2008年4月27日日曜日

絵の饒舌

饒舌。その反対とは、さしずめ、洗練、エレガント、といったところだろうか。一部の絵巻作品の表現は、明らかに前者に属する。ここに一つの典型例を見てみよう。

取り上げたいのは、『後三年合戦絵詞』の中の一場面だ。これをめぐり、これまですでに二回ほど触れていて、ストーリや人物の配置などの構図の概要は、それらを参照してもらおう。(「絵巻に手紙をみる」2007年11月14日、「みちのくに紙」同18日)そこで十分触れられなかったのは、手紙を作成する三人の中の、真ん中に位置する武士の仕種なのだ。この人は、手紙をすでに仕上げたらしく、筆を口に銜えながら、手紙を左手で握り、右手は小刀をかざしてなにやらと手紙に最後の手入れを熱心に施しているところらしい。

巻物にした手紙と小刀、この組み合わせはいったいなにを表現しようとしたのだろうか。

これへの答えを探るためには、平安時代から知識人たちが丁寧に習得し、盛んに伝授して守ってきた手紙の作法というものの存在に目を向けなければならない。上流社会の人々の教養や身嗜みの表われだと大事にされていたものである。そのような作法の主体を成したのは、手紙の文章の書式や用語である。だが、外在的な行動ももちろん作法の一部であった。一例として、守覚法親王(1150-1202)という人が作成した『消息耳底秘抄』から、つぎの二つを紹介しよう。

消息礼
又立紙ノウハ紙ヲ返事ニ名所ヲ切テ用ハ咎ナキコト也。
礼紙事
又礼紙ヲ封タル時。文書多クシテ不被封之時ニハ。紙ヲ逆ニ細ク切テ可封也。秘事也。

二つの作法は、ともに紙を切るという動作に関わるもので、したがって小刀が必要とされるものである。それは、返事の場合、もらった手紙から差出人の名前や住所などを切り取って差し出す手紙のあて先に用いること、そして、手紙にあまりにも多くの枚数を費やした場合、封筒にあたる紙を切り込みを入れて工夫する、という内容である。このような作法が十分に知れ渡っていたものだとすれば、ここの絵は後者の状況を表そうとしたものだろう。すなわち、留守する家族への手紙は普通の長さにはとても納めきれないということを伝えようとしていたに違いない。

一方では、筆を口に銜えるという仕種の意味は不明なままだ。小刀を握る手を空けるために咄嗟の対応だと理解できないこともないが、あるいはそんな単純なものではなく、なんらかの理由が隠されていたのかもしれない。

手紙のありかたを表現するという意味では、後三年の戦場におけるこの小さな光景は、じつに見ごたえのあるものだ。ストーリの内容にどれだけ沿っているかは別として、手紙作成にかかわるもろもろの様相を絵画にするということでは、まさに細かな気配りが行き届いていた。しかも王朝的な文化や伝統に詳しいほど、味わいを感じるということを付け加えておこう。

饒舌とは、普通マイナスなイメージを伴う。だが、絵師の工夫や構図における知的な遊びに波長を合わせることができれば、なぜか親しみを感じて、わけもなく楽しい。そこから、旺盛な表現欲と、過剰なほどサービス精神を感じ取れるからだろうか。

以上の内容は、国文学研究資料館主催の「第31回国際日本文学研究集会」で発表した研究の一部だ。その時の原稿は、同集会の会議録に載せられて、数日前に出版されたことを付記する。

2008年4月23日水曜日

絵巻三昧の二百日

二日前の二十一日をもって、この度の東京での研究生活が終わった。ほぼ一年前に購入した往復の航空券を使ってカナダへの帰路に着き、十五時間の時差をもつ二つの都市の間を十三時間ほど飛び、同じ日付の日にちの、出発する時間より二時間早い時刻にカルガリーの空港に到着した。綺麗な花々が満開する東京から離れて、自分のホームタウンは、時はずれの大雪に襲われ、午後三時にはすでにマイナス8度の気温になっていた。東京の春をあれだけ満喫してきたにもかかわらず、今年も冬を逃さなかったとのことで、なぜかほっとした。

去年の秋に東京に渡り、国際交流基金の助成を受け、滞在する立教大学の諸先生、学生たちに暖かく迎えられ、サポートされて、じつに快適な研究生活を過ごすことができた。そのような時間はあっという間に過ぎてしまい、いまとなっては思い出となった。

その中においても、このブログの経験は、なんとも楽しかった。振り返ってみれば、去年の十月初めにブログを立て上げ、ちょうど二百日に及んで、計五十九のタイトルを書いた。ほぼ周二回のペースを守り抜いたことは、どこか不思議な気さえした。

