2010年9月28日火曜日

学生と絵巻を語る

教鞭を執られる友人の好意により、インターネット・ビデオを用いて、はるばる離れたトロントにある大学の学生たちを相手に、絵巻を語って聞かせる機会を与えられた。一方的なしゃべりは20分程度にし、あとは30分以上も質問に答えて議論を進める形を取った。久しぶりに日本語を使っての絵巻談義にささやかな高揚を覚えてオフィスに戻ったのは、時差のために、ちょうど普段の仕事が始まるころだった。

日本語学習者の学生たちは、絵巻についての予備知識がほとんど皆無だった。しかしながら、それでも矢継ぎ早に繰り出された質問のかずかずからは、日本の古典や絵に対する関心、それに直感的な理解が感じられて、心強い。質問の多くは、期せずして絵巻の成立に集中した。絵巻とはだれが、なんのために作ったのか、絵師と言われる人間グループの性別、社会的な地位、作画に所要する時間、受け取る報酬、などなど、本質ににかかわる質問がほぼ漏れることなく一通り聞かれてしまった。さらに絵巻という体裁の由来、作品の独創性、ひいては絵の構図やテーマについての関心の持ちようなど、かなりハイレベルな問いまで飛び交った。いうまでもなくそのすべてに満足に答えられるはずがなく、しかもときに英語の併用まで強いられて、答え方そのものがどこまで伝わったのか、はなはだ心もとない。

短い一席の話は、当面関心をもっている「首斬り」を手がかりにしたものだった。ただ、このテーマは、やはり若い学生たちには衝撃が強すぎたのだろうか、直接な質問は一つも上がらなかった。こればかりは反省しなくてはならない。

2010年9月25日土曜日

絵師の職場

古代における絵師の仕事風景が知りたい。とりわけ中国の場合、それがどのようなものだったのだろうか。手近なものとして、楽しい一例がある。十六世紀の初頭、明の絵師仇英が描いた「漢宮春暁図」にみられるハイライトの場面である。

100925この巻物は、なにかのストーリを伝えるのではなく、「漢」の名前を模った宮廷の中での華やかな生活様子を、いわば代表場面を集成するという趣向で構成したものである。その中では、読書、盤上ゲーム、刺繍、楽器の習練といった場面に続いて、絵師を招いて肖像を描かせる場面がクローズアップされた。大勢の着飾った女性たちに囲まれて、正装した絵師が襟を正して女主人公に向かった座り、数点のポータブルの道具や絵の具を傍に広げておいて、一心不乱に肖像の作成に取り掛かる。周りに集まった見物の女性たちは、あるいは屏風の後ろから顔を出したりして、驚異のまなざしを絵師の手元に注いでいる。堂上を支配した緊張した雰囲気が見る人にたしかに伝わる。

大きな画像を片手で持ち上げるなど、絵師の姿勢にはかなり不自然なところもあって、この職場の様子には想像、あるいは創意が隠されていたに間違いない。ただ、中国の伝統に照らし合わせて眺めてみれば、聊か不慎重ではあるが、なぜか漢方医者の姿を連想してしまう。あくまでも低姿勢で、注文主の期待に応えようとすることが、仕事の基本になっていたのではなかろうか。

2010年9月18日土曜日

武藤太折檻の図

馬琴の読本「椿説弓張月」は、さながら「平治物語」外伝である。語彙、表現からプロットの組み立てまで、中国小説「水滸伝」を手本に見立てることを隠さず、読んでいてなぜかかつて「水滸伝」にまつわる小説群を読み漁ったころの経験を思い出す。

100918読本のハイライトの一つには、白縫の仇討ちがある。数々の苦労のすえについに為朝裏切りの武藤太を捕まえ、伝説の美女軍団全員により、かれを折檻し、斬殺する。「懐剣を抜出し十の指をひとつ々切落し」たり、「五寸あまりの竹釘を数十本もて来り、大やかなる鎚をもて、右手のかたさきへ打こ」んだりと、はなはだ嗜虐趣味に走ったものだった。しかもこのような様子が読者の想像に任せるのではなく、絵師北斎がきっちりとビジュアルに見せてしまう。興味深いことに、その絵というのは、文章の再現に拘らない。文字に絵が描かれた「懐剣」が無視され、「椽の柱へ麻索もて楚と括著」との様子もただの座り込みの姿勢に化けてしまった。そもそもすっかり様式化された美女たちの服装とこの状況とはミスマッチングし、両者の落差が一つの視覚的なトリックを提示している。

