2008年5月25日日曜日

絵巻とマンガの間

ほぼ一年まえのことである。ある集まりで研究発表のあと、オーストラリア、韓国、日本と、めずらしく多国籍の友人、知人のまえで、雑談のつもりで「絵巻は漫画のルーツだ」と持ちかけたら、意外な反応に遇った。いまさらなにを、といった思いを顔に書いたような人もいれば、それはおかしいと、声を大にして反論する友人もいた。この簡単なテーマは、やはり考えを整理しておかなければならないなあと、なぜか鮮明に記憶に残る一つの瞬間となった。

ことの順序として、まずはマンガとはなにか、ということを限定しなければなら。マンガ、まんが、漫画。同じことでありながら、表記からにしてすでにこれだけ豊かなイメージを抱かせてくれている。

今日、実際の表現として使われているマンガとは、まずは一つのタイトルで古本屋の棚の数段を優に占め、それだけを内容とする分厚い週刊誌がウン十万も売れてしまい、子供(だけ)ではなく大の大人たちが読み漁るというあの出版物のことだろう。これに対して、毎日の新聞の最後を飾る四つの枡形からなるもの、普通の週刊誌によく見かける枡型の多めのものもあるが、マンガの一部であっても、どうやら「四コマ」「コミック」といった限定した言い方にはより相応しい。

マンガのことについて、オンライン事典ウィキペディアにはとても読み応えのある記述がある。とりわけ、国語史的な目配りには感心した。それによれば、「漫筆」という表現に対応する形で生まれたこの言葉の最初の使用例は、十八世紀の終わりにまで遡り、十数年も経たないうちに、「気が向くまま」の漫画が、気が戯れる戯画という要素が意識的に付け加えられた。それよりあとは、この言葉がさかんに使われる間に、指す意味がさまざまな形で膨らみ、時代風刺のものから始まり、はてには、七十年代までにアニメや特撮の映画のことまでこれを用いて表現したぐらいだった。ちなみに、この日本発の言葉は、そのまま中国にもたらされ、いまでもほぼ同じような意味合いで使われている。

そこで、マンガの根本的な特徴とは、どのようなものだろうか。やや乱暴に、つとめて最大限に要約するとすれば、「絵による物語」と結論して、あながち間違いではなかろう。となれば、絵巻とマンガとの共通点はどうしても目に入る。もともと、絵巻とマンガどころか、絵巻と現代の映画との共通点を、カメラアングルのレベルで捉えようとする論者さえいるわけだから、同じく紙を媒体とする読み物、ということでは、その距離がいたって近いということが理解しやすい。

絵巻は数百年もまえから延々と作られ、伝えられてきたものだ。出版文化が発達になった江戸時代では、巻物が相変わらずに作られる傍ら、絵による物語表現を目玉とする出版物は、さらにさまざまな形態になって世を賑わせた。そして、今日になって、マンガとは、日本のユニークな文化の代表格と成長した。文化がつねに連続していて、今日の果実はつねに過ぎ去った歴史の中で養育されきたという考えからすれば、絵巻はルーツだ、と主張してよかろう。

いうまでもなくこのような議論は、絵巻への贔屓な視線から出発したものにすぎない、との批判も受けるものだろう。たしかに、似ているところだけ注目し、両者の隔たりを無視したり、過小評価したりすることも、一方では否めない。しかしながら、このようなルーツ論は、もともと絵巻とマンガとのいっしょにくっつけることを目的としない。それよりも、むしろあまり関連のない二つのもの、少なくとも二つを同様に貪欲に楽しむ人々の数がおそらくかなり限られているものを並列させることを通じて、古き絵巻への親近感を呼び起こし、さらにそれへの観察の新たな立脚点が確保できれば、との思いのほうが大きい。そのような目論見がすこしでも達成できれば、有意義なものだと考えたい。

「絵巻とマンガの間」。このテーマには、いろいろな議論の切り口が可能だ。作者の意図、社会生活の中の役目あるいは位相、表現の技巧や定番、などなど、並べれば尽きない。考えをもっと整理していかなければならない。