絵巻のことを思いが向くままに書いてみるということは、いつもリラックスした時間だ。ここにさまざまなテーマを触れてきた。いろいろなところで講演、講義、研究発表など交流の場を与えてもらったこと、滞在生活の中での見聞、日本でしか体験できない季節の移り変わりなど、取り上げるテーマの直接なきっかけだった。一方では、実際にブログを運営して分かったこともけっして少なくなかった。テーマの選び方や書き方に理由があるに違いないが、実際にブログに書き残されたフィードバックは、予想したよりはるかに少なかった。いくつかのブログを愛読しているだけに、自分の表現力がこんなに未熟したものだと、気づかされるものだった。

カナダに戻り、教えること、勤務先の雑務など、また違う生活の内容と日常となる。しかしながら、研究はあくまでも絵巻に絞りたい。そのために、東京滞在の研究期間限定のつもりで出発したこのブログも、しばらくは不定期で続けてみよう。これまでよりはやや間隔を持たせ、その代わりに書き方などにもうすこし工夫をしようと考えている。

この場を借りて、過去数ヶ月の間に出合い、再会し、さまざまな形でお世話になった人々に感謝を申し上げたい。

2008年4月19日土曜日

人を笑う

数年前の話だ。身近にいるある学者と日常的に交流をもっていた。かれの関心は、古典における人間の体の表現、絵巻も自然にその対象だった。ある日、一つの単純な質問をぶっつけられた。「病草紙」に見られるあの笑いとは、なんなんだ?不意を打たれて、まったく答えられなかった。

この質問は、いまでも時々反芻し、あれこれと答えを並べてみる。

「病草紙」は、病気をテーマとするもので、日常的に出会うものというよりは、かなり極端なものにより興味を示していた。そして、ただその病気を並べるだけではなく、それを見つめ、それを人に見せて語り、結果を共有することを表現の方針としていたように見受けられる。その態度とは、病気、というよりも難病をもつ人、すなわち自分の力ではなんともできない、いわば不幸の人を笑いにする、というものだ。(写真は国宝「病草紙・ふたなり」より)そこから一つの笑いの仕組みを見出そうとすれば、弱者、少数者のものに対して、普通の人々の常識に違反するという見地から、それを不可思議なものだとして笑い飛ばす。この笑いは、事実の確認から出発するものであり、しかも悪意がなく、考えようによっては、いたって健康的だったとさえ言える。

いうまでもなく、現代生活において、以上の笑いの仕組みは、人間の平等という理由で、極端に除外されるようになる。弱者でも、弱小のグループの存在でも、その尊厳を尊重し、その存在を理解し、助ける。同じ事実に対して、笑いの代わりに同情を、さらに同情さえ顕にしないという振る舞いが良しとするようになる。このような新たな価値観の形成に伴い、「病草紙」のような笑いは、作品が古典であることを主張するがごとくに、歴史の向こうに押し出された。

ここにたいへんとっぴな結びを記す。中国では、「病草紙」と同じ原理をもつ笑いは、いまなお根強く存在している。テレビでいつでも高い視聴率を取る「小品」と言われるコメディーでは、これを根底にする着想のものは、いまなお実に多数上映されている。そのような番組を目にし、テレビの中やテレビの周りから伝わってくる陽気な笑いを聞く度に、「病草紙」を思い出してしまう。

2008年4月16日水曜日

絵巻の使い方

たとえば近年出版された規模の大きい歴史辞書、それから古代や中世の歴史を分かりやすく紹介する入門書、解説書などの出版物には、絵巻の画面がよく使われている。そこでは、絵巻そのものについての関心が薄く、ただ辞書や解説書の内容に沿って、それに対応できそうな絵巻の画面を選び、ほんの一部分のみを切り出して載せるものである。それは歴史人物や寺院などの宗教建築だったり、戦争や火災などの歴史事件だったりする。一枚の絵は、時に百も千もの言葉に勝る。絵が用いられたことにより、述べられている内容はぐんと身近なものとなり、生き生きとしたものに映る。

いうまでもなく、そのような出版物を通じて、絵巻の画面も大きく知られるようになった。こんな素晴らしい絵があったものだと、改めて認識されることが多い。

ただし、以上のような絵巻へのアプローチ、すなわち絵の使い方が、一巻の絵巻が表現しようとした文脈から離れ、想定していた読み方と関係ないということを、われわれはつねに覚えておくべきだろう。絵巻は、特定の人物の顔や身体特徴などを記録しようとした写実的な表現形態ではなかった。それよりも、絵と文字との競演により、連続した文脈をもって、特定の状況、伝説、物語、極端に要約すればストーリーを伝えようとしたものだった。

