2008年12月27日土曜日

「芸画」と「術画」

年末に差し掛かり、ひさしぶりに目的もなく漫然と読書する時間を持った。今度は中国古代の絵画にまつわるものに目を向けた。いわゆる「画論」というジャンルのもので、たとえば宋の時代に限定していても、優に十点を超えるものがあり、無心に読んでいて、実に楽しい。「画論」と名付けられるものだから、絵画についての論理的な叙述だと襟を正して取り掛かるべきものだが、しかしながら、読んでいて、なぜかもっぱら中国バージョンの説話と見えてならない。あえて言えば、日本の説話よりさらに文字数が少なくて、簡単なものだが、ストーリの輪郭を想像をもって補いながら、豊穣な世界である。

たとえば、あの有名な『図画見聞志』(郭若虚)から一つ取り上げてみよう。

その巻二は五代の画家九十一名の名前とそれぞれの事績を短く書きとどめた。中には、厲帰真という道士のこと、とりわけその「異人」ぶりがあった。酒飲みなどのことに続いて、絵の上手なことに触れる。それは、つぎのようなエピソードに結ばれる。住んでいるところが雀や鳩の糞などに汚され、鳥への退治を工夫せざるをえない。そこは絵師らしい対応が見事だ。雀や鳩の天敵である鷂(はいたか)を壁に描く。それだけで糞害がぴたりと止まった。言うまでもなく絵の出来栄えの並々ならぬことを物語るもので、いかにも中世的な驚異の視線が感じられて、微笑ましい。

そこまではよかったが、しかしながら、同じ『図画見聞志』を終わりまで読み進め、その巻六の最後の一話を目にするに当たり、思わず唖然とした。それのタイトルは、「術画」。やや長い段落となり、いくつかの逸話が採録されたが、その中の一つはこうである。ある評判の高い「術士」が皇帝のために鵲(かささぎ)を描けば、俄かにもろもろの鳥たちが賑やかに集まってきた。続いて黄筌という絵師に同じ鵲を描かせれば、鳥が一羽も飛んでこない。不思議になった皇帝が黄筌に問いただして、つぎのような答えが戻ってきた。「臣所画者芸画也、彼所画者術画也。」すなわち、自分とあの術士との区別は、「芸画」と「術画」の差にあり、しかも自分の芸画こそ、術を何倍も上回ると誇りを持って主張したのである。この答えには、皇帝が共感できただけではなく、同じく絵師たちのことを集め記した作者郭若虚も自ら従うと宣言した。したがって、作者がこの記録をつぎのように結んだ。絵師の出来栄えとして、描かれた人間が実際に壁を越えたり、美女が絵から出てきたり、水の中の色彩が現れたり、あるいは霧の向こうに竜が飛んでいくといった伝説は多いが、いずれも「方術怪誕」であり、その故、書き記さない、とか。

ここまで読んできて、さきの鷂のことが分かったと油断した矢先に、まさに不意を撃たれた。作者にとって、実は数々の突飛な逸話を、超自然だということで切り捨てたのだ。まるで近代の科学的な構えではなかろうか。しかも時が流れ、千年も近い後の現代において、術が濾過され、淘汰されて、消えてしまったせいだろうか、芸と術との対立も忘れられ、それどころか、それが「芸術」というあらなた造語として生まれてきたものだ。まさに不思議な世界である。

郭若虚『図画見聞志』

2008年12月20日土曜日

竹崎季長の上訴

前回の話題の続きを書いてみる。

同じ講義で取り上げる日本の絵巻は、『蒙古襲来絵詞』に決めた。長い作品なので、その全部ではなく、竹崎季長の鎌倉出訴の経緯を記す上巻の五、六、七段のみ取り出し、これを機会にこの絵巻の大作をじっくりと読みたい。

改めて記すまでもなく、『蒙古襲来絵詞』は、竹崎季長が企画し、作成させ、かれ自身を主人公に据えた一種の私的な記録である。十三世紀後半に起こった二回の蒙古来襲の合戦では、季長がそれぞれ二十八歳と三十五歳という年齢であり、絵巻の奥書の日付は、最初の合戦から十九年あとの、季長が四十七歳になる年である。

前回に書いた絵巻の特徴、すなわち絵と文字との成立関係上の距離ということから見れば、『蒙古襲来絵詞』はちょうどそれの反対に位置するものであり、そのような特徴を反論しようとするならば、まっさきに想起されるものである。この作品において、文字によって表された世界がさきに存在し、あるいは語られていたとしても、それが確実に文字の文章に集約されるようになったのは、おそらく絵の成立と同時になるのではなかろうかと思われる。そのような理由もあるのだろうか、絵巻の文章は、丁寧に構想され、洗練されたものではなく、むしろ記録者のいまだ醒めぬ興奮をそのまま伝えようとした、生々しい臨場感にあふれるものだった。

たとえば、必死の思いで鎌倉に出かけて、ようやく肥後の守護・安達泰盛との対面が適えられた季長と安達との会話が、その典型的な実例だろう。二人の会話は、詞書として八十行も超えた長い文章となり、その中では、それぞれのありのままの発言として、十回のやりとりが繰り広げられた。中には、安達のつぎのような質問があった。

「ぶんどりうちじにの候か」(敵を生け捕りにしたり、殺したりしたのか)
「候はではかせんのちうをいたし候ぬ。てんきずをかぶらせ給候とみえ候うへは、なんのふそくか候べき」(それがなければ、合戦でのあたりまえのことをしただけで、恩賞のこと、どうして不満があるのか。)

季長の一図で、前後構わない訴えに対して、鋭くて要領が得て、しかも戦場の武士の気持ちをしっかりと受け止めた会話は、心を訴えるものだった。

いまでこそ『蒙古襲来絵詞』は、過ぎ去った歴史をビジュアルに記録する貴重な資料になる。だが、絵巻の後書きによれば、これが作成された理由は、あくまでも甲佐明神の神恩への感謝だった。そこでつぎのような素朴な質問がどうしても頭を過ぎる。そもそも絵巻というスタイルがここに用いられる必然性がはたしてあったのだろうか。竹崎季長と豪華な絵巻との繋げたのは、いったい何だったのだろうか。さらに言えば、専門の人の手に掛からなければとても作れない、いったん出来たものは簡単に複製できないというメディアの性格がどこまで働いたのだろうか。文字の、そして絵の饒舌さとともに、いつでも考えを誘ってくれる。

2008年12月13日土曜日

孝経・孝経図

十二月の最初の週をもって今学期の講義が終了し、先週の一週間のほとんどの時間は、来学期の講義資料の用意に費やした。一月からは、三年ぶりに「英語で読む中国と日本の古典」を担当する。中国語と日本語の三年生の学生たち約30名を一つの教室に集めての、やや変則なクラスであるが、毎回、違う作品を選んで、学生たちといっしょに読む。作品の選定はようやく終わった(Chinese/Japanese 461, 2009)。英語での翻訳や研究がある程度行われているということが必須条件の一つだったので、今度は、中国の絵巻一点、『孝経図』を選んだ。

『孝経図』は、北宋の宮廷画家李公麟(1041-1106)の作だとされている。いまはニューヨーク・メトロポリタン美術館に所蔵され、中国の古代絵画を代表する至宝の一つである。『孝経図』が描いたのは、いわゆる二十四孝といった孝子説話ではなく、それよりもさらに根源なものとしての『孝経』である。『孝経』の十八の章をそれぞれ一図にし、文章と絵が交互にセットになる。現存は十五図、うち二図が入れ違いの錯簡だと指摘されている。

