2012年5月27日日曜日

恩師を訪ねる

週末になれば発表が重なり、かつ複数の研究会が予定されているなど、日本滞在の研究生活はいつになくフル回転の毎日なのだ。それでも今週は、前から予定していた計画を実行し、広島に赴いて大学時代に教わった恩師を訪ねた。そこには昔の同級生が住んでおり、駅からずっと付き添ってもらっての小旅行だった。

大学を卒業してからすでに三十年経った。職場を日本以外に求めたこともあって、恩師には十年に一度お目に掛かれるかどうかになってしまった。指折って数えてみれば、たしかに二十数年前にすでに定年なさったはずだから、はたしてお体の具合はどうなのかと、不安を感じたまま恩師宅前に立ち、見覚えのあるドアを叩いた。矍鑠として、軽やかな身なりで迎えてくださった恩師の姿には少なからずに驚いた。お茶やお菓子が出されて、昔と変わらぬ会話が始まり、さまざまな話題が出てきた。中でも、壁に掛けられた唐詩の書に及んだら、なんと恩師はなにげなくテーブルの上のメモを指差し、私たちの到着を待っている間に、その詩の韻を踏んだ漢詩をお書きになったとのことだった。120527おもわずカメラを向けた。

未名湖畔群鶴翔
赤門台上論英風
正是広陵好風景
落花時節又逢君

なぜか教室でレポートを差し出して、褒められたような、歯がゆい、赤面する感覚に一瞬捉われ、それでも「又逢君」には、さすがに感慨が湧きあがった。当時のクラスメートはわずかに九人、しかも会話をしている間もさらに別の二人の同級生に電話ができたという、過ぎ去った時間を遠慮なく楽しみ、思い出に耽っても許されるような言いようのない気持ちに包まれた。

恩師に別れを告げたら、思わぬことにシリーズものの書籍をお土産にいただいた。思えば日本留学した当初もまったく同じ一幕があり、しかもその時にいただいた書籍はいまだに研究室に置かれて、時々同僚に貸し出したりまでしている。そのような財産がまた一つ増えたとの思いを噛みしめながら、しっかりと再会を約束して帰途に着いた。

2012年5月20日日曜日

韓国の花祭り

週末にソウルを訪ねた。時差はなく、飛行時間は二時間も足らず、日本からはまさにすぐそばの隣国との印象を改めて感じた。それでも、いたるところに聞こえてくる外国語案内や看板は韓・英・日・中と続き、市庁前の広場には巨大な野外舞台が設置したと思ったらその日に撤去され、翌日にまた違うものが立てられるなど、日本ではちょっと思いつかない外国は、明らかにそこにあった。

120520街角を見渡すと、妙な紙灯篭が飾られていることに気付いた。聞くと韓国最大の祭りである「燃灯祝祭」が近づいてくるものだと教わった。あの釈迦誕生日のことである。日本で言えば「花祭り」。こちらのほうは、桜に因んだ命名は明治時代に入ってからの事であり、しかも思えば今年の4月8日には、ちょうど数人の研究者と一緒に山を歩く機会に恵まれ、廃れたお寺の講堂に置かれた花祭りの飾りが深く印象に残ったものだ。日にちのことが気になって調べてみたら、東南アジア諸国から僧侶が集まってカンボジアで行われる釈迦誕生行事は4月28日、国立行事として取り行われる台湾国立釈迦誕生日は5月13日、そこで韓国の燃灯祝祭は5月18日で、一番遅い日付となる。韓国人の友人によれば、しかしながらいまやこれは国の休日になっているとか。しかもその理由とは、クリスマスが休みの日だから、釈迦も遅れを取ってはいけないという、どこまで冗談が混じっているのやら図りきれない楽しいコメントだった。

ソウルでの集まりは、「韓国日本文学会」。日本文学の研究者が大勢集まり、近代専門の方が多いように見受けられたが、上代、中世、近世の方も数人集まった。そこでの報告は、いずれ雑誌に掲載される予定だと聞く。発表後の質疑応答、会議前後の招待者との真剣な会話など、知見に満ちて、発表者の自分が一番得るところ多くて、なんとも贅沢な旅行だった