2008年5月18日日曜日

絵の効用

絵は目を愉しませる。絵はストーリを伝える。しかしながら、歴史記録に目を移せば、絵には、今日のわれわれの常識では測りきれない意外な効用を持っていた。

たとえば、中国の古典に伝わったつぎの逸話を読んでみよう。

話の主人公は、北宋第八代の皇帝徽宗(在位1100-25年)である。北にある遼の国を征伐しようと思いたつが、群臣の反対にあう。そこで、絵画の才能をもつ陳尭臣という人物を得た。徽宗は尚書という職を偽って陳に与え、かれを使者として遼に送り込む。無事に宋に戻ってきた陳は、徽宗の期待に叛かず、「(遼の皇帝が)人君に似ず」「亡、旦夕にあり」との観察を報告した上で、遼の皇帝の顔つき、そして山間の道路や関口を描いた画像を進上した。このような情報は、やがて徽宗に軍事行動を取らせる最終的な理由となったとか。もともと人君の顔とはどういうものなのか想像よりしかないが、地形や関連施設の設置状況などは、大きな軍事的な価値があることはいうまでもない。

この逸話を伝えたのは、南宋の王明清(1127-?)が記した『揮麈録』という書物である。中国の古典の中では、「筆記」という体裁のものに属するが、日本の古典研究の捉え方をすれば、さしずめ「説話」というジャンルの代表作だと考えてよかろう。

ここに言い伝えられている絵のことを、現代の学者は、ずばり「スパイ絵(諜画)」と名づける。いうまでもなく絵の性格上、それの役目、そして作画した絵師の名前が明記されることはまず期待できない。そして、そのような絵が実際に伝わったとしても、おそらく間違いなく肖像画、山水画として分類され、膨大な作品群に埋没されてしまうことだろう。以上の逸話を紹介した一篇の中国語の論文(『故宫博物院院刊』2004年3期掲載)は、現存する絵の中から、内容的に描写が詳細で、しかも描き方としては時代の嗜好とかけ離れた要素をもつ作品を数点取り出して、スパイを目的とした作品だとしたが、自ずと推測の域を出ないということは致しかたがない。

思えば、ビジュアル的な記録の手段を著しく欠けていた古代において、絵画がもつ、文字や音声に並ぶ媒体としての可能性やパワーは、われわれの想像を超えたものがある。そう考えてみれば、政治的な宣伝、宗教的な礼拝など、絵画が果たしていた効用は、たしかに長いリストとなる。それらをすぐに思いつかなかったことは、あるいは、書斎に籠りがちなわれわれに想像力が著しく退化した、というだけのことかもしれない。

2008年5月11日日曜日

絵の動き

絵は動かない。さらにいえば、人間や物事の動きを表現するためには、絵は表現媒体として、あまり向かない。しかしながら、ストーリを内容とする絵巻においては、動きが表現の基本だ。動きがなければ、絵巻自体はそもそも始まらない。

具体的な例はいくらでもある。たとえば、愉快な『福富草紙』の中の一こまを見てみよう。写真は立教大学文学部図書館所蔵の巻物からの引用である。このご老人、作品の題名となる福富という人間ではなく、その人の敵役で、文字通りに福と富を手に入れて出世した秀武という男だ。これを囲む大きな場面は引用しきれないが、それを説明すると、驚異の眼差しを一斉に注いだ老若男女の生き生きとした群集だった。かれらは一様に熱狂し、口々に感嘆の声を漏らしていた。そのような視線と歓声に答えつつ、秀武は一大の芸の見せ場を繰り出していた。描かれている激動した姿や振る舞いからは、さしずめブロードウェーのタップダンスを連想させてしまう。しかしながら、知る人ぞ知っているが、芸、あるいは常人離れのショーであるに違いないが、その内容とはなんと屁を鳴らし続けるというものだった。この話の由来には、けっこう長い歴史があり、この絵巻はそのような滑稽談を絵画化することに成功している。同じ系統の作品には、屁そのものを曲線などを用いて誇張的に表現する構図も見られるが、ここでは、軽快な踊りを持ち込んだことをもって秀武老人の見せ場を表現し、したがって、放屁の芸についての、絵師の一つの理解や工夫だったに違いない。

平面で二次元の絵は、時間的に続く動きを表現するには、明らかに限界がある。絵に描かれたのは、静止した瞬間にほかならない。ここでは、静止をもって動きを表現するための工夫は、いたって単純だ。すなわち、現実の中では一瞬でしかない、静止できないものを画面上に再現するものである。この絵で言えば、秀武の深く曲がった膝、風に高く靡く袖や裾などは、その典型だろう。思えば、限られた空間において動きを表現するに、これが一番経済的な方法である。長く続けられない一瞬の様子であるだけに、それの前後の時間の展開が自然に想像の中で広がり、描かれきれないものも、読む人が虚像をもって補っていくことを誘われる。