中世の歴史に目を向ければ、絵巻とは最大の、ときにはほぼ唯一のビジュアル文献群である。そのため、教育などのために知識を視覚的な要素を交えて伝えようとすれば、そこにはさほど多くの選択の余地が用意されていない。そして、何よりも絵巻という資料群は、そのようなアプローチを拒んでいないどころか、その豊かな内容と平易な表現をもって、さまざまな試みを向こうから進んでを誘ってくれている。したがって、わたしたちに出来ることは、つねに初心に戻り、絵によって語られようとしているストーリーを理解し、吸収するという愉しみ方を忘れないでいるということだろう。

2008年4月13日日曜日

大織冠鎌足の美人局

昨日の「読売新聞」には絵巻の話題が報じられ、友人はさっそくそれを教えてくれた。前に書いた蘇我入鹿の暗殺(3月30日)と同じく藤原鎌足を主人公とするものだが、こちらのほうはいわば鎌足伝説のもう一つの極端を為すものだった。

これは、いわゆる「大織冠」と呼ばれる伝説である。大織冠とは、大化改新の結果の一つである冠位の最高位階であり、これを授けられたただ一人の人は藤原鎌足だったため、自然にかれの尊称と化した。「大織冠」というストーリはまさに奇想天外なものだった。その粗筋をごく簡略に述べてみれば、およそつぎの通りである。

藤原鎌足は、自分の娘を唐の太宗に嫁がせ、太宗からの返礼に釈迦の霊物を納めた玉が与えられ、万戸将軍がそれを守って日本に送られてくる。しかしながら、玉を狙って竜王は武力による強奪を企てるが失敗し、代わりに竜女を送り込み、万戸がその色仕掛けにまんまとはまり、玉を失ってしまう。ここに、宝物を奪え返そうと鎌足が奮起する。だが、その大織冠が取った奇策とは、同じく色仕掛けを仕返すというものだった。自ら海女と契って子を儲けさせ、その海女を竜宮に送り込んだ。海女は、玉を盗んで手に入れるところまで成功したが、企てがばれて殺される。海女の体を引き上げてみれば、玉は乳房に隠されていた。やがてそれが興福寺の本尊の眉間に納められるという目出度い結末となる。ストーリを読み返して、謀略と強奪、情欲と信仰と、まさに混沌とした中世的な世界をわずかに垣間見せてくれるような強烈なものだった。

以上の伝説の中核は、遠く『日本書紀』にすでに備わり、寺の縁起などによって伝承されていた。室町時代になって舞台芸能(幸若舞)として上演されて、ストーリのプロットが完成された。一方では絵画の作品でもこれをテーマの一つとし、絵巻のみではなく、屏風絵などもたくさん作成されていた。

因みに、絵巻の公開を「読売新聞」の全国版と関西版はやや異なる文章で伝えている。たとえば拝観料のことまで報じた内容は、地方と密着して頷けるが、室町時代の絵巻を紹介して「現存最古」云々と記事のタイトルに出すこと辺りは、混乱を招くだけだろう。(写真は志度寺蔵『大織冠絵巻』、『朝日百科・国宝と歴史の旅』より)

鎌足伝説描いた絢爛絵巻、初公開へ…京都・慈受院門跡
鎌足伝説あざやかに、現存最古「大織冠絵巻」初公開へ

2008年4月9日水曜日

人質事件発生だ!

絵巻には、代表的な画題、互いに共通する構図が多い。一方では、時には突拍子もない事件がテーマとなり、予想もしないような状況が目の前に展開してくる。『宇治拾遺物語絵巻』に描かれた人質事件の顛末は、まさに良い例である。

ストーリの主人公は、甲斐国の大井光遠という相撲取りの妹である。歳は二十を超えて、見目麗しき、なかなかの美人との評判だった。ある日、強盗が入ってきて、よりもよって一家の大事なお嬢様を人質に取った。慌てふためいた下人たちとは対照に、お兄さんの光遠はいっこうに動じる様子がなかった。人質の現場はと言えば、女性はうす色の衣に紅の袴という寛いだ格好で、強盗の恐ろしげなる男は短刀を逆さに握り、足を伸ばして乱暴に女性を後ろから押さえていた。しかしながら、ここに信じられない逆転が起こった。女性は声を上げていながらも、右手で目の前の二三十本の矢を軽々と床に押しつけると、頑丈な矢は粉々になってしまった。男はあっけに取られ、自分はとても敵わないと悟って逃げ出し、その場で取り押さえられてしまった。

以上の世にも痛快なストーリは、『宇治拾遺物語』に伝えられるものだった。そこで同じタイトルの絵巻(陽明文庫蔵、狩野探幽他画)はこれを丁寧に絵画化した。恐ろしい形相をする男はもろ肌を脱いで短刀を逆さに握り、刃の先は女性の首ではなく体に向けられている。しかも左足はたしかに女性の体の後ろに回し、体全体で女性を押さえつけている。女性は前かがみに座り、手はが散乱した矢に伸びている。建物の入り口からは、男たちが緊張した面持ちで中を覗き込み、さしずめハリウッドの映画の中によく見かけられる野次馬か警察の顔を連想させてくれる。