燃灯祝祭

2012年5月14日月曜日

模写本の効用

週末は研究会で東京に出かけた。それに合わせて、二つの大学の国文学研究室を訪ね、いずれも心のこもったもてなしを受け、先生や大学院生たちと充実な会話ができた。とりわけ一つの内輪の研究会に飛び入りで参加させてもらった。来月に予定されている全国規模の研究大会での特別展示のために、展示品の解題集作成がその集まりの理由である。非常にユニークな展示になりそうで、一つの大学の、それも近年になってはじめて積極的に蒐集した20点を超える上質な模写が中心になる。一流の名作の模写から、いまだタイトルもストーリも不明なものに至るまで、非常に見ごたえがあるものばかりだ。

120513中世名品の模写。このグループの作品をどのように見るべきだろうか。美術品の物差しをもってこれを図るとの視野は、もうとっくに歴史や文学を研究する立場を束縛するものではなくなった。絵巻などの名作の内容を理解する、それを読み解くという意味では、模写は貴重な位置を占めていることには、だんだん共通認識が成り立つようになった。一方では、模写本を実際にどのように応用するのか、それにはどのような可能性が隠されているのか、まだまだこれからの課題である。一例としては、たとえばつぎのことがすぐに思いつく。一部の名品は、現在伝来していても、色が剥落し、線が薄れて、いわば変わり果てた姿を見せている。一方では、数百年前に行われた模写となれば、現在とはかなり異なる状態のものがそこにあり、いまや見られないものも多く残っていた。そのため、名品のかつての姿を模索する上で、大きな参考になる。さらに複数の模写を並べ、互いに比較することを通じて、原本の変遷、模写そのものの順番や性格を考える上でも、ヒントが多くて、魅力的な課題だ。

同じ研究会に先立って、学部生を対象としたゼミが行われ、惜しみなく持ち出された貴重な巻物を、関心を持つ若い学生が丁寧に開いたり、巻き戻したりしている眺めは、じつにいい風景だった。古くから伝わった書物や巻物を体感するということは、とりわけバーチャルが日常となったいまの若い世代の人々には、どんな説明や読書でも代えられない貴重な経験に違いないと改めて感じた。

2012年5月7日月曜日

晩春の比叡

連休が明けた。前半の一日、遅咲きの桜を追い求めて比叡山に登った。もともといまごろの交通手段を持ってみれば、登るという実感など平均した訪問者にはすでに味わえない。違うバスやケーブルの経路や発着時間などを比較することに神経を使ったぐらいだった。山頂に上がってみれば、桜は見事に満開していて、一年のうちに二回目の開花を賞でた思いをした。

前回比叡山を訪ねたのはいつだったのだろうか。あったにしても、きっと二十数年以上前のことで、確かな記憶はもうない。その代わり、手元の読書のいくつかは、どれも比叡山伝説、延暦寺の僧侶たちの仕事や日常に関わるもので、京都の住み人から言う「山上」の世界を、親近感のような見上げる思いが伴う。しかしながら、実際に延暦寺の中に入ってみれば、少なからぬの失望を感じてしまった。境内に立て巡らしたお寺の由来や縁起の画像と文字説明は、あまりにも無造作でやすっぽい。国宝になっている根本中堂には、カメラを持ち込ませないが、その回廊に飾ったのは小学生の書道作品ばかりで、どこかの銀行か郵便局の待合スペースしか連想させない。国宝館と名乗るところの最上階には、現代の書画といって、前衛の書や古典への志120506向を微塵もない壁画がフロアいっぱいに使っている。大きな釣鐘は、だれでも自由に衝き放題になっているが、力任せの男性二人の衝き方には衝き棒がすでに力負けしたような感じで、三人目の男性は明らかに手加減をかけたことだけは、妙に印象が残った。天下の延暦寺の今は、どこまでもちぐはぐな風景だった。

下山には坂本に降りて行くケーブルを使った。十分程度の乗車には、延暦寺関連の紹介がほとんどなく、無縁仏についての説明になって突然力が入った。比叡山の焼き討ちは、もうすでに半世紀近くも前だったのに、それから以来の年月の中で、寺の弱体化が有効に進められてきたからだろうか、どうやら比叡山は、いまや人々の記憶の中にだけ存在しているようだ。