2012年10月28日日曜日

オープンページ批評

121028週末にかけて、二つも発表が重なった。一番目は、普段の同僚たちが聞いてくれるような集まりである。月に一度のベースで長年続けてきたもので、各自の関心事や研究報告など気楽に語り合う場である。とりわけ研究休暇を終えた人なら一度はここで過去一年のハイライトをみんなと分かち合うことがささやかな伝統となっている。そのようなことで、夏までの日本滞在の経験やそこから習ったことを取り上げてみた。

話の勢いで、自然と日本を代表する図書館、美術館、研究所などのサイトを取り出し、あれこれと同僚たちに見せてあげた。聞く人たちはほとんど日本語を知らない。そこで、サイトの内容はさておくとして、たいていのオープンページには簡単な英語の説明が入っていて、大いに助かった。だが、議論する時間になって、まったく期待もしなかった質問が一つ出てきた。いわく、あれだけの中身を誇っているリソースのラインアップなのに、どうしてほとんどのもののオープンページのデザインが、あれだけ無造作で、丁寧に作り上げたような印象を持たせないのだろうか。はなはだ心外な質問で、一瞬答えに窮した。なにはともあれ、そもそもどうしてそういった批判が成り立つのだろうか。即座の対応として、一つの答えを試みた。英語圏で多くのユーザーに慣れ親しまれた一流の企業、一世風靡した検索エンジンなどとなれば、どれも万を単位とするアクセス数を毎日のようにこなしているのだ。その分、どれもそのオープンページは、それこそ試行錯誤を重ね、考え抜いたデザインとなっている。しかもその使われ方は真剣に観察され、敏感に修正されている。それらを指標にすれば、公共的な性格の強いリソースの数々は、言葉通りにいまだ道のりが遠い、といったところだろう。

しかしながら、公共的なリソースには、良質なユーザが着いている。そのようなユーザーの声を積極的に汲み上げること、そのような仕組みを案出し、確立させることは、まず踏み出すべき第一歩だろう。すぐに思いつくことに、書評ならぬページ評、デジタルリソース批評といった交流、議論の場を用意すべきだとのことである。現実的な課題だ。

WiP Talks (2012-10-26)

2012年10月20日土曜日

カナダの紅葉

暦の上で秋はだいぶ深まった。去年のいまごろを思い出せば、紅葉狩りがまだ早い、いやもう十121020分だと議論を繰り返し、はてには一人で山に入った経験までしていた。しかしながら、住んでいる都市には、例年では秋がない。その中で、今年に入って初めてすっかり秋らしい気候に恵まれて、いささか感動を覚えた。ただカナダのシンボルである楓の木は見つからず、先週出かけてきたオタワから狩りてきた紅葉を写真に納めた。

それにしても、仕事が集中するいまごろだ。日常の講義や授業に加えて、新規の研究プロジェクトの予算申請、新しい事業の計画、ゲスト授業や研究発表の準備、来年度の語学研修参加者の募集、今年度卒業を迎える学生のための推薦状、などなど、簡単に考えてみても、これだけのリストになってしまう。そしてリクリエーションもいよいよ冬バージョンに突入しなければならないが、好天に恵まれた分、室内への移行は、なかなか時期を見定められない。

秋は収穫の季節だとよく言われる。もうとっくに農業の社会ではなくなったものだから、あくまでも比喩的なものだ。とは言いながらも、二日ほどまえ、冬に提出した研究論文が活字になって発表され、雑誌や抜き刷りが研究室に届けられた。すなおに嬉しい。同じ分野で切磋琢磨する研究者と日常的に会話を取り交わす機会がなく、いささか踏み込んだ発言をしたとの実感は掴めきれないでいる。だが、自分にとっては絵巻読みの一つの区切りを纏めたもので、大事にしたいものである。

「絵巻の文法序説」

2012年10月14日日曜日

デジタル著作権

例年のように、大学が始まったら学期末まで一気に走り抜く。そのため、学会に出ることなど、せいぜい一回ぐらいが限度だ。今年のその一回だけの集まりは、この週末にかけてオタワで開催されたものだった。久しぶりに会う研究者たちとの会話など、いつもながら実り多いものだった。
 
