2021年4月24日土曜日

雪の春

今年の天気は、なんとなく面白い。ここ一週間だけ見ても、昼は19度に気温が上がっても、翌日目を醒ましたら、あたり一面の雪。しかも数回繰り返した。日記代わりにインスタにあげた写真のコメントに、今年最後の雪だと何回も書いたと振り返り、苦笑いをするほかはない。

四季おりおりの変化、その季節らしい自然の風景、古くからの日本の自慢なのだ。(「四季に向う」)生れ育った中国も、広大な国土で人びとの体験がかなり違うはずだが、やはり農業国家であり、季節の移り変わりへの認識や、それに対する心構えには悠遠なものがあった。それらに対して、いま生活するこの土地は、海抜と言えば千百メートル、気候を代表するものと言えば冬の暖気流である「シヌーク」、確かに毎年のように草が緑に染まり、木々が葉っぱを出し、果物が実を結ぶのだが、日本や中国でいう四季とはかなり味わいが違うなのだ。

このように思いを巡らしていても、窓の外を見つめれば、雪がひらひらと漂っている。ただ、極寒の冬や雪の春、これらを持ち出したら、厳しい土地だと言われるがちだが、実際暮らしてみると、資源も技術も恵まれた現代社会において、対応がしっかりしていて、厳しさに晒される必然性がない分、感覚もかなり異なる。零下20度の中軽装で駐車場へ無心に走る自分、零下10度ななったら半そでで外を颯爽と散歩する若者、自然との接し方は、それまたこうでなければ得られない喜びや感動がある。

2021年4月17日土曜日

篆書データベース

すでに先月のことになるが、人文学オープンデータ共同利用センターが「篆書字体データセット」を公開し、あわせてそれを利用する「篆書データベース」を提供した。篆書書体の検索、識別、利用などにおいて強力なツールが生れた。

このデータセットは、複数の組織が制作し、公開したデジタル画像を集めたものである。対象となるのは、『金石韻府』など七点の資料に収録された7,681文字の106,447字形である。IIIFというデジタル画像公開のスタンダードはこのデータセットを技術的に支えていることはいうを待たない。一方では、これだけの文字にアクセスするためには、文字ベースの検索が現実的に必要となる。ただし、いま公開のデータベースはいまだ限定的なものだと思われる。一例として、自分の名前に入っている文字を使って試してみたが、「暁」には一字形しか戻ってこなかったことには驚いた。よく考えてみれば、これはいわゆる日本の略字であり、対して「曉」があるのだ。はたしてこちらで試したら、四つの資料から八つの字形が現われた。ただ、こうなれば「暁」に対応するとされる字形の認定が問題となってしまう。似たような文字例で言えば、「劍」には六つの字形、「劔」には四つの字形が収録されているが、後者の四つは前者にも収録され、前者にある字形の二つは後者に収録されていない。ちなみに「剱」「剣」は登録なしとされている。字形の認定において方針が統一されていないことがはっきりと見てとれる。

個人的には、篆書に一番頻繁に接したのは、学生時代、篆刻に打ち込んだころの数年間だった。篆書をきちんと覚えたわけではなく、あくまでも必要に応じて字形を集めて石に彫ったばかりだった。いまから思えば、勉強の仕方が間違っていたといわざるをえない。ただ、その過程であれこれの辞書に馴染むことができた。思えば、あのころこのような便利な環境があったら、きっとさらに違う形で篆書を理解しようとしたに違いない。

篆書データベース

2021年4月10日土曜日

研究誌公開

数日前から研究者が熱心に伝え、語りあった話題の一つには、国際浮世絵学会発行の『浮世絵芸術』のデジタル公開があった。学術研究誌のオンライン公開や閲覧が着実に増えているなか、この研究誌が最新号まで対象に含めたことは、なによりもインパクトが大きかった。そのため、いささか驚きをもって接され、大いにありがたく受け止められた。

研究誌の執筆者の立場から言えば、研究成果を一日でも早く、すこしでも広く知られたい、しかも研究も職務の一つであり、多くはさらに研究助成まで支えられているので、このような公開はいうまでもなく諸手をあげての歓迎だ。対して、出版側から言えば、コストを消化し、しかも長く続けられること前提なので、このような展開が新たな試練になるには違いない。どこまでギリギリの採算ができるのか、公開への期待に応えるためにどのような新機軸を打ち出せるのか、そもそもデジタル公開とその維持のための新たな投資をどこに求めるのか、課題がきっと山積みだと想像する。それにあわせて、積極的な公開をもって、より多くの読者が生れ、研究誌の価値がより広く認められることを祈りたい。

これを思いめぐらしたながら、つい一年ほどまえに刊行したした二編の作のことを確かめてみた。ともにここでも報告した出版である(「新しい人文知」、「関係~ない」)。刊行誌は書店販売もしているが、上記掲載の51号と52号が一か月まえに公開したばかりではなく、なんと3月15日付けで刊行した最新刊の54号は、すでに3月30日に全文オンラン公開をしている。まったく同じ流れがここにも見て取れたことに少なからずに驚き、嬉しく思った。

デジタル古典研究に挑む」(『中国21、Vol.51』)
言語学習から「関係」を覗く」(『中国21、Vol.52』)

2021年4月3日土曜日

音声入力

すでに四、五年も前のことになるだろうか、友人の一人は音声によるテキスト入力のことを熱心に説明し、それを実際に使いこなして驚異的に多数の成果を発表した。それに習い、数回試してはみたが、いずれも途中で挫折した。そこへ、ここ数日何気なくそれを再開し、改めて気づいたことがいくつかあった。

音声にはすぐに頼れなかったのは、やはり文章をゼロから書き上げるところにあった。たとえ小さな文章でも、表現の内容や切り口などを思い巡らし、考えを並べ直すという作業は、声としてそのまま口から出すことには、それなりのコツが要る感じで、馴染めなかった。だが、ここ数日、時間を割いて取り組んだプロジェクトの一つには翻訳があった。翻訳となると、言葉の吟味のみで、いわば内容にまで立ち入る必要がさほどなくて、音声ではかえって楽だった。夢中に言葉を探し求めている間、じっと声の空白を残していても、入力システムは根気よく待ってくれる。そして何よりも小気味よいほどの正確な変換結果だ。感心せざるを得ない。声で作った文章には、編集の手入れがより多く必要とするが、それが仕事の流れを見直す良い機会にまでなった。

おかげで机の一角には存在感のあるマイクが加わった。文章を組み立てるプロセスにおいて目を使わず、指を休めることができて、妙な経験だ。音楽を流しながら読んだり書いたりする習慣がない分、静かな仕事台の周りに声というものが新たに現われ、新しいメディアが仲間入りしたという感じだった。これも一つの進化だと捉えてよかろう。