絵巻の特徴を並べあげるとき、つねに触れられるのは、絵巻の作品、すなわち絵に描くという活動それ自身と、描かれる内容との相互関係だ。言い換えれば、絵巻の作品の多くは、それまですでに存在していたストーリあるいは文献資料を取り上げ、読者たちがすでに熟知しているということを前提にして作品の構築が始まり、絵の参加によって一つの新たな達成が得られるということである。多くの場合、文献資料の存在と絵による作品の成立までには、百年も超えた時間的な経過があり、絵巻の読者たちには、それまでの古典がビジュアルになって現われたということになる。これを絵巻作品の特色の一つだとすれば、『孝経図』は、まさにその極端な作品となる。描かれる対象は、絵巻の成立までには、はるか千三百年以上前のものであり、しかも「経」として、その時代の政治、文学、社会生活の規範になったものだった。文字と絵との距離となれば、気が遠くなるようなものだとしか言いようがない。

メトロポリタン美術館のサイトには、この『孝経図』をめぐる簡潔にして丁寧な解説が載せてある。その中では、絵師李公麟は、かれの時代に一つの革命をもたらしたとして、詩、書、音楽などに並んで、絵を自己表現の方法とたらしめたと述べる。いかにも宋の時代の文人たちの考えを伝えている。一方では、時間にして約千年が経ち、人間の能力としては絵の模写でさえ思うとおりにできない平均的な現代の読者として、今日のわれわれは、絵からどれだけのことを読み取れるのだろうか。

これをじっさいに教室で取り上げるのは、来年の三月後半になる。若い学生たちはどのように取り掛かってくれるのだろうか、いまからワクワクしている。

Classic of Filial Piety (The Metropolitan Museum of Art)

2008年12月6日土曜日

パピルス(papyrus)

前回取り上げた獅子博奕の絵は、パピルスに描かれたものだった。その「パピルス」とは、植物の名であり、そしてそれを用いて作られた古代エジプトの記録媒体のことであった。膨大な数に及ぶエジプトの古文書は、このパピルスに記されて今日に伝わり、無限に思われる時空を超えて遠く失われた文明をわれわれに語り続けている。

ここに、さほど言語の知識がなくてもすぐ気づくことだが、パピルス(papyrus)とは、ほかでもなくペーパー(paper)、すなわち「紙」その言葉だ。古代中国文明の代表格のものである紙は、このパピルスと比べれば、言うまでもなく遥か年輪の新しいもので、記録媒体としては、遠い後輩にあたる。これをめぐり、日本語版のウィキペディアは一つ非常に味わいのある説明を施してある。曰く、「中国で発明された紙を基準に」考えれば、パピルスとは「正確には紙ではない」。言い換えれば、紙というものは、ペーパーとは本質的には異なるが、八世紀前後に西洋に伝えられてからは、やがてペーパーという名前を乗っ取り、ついにはパピルスそのものを廃れさせ、それに勝るものとして西洋の文明に溶け込み、貢献するようになった。

このようにして言葉を対象に取り上げると、中国語の「紙」そのものについて自然に考えが及ぶ。漢和辞書などを調べれば、すぐつぎのようなことが教わる。紙とは、材料(製法)にかかわる糸と、音を表す「氏」からなる。「氏」とは「匙」の象形であり、薄く平らなものを表す。その通りだろう。一方では、この「氏」の音からは、どうしても「祇」を思い出す。『詩経』など古代の文献にすでに用例があったように、「ただ」「単に」など、限定する意味合いを含むのだ。やや突飛な言い方かもしれないが、古代中国語の語彙群の中において、「氏」によって示された言葉の位相は、たとえば日本語における「カミ(上、神、髪)」とは、大いに違う。紙とは、古代日本における外来の、貴重な物品であるものに対して、中国の伝統において、書写の媒体の王座に登りつめるまでには、あまりにも長い道のりがあった。亀甲、竹簡、絹、そういったものの名前を想起するだけで十分だろう。そのような歴史の中において、紙という新出のものが、記録媒体としての確実な地位を獲得ためには、きっと想像を超えた曲折があったに違いなかった。

「紙」という人間の発明を出発点に考えれば、一つの文明の縮図が見えてくる。簡単に破られてしまいそうな、ひ弱な物質だが、それが「神」と同音(同等?)のものに祭られ、それまで千年を単位に存在していたものを最終的に取り替え、言葉の中味まで入れ替えさせたということは、ほかでもなく一つの優れた技術のなせ業ではなかろうか。

友人の家の居間には、エジプトの旅行からのお土産である複製パピルスの絵が飾られている。観光用のものらしく、家族一人ひとりの名前などを古代エジプトの絵文字で書き表している。古代文明へのあこがれと、かつてそのような文明をもった人々の誇りを象徴的に伝える心温まる風景だ。

2008年11月29日土曜日

獅子の博奕

ハーバードの学会から戻ってきて早くも一週間が経った。学期末にかけての日常の仕事や生活に没頭して、慌しく感じる毎日だが、それでもあれこれの思い出が不思議なほどに記憶に入ってくる。その中の一つを記しておこう。

予定していた発表の日の朝、やや早くロビーに下りてきたら、何人かの先生方はすでにソファーに腰掛けていた。ゆったりしたコーヒーテーブルの上には、宿泊客のために寛ぎを図ろうとバックギャモン一式が置かれてある。思わず手を出して駒をいじり、素朴な質問が口から出たら、一人の教授がさっそく簡潔にして要領のよい説明を始め、実演をしてくれた。一座は、いつの間にかバックギャモン講習会のようなものとなった。その日の発表のテーマは、ハーバード本の白鼠弥兵衛、しかもその底本の最後を飾る画面は、まさに鼠たちの双六。ボストンの地で、双六ならぬバックギャモンを手にした、なんとも贅沢な研究発表への助走だった。

さて、動物と盤上ゲーム、日本のものなら『鳥獣人物戯画」はじめ、見慣れたものとさえ言える。そこで、西洋のものを一つあげてみよう。古代エジプトの第20王朝(Twentieth Dynasty)のものだとされる、紀元前11世紀の作品だ。これを所蔵しているイギリス大英博物館の説明は、パピルス(紙)古文書に書かれた諷刺画とある。三千年も前のものとしては、驚くぐらいの保存状態だと言えようが、限られた情報からは、これが双六でもバックギャモンでもないと分かるにしても、はたして現在のチェスなのか、それを実証するような手がかりは十分でない。そもそも獅子の左手(爪)にはたしてなにかを握っているのやら、まさか筒ではないだろうが、それがゲームの一部なのかどうかさえ、いまのところ知りようがない。

いうまでもなく、三千年前だから、動物たちがかつて文明を持っていた、思考の象徴である盤上のゲームを楽しめていた、あいるは荒野を走り回るのではなく、室内の椅子に腰を掛けていたとは、絵を教えていない。動物たちの行動は、あくまでも人間世界の様子を表現して、なんらかの意味深いメッセージを送ろうとしていた。それの解明は、いま手に負えないが、少なくともハーバード本に見られる弥兵衛の子孫が楽しんでいた双六とはまったく異質なものだったことだけは明らかだ。弥兵衛の場合、それは裕福な生活の記号であり、言ってみれば、絵画的な、あまりにも絵画的な表現だった。読者と絵師との共通理解、それが基づく社会の常識は、数千年の時間、地球裏表の空間を超えて雄大に展開したことへの、端的な実例だと言えよう。

