まで丁寧に彫られていると、より詳しい情報を伝えている。

思えば、すでに二千五百年も前のものとの対面である。人間と馬との友情、打ち砕かれても壊れても、隠しようのない生命力を訴えつづけている彫像、素直に心を動かされ、深く思いに残った。午の年の始まりにこれを記す。

Head of a horse of Selene