2008年8月30日土曜日

音読・福富草子絵巻(未完成版)

絵巻の詞書を朗読し、目だけではなく、耳も参加させて中世からのストーリーを楽しんでもらうというささやかな試みは、インターネットを通じて実行し、これまで四つの作品を取り上げてきた。ここにきて、これを小さなシリーズに仕立てて「音読・日本の絵巻」とのタイトルを冠し、新たに五作目を付け加えた。現代語訳など、半分ほどの予定がいまだ作業中だが、未完成版の『福富草子絵巻』である。

今度の絵巻の底本使用には、一つの特別なところがあった。『福富草子絵巻』は、立教大学文学部図書館所蔵の貴重書である。同図書館の特別な配慮により、作品の撮影のみではなく、それのデジタル画像の処理とインターネットへの掲載を許可していただいた。そのため、上下二巻計二十六段、あわせて約六千文字を朗読した録音ファイルに加えて、絵巻の画像を一連の動画ファイルに作成した。詞書の原文朗読において、文字の部分だけを取り出して、朗読にあわせて対象の文字を一行ずつライトアップするという形を取って、音声と文字との対応をデジタル的に提示した。

文字は、まずそれが対応する情報を伝えるものだ。しかしながら、時代が変わり、同じ情報でも使われる文字が大きく変容した中で、文字そのものが一種の画像としての特徴を強くした。したがって、文字を画像処理の対象とし、それを一つのビジュアル資料として見つめるということは、どのような結果に繋がるのだろうか。あえて言えば、おかげで文字テキストの見逃されがちな性格が余計に浮かんできたことだ。この立教本には、数はそう多くないが、詞書の空白や、段落の途中に文字が切れるなど、いくつかの問題点が指摘できる。それと関連する形で、少数でやや極端だが、文字を絵のように描いたのではないかと疑わせるような書き方(描き方)があった。絵師あるいは詞書を書写した者がもつ文字についての知識、ひいては教養のレベルを考えさせられずにはいられない。問題のありかはちょっと大きい。ここではとりあえず漠然とした印象だけを記し、しっかりした専門的な考察が現れてくるのを心待ちしたい。

朗読を聴きながら中世の文字をじっくり眺めていくということ、いわゆる変体仮名のことを知っていても、あるいはまったく予備知識がなくても、楽しい経験のはずだ。ぜひ試していただきたい。ちなみに、サイトのデザインなどの理由により、オンラインで見る動画のサイズをわずとやや小さく限定した。その代わり、ハードディスクに保存してより大きいサイズで見てもらうために、ダウンロードのリンクを用意してそれぞれのページに添えた。

音読・福富草子絵巻(未完成版)

2008年8月23日土曜日

衣をかづく

絵巻『福富草紙』の中心テーマは、いうまでもなく屁、あるいは放屁の芸だ。だが、これに付随するもう一つの隠されたテーマがあった。それは今日のそれとはかなり様相が違う衣だ。

もちろん人間さえ登場すれば、きまって衣をもって身をまとう。違う色、生地、スタイルの服は、そのままそれを着る人間の立場を伝えている。しかしながら、贅沢なアイテムとしての衣は、つねに身にするものとは限らない。『福富草紙』において、それを伺わせる典型的な様子は、秀武老人が始めてかれの特異な芸を披露する場に認められる。そこの中心人物は、家族に囲まれた一人の陰陽師だった。りっぱな巻物をはじめとする文房具、豪華な屏風、床に敷いた畳など、もろもろの調度の気品を引き出したのは、無造作に掛けられた一枚の真っ赤な衣だった。まさに主人の裕福ぶりとその高い社会の地位を象徴するものだった。