同じエジプトの古文書は、文字がないが、絵が連続して豊かに繰り広げられ、まさに絵巻だ。そこにはなんと鼠も、そして猫も生き生きと登場している。じっくりと眺めてみたいものだ。

The British Museum: Scene from a satirical papyrus (EA 10016)

2008年11月23日日曜日

文学としての創造物

去る20日の早朝からボストンへ旅行してきた。飛行は7時間、乗り換えなどの待ち時間を入れれば片道正味12時間の長い旅だった。今の季節ではカルガリーよりは遥かに厳しい冬ではあるが、そのようなことを感じさせるような余裕をまったく与えてもらえないような、とにかく濃厚な時間だった。

旅の目的は、「日本文学の創造物(The Artifact of literature)」 と題する学会への参加だった。金曜、土曜との二日の間に、わずか2本の講演と12本の研究発表しか組み入れられていないといった、まごとに贅沢なスケジュールだった。記憶に残ったキーワードのみを記しとどめておこう。東屋、大沢本/名月記/扇、為世/夢/須弥山、意匠/飾り枠、芭蕉。絵巻のことも、もちろんいくつかのユニークな角度からスポットライトを当てられた。とりわけ物語の内容を貼り交ぜするよう意図的な構図、下絵からみる画面作成するためにプロセス、冊子本を崩した上で巻物に作りなおすという実例、どれもこれもたくさんのことを考えさせてくれるものだった。その中において、わたしは、「弥兵衛」の諸本画面の比較との研究を報告した。

いつでもその通りだが、学会の集まりとは、人間の交流が一番の目的であり、最大の楽しみなのだ。その中でも、一つだけ小さなことを書きとめておこう。会議の主催者とは、じつにちょうど十年前、同じボストンの地において、数百人規模の大きな学会で一つのパネルを作った。その時のキーワードは、中世文学に見られる「竜宮」。いまから思えば、勉強の小さな一つのステップにすぎない。しかしながら、十年経った今、お互いに同じ研究を続けており、しかも当時の四人のパネリストのうち、三人まで同じ会場に集まった。握手して、感無量だった。

二日の学会は、あっという間に終了した。最終日の夜、別れの宴会のあと、ホテルの横にある大きなバーに入った。十人を超えたグループだが、一人につき10ドルの入場料を払わなければ入れてくれないといった、ぎやかな店だった。若者向けの音楽が突然ボリュームをあげられた真夜中まで、いろいろな会話に夢中になった。翌日からは、参加者たちはそれぞれの職場の戻り、その半分は日本への帰途に着いた。授業など日常の仕事から離れ、毎日の生活の細々したことをしばし忘れた、至福な二日だった。

2008年11月15日土曜日

古戦場の今

前回、戦場の饗宴を触れた。いうまでもなく、例の「後三年合戦絵詞」に描かれた、楯のかげに隠された庖丁捌きの場面があまりにも鮮烈に記憶に残ったからだ。思わぬことに、まさにいま、東北の地でこの後三年の歴史をテーマにした展覧会が開かれていることを新聞で読んだ。心がくすぶられ、後三年とは、その土地の人々にとってどのようなものなのか、思わずあれこれとインターネットのサイトを見てまわった。

まずは、地図に「後三年駅」が出ていることに驚いた。JR東日本奥羽本線にある、小さな無人駅のようだ。後三年の「役」のことをもちろん響かせたことだろう。義家など人名ではなくて、ずばり「後三年」を持ち出したことに、言葉のシャレを感じてやまない。

そこには「平安の風わたる公園」がある。公園には、源義家のみならず、それに同等するスタイルの清原清衡、家衡、武衡という四台の銅像が円陣を囲み、雁行の乱れとのオブジェが置かれている。さらに公園の一番の展示は、巨大な「後三年合戦絵詞」レリーフだ。絵巻の画面をここまで大きく引き伸ばして、まるで西洋の宗教絵のように人々に見せるような作りは、そんなにあるとは思えない。ありがたいことに、熱心な歴史愛好者がこれを大きな写真に収めてくれた。

そして、同じく後三年が名前となった「後三年の役・金沢資料館」を地元の横手市が運営している。そこのハイライトは、郷土の文人戎谷南山が模写した同絵巻およびその補遺だった。地元に伝わった伝説によれば、戎谷南山が絵巻を所蔵する博物館に通い、絵巻を見ては、それを記憶しておいて、便所で書き留めたとのことだった(金沢偉人伝)。カラーコピー、デジタルカメラ、インターネット、どれだけ便利な道具が世の中に出てきたものだろうか。

後三年の絵巻が作成されたのは、義家・家衡との合戦が起こって、約三百年後のことであり、そしてその画面がレリーフとなった今日になれば、合戦がすでに千年近くも前の出来事である。同じ土地だと言っても、風景が移り変わり、時が流れ、人間が何十世代も生まれ変わった。荒野を吹きわたる風でさえ、平安の面影を留めているはずがない。それを補うには、一人ひとりの想像にほかならないことだろうか。

さきの展示に出品された戎谷南山の模写には、補遺と名乗った九巻がある。現存の絵巻に存在していない、合戦の前半にかかわるものだろうか。横手市の公式サイトには補遺のかなりの部分(全部?)を掲載している。ただし詞書がなく、写真もあまりにも小さいため、いまはよく分からない。

横手市・後三年の合戦について(補遺の画面)
毎日新聞記事・地方版(2008年11月5日)

2008年11月8日土曜日

ノルマン軍団の饗宴

先日、職場の同僚が中心になる研究交流の場において、絵巻のことをめぐって一つささやかな発表をした。その中でいただいたコメントの一つに、フランスの国宝である「バイユーのタペストリー」のことを教えられた。研究書もこれまで多数刊行されて、あきらかに西洋文明の大事な一つだが、わたしにはまったく知らなくて、非常に新鮮な世界だった。

「バイユーのタペストリー(The Bayeux Tapestry)」とは、ノルマンディーのバイユー大聖堂に所蔵されているタペストリー(言葉の意味はつづれ織り、ただしこの作品の作りは刺繍)、幅50センチ、全長70メートルにおよぶ作品である。イギリス王室の開祖であるウィリアム一世の率いるノルマン軍団が1066年にイングランドを侵攻し、支配に治めた経緯を描き、その同時代において制作したものである。長大な作品は、戦争を中心に据えながらも、さまざまな状況や場面を描きこんでいる。貴人の婚約、主従の誓約、落城の瞬間、船隊の渡海、平民の殺戮、そして目まぐるしいほどの戦場の死闘、言ってみれば戦争を表現する日本の絵巻の数々の名作と共通するテーマを扱い、ひいてはかなり近似する絵画的表現の着想まで覗かせている。

インターネットでは、全画面の写真はいくつかのサイトで公開されている。それらにアクセスして、思わず美しい画面を見入ってしまう。一例をあげてみよう。これまで絵巻に描かれた食事の様子、とりわけ戦場における食事のことに注目してきた。そこで、ここにはノルマン軍団の中で、開戦を目前にした大きな饗宴のことが描かれた。一連の絵画に記入された文字は、およそつぎのような内容である。(原文はラテン語により記され、ここはそれの英訳に基づく。)

