2020年8月29日土曜日

noteデビュー

ブログホストサイト「note」。知人が書いて公開した文章が目に止まったりして、とりわけそのすっきりした画面が印象的で、気になっていた。ただ、サイトの名前はどうしても編集ソフトを連想させてしまうこともあったからだろうか、あまり深く考えなかった。そこで、同僚の友人に勧められて、あらためてそのあり方を眺め、そして、自分のアカウントを作って、ささやかなデビューをした。

実際に自分のサイトを作り、一つの文章を作成して公開してみると、やはり見えてくるものがある。まずすっきりした画面の特徴は、作者中心というこれまでのほとんどのブログホストサイトの設計と一線を劃したからだと気づかされた。たいていのブログサイトは、作者紹介、先行のエントリーや分類リストなどを前面に掲げて、作者像や運営の方針みたいなものをなんとなくと伝えている。対して、noteは文章閲覧の画面でそれらをいっさい取り払ってしまい、文章そのものへの集中を促した。さらに、手軽な投稿までのプロセス、作者同士の交流への仕掛けなど、提供者の気遣いが伺われる。提供された環境はあくまでも最小限であり、挿入画像は段落と段落の間の、しかも中心の位置にしか置けない、動画はYouTubeなど他のサイトのリンクのみなど、入力の簡潔さと機能の制限はまさに両立している。

これからも少しずつ発信を試してみる。読める内容を提供し、一つのテーマをゆっくり説明するというスタイルを模索して、読者との交流を願いたい。最初のエントリーは、「元祖・四コマ漫画」とした。ここですでに触れたことを噛み砕いて書いてみた。

2020年8月22日土曜日

古文教育

さる水曜日、東北大学佐藤勢紀子先生主催のこのプロジェクト関連の研究会に参加させていただいた。詳しいことは、主催者からの公式な紹介にお任せすることにして、個人的に感じたことを二、三ここにメモしておく。

古文の勉強は、母国語話者の人にとっても、また日本語を学習する人々にとっても重要なテーマである。ただその大事さに比べて、基本的な現況報告、事例分析、教育法からの検討などに対して、関心が未だ十分に寄せられてない。そのような中、日本の研究者が中心になり、世界からの様々な事例が交流され、議論されることがとても有意義で、個人としても大変勉強になった。最初の研究会において、三つの発表やその後の質疑応答、参加者の自己紹介などからも様々な様子が浮かび上がった。とりわけ印象に残ったのは、古文教育がそれぞれの機関においで異なる位置を占めていることだ。学習者の構成を見ても、極めて専門的な分野の研究に志す者もいれば、日本語日本文化の勉強の一環としてこれに取り掛かるいわゆる語学の中級者や上級者もいて、状況が様々だ。その中で教育目標の設定、学習達成への対応などに自ずと違いが出てくる。教育者としてもそれぞれの立場からはっきりした方針を打ち立ててとりかからなければならない。

研究会はあたりまえのようにオンラインで行われた。そして実際の教育事例の報告は、目下のコロナ対策をめぐる実情に話が集中した。いまならではの展開である。一方では、半分に近い参加者は世界各国から集まっている。オンラインの利用がなければ、ちょっと考えられない展開だ。デジタル環境の恩恵は明らかな形で現れていることは忘れてはならない。

2020年8月15日土曜日

グーグル地図の写真

ここしばらく旅行は出来ない。その分、グーグル地図などを眺めたり、これまでの自分の足跡を辿ったりすることが知らず知らずに増えた。遠い旅をする度に二、三の写真を載せるようにして、自分にとっては一つの記録であり、そしてグーグルを利用してきたことへのささやかなお返しにもなる。あらためて見たら、公開写真の数は約170枚、閲覧総回数は約50万、一番多いのは、「La Citadelle de Québec」を訪ねたもので、10万回以上閲覧された。