ちなみに絵を楽しむには、木版印刷した読本を手にすることが叶えられなければ、デジタル化されたものを大きなパソコンのスクリーンでアクセスして眺めることを薦めたい。

椿説弓張月 (椙山女学園大学デジタルライブラリー)

2010年9月11日土曜日

合戦屏風の一風景

「平治物語」のハイライトには、藤原信頼の処刑がある。合戦の勝敗が決まり、捕まえられた信頼は六波羅に連れられ、重盛の助けも空しく、清盛の命により六条河原にて斬首される運びとなった。執行の役(切り手)には松浦の太郎重俊が指名された。だが、信頼はこの悲惨な末路を潔く受け止めることが出来ず、死に切れなかった。

100911この様子を描いた屏風が伝わっている。いまはニューヨーク・メトロポリタン美術館の所蔵になる「保元平治合戦図」で、同美術館のカタログは十七世紀のものだと記す。ことの経緯を伝えて、「平治物語」は、信頼の振る舞いを「おきぬふしぬなげき給(ふ)」と語り、対して重俊のことを「太刀のあてどもおぼえねば、をさへてかきくびにぞしてんげる」と述べる。思えば、俄かの合戦や首切りという極端な行動が当時の武士たちにはまったくなじまなかったことへの丁寧な表現だったろう。これを描いて、合戦図は力強い構図を見せてくれた。大勢の武士たちに見守られて、暴れる信頼の上を、重俊が全身をもってそれを押さえつけ、果敢に首を掻き取った。ただ、重俊が手にしたのは、物語が言う「太刀」ではなくて、動きやすい短刀になったのは、絵の描写に集中しすぎたほほえましい失敗だと見てよかろう。

古典の絵は、様式や伝統を重んじ、状況を写実的に描くことにはほど遠いとしばしば指摘される。ならばこの絵の場合は、まさにその反対側の、リアリティを追求した好例だと言えよう。しかしながら、黄金色に輝き、いたって装飾性の高い立派な屏風を前にして、このような血なまぐさい迫真な画面は、はたしてどのような鑑賞が期待されていたのだろうか。きわめて興味深い。

The Battles of the Hōgen and Heiji Eras

2010年9月4日土曜日

「譱」

100904 ソウルの国立中央図書館を訪ねたときのことである。広いロビーには、一枚の古地図が掛けられている。きっと昔のソウルだと推測できるが、そのタイトルはまったく読めなかった。二番目の文字は、「羊」に「言」二つ(写真)、読みやすくて判らない。周りの韓国の友人も、そして漢字の知識には自信のある友達も、同じように首を捻った。

ややあとになって、携帯の電子辞書で調べたら、なんとさっそく答えが出た。辞書に入っているだけではなく、それもパソコンの通用の文字の一つで、拡大したりして確かめることまで可能だ。なんのことはなかった、「善」の異体字なのである。しかも「首善」という言葉は、れっきとした出典をもち、用例は「漢書」に遡る。「天下の模範を立てる」「京師を首善之地と称す」などとあった。韓国の歴史にはまったく疎いものだったが、どうやらソウルという韓国の首都のことを歴史上のかなりの時期にわたって「首善」という名前で呼ばれていたものだった。

いまは、ソウルの中国語訳が変わり、その公式表記が「漢城」から「首爾」と変身した。中国の新聞などでこの訳語を読んで、いつでも違和感を禁じえない。聞くところによると、中国の色合いからの脱却との意図が働いていて、首都の名前の変化はまさにそのような文化人、知識人たちの苦慮の象徴だとか。そのような事情だったら、「首善」という名前も、まさに歴史的な理由で継続の使用が拒絶されたに違いない。

「譱」(ウィクショナリー)