「食事が料理されるところ」
「召使たちが料理を用意するところ」
「王や兵士たちは食事を取り、司教が食べ物とワインを清めるところ」

これに対応する絵は、兵士たちが武力を使っての牛、豚や羊などを入手することから描き出し、大掛かりな鍋を火に載せて料理し、召使たちがそれを皿に盛り付けたり、串に刺したりしててテーブルに並べる。そしてまさに饗宴の始まりだ。大勢の人々が大きなテーブルを囲んで、談笑しながら食べ物、飲み物を口に運び、無数の食器やナイフ、フォークなどが目の前に広がる。片足を跪いた召使がスープのようなものを運ぶ。

西洋の絵画では、豊かなストーリを一枚の絵に集約させて表現する伝統が長い。それに対して、一連の連続する絵を用い、それも文字まで記入して延々と展開する出来事を表現する「バイユーのタペストリー」は、まさに西洋の絵巻だ。文字の流れる方向に沿って、絵巻とは逆の、左から右へと展開していく絵を眺め、まさに感動の連続だ。

ちなみに、熱心な愛好者は、作品の全体を動画に作り直して、YouTubeにて公開している。とても精巧に出来ていて、楽しい。併せてここに紹介したい。

The Bayeux Tapestry(絵の全容)
A Guide to the Bayeux tapestry(ラテン語の英訳)
バイユーのタペストリー(日本語の解説)

2008年11月1日土曜日

絵双六に恋をして(吉田修)

                         築地双六館 館長
 私は、楊先生が国際日本文化研究センターで研究活動をしておられた時にインターネットを通じて知り合い、今日までお付き合いをいただいている築地双六館の吉田と申します。先生との出会いのきっかけは長谷雄草子に出てくる「双六」でした。今回、ありがたくも寄稿のご依頼があり、「絵双六の魅力」についてご紹介したいと思います。

■ 「1932年」の表現競争の勝者は?
 最初にクイズです。「1932年(昭和7年 )という時代を誰にもわかりやすく、かつ瞬時に理解させるために、最も優れた表現方法を提示せよ。」これは、「2008年度カルガリー大学の入学試験問題です。」と言いたいくらい良い問題ではないでしょうか。
・ 芥川君曰く「それは文学だよ。小林多喜二の『蟹工船』は当時の社会経済的背景をよく表しているさ。」(文庫本で217頁)
・ 黒澤君曰く「いやいやそれは映画だよ。小津安二郎の『大学は出たけれど』は、大卒の就職率が約30%という不況の昭和初期の庶民生活を見事に描いているよ。」(上映時間70分)
・ 横山君曰く「何をこしゃくな。絵画だよ、絵画。例えば小磯良平。美人画から戦争画まで時代をよく描いておるのじゃ。」
・ 朝日君曰く「新聞こそ時代の表現者でしょう。1932年は、5・15事件があったり、チャップリンが来日した年であったことは当時の新聞を読めば一目瞭然です。」(16頁×365日=5840頁)
・ ネット君曰く「PCで見れば何でもわかるよ。検索キーワードは何?」
・ 吉田君曰く「色々な意見があるようですが、ここでは二つの軸から考えてみましょう。『情報の一覧性』と『テーマを理解するスピードで』す。別表を見てください。これこそが双六のメディアとしての特性を表しています。」
 さあ、ここで、楊先生の登場です。
・ 楊先生曰く「双六の勝ち!この両軸であれば絵巻物よりも上かもしれませんなあ?!さあ吉田君、1932年の双六を紹介してください。」

■ 『大東京名所めぐり』双六にみる時代表現の極致
 1932年(昭和7年)『大東京名所めぐり』 (「幼年倶楽部」10月号付録)(写真参照)をご覧ください。タテ62cm×ヨコ91cmのビッグサイズの紙面に、様々なシーンがびっしりと表現されています。この双六は、1923年(大正12年)の関東大震災から帝都が復興したことを印象づけるために作られています。「振出し」も「上がり」も東京駅。二重橋、新宿、日本橋などを巡りながら、東京の名所を微細でかわいいイラストで描きだしています。写真ではわかりにくいので、この時代を表す面白いシーンを紹介しましょう。洛中洛外図屏風や前九年合戦絵詞並みの時代描写力がわかりますよ?!
・ 東京駅は「振出し」も「上がり」も兼ね、一番重要な位置づけになっています。1923年(大正12年)の関東大震災の時に、東京の町は壊滅状態でしたが、東京駅はびくともせず、帝都復興の象徴的な建築物とされていました。駅前には、人混みの中にA型フォードの円タクが見られます。以下、コマの展開に沿って説明します。
・ 「丸の内」のビジネス街には、「保険の元祖明治生命」が描かれていますが、これは有料の入れ広告ではないでしょうか?この双六全体には、合計21個の企業や商品名が登場しており、名所双六と広告宣伝双六の両方の特徴を持っています。
・ 双六の中心には、瑞雲を伴った二重橋の宮城(キウジヤウ)があり、「桜田門」を経て「日比谷」に向かいます。お濠の近くを三つ揃いのスーツに山高帽とステッキの男性と日本髪を結った奥様が仲良く並んで歩いています。
・ 「報知新聞社」前では、お父さんが子どもの兄妹に「コレが報知新聞社ダヨ」と言っています。このせりふは如何にも広告風ですよね。
・ 「銀座」から「品川」に行く途中に泉岳寺があり、四十七士が吉良上野介の首(ちょっとリアル!)を浅野内匠頭の墓前に捧げるシーンがあります。
・ 「品川」沖には、海水浴場があり、泳いだり、ボートに乗ったり、潮干狩りをしたりする子どもたちがいます。外国航路の大型旅客船も見えます。
・ 「蒲田」では、映画の撮影場があり、ニッカボッカスタイルの監督がカメラを回しています。
・ 「羽田」には、飛行場と穴守稲荷が一緒に描かれています。飛行機は当然すべてプロペラ機です。
・ 「矢口ノ渡し」では、南北朝時代の武将である新田義貞の次男義興の悲劇が劇画タッチで再現されています。
・ 「渋谷」に行くと、NHKの社屋と電波塔が見え、「代々木」の練兵場では軍人が行進しています。
・ 「明治神宮」には、お爺ちゃん夫婦から子どもまで三代揃った家族が恭しく鳥居に頭を垂れています。その向こうには、「神宮球場」があり、ちょうどピッチャーが振りかぶったところです。明治チョコレートキャラメルのアドバルーンもあがっています。
・ 「新宿」の西には、のどかな里山風景が広がっています。洋風の二階建ての家もあれば、茅葺屋根の家並みもあります。火の見櫓の向こうには紅葉した山々が見えています。
・ そして、「高田の馬場」。ご存じ堀部安兵衛が義父である菅野六郎左衛門のあだ討ちを助け、村上兄弟ら18人と度りあっている大迫力のシーンがあります。昭和の初めにおいては、江戸時代はそんな昔のことではなかったのでしょうね。
・ 「池袋」から東京一の子どもの遊び場「豊島園」にかけては、ポリドールのポータブル蓄音機で音楽を楽しんだり、写生をしたり、ウォータースライダーで楽しむ子どもたちがいます。村山貯水池もあります。
・ 「練馬」では練馬大根の畑が、「赤羽」の向こうには浮間ヶ原でピクニックを楽しむ家族がいますが、国鉄をはさんだ反対側には、赤羽の工兵隊がいます。いははや。
・ 「王子」あたりは、今も昔も多くに印刷工場があります。大空には、ビラをまく飛行機が飛んでいます。
・ 「飛鳥山」では、お花見の代大宴会、紙芝居屋さんもいます。「上野」には、西郷さんも動物園の動物たちも賑やかに子どもを歓迎しています。
・ 「浅草」は庶民の町。観音様や吾妻橋の周りは小さな家がひしめいています。
・ 隅田川には汽船が浮かび、「亀戸」天神ではお茶屋でくつろぐ娘、「両国」国技館では和服、洋服、日本髪、パーマの老若男女が相撲の取り組みに沸いています。浴衣を着た夕涼みの家族には風情があります。
・ 江戸時代の初め阿部豊後守忠秋が大水の折に馬で隅田川を渡ったという伝説に基づく勇姿が描かれています。
・ 「三越」「日本橋」には白木屋をはじめとする百貨店があり賑わっています。
 如何ですか。およそ四季折々60のシーンに400名の人が登場して1932年という時代を彩っています。社会経済、教育思想、軍国主義時代、家族風景、庶民の文化と娯楽、自然風景と江戸の名残り・・・双六はとても優れた表現方法でしょう!この双六は当時の少年少女に10万部くらいは配られおり、大きな影響力を発揮したことでしょう。