そこで、秀武老人の一番の晴れ場が繰り広げられた。中将殿の家人に呼び止められ、中将宅に招かれたかれが、大勢の貴人や女房たちに見守られて、懸命に腰を振るって得意の芸を披露した。やがて、大いに気に入った中将殿が、声高らかに「その紅のきぬ(衣)、かづ(被)けよ」と指示を出した。(写真。立教大学文学部図書館蔵『福富草子物語』上巻第九段より)これに答えて、家人の一人が恭しく両手で差し出したのは、まさに紅の衣だった。先の陰陽師宅のものとはっきりと照応していて、それがいかに上等なものか、読者がすぐに気づくはずだ。

絵巻の中で、ストーリーのハイライトは引き続き衣に当てられる。秀武の栄華を見て、福富は、妻に唆されて、同じく衣を狙おうと奮起する。けっきょくは、幸運をひき寄せることが出来なかったどころか、大きな失態を演じて、こてこてにやっつけられた。傷だらけな格好を街中に曝け出しただけではなく、これを遠くから覗いたかれの妻は、「色々の御ぞ(衣)ども、かづ(被)きて」帰ったと勘違いして、歓声を上げながら、古い衣を焼き捨てた。おかげで福富は着る服もないまま震え続けて、また一つ失笑を買う失敗を演じてしまった。

「かづく」とは、「肩に掛けさせる」こと、さらに衣の贈与に関わる表現として、「(賞品を)与える、授ける」ことを意味する。ただし、『福富草紙』において、衣は差し出されたり、頭に載せられたり、あるいは床において広げられたりしたが、人の肩には一度も乗せていない。しかしながら、たとえば平安時代の説話などでは、褒美に衣をもらって、鷹揚した格好で内裏から戻ってくるとの描写が多く登場した。画像に描かれたものとしては、『後三年合戦絵詞』に、地方の武士次任が義家から紅の衣を授けれるとの場面があり、衣がまさに肩に掛けられていた。

「衣をかずける」という、王朝文化におけるいたって象徴的な表彰や贈与の儀礼が、秀武・福富という一篇の哄笑を伴う物語において、この上ない即物的なものに変身し、その結果、衣が日常生活に引きずり下ろされたと言えよう。

2008年8月16日土曜日

現代生活の「画巻」

オリンピック開幕式のおかげで、中国で絵巻ならぬ「画巻」がいまや多大な注目を集めている。ならば、もう一回画巻のことを書いてみよう。去年の秋には、一つの現代語彙としての「絵巻」のことを取り上げた。(「現代生活の絵巻」2007年10月17日)それに倣って、中国での現代生活で「画巻」とはどのような位置を占めているのか、考えてみよう。

個人的な印象としては、「画巻」が日本語における絵巻より遥かに用例が少なく、とてもポピュラーな地位を得ていない、さほどスポットライトに浴びていない、とのものだった。しかしながら、実際に調べてみたら、必ずしも簡単にそれで片付けてしまうものでもなさそうだ。たとえばYAHOO!の中国と日本のサイトにこの二つの言葉をそれぞれ入れたら、5百万と7百万のヒットが出てきて、一応は同じレベルの用例があると言える。それらの中味を見ると、さらに絵巻と同じような使用法あるいは活用法が認められる。

いくつかの実例を見てみよう。

「画巻」は、同じように抽象的な比喩に用いられていた。『夜宴図』といった、有名な屏風絵にかたどった古代の宮廷生活を披露する小説のみではなく、現代生活を描く作品まで、衆生相を俯瞰するとの特徴を訴えるものとしてこの言葉が選ばれた。いうまでもなく、そこに古風で優雅な画巻との認識が隠されている。さらに、政治的な行事から単なる新商品のアピールにいたるまで、ほとんどなんの文脈のつながりもなくこれが持ち出されたことがある。それがわずかに写真の寄せ集めであったり、「田園画巻」と名乗ったさまざまな模様をもつフローリングの材料だったり、あるいはポストモダン的な奇抜な写真のコレクションだったりする。中では、「傑出歴史人物郵票画巻」という歴史人物を対象とする切手の特別テーマ集なら、言葉選びにまだ同感が得られるが、「鬼画巻小遊戯」となると、日本発のテレビゲームから敷衍して生まれた、日本語的な造語をそのまま中国語に直したのではないかと錯覚するぐらい、中味と表現とのちぐはぐを感じさせられる。

