2017年12月30日土曜日

くるみ割り人形

カナダのお正月は、クリスマスから続く長い休みの終わりに来る。休日の中、バレー追加公演のチケットをほぼ前日に購入して、この町の一番大きい音楽ホールに入った。演目は、あの「くるみ割り人形」。舞台上も、綺麗に着飾った観客も、そして街を包む雪まで、すべて幻想的なものだった。

ストーリーの中で、悪者の集団というのは鼠の群れである。それがしっかりと見応えのあるハイライトとなった。子どもたちが扮する小さな鼠たちは、ステージの転換とともに大人のダンサーに代えられ、主人公は一瞬のうちに童話の世界の中に迷い込んだのだった。いうまでもなく、そのすべては踊りによって伝えられている。そう考えて舞台を見つめれば、バレーってけっこう究極な表現だとあらためて気づく。それなりに入り込んだストーリがテーマになっているが、他の演劇と違い、文字はもちろん、台詞、歌などをとことん排除し、あくまでも音楽にあわせた仕草や体の運動をもって表現されている。いわば手段の選択は限界を極めている。そのため、舞台上では、老人の踊り、動物の戯れ、人形の不思議など、それぞれ特徴的な状況が繰り広げられている。そして、そのどれを取り上げてみても、いたって誇張され、時には饒舌なほど繰り返されたものだった。絢爛なバレーはまるで絵巻、といったような陳腐な比喩があるが、表現手段を削ったところに、絵との共通が隠されたと言えなくもない。

もともとほとんどの観客は、童話を熟知し、絶えず起こった拍手もあくまでも常人を超えた踊りに送られたものだった。言い換えれば、ここにストーリはあってないようなものだ。あえて絵に思いを馳せれば、この側面も忘れてはいけない。

The Nutcracker

2017年12月23日土曜日

文字の姿

今年は、曜日の並びもあって、金曜日からすでに年末年始の休暇に突入した。大学もキャンパスが完全に締まり、新年あけの二日まで休みが続く。この一年のことをあれこれと整理し、日本から持ち帰った書籍を手に取ったら、あの「絵巻マニア列伝」のカタログを読み耽け、再び惹かれた。

たとえば右に示した二行の抜粋。おそらくこの展示全体を見渡しても一つの代表的なものであり、絵巻、それの制作、そして享受を結びつける精緻をきわめた一コマに違いない。二行の文字は、「実隆公記」に記され、「及晩石山絵詞立筆」(明応六年十月九日)、「石山縁起絵詞終書写功」(同十一日)と読む。新たに巻四を補作するにあたり、実隆は書写を依頼され、名誉ある作業を三日ほどかけて完了させたものである。あわせて六段、数えて百三十九行という分量である。それにしても、文字の姿というのは、見つめるほどに味わいがあり、想像を羽ばたたせる。「石山寺縁起」の詞書は、簡単に見られるので、関心ある人ならすでに繰り返し読んだことだろう。じつに堂々たる書風で、今日の人々が抱く中世の文字のイメージをそのまま具現化したものである。一方では、同じ人間でありながら、日記という私的なものとなると、文字はこうも違う。すべての線はおなじ太さを持ち、文字の形は思いっきり崩され、おそらく凄まじいスピードで書きあげられ、筆者以外の人への情報伝達を最初から拒んでいるようにさえ見受けられる。

絵巻と古記録、絵画と文字、そして作品とマニア、これを同列に一堂に集めた展覧会の様子は、いまでも脳裏に明晰に残っている。一方では、文字資料には、翻刻や現代語訳、ひいては音声解説など、多くの説明が施されたが、それでも見る人の足を止められなかったように見受けられた。新たなアプローチだけに、よりマッチした展示の方法とはなにか、やはりついつい空想してしまうものだった。

2017年12月16日土曜日

講義終了

秋学期の講義は先週をもってすべて終了し、今週の一週間はもっぱら一人ひとりの学生の最終成績を出すことに費やした。学期末試験を設けていなくて、その代わりに全員レポートを書かせ、それが一斉に入ったので、とにかくこれを通読するのに集中した。

レポートの採点は、たしかに仕事には違いないが、一方では、じつに楽しい。一学期の学習成果として関連のテーマを見つけ、調べて議論を試みるというのが、普通のやりかただろうが、ここ数年、議論も歓迎だが、創造性を奮い立たせて自分なりに表現するとの方向に学生たちを意識的に誘導した。今年も同じ形で課題を出した。結局のところ、いまの若者は形一遍の議論よりも、あきらかに表現のほうにやりがいを感じ、かなりの時間をかけ、思い存分に想像力を羽ばたけ、多種多様の成果を持ち込んだ。形式だけ見ても、庭園の模型、ボードゲーム、街頭インタービュー、はてはパソコン・ゲームと、思いも寄らないものばかりだった。その中から、短編のストーリとマンガのみ取り出して、小冊子に纏めるというささやかな伝統は、今年で四年目になるが、相変わらずに続けたい。じじつその成果の一部はすでに明らかになり、口で説明するよりも、はるか具体的に学生たちの創造欲を刺激し、その積み重ねの結果、同じ講義でも受け止め方はすこしずつ質が上がっている。