一方では、いまだ答えが得られない、対応策が見つからない難点はかなりある。一番にあがるのは、公開した写真にどうやってたどり着くかということだ。自分の名前で公開した写真は、たしかに一つのリンクでリストアップできる。しかし普通のユーザーは特定の貢献者から写真を探すとはとても思えない。場所からが一番自然だろうが、そこからはどうしてもたどり着かない。一例として、近くの小学校を撮って公開したが、小学校の名前からは写真が上がってこない。しかし、妙なことに、公開して数週間の閲覧数は、すでに千回超えた。ユーザーはどうやってこれを見たのか、まったく見当がつかない。それから、どうやら2016年より前に公開した写真の多くは、その場所の情報などが消えたり、写真自体にアクセスできないなどの状況が現われ、訂正の方法が分からない。さらに言えば、写真を公開しようと思ったら、公開時点の時間が記録されるが、それを写真の撮影時間に変えることさえ方法が見つからない。

二年まえ、似た状況をメモした(「地図に写真投稿」)。ここで書いたのは、それと重なることが多い。いっこうに解決策が見つからなくて、なんとももどかしい。

グーグルマップに公開した写真

2020年8月8日土曜日

ワスレナ草

先週、忘れ草について書いたら、思う以上に多数のコメントをいただいた。花のことを教えてくれる専用アプリ、特設ページをはじめ、個人的な思い出、そして歌謡曲の曲名など、勉強になるものばかりだった。中では、「わすれな草」を二人の方から触れられた。どこか交差するものではないかと気になって、思わずあれこれと調べてみた。

どうやらまったく違う、関係ない草のようだ。ワスレナ草のほうは、花が小さくて、色は青い。しかも、こちらのほうは西洋発のもので、日本に伝わったのは、明治以後になるらしい。花の名前も、ヨーロッパ言語の言い方の「Forget-me-not」を意味通りに日本語に訳されたもので、本家のヨーロッパでは悲恋物語までついているとのこと。一方では、漢字表記は「勿忘草」、この名前はそのまま中国語になり、調べてはいないが、あるいは他の多くの同時代の語彙と同じく日本から中国への輸出した言葉の一例に数えられるだろう。

あらためて花の名前を吟味すれば、「忘れな」との言い方はかなり妙だと気づかされる。古文の文法では解釈できない。原語との意味の上での交渉から考えれば、あくまでも「忘れるな」とのことだろう。はたしてその通り、一部の参考書などでは「忘るな草」との記述が見られる。そのような規則正しい言い方から変化していまの名前にたどり着いたのだろうか。

2020年8月1日土曜日

忘れ草

庭に植えてあるごく数少ない花の一つは、今日満開した。とても綺麗で、写真に撮ってインスタにアップした。もともと花には無頓着、これを機に名前を調べてみた。英語名はHemerocallis fulva、日本語になるとワスレグサ、なんと忘れ草である。

意識の中で、花の名前と実体がはじめて繋がった。いうまでもなく、この名前の花ならその伝統は長い。遠く万葉の時代から詠まれたのだった。そして「伊勢物語」(百段)は、この花を主役に据える。あの「忘れ草、生ふる野辺とは、見るらめど、こは忍ぶなり、後もたのまむ」との歌である。江戸時代の挿絵にはもちろん登場した。一例として右の場面を見てほしい。葉っぱのついた忘れ草は、あまりにも巨大で圧倒される。ただ一見して分かるように、肝心の花よりも、葉っぱが花びらの形を模っている。絵の描写力はさておくとして、特定の花を認識し、明確に伝えるという意味でその完成度には疑いようがない。(国文学研究資料館蔵『校訂伊㔟物語図会』より。文政八年刊、三ノ卅八オ

ちなみに忘れ草の原生は中国、その名は萱草。唐の詩人に詠まれたりして、同じく悠遠な伝統を辿ることができる。ただ中国でのそれは「母親花」との別名を持ち、親思いの感情を託し、とりわけ旅に出る子が親の居所に植えるものとして享受されていた。