2011年3月26日土曜日

弁慶の役どころ

学生たちと読む謡曲「船弁慶」。その続きを書いてみたい。

講義の最後の一節は、担当の学生に議論のテーマを作り、それをめぐりクラス全員が電子掲示板に意見を書き入れるというやり方を取る。今度、担当学生が掲げたのは、なんと「この謡曲と室町時代の精神との関連は如何に」という内容だった。このような問いをあえて持ち出す狙いが読みきれないまま、ともかく議論の行方を見守ることにした。

いうまでもなく、日本のことにさほど知識を持ち合わせていない学生には、この問いはあまりにも無謀だ。そもそも、室町時代の精神とはどういうもので、それが文学に反映するということはどういうものか、簡単に分かるはずはない。案の定、答えには、「わび」「さび」「禅」、はてには「武士道」や「五山」と、これでもかと教科書に見られるキーワードが飛び交った。果たしてなにを言おうとしているのか、議論を読んでいて、こちらが混乱するぐらいだった。

ならば、自分なりの答えを試みなければならない。ただ、それを為すには謡曲に向き合う経験はままりにも少ない。だが、それでもこの一曲だけは、なぜか一つの答えを持ち合わせている。それはすなわち中国文学の投影だ。これは、せりふに引用された中国故事などというレトリック・レベルのものではない。むしろ一つのまとまりをもつ表現においての、主役弁慶の役どころだ。この一曲の中で、弁慶はなぜか義経に進言を与える理想的な補佐の顔を担った。そこには、中国故事の色合いが感じられてやまない。すなわち一人の帝王を覚らせるために、忠を尽くす臣下の典型なのだ。このような弁慶の役作り、あるいは弁慶の文学造形の展開には、中国文学への憧れ、それに安易なぐらいの繰り返しが見て取れる。これこそまさに一つの室町文化のユニークな風景ではなかろうか。

2011年3月19日土曜日

べんけい

今週の講義テーマは、謡曲「船弁慶」。たしかに学生時代には能楽堂でこの演目を実際に見たものだと思うが、たしかな記録を辿るよしもなく、気持ちを集中してテキストに立ち向かった。こんなに短いテキストだとは言え、内容が多岐にわたり、講義のためにはむしろどこから削り取り、なにを省略するかを考えざるをえなかった。しかも、読み進めていくうちに、まったく関係ないものまで目に飛び込んできた。

110319なにげなく「弁慶」という条目を国語辞書で確認すると、そこには、現代生活に関連する使い方として、台所道具との一項があった。思わず目を凝らした。自分の語彙リスト、いやそもそもそれに対応する知識として、まったく持ち合わせていないものだった。はたして実際の生活のどのような場面で出会うものかと、首傾げながら読み返した。インターネットで調べてみても、一部に相当する画像はあるにはあった。いわゆる藁で出来た、伝統農家の博物館に陳列するようなものだった。対して竹の筒で出来たものだといわれる現代のキッチンに登場するだと言われるものは、つい見かけなかった。「べんけい」と表記すべきだろうか。考えてみれば、はなはだビジュアルなネーミングに違いない。「七つ道具」を身の上とする弁慶ならではのものであり、かれを勇姿を囲炉裏の傍でつねに思い起こし続けるということは、きっとどこか気持ちのいいものだったに違いない。

講義そのものは、残り時間二分のところで、ようやく「判官贔屓」を黒板に書き出した。若い学生たちには、それがどこまで通じたのやら、心もとない。いつものことながら、だれかが、将来いつかはためになったと思えるような、一つのタネでも思いに蒔いたとすればいいなあと、願いつつ。

2011年3月12日土曜日

人面蛇身

今週の講義テーマは、明の話本小説の一篇である。取り上げたのは、日本では「白蛇伝」で知られるあの話。中国では、それが杭州西湖にある雷峰塔の縁起話として有名だ。それも、現代の中国になって魯迅などの文人たちが伝統文化の最批判を込めて読み直し、それが高校の教科書にまで取り入れられたのだから、知名度が格段に高い。

110312話のハイライトは、いうまでもなく蛇の本身を見せたところにあった。蛇と人間との対峙という構図を基に、人間と異界、異界における道・仏・魔のパワー関係、人間世界の男女の間柄など、学生たちの議論はまさに活発で果てを知らない。中でも、担当グループの学生は、古典画像まで探し求め、頤和園の長廊に描かれた一こま(ウィキペディア所収)をクラスで見せた。このようなイメージになった白蛇は、もう無力で、どこか滑稽なぐらだった。蛇をまつわる伝説における日本の古典的な構図、たとえばあの十二類絵巻に見られるものを紹介して、読者の想像に合致するイメージとは、はたして人面蛇身か、はたまた蛇頭人身かと、学生たちに投げかけてみたら、案の定、かなり熱気を帯びる議論が沸きあがった。言うまでもなく、学生たちに興味を持たせられたが、これと言った答えを用意しているわけではない。

たしか半世紀前、ソビエトの科学者たちが熱心に取り込んだ研究の一つには、犬とロボットとの合体があったと聞く。そこにあったのは、まさに犬頭人身の怪物だった。あるいは、日本の構図こそ道理に適っているかもしれない。

ソ連の「ロボット犬」と「双頭の犬」研究

(週末にかけて、日本からは津波災害のニュースが伝わり、身辺では長年の同僚が病気で亡くなった。ご冥福を祈る。)

2011年3月5日土曜日

言葉の競演

新聞紙一紙をほぼ毎日アイポッドで読んでいる。今日のそれには書評が載り、そのタイトルの一つは、「言葉による鮮烈な絵巻物」。まったく関係ないが、今日は、まさに言葉と向き合い、さまざまな言葉を楽しんだ一日だった。

週末に入る今日は、勤務大学を会場に、学生たちによる所在地区の日本語弁論大会が開かれた。今年は20回と数えるこの年度行事において、今年は30名近い学生が五つの大学から集まってきて、中には、七時間におよぶ夜行バスに乗っての遠路参加者までいた。学生たちは勉強歴などに合わせて四つのレベルに分かれてスピーチを競った。スピーチのテーマは自由、発表時間以外はほとんどなんの制限もない。独自の発想をもとに自由に織り成す言葉だけでのコンテストだった。語られた内容は、それこそ夢、専攻、友人など学生らしいものから、家族、生まれや育ち、病気や悩みといった個人的な体験、ひいてはストーリ、小噺、法律の判例と話題が広い。幼稚にしてたどたどしい日本語の向こうには、たしかに豊かな若者たちのまぶしいぐらいの世界があった。

このような行事となれば、どんなに工夫をしても、受賞が叶えられるのはわずかな人数に留まる。長い間、苦労に苦労を重ねた学生たちの多くが、けっきょくは手ぶらで行事会場を後にするのを目にして、組織者としてはどこか心苦しい。でも、学生たちは、実にりっぱに対応している。受賞など結果如何と関係なく、若者たちには習うものがあったんだと、なぜか感じられて、胸をなでおろす思いでいた。

20th Alberta Japanese Speech Contest