ちなみに、これは今年の講義ではじめて取り入れたやり方だが、いくつの講義の終わりに「Google Forms」を用いてコメントを書かせた。生き生きとした反応を集められただけではなく、大人数のクラスで簡単に対応しきれない出席を確認する役目も果たし、採点の参考にまでなった。手応えのあるクラス活動として、ここにメモして覚えておきたい。


2017年12月9日土曜日

ビデオコンテスト

前からずっと関心をもつ構想の一つには、学生たちのビデオ作品を集めて披露するというものがあった。今年の夏、国際交流基金からの助成が与えられ、日本語の課程を開設しているカナダの大学に声を掛けたら七つの大学からの賛同が得られて、「カナダ日本語ビデオコンテスト」を実施した。募集の締め切りは二週間ほど前であり、実行委員会によって選出された候補作30作が公開され、ただいま特設の審査委員会に審査をかけられている。

行事の告知から、応募作品の提出、そして公開などすべて既存のものを利用する方針を採用した。そのため、コンテスト名義のグーグルアカウントを取得することから始まり、公式サイトはグーグルサイト、応募はグーグルフォーム、そして作品発表はYouTubeチャンネルと、すべてグーグルの環境に依存することにした。この過程において、じつにいろいろなことを習い、多くの知識が得られた。行事を主催するにあたり、著作権関連のことにとりわけ注意を払ったので、実際の経験から管理の一端が見えてきた。動画作品には、音楽が欠けられない。利用された音楽になんらかの権利を侵害しないかと慎重を期して、「AHA Music」というツールを利用してタイトルや歌手の情報を取得した。その場合、著作権フリーの音楽まで歌手情報などが明確に得られた。一例のみ、動画の作者が本人がもっている音源を利用したものだが、YouTubeサイトは、「歌手が利用を許可する、広告が現れる可能性あり」との旨の知らせをアップロード画面に残した。画像情報については、著作権に抵触するものはないとの表示はチャンネル設置の画面にはっきりと出ていて、そのような角度からYouTube側が目を光らせたことが分かる。

今年の「新語・流行語大賞」には、「ユーチューバー」が候補の一つになった。ただ、世の中では、これを語るになぜか収入やらフォロワー数やらに関心が集まる。動画と収入は、もともと連結する必然性はない。単なる視聴者の数を狙うのではなく、動画媒体の表現や記録、ひいては教育や文化宣伝における有効な手段としてのユーチューバー的な活動の可能性も見逃してはならない。

カナダ日本語ビデオコンテスト

2017年12月2日土曜日

デジタル絵解き

去る月曜日、笠間書院から「日本文学の展望を拓く」五巻が郵送されてきた。待ちに待った出版である。手元の作業を投げ出し、小包を開き、いずれも400頁近い新刊を後から後から捲った。まず頭の中に浮かんできた言葉は、ひさしぶりに体験し、強烈に伝わってくる「書の香り」だった。

わたしが投稿したのは、「絵画・イメージの回廊」に取り上げられた絵画メディアに沿った一篇である。論考の内容は自由に選んでよいという寛大な編集方針に甘えて、デジタル関連の最近の仕事を報告することにした。そもそも紙媒体の出版物にデジタルの作業を説明する機会はかなり限られている。そんな中で、与えられた貴重な紙幅を用いて、ここ数年手探りで試みてきた画像、音声、動画などの異なるデジタル方法を絵巻の読解に応用した経緯、成果、そしてそれに掛けた思いなどを纏めた。そして、この一連の実践を一括りに「デジタル絵解き」と名付けて、絵に向けてきた歴史的な視線との関連、連続、継承を訴えようとした。

今週オンライン全文公開された「リポート笠間No.63」において小峯和明先生が自ら触れられたように、このシリーズは小峯先生の古稀記念のために企画されたものである。思えば、いまからちょうど20年まえの1997年の夏、外来研究員として立教大学に招かれた以来、小峯先生にはその教えに接し、研究や生活などにおいて数え切れないほどのご配慮を賜り、お世話になった。このブログの出発も、まさにそのような研究滞在の一つから生まれたものだった。池袋界隈での日々を覚え出し、各巻の編者や錚々たる執筆者の顔ぶれを思い浮かべて、なんとも感慨深い。

日本文学の展望を拓く