まえに絵の饒舌について考えた。それの反対としての洗練も思いに浮かんだ。動きの表現は、絵における磨き抜かれた、細心に配慮を配った工夫の一つだと言えよう。誤解をさけるために、さらに付け加えておこう。饒舌というのは、絵の特殊なケースであるのに対して、ここに見る動きの表現は、絵巻の絵のいたるところに認められて、いわば絵巻の「文法」の基本のなかの基本なのだ。

2008年5月3日土曜日

デジタル複製

この二三日、絵巻に関連する新聞記事では、「デジタル複製」とういう言葉が注目を集めている。見慣れないもので、思わずあれこれと読み比べた。

ことの始まりは、北野天満宮が所蔵している国宝『北野天神縁起絵巻』を日本HP社がデジタル技術をもって複製をし、それを神社に奉納したということである。それをうけて、北野天満宮は、これまで展示してきた明治期の模写を下げて、新しい技術を詰め込んだ複製本を特別展示し、関心ある人々は一つのユニークな媒体を通じて国宝本の姿を偲ぶことができるようになった。

ここに「デジタル複製」という言葉が事の内容を十分伝えていているとはちょっと思えない。新しい試みとしての複製は、デジタルの、あるいはデジタルを通じての複製ではなく、あくまでも一旦デジタルを通過した、デジタルのプロセスをもつ複製なのである。技術としての魅力とは、画像をデジタルに取り込むための精度、そしてそれを紙(この場合は和紙)にプリントする色彩に収斂され、現代のデジタル技術における入力と出力の二つのポイントにおいて、その工夫と到達が提示される。印刷されたものは、伝統的な表装など贅沢な処置を経て初めて展示に耐えうる巻物になるが、ここではとりあえず時代の寵児としてのデジタルが脚光をあびる結果になった。貴重な画像をみるためには、これまでには写真撮影したものを図書という形に印刷したもの(因みにこれを「フィルム複製」とは誰も呼ぼうとしないが)に頼ってきたが、それに比べて、もっと精密になり、しかも、おそらく近い将来により安価に手に入る可能性さえ伺わせる。

興味深いことに、ほぼ時を同じくして、「NHKクローズアップ現代」は、北野天満宮の展示とは関係なく、「デジタル複製」というテーマを取り上げた(「本物そっくりの文化財~デジタル複製の波紋~」、4月15日放送)。しかも同じキーワードを使いながら、きわめて対照的に、これを憂慮するという立場から問題を提起した。商業利用の可能性、本物からの遠ざかりへの危惧、などはその主な理由と見られる。一つの新しい技術的な試みに対して、すかさず文化的な思慮、ひいては憂慮を与えるということは、いかにも日本的な文化バランスを感じさせてくれた。

ちなみに、NHKの番組では、狩野永徳の襖絵などとともに、最近インターネットでデジタル公開された「最後の晩餐」の壁画が触れられたので、さっそくそのサイトを覗いてみた。あくまでもデジタル公開で複製とは縁がないが、160億画素と謳うだけあって、見たことのない視覚内容だ。サイトには親切にも制作過程を記録したビデオまで付いている。画像を取り込むために使ったのは、もちろんNikkonのカメラ、しかももっぱらフラッシュをたき続けていたことにはいささか驚いた。きっと照明ライトを当てるより損傷の度合いが少ないとの判断が動いたことだろう。ちなみに、せっかくの貴重なデジタル情報だが、いまの公開の仕方では、ぱっと見ての楽しみ以外は、まじめな使いようがちょっと考えられないことだけ付記しておこう。

しかしながら、文化人たちの関心の持ちようが如何にせよ、そのような憂慮や議論を横目に、技術はどんどん進む。その象徴的な一場面を、わたしは先の京都の襖絵を取り入れるための技術を紹介するサイトで目撃した。そこでは、人間の体より大きい絵をまるごと印刷してしまうプリンターの外観やその出来栄えを見せながら、その隣では、背中を裸にしたままの女性をスキャナの機械の上に横たわらせた。技術と文化とが異様に交わりあう現場ではなかろうか。

北野天神絵巻、鮮やか複製
最後の晩餐
第3のイメージキャプチャ