一方では、画巻の姿を心の奥に留めておいた、しかもそれを形にする努力をじっさいに体を張って試みたとの出来事も報道された。たとえばオリンピックを迎えるために、繁華街の歩行者天国をスタジオに見立てて、子どもたちによる百メートルにおよぶ巨大な絵巻を描かせる。日本でも繰り返し見かけられるような風景ではなかろうか。

このようなさまざまな画巻が飛び交う中で、じっさいの巻物はいまなお姿を留めているのだろうか。どうやら完全に忘れされたものではなかったようだ。現代の作家たちが「中国古代百名文化名人巨幅画巻」となるものを新作してそれを競売に送り出し、あるいは「円明園四十景図」という30メートル近い清の時代の作品を限定複製して愛好者の心をくすぶる。画巻という作品形態がもつ魅力を見据えての、巻物の再生産にほかならない。

ちなみに、以上のような漫然としたネットサーフィンも、予期せぬ古典との出会いをもたらした。「張勝温画巻」という題名がはじめて目に入った。1180年の作だと伝えられ、仏教の興隆を記録したものである。興味深いことに、巻物全体は134「開」、すなわち伝来の間にかつて巻物から折本に仕立てられていたとのこと。「巻物の変身」(2008年2月24日)において触れていた日本での巻物の実態を画巻でも確認できたことになる。

2008年8月9日土曜日

オリンピック開幕式の絵巻

北京オリンピックの開幕式は無事に終了した。一大イベントを伝える地元のテレビ放送は、朝五時から始まり、いつになく早起きして、テレビの前に座ってこれを満喫した。

盛大なショーのテーマが絵巻だと、事前に分かっていた。それにもかかわらず、絵巻がここまで主役を張ったとは、やはり驚いた。巨大な巻物の真ん中に白い紙が敷かれ、まるで一点の墨となった人間が、手だけではなく、体全体を使って絵を描いていくことをもってショーが始まり、絵巻全体がスポットライトを浴びながら、途中、巨大な画面が垂直に吊り上げられたり、宮廷を象徴する柱が聳え立ったり、荒波が飛び交う海と変身したりして、まさに豪華絢爛、言葉その通りのものだった。しまいには、絵巻の画面が突き出て、選手宣誓のためのエレガントな舞台に早変わり。まさに絵巻との発想が得られたことで、巨大なショーの全体の構想が得られたという感じだった。

しかしながら、肝心の絵巻としてこれを見るとなると、どうだろうか。舞台ショーだと分かっていても、一つの古典文化を理解する、再現するという意味で、それがわれわれの知識と常識にどれだけ合致しているのだろうか。結論から言えば、そこにあるのは、いかにも中国の絵巻であり、日本のそれとの距離が面白いぐらい出ていた。それの終極的な表現は、出だしの、絵巻が開かれるという瞬間に集約したと言えよう。紙が作られ、巻物が仕立てられるという短い画像がスクリーンに映されて、その間に千人規模の出演者が入れ替わり、スタジアムの中に出現したのは、おもむろに開かれる大きな絵巻だった。巻物の両端の巻き軸が目が眩むほどに輝きながら巻き拡げられた。しかしながら、それがまるで大きなドアが両開きするかのように左右の方向へと同時に開かれていった。絵巻を見慣れた人には、目を疑うような光景だった。これって、古い巻物が保存された状態から披かれるというはずがない。ならば見やすいように事前に用意された巻物、といったことだろうか。それだとしたら、連続する画面のつぎに移す場合は、どうしたらよいのだろうか。読者が一旦目を逸らすようにすべきだろうか。考えるほどに困惑してしまう。