■ 盤双六と絵双六
日本に最初に登場した双六は、「盤双六」です。正倉院にも所蔵されているこの双六盤は、同じ「すごろく」という名前ですが、絵双六とは全く異なるものです。現代のバックギャモンにルールが似ている盤上の遊びで、みながとても熱中したそうです。楊先生の研究されている「長谷雄草子」にも双六をする鬼が登場します。この「盤双六」は、賭博性が高いため、禁止のお布れが何度も発せられ、やがて温和な双六へと変化していきます。今日、多くの人がすごろくと呼んで遊んでいるのは、紙に描かれた「絵双六」のことです。この絵双六は、13世紀後半頃にお坊さんの教育のための仏法双六として始まったというのがこれまでの定説のようです。時代がくだって江戸時代になると、浮世絵の多色刷木版技術の発達で、華麗で精緻なさまざまな種類の双六が発行されるようになり、今日に至っています。

■ 絵双六の魅力
絵双六は、それぞれの時代の風俗・習慣・価値観を映す鑑(かがみ)です。「上がり」にはその時代の 夢・憧れ・希望が見事に表現されており、庶民の息吹が伝わってきます。私は、絵双六の一番の魅力は、「ドラマ展開の一覧性」にあると思います。「日吉丸の天下獲り」や「東海道五十三次の全道中」や「ドラえもんの奇想天外な冒険」など、ドラマチックなストーリーがコマ割りされ、モザイク化され、それでいて全体として一枚の絵として総合化され、意味付けされています。どんな複雑なコンテンツでも一枚の紙の中に表現し、読者の右脳にイメージとして焼付けます。一つの世界、一つの価値観をこれほど短時間で読者に訴求できる表現手法があるでしょうか。絵双六は、日本が世界に誇るべき表現手法だと思います。

 以上、私の絵双六への恋物語の一部をご披露しました。しかし、まだまだその魅力を語り尽くせていません。例えば、1942年(昭和17年)の「奇跡の双六」の話も面白いですよ。それはね・・。
 残念ながら、字数が大幅オーバーです。いずれまたの機会に・・。

双六ねっと

2008年10月25日土曜日

赤鼻の図像学(宮腰直人)

絵巻を読むのは、文句なく面白い。その愉しさにどう迫るか。どんな着眼点があり得るのだろうか。毎回、この絵巻三昧でも豊富なトピックが掲げられ、様々な角度から絵巻の面白さが言及されている。普段は、ブログの更新を楽しみに待つだけの私だが、音読『福富草紙』の登場にあわせて、再び、寄稿させて頂くことになった。絵巻の音読とその公開、そしてブログの更新をコツコツと続けてくださる、楊さんにこの場を借りて御礼申し上げたい。

さて、私は今回の機会を得て、『福富草紙』を手かがりに絵巻における人物形象(キャラクター)の問題を素描してみたいと思う。

『福富草紙』の主人公は「秀武」という人物である。「秀武」は、古びた烏帽子をかぶり、顔には幾重もの皺が刻まれ、あごには無精髭を生やしている。もっとも特徴的なのは、その赤い鷲鼻、赤い鼻先である。やや鋭さを感じる目つきと、赤鼻の取り合わせは、「秀武」を印象深い初老の男にしている。

一見、冴えない赤鼻の初老の男が放屁の芸で富を得るのがこの絵巻の眼目である。初老、あるいは老人が主人公となるという点においても、この物語は注目されるのだが、この「秀武」の赤鼻、じつはさほど珍しいわけではない。中世の絵巻をひもとくと、すぐに数例見いだすことができる。宮本常一が主に執筆を担当したという、『絵巻物による日本常民生活絵引』(以下、『絵引』と略記)には、ズバリ、『信貴山縁起』の「赤鼻の僧」が立項されている。この項目では、『医心方』が参照され、赤鼻は病であるとされている。『信貴山縁起』には他にも延喜加持の巻に赤鼻の男が描かれている。『絵引』には、加えて『石山寺縁起』や『春日権現験記』の例(いずれも僧)があがっている。

『絵引』の魅力は、個々の事柄の読み解き(民俗的な事象をも含む)もさることながら、同時にそれが《かたち》のインデックスにもなっている点にある。「赤鼻」の項目を検すれば、病としての赤鼻だけではなく、それが同時に鼻をめぐる《かたち》の問題も秘めていることを『絵引』の数例は示唆しているわけである。

『福富草紙』の「秀武」の赤鼻も、あるいは病であったかもしれない。しかし、それとともに考えてみたいのは、赤鼻の男がもっていたであろう、あるイメージである。「秀武」は、貧しくそれを脱するために放屁の芸を授かるわけだが、この冴えない男を描くのにあたって、絵師はなぜこのような形象を用いたのだろうか、と。

『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』には、芥川龍之介の小説で有名な、禅珍内供「鼻長の僧」をめぐる説話が採録されている。直接的な対応はともかく、絵巻で描かれる赤鼻の人物たちと、説話集に記しとどめられた僧の形象とはそう遠くないように思われる。絵巻であれ、説話集であれ、一人の登場人物をいささか個性的に形象化するのにあたって、「赤鼻」や「鼻長」は、うってつけの素材の一つであったのに違いない。

唐突だが、このこととあわせて想起されるのは、『源氏物語絵巻』等で、いわゆる「引目鉤鼻」によってあらわされた、男女の貴族たちの人物形象である。ごく定型的な貴族の男女の容貌以外にも、人物形象の定型を考えてもよいのではないだろうか。『絵引』の数例からでも、「秀武」ら一連の赤鼻の人々をみると、どうもこれだって人物形象の定型の一つと見なしうるのではないかと思えてくる。

ここで話題は一気に絵巻からマンガに飛ぶ。手塚治虫は、彼のマンガの登場人物たちを、それぞれ一人の俳優に見立てて、多様なマンガに役をかえて登場させた。「スターシステム」という、この仕組みは、手塚マンガの読者にお馴染みの人物たち―「ヒゲオヤジ」や「アセチレン・ランプ」等―を各マンガへ「出演」させることによって、彼の世界に奥行きを与えることに成功した。手塚治虫程、徹底はしていないけれども、これに類する手法は、他のマンガ家も用いている。藤子不二雄のマンガには、ラーメン好きの小池さん、水木しげるのマンガには、眼鏡で出っ歯の男が読者に馴染みの人物としてしばしば登場する。主要人物を邪魔しないよう、さりげなく、しかし幾分個性的に、愛読者たちに、ある共感や親近感を添える役割を担って、これらの脇役たちは物語内に配されている。