しかしながら、矢に伸びた女性の手は、右手ではなくて左手だった。絵師のいささかな不注意からだったのだろうか。それとも、あくまでも典型的な王朝絵画の画題の伝統を守りたいが一心で、美女を描く絵の型をそっくりそのままここに持ってきただけのことだろうか。

2008年4月6日日曜日

祥雲に乗った楽器たち

遠来の友人を誘い、前回書いた「花下遊楽図屏風」を拝観し、ほんのりと照らされた夜桜を博物館の閉館間際まで堪能した。それと共に、博物館本館で開催されているもう一つの企画展示「絵巻――模本が伝える失われた姿」をも楽しんできた。

そもそも絵巻の模本は、公の場にあまり取り上げられていない。学術研究の見地からいえばいずれは避けて通れないものであり、しかも実際の古本の市場においては評価が日に々々増しているが、その扱い方にはいまだ十分に定まっているとは言えない。その中にあって、この展示のタイトルには強く惹かれた。

特別陳列は、「失われた絵巻たちを模本を通じて見」るという方針のもとで、『天狗草紙(興福寺巻)』はじめ九点の作品を十分にスペースを取って展示している。その中では、とりわけ『大山寺縁起絵巻』の一続きの画面を思わず見入った。

画面が表現したのは、仏の来迎と浄土への往生というテーマである。しかしながら、吉祥天女といった見慣れた構図を取らず、その代わりに瑞祥の雲に乗ったのは、数々の和楽器であった。笙、篳篥、笛、小太鼓、鉦鼓、書き出すとじつに長いリストになる。それらの楽器の一つひとつは、人の手から離れてそれだけで舞い上がり、長くて綺麗な帯をたなびかせながら、まるで命を得たがごとく空の彼方へ飛び行く。浄土への往生というテーマにおいては、祥雲の上に、貴人、牛車、輿、ひいては人を乗せたままの馬など、さまざまな構図が絵巻の中で確認されている。その中でも、突然に生命を得た楽器という物体群は、なんとも異様で、奇抜な想像を見せている。

絵巻の前に立ち尽くして、画面の表現から食み出した突拍子もない連想を捉われ、それをあえて記しておこう。空を飛び上がった物体は、なぜかわたしには、賑やかに都の夜を繰り出したあの百鬼夜行の行列を思い出させてしまった。人間の常識を超えた生命力が、画面の奥からひしひしと伝わったからだろうか。

絵巻――模本が伝える失われた姿

2008年4月2日水曜日

花見を眺める

東京は、桜のシーズンを迎えている。学生時代に住んでいた京都の街並とは違って、満開の桜が街角全体の色を変えてしまうというような迫力を持たないが、その代わりに、公園や並木の中の一本や二本の桜は、まさに木々の中の花に見えて、特別な風情を感じさせてくれる。

いうまでもなく、花見とは、一つの日本ならではの年中行事である。花見の歴史は長い。遠く平安時代の「右近の桜」から始まって、これを人為的に植えて愛でるという伝統は早くから根付いていて、綿々と受け継がれてきた。

中世の、室町時代の花見の風景とはどのようなものだったのだろうか。たとえば狩野長信(1577-1654)筆「花下遊楽図屏風」(国宝、6曲1双)左双を眺めてみよう。ここに描かれたのは、明らかに花を主役とする、日常から離れた平和で賑やかなひと時である。画面のほぼ中心に据えられた数台の駕籠がなにげなく伝えているように、ここはだれかの邸宅ではなく、空間的にも普段の生活の場から切り離された、まさに浮世を抜き出たところだった。長い幕に括られた庭の中で、静かな自然を打ち破るかのように、声高らかな歌や囃子が辺り一面を一変してしまう。花見をする人とは、あくまでも縁側に座った少人数の面々だろう。これらの貴人を囲み、人数の上ではそれの数倍にあたる人々は、踊りを演出したり、食事の準備をしたり、駕籠を担いだあとの休憩をしたりと、それぞれの役目をもってこの行事を支えている。ただしそのような仕える人々でさえ、華やかな風景に溶け込んでいて、それを存分に楽しんでいる。

念のために書いておくが、この画面の半分を占める木は、桜ではない。だが、同じ屏風の右双はこの場面の続きを描き、そこにはりっぱな桜がいっぱいに満開している。

「花下遊楽図屏風」は、いま東京国立博物館本館(日本ギャラリー)にて展示されている。あわせてライトアップされた博物館の庭園では、「博物館でお花見を」との行事が開催されている。今週の日曜日までだ。

博物館でお花見を