いうまでもなく、大事な読者を中心にして、行き届いたサポートをしよう、という設定だといえば話は簡単だ。だが、そのような用意できるかどうか、読者のためにどれだけ贅沢な環境を提供するか、という内容のことではない。巻き軸が同時に両側へ開かれていくということは、それを見る目が自然に画面の中心に据えられ、そこから広がっていくということを意味する。一枚の絵を見るならいたって正当な眺め方だろうけど、一組の絵の続きとなれば、いかがだろうか。

じつは、中国と日本の絵巻との差異はと聞かれ、これまでいくつかの場で述べてきたが、それが、絵によるストーリの伝え方にあるものだと考える。さらに言えば、中国絵巻の名品の多くは、どの絵を取り出してみても、そのまま一枚の絵として丁寧に観賞することに耐えうるような構図をもつ。読者の立場から言えば、次から次へと展開してくる絵の流れを、半ば予期しながら興奮して目で追うという日本絵巻の楽しみ方に対して、中国の絵巻は、どうしても襟を正して、絵の前に背を伸ばして座り、それをじっと見つめることが望まれるみたい。絵師の工夫も絵の構想も、それを前提にしているとしか思われない。

北京オリンピック開幕式への中国のマスメディアの賛辞も観客からの感嘆も、まさに「山水画を見る思いがする」というものだった。ステージの構想が得られたとしても、物語を表わす絵巻より、抽象的な審美が要求される掛け軸の絵が上位にあるものだと、そのような潜在的な美意識が根強く働いていると言えよう。

2008年8月3日日曜日

絵巻と画巻

去年の秋、一度中国の絵巻のことを書いてみた。(「中国の絵巻」2007年11月21日)「画巻」という言葉で呼ばれる同じ巻物は、中国の伝統において確実に存在し、しかも千年前の作品が、原本の一部あるいは後世の模本の形で伝わっている。

絵巻と画巻。おそらくこの二つの言葉のありかたがすでに両者の距離を物語っている。その成立において中国の文化といかなる交流があったにせよ、「え・まき」と訓読をもって読まれることは、それが日本における展開する経緯を端的に示していよう。

興味深いことに、絵巻も画巻も、ともに作品が実際に作成された当時の言葉ではなく、作品がすでに古典になった後の時代において、人々が新たに付け加えたものだ。しかも中国も日本もその言葉の形成の軌道までかなり近い。日本の絵巻は、「○○絵」と呼ばれ、中国のそれは「○○図」と記録されていた。思うに、その当時において、紙を媒体に情報を記録する場合、巻物が一番基本で普通なので、わざわざ「巻」とことわる必要がなかったのだろう。「絵」あるいは「図」という呼び方は、いうまでもなく画像が眼目だということを強調している。そこで冊子本の書物が主流になってから、はじめて巻物という一つ前の時代の形態が問題となり、ジャンル名が生まれて、それの特徴がクローズアップされるようになった。

一方では、程度の差こそあれ、現代の生活における絵巻の展開も妙に同じ方向に向いている。日本での絵巻の現代風の用例は周知の通りだ。地方の祭りなどあれば、その規模の大小を問わずすぐ絵巻だと名付く。似たような用例は、中国語の表現では、数こそぐんと少ないが、抽象的にこれを捉えて、象徴的に古風で美しいものを表現するの用いるということでは、まったく同じだ。日本語では「時代の絵巻」と愛用され、中国語では「歴史画巻」が一つの定番の用語となる。

いよいよ数日後にやってくるオリンピックの開幕式。それのハイライトはまさに「画巻」だと聞く。個人的な目撃情報やリハーサルの場外風景などかなりの数の個人的な見聞がインターネットに書き込まれたばかりではなく、メディアもすでに報じている。どうやら中国の文化伝統を表わすべく、実物の絵巻の形を模る台が用意され、最先端の技術や曲芸を駆使するとの演出らしい。その出来栄えが如何にせよ、中国絵巻の認知度が高まるであろうことは、なんとも有難い。

巨大「絵巻」で歴史再現か(共同通信)