絵師や読者たちのなかで、はたしてどれだけ絵巻の人物形象のレパートリーが共有されていたのだろうか。絵巻で時折見かける脇役であった、赤鼻の男が致富譚の主人公になったことを読者たちはどんな思いで受け止めていたのだろうか。どうやら《お馴染みの》ということが、この問題を考える鍵になりそうである。絵巻の作り手たちとその読者、各々の歴史的な《現場》ので何が起こっていたのか。具体的な図像の展開とともに考えてみたい問題である。さらに『福富草紙』には、絵の中に言葉を記す「画中詞」の問題もある。こちらはさて、音読とどう関わるのか―。『福富草紙』が投げかける問題は思いのほか大きいように思えてならない。

2008年10月18日土曜日

街角の「ナンバ歩き」

ちょうど一年ほど前、東京のとある街角で撮った一枚の写真を披露しよう。わたしにとっては、いわば古典と現代との境に迷い込んだのではないかとの思いに捉われた一瞬であった。気持ちの動揺は、揺れるカメラアングルからも覗けそうだ。

これは、高校だと思われる一つのクラス風景だった。車が通わない道路を教室代わりに使い、一人の先生と十数名の学生が集まり、そこに展開されているのは、いわゆる「ナンバ歩き」、すなわち左右同じ側の手と足が同時に前に出したり、後ろに残したりする歩き方の理論と実践だった。先生は熱心に講義しながら実演をして見せ、学生たちは一列ずつ手まね足まねで前へ進む。若い女の子たちの笑い声が遠くまで聞こえていた。

「ナンバ歩き」を、自然な生活風景の一こまとして現代で見出せるとは、少なからず意外な思いだった。一方では、古典の文献、それまた絵巻などビジュアル的な資料において、人間の、そして人間に模して姿を成した鬼や動物たちの姿と言えば、きまってこのような歩き方を取っていた。絵巻の画面の中から、いまの人間の歩き方の画例を見つけ出すことは、ほぼ不可能に近い。

興味深いことに、このような古典文献に見られる歩き方をめぐり、現代の人々の捉え方が真正面から対立していて、明快な答えが見出せない。昔は現代と違うような歩き方をしていたとして、それがいまの生活に合致しないで忘れられた、というのが大方の見解だろう。しかしながら、その逆、昔の歩き方が優れていた。それが人間の体、少なくとも人間の体の仕組みと可能性を認識をするうえで、はなはだ有意義なものだ、との考え方も主張されている。まさにこの後者の考えから、「ナンバ歩き」が授業の内容に取り入れられたのだろう。

古典と現代の違い、それをめぐっての絵画表現を思考し、中国絵画の実例もあわせて紹介して、一つの短い文章に纏めた。それが数日前、刊行されるようになった。

「ナンバ歩き」にみる日本と中国の絵巻(『アジア遊学』114)

2008年10月11日土曜日

人形アニメ「死者の書」

地元の日本総領事館が行った文化事業のおかげで、数本の日本映画をまとめて見ることができた。その中の一つは、四年ほどまえに制作された人形アニメーション映画「死者の書」だった。どうも知名度の低いもので、その存在さえまったく知らなかったから、予期もしなかったいくつかの愉しみを味わった。

映画の主人公は、「藤原南家の郎女」という名をもつ女性だが、話の内容としては、明らかにあの伝説の中将姫だった。中将姫をめぐり、さまざまな奇跡や霊験談が伝わり、中でもその中心的な出来事といえば、蓮糸を用いて浄土曼荼羅を織りあげるというものだった。伝説では、それが一夜のうちに出来上がった、この世のこととは思えない超自然的な奇跡だったが、映画の中では、大勢の人々の手助けを得て、しかも蓮の糸を取り出し、それを乾燥させたりしたとの工夫が語られ、曼荼羅にたどり着くまでには、主人公にはさらなる苦悩が横たわっていた。伝説をできるかぎり人々の生活の感覚に近づけ、合理的に解説しようとする、作者の感性からくるものだろう。

そこにタイトルの「死者の書」である。これは、折口信夫が三十年代の終わりに書いた小説である。タイトルがそのまま用いられたことから分かるように、アニメ映画は、あくまでも折口の小説を対象とし、それを人形による活劇に生まれ変わらせたものだった。ここで、「死者の書」とは、古代エジプトの信仰内容の一つである。すなわち、中将姫という日本の伝説を掘り起こすために、折口がこれを古代エジプトの信仰に重ね、それを通じてあらたな生命力や寓意を求めようとしたものだった。ただし、そのような古代エジプト文化への個人的な無知によるに違いないが、わたしにはこのタイトルの意味あいが最後まで伝わらなかった。「死者」とは、大津皇子に違いないが、それでも、「書」とはどこに存在し、なにを記し、そして郎女(中将姫)の信心、ひいては彼女への信仰にとってどのような役割を果たしているのか、考えなおしても判然としない。

一方では、中将姫伝説を今日に伝えてくれている古典文献の中には、一点の優れた絵巻がある。「当麻曼荼羅縁起」だ。思えば、映画の制作者たちがこの絵巻のことを知っていないはずがない。しかしながら、絵巻の影がさほど認められない。絵巻に描かれた曼荼羅を織り上げる壮大な機織り、豪華絢爛な阿弥陀仏の来迎など、あまりにも有名で、さまざまな文脈で語り継がれている。いつ眺めても心を捉えて離さないあの感動の構図を映画のスクリーンで出会えなかったのは、不思議にさえ思った。

映画「死者の書」(公式サイト)
折口信夫『死者の書』全文(青空文庫より)

2008年10月5日日曜日

JSAC・2008

カナダ日本研究学会(JSAC)に参加するためにここトロントに来ている。年に一度の集まりであり、去年もトロントにあるべつの大学での開催だったので、二年連続、同じ学会に出かけるためにトロントに旅行したことになる。空路四時間、時差二時間、それに日常の勤務をできるだけ邪魔したくないとの思いもあって、やむをえず夜行飛行機を選んでの、切り詰めたスケジュールだ。

この学会の特徴は、共通項が日本のみで、あとは研究分野のかなり離れた学者たちの発表が聞ける、普段あまり交流する機会のない人々とも真剣に会話ができる、ということがあげられる。その中では、今年の研究発表には、なぜか「デジタル」と名乗るものが多くて、嬉しかった。その数は、基調講演も含めてじつに四本。とりわけ感銘をうけた二つについて、印象を記しておこう。

一つは、立命館大学の「日本文化デジタル・ヒュマニティーズ拠点」が構築している数々のデータベース、そして広い意味の文化的な事項を対象にしたビジュアル的な表現である。古典文献とかかわりのある分野では、文字、画像資料をデジタル撮影した上でそれを検索できる形で一般公開し、そして資料の持ち主にデジタルの成果をそっくりそのまま返し、公開をしてくれる、普通に利用できることのみを期待するという立場、方針も、じつに明快で頷ける。とりあげる対象は、若者たちが関心をもつゲーム、いまだ可能性をさぐる段階のCGバーチャル画像や動画など、広範囲に亘る一方、在来の研究への直接な貢献の可能性を具体的に考えていて、しかも学生を育てるという課題までたしかな形で実践している。高度な学際的な繋がり、分野の異なる人間の横の協力のありかたが強く感じさせてくれた。