いろいろ出てきた話題のなかには、あのデジタル著作権のことがあった。今月一日から発効するようになった、いわゆる「違法ダウンロード」のことである。どのような経緯によって出来上がったのかは今になっても詳らかに伝わらず、内容もあれこれと理解に苦しい。あえて言えば、根拠も熟慮もなければ、その上有効性だって疑わしい。すこしでも後ろ指を指されたくないという、潔癖と表現したくなるような倫理感覚だけが必要以上に目立つ。しかしながら、それの裏に隠されがちな問題はけっして少なくない。その最大な落とし穴は、有意義な知的生産を妨げる結果になりかねないことだ。はたして話によれば、一部の私立大学などでは、教員には校内ネットワークでのダウンロード機能停止、クラスではダウンロード資料を一切使わないとの内規が出されたと聞く。「違法ダウンロード」は、いつの間にか「ダウンロード違法」に化けてしまった。機関の運営の立場から考えれば、拡大解釈、過剰規制だと非難されようと、そのような対応は一番簡単で安全だろう。ただそれによって生じた結果、有効な資源が使えなくなるとの実害は、どう考えるべきものだろうか。これを明らかに問題視し、しっかりと議論しなければならないと思う。
 
学会では今年もデジタル関連でささやかな発表をした。直後の質疑応答において、ユーザーの所在、協力体制、技術のスタンダード、研究者の役目など、さまざまな話題が出てきた。そしていささか言葉が必要とする著作権のことだけは、発表の席で答える余裕がなかった。そのため、ここに短く記しておく。

JSAC 2012 Annual Conference

2012年10月6日土曜日

挿絵に辿り着くまで

今週の授業の一つには、中国の古典を英語で読むとの内容があった。課題にあがったのは、明の白話小説『警世通言』の一話である。ストーリの内容もさることながら、それを伝える挿絵の画像をめぐって、楽しい経験が一つできた。

関連の解説などを読んだら、早くから江戸の書き手に翻案ものまで産出させたほどの名作だが、明のころに出版された底本は中国で早くも散逸し、三十年代になって熱心な研究者がそれを写真に収めて日本から持ち帰って活字印刷し、ようやく現代中国の読者にもたらしたとの美談が伝えられている。いまやそれは電子テキストの形で広く読まれている。しかしながら、明の底本には、四十の物語にそれぞれ一枚ずつの挿絵が添えられている。どうしても見てみたいものだが、中国側の資料ではなかなか見つからない。明時代のもので、それなりに貴重なはずだ。ただ上記の伝来経緯を思い出せば、よい印刷が望めない。古典美術の一環としての木版版画シリーズなどから当てて見るとのアプローチも考えられるが、気が遠くなるような作業である。

半ば諦めたところ、思わぬ形で嬉しい答えが湧いてきた。同じ底本は早稲田大学図書館に所蔵されていることが紹介された。「古典籍総合データベース」のことを調べたばかりだった。日本の古典ばかり注目していたが、中国古典の存在も見逃せない。さっそくカタログにアクセスし、目指すものはあっけなくモニターに飛び込んできた。

121006いうまでもなく同じ絵をさっそく教室に持ち込んだ。ストーリの説明になったばかりではなく、版本の姿までちらっと見せられて、すくなくとも数人の若者の興味を確実に誘った。一方では、絵の内容をめぐって、自分の好奇心がしっかりと満足できたことも付記しておこう。ストーリの主眼となる「山亭児」とは、はたしてどのようなものなのか、英訳を読むまで見当がつかなかった。しかし、絵はそのような疑問を完璧に答えてくれた。まさにこれ以上ない最高の図解だった。

学生時代、先輩たちに見よう見まねで古典の勉強を始めたころの思い出の一つに、数ある現代注釈のシリーズの内容や性格を理解し、記憶すべきだというものがあった。時代が変わり、いまならそのようなシリーズに加えて、デジタルリソースにもしっかりと目を配るようにしなければならないのかもしれない。

『警世通言』(第三十七話)挿絵(早稲田大学図書館蔵)