もう一つは、MITの「オープンキャンパス」の一環として完成された「バーチャルカルチャー」プロジェクトだ。こちらのほうは、「視覚的な叙述」というコンセプトを中心に据え、選び抜かれた画像の提示と、それについての高質な解説を内容とする。サイトにアクセスすると、とにかく凝りに凝ったデザインに目を瞠る。対象とする画像は、はがきなど特殊なコレクション、老舗の化粧品会社から提供された長年蓄積されたデータ、美術館など公開されている資料など、さまざまとあるが、それぞれの資料群へのアクセスを丁寧に工夫し、データの選択、それを用いての情報提供の仕方は、鮮やかという一言に尽きる。日本文化を論じてすでに名を成した大家が熱心に企画を立て、署名で解説を書く。一つの学術活動として、在来の出版という形態との比較など、制作者本人まで気になっているらしいが、普通の入門書が持ちえない優れた要素を力強く示していることは明らかだ。

なお、このような発表にまじって、最近制作、公開した「音読・日本の絵巻」の六作目、「音読・白鼠弥兵衛物語」のことを簡単に報告した。

日本文化デジタル・ヒュマニティーズ拠点
MIT Visualizing Cultures

2008年9月27日土曜日

絵巻に描かれた放屁(吉橋さやか)

私が『福富草紙』と出会ったのは、ほんの一年前である。

一年前、私は、サントリー美術館所蔵の『放屁合戦絵巻』に熱をあげていた。放屁の合戦に勝つべく、様々な工夫を凝らす坊主たちの様子が生き生きと描かれた『放屁合戦絵巻』は、見ているだけでとても面白く、当時の私は、「こんなに面白い絵巻があったんだ!」と、とても興奮して眺めていた。

この絵巻の中に、放屁の真打なる尼が登場する。この尼が放屁の一発で華麗に扇を射抜く場面でこの物語は終わるのだが、この尼は自らを「秀武の娘」と称している。ここに、放屁の芸の師匠として「秀武」の名が登場していたのである。「秀武」が『福富草紙』の登場人物であると知り、それから私と『福富草紙』との付き合いが始まったのであった。 

このようにして『福富草紙』との出会いを果たした私であるが、当時、今以上に無知だった私は、『福富草紙』がこれほど豊かな物語であるとは思っていなかった。

『福富草紙』の伝本は数多く残っている。ここに掲載されている立教本もその一つであるが、私がざっと確認したところによれば、二十本ほどはある。また、上下二巻の下巻部分が独立した異本系も含めると、三十本くらいにはなり、この物語が盛んに享受されてきたことを物語っている。

『放屁合戦絵巻』も『福富草紙』も、放屁の絵巻物語である。なぜこれほどこれらの絵巻に魅了されるのか。その理由はいろいろあるだろうが、やはり、万人共通の生理現象である放屁というモチーフが、キャッチーで面白いからであろう。そしてそれに加えて、これらの絵巻が、目に見えない放屁というものを、目で見える形で描くことに成功している点が、大きな魅力であるように思う。放屁の特徴は、臭い、音、風であるが、これらはすべて、目には見えない。しかし『福富草紙』や『放屁合戦絵巻』では、それらが見事に目に見える形で描かれているのである。

まず第一に、臭い。『放屁合戦絵巻』では、鼻をつまむ者や顔をしかめる者の存在によって、読み手は臭いを感じることができる。

第二に、音。『福富草紙』では「綾つつ錦つつ黄金さらさら」という音を感じることができるし、秀武の夢に鈴が登場することからも、読み手は音を意識することができる。

そして第三に、風。これは放屁の特徴の中でも最大の特徴であろう。臭いや音は、あったりなかったりするが、風は、どんな屁にも、その強弱の差こそあれ、生じている。放屁は一種の風であると言ってもよい。『日本国語大辞典』(小学館)にも、「下風」という項があり、「屁をすること。また、屁」と記されている。この風を、『福富草紙』では、楊氏がすでに指摘されているように、秀武の踊るような腰つきや手足、衣の動きなどによって表現している。また、『放屁合戦絵巻』では、放屁の風の流れを、直線、波線、描線の長さや太さなどによって、うまく描き分けている。それによって読者は、放屁の風を感じることができるのだ。

このように、絵巻物語を目で楽しむだけでなく、放屁という目に見えないものを、詞書や絵によって五感で感じさせることができている点が、これら二つの放屁の絵巻の魅力と言えるだろう。そして五感を刺激されることによって、読み手は、二次元に描かれた静止画を、三次元の空間として捉えることができ、その空間の中に自らの身を置いて物語世界を堪能することができるようになるのかもしれない。

サントリー美術館コレクションデータベース
「放屁合戦絵巻」(「絵画・絵巻」よりアクセスする)

2008年9月20日土曜日

台所をお目に掛けよう

北米のケーブルテレビには、特定のテーマをもつチャンネルが多い。同じ内容のものだけ提供するということが前提なので、一つの番組を数日にわたり、ひいては一日に数回も繰り返し放送するのが、一つのスタイルになっている。そのため、チャンネルを回したら、「Iron Chef America」が頻繁に目に飛んでくる。

これは、いうまでもなく例の「料理の鉄人」のアメリカバージョンだ。本家の番組はすでに存在しなくなった現在、一つの日本のテレビ番組をここまで真剣に、しかも情熱を込めて作り続けること自体、不思議でならない。内容も構成も、人為的な作為が強く感じさせるタイトルのつけ方も、そっくりそのまま本家のものを引き継いだだけではなく、カメラアングル、画面切り替えのリズム、盛り上げの仕掛けなど、どれも「日本風」のものだと感じさせて、それこそちょっとした魅力的な風景だ。

台所をお見せする。料理を作るということを隠すのではなく、それどころか、台所を一大ショーのステージに早変わりさせてしまう。このようなテレビ番組制作の着想は、わたしには、いかにも日本的なものに思えてならない。身近な生活からその根拠を確かめるならば、一つ、鮨屋のことを思い浮かべれば十分だろう。「スシ・バー」という、こっけいなぐらいの英語の言葉にさえなったこの表現に集約されていると言って過言ではなかろう。食事を用意するということは、もてなしの一部であっても、美食のじゃまにはぜったいにならないという考えがそこにあるものだ。

忘れてならないのは、同じ考え方を持たない文化もあることだ。その筆頭に中国のことが挙げられよう。中国語には広く知られている古典のフレーズがある。「君子遠庖厨」という表現で、君子と呼ばれるにふさわしい者は、台所を遠いところに置くものだ、と意味する。『孟子』にあった文章だが、それが驚くほど長く親しまれ、守られてきた。いまでも、親しい親友はさておき、大事にもてなしをしようと思うお客様をわざわざ台所に入れることはなく、むしろ丁寧に作り上げた料理を、視線の届かない台所から心をこめて食卓に運んでくることこそ、美食にふさわしい風景だと、中国では考えている。

絵巻に描かれた一つの饗宴、それも、戦場に繰り広げられた台所風景をとりあげて、短い文章に認め、それを載せた雑誌が今週発行された。興味のある方は、どうぞご一読ください。

国文学解釈と鑑賞別冊・文学に描かれた日本の「食」のすがた

2008年9月13日土曜日

「美術館」に思う

勤務する大学では、今週から新学年が始まり、今学期は日本語のクラスを一つ担当している。最初のレッスンの単語表には「美術館」が出た。あれこれと仕来りや役目などの説明の仕方を思い描きながら、手元にある『日本美術館』(小学館)のページをめくった。

この一冊の魅力は、まさにカラー写真の充実ぶりにほかならない。さながら机上の美術館という観がある。室町時代の部では、屏風画を取り上げ、伝狩野之信筆「四季耕作図」屏風、それにそれの規範だとされる中国の画巻『耕織図巻』の模写を大きな写真で掲載し、あわせて屏風画製作における中国画家のスタイルの影響を説明した。長閑な田園風景や田植えの様子など、まさに見ごたえのあるものである。この「耕作図」と名乗る作品群は、まるで一つの特殊なジャンルを成したような感じで膨大な数で作成され、各地に伝わり、さまざまな形で用いられ、社会生活の風景に溶け込んだ。巻物の形態のものが屏風絵の構図に展開し、しかもその中の一級品がどれも幕府の将軍に秘蔵されていたことなど、絵と時の権力との繋がりにまで思いが馳せる。

一方では、田植えといった自然風景のテーマは、中国絵画の伝来がなくても十分に成り立つものではなかろうかと、素朴な疑問も浮かぶ。水田の様子といえば、たとえば『一遍上人絵伝』(巻九第一段、写真)において非常に近い構図のものが確認できる。とりわけ畑を囲む畦、その上を歩く人々、それに全体の絵の色遣いなど、どれもまさに「既視の風景」である。

一枚の絵あるいは一群の作品の成立をめぐり、絵師、注文主、同じ時代の鑑賞者のありかたを教えてくれることは、まさに美術館の大事な役目の一つだろう。そのようないわば美術史の知識をわれわれはまず把握しておかなければならない。いまの例の場合、「耕作図」のなり立ちをめぐり、中国伝来の画巻と日本の寺院に伝わった絵巻とは、室町将軍の周辺の絵師に取ってはまったく違うレベルの存在だったことも事実だろう。ただし、このような当事者の認識や価値観を理解したうえで、絵の伝統の交差、特定の文化サークル以外に存在していた作画の存在を忘れないことも、それまた大事だ。

ちなみに、伝狩野之信筆の屏風はいまや京都国立博物館に寄託保管されているとのこと。いつかまたそこを訪ねることができたら、ぜひ見てみたいと思う。

2008年9月6日土曜日

言葉を味わう

『白鼠弥兵衛物語』は、不思議な物語である。白鼠の浮沈をめぐる奇特な状況、都と地方、夫婦と家庭といった魅力的な昔の常識、もてなしの饗宴や黄金を運び込んだ報恩という奇想天外な展開、挙げればきりがない。中でも、とりわけ妙に心をくすぶり、繰り返し味わいたくなるような言葉の表現があった。

そのいくつかを取り出してみよう。

胸に食い付かれた雁は、「肝を消し」て飛び去り、弥兵衛を常盤の国に運んでしまった。弥兵衛を失った妻は「如何なる花心移したるか」と心配し、苦難のすえ無事戻った弥兵衛はさっそく美女に会っても自分が「心の散らざりし」ことを語り聞かせる。突然戻ってきた弥兵衛のことを、みんなが「天より天下りたる」と驚き、謝恩のために息子を差し出すことに抵抗する妻を、弥兵衛が「よく御馳走候へ」と説教する。

どれもこれも、なかなか興味が尽きない言葉ではなかろうか。現代の言葉遣いの感覚をもっていても、だいたいなんの難もなく理解できるが、かといって実際に用例を見ないと、とても思いも寄らない。「天下り」とは、まさに天から降って湧いたという、字面その通りの意味だが、いまはまったく別の使い道になった。「御馳走」もその意味あいが大きく変わり、狭く限定したものとなった。「馳せたり、走ったり」することは、立ち振る舞いすることを指すほうが、より適当だが、いまやなぜか台所の中での活動に限定するようになった。「花心」に至れば、なおさら微笑ましい。この言葉、日本語では確立された表現とは言いがたいが、じつは現代の中国語ではいまでもこのままの言葉が使われ、それも弥兵衛の妻とまったく気持ちやニュアンスを担う言い回しである。

表現はつねに変わる。だが、百年単位で時間が流れて行っても、昔の読み物はそのままわれわれの感性に訴えつづけている。まさに古典の魅力、言葉の魔力と言わなければならないだろう。言葉の変容を距離をもって眺め、まるで手で準えるようにじっくり弄び、読み返して味わうこと、これこそ古典を読む大きな楽しみの一つだろう。

2008年9月1日月曜日

『岩波古語辞典』をいただく

楊暁捷(昭六三博士)

手元に一冊の『岩波古語辞典』がある。本屋や図書館でもあまり見かけない机上版で、何回引越しをしても、いつでも本棚の手がすぐ届くところに置いてきた。佐竹先生からいただいた大事なプレゼントである。

あれは、国文研究室の門を潜って数ヶ月経ったころのことだった。中国の大学を出て、まったく未知の世界に足を踏み入れて、言葉も文化も仕来りも人の顔も何一つ分からないまま、ただただ周りの好意に縋っての無我夢中の毎日だった。そんな中、佐竹先生に廊下で名前を呼び止められ、先生の研究室に案内され、これをさっと手渡された。辞書に挟まれた贈呈の便箋には「祝京都大学大学院修士課程入学・一九八三年三月」と先生ご自筆の文字が添えられている。人に見せることも憚るような、この上ない喜びを伴う宝物である。

佐竹先生の思い出は、国文大学院の先輩や同級生の間に交わされた会話の数々から始まった。佐竹先生の浩瀚な学問や大きな存在感は、つねに研究室での学生同士の好話題だった。先生の本が出版されたら、みんなで競って通読して自分なりの読書感を披露し、一般の視聴者を対象にした先生のラジオ講座が放送されると、それを丁寧にテープに取り、大事に分け合った。いうまでもなく、なんの予備知識も判断の基準も分からなかった私には、そのような会話に参加できるはずもなく、ただ張りつめた集中力を以ってじっと聞いて、理解しようと懸命だった。「ダンディー」の一言が出ると、こっそり辞書を披いて意味を調べ、自分が目にした先生の後ろ姿、書籍などに掲載された写真などを眺めて、実際に意味するところ、それを取り巻く価値感覚を確かめた。そのような経験はすべて新鮮でいて刺激に満ち、研究書を読む以上に勉強の思い出となった。

あのころの国文研究室では、先生と学生との間につねに言いようのない緊張感があった。リラックスして先生と交わした会話は、数えられるほどであった。毎年、忘年会や新歓コンパが開かれ、それも普段は訪ねることのない珍しいところを会場にし、宴会の場で歌を歌わされたりしたこともある。しかしながら、宴会が済み、院生たちがほぼ全員つぎの飲み屋へ向っても、そのような二次会に先生方が現われるようなことは、一度もなかったように覚えている。そのような距離感が、勉強の励みになった。先生には厳しく見守られている、そのような先生を失望させないためにでも失敗を少なくしないと、との思いはみんな共有していた。修士論文試問の席で、佐竹先生から受けたご指摘、そして新しい研究方向へのご指示には、どんなに勇気を与えられ、そのあと、どれだけ反芻したものだろうか。短い大学院での学生生活の単純でいて朦朧としたひた向きな読書の毎日は、すべてその年齢ならではの貴重なものであり、一生の財産である。

佐竹先生に最後にお目にかかったのは、国文学研究資料館の館長室内だった。先生から親しく声を掛けられ、研究のことなど恥ずかしくてとても持ち出せなかったが、その代わり、カナダでの仕事、自分の家庭や子どものことまで話したと記憶している。大学院で教わったころからすでに十年以上経っていたはずだが、やや痩せられた以外、佐竹先生のまったくお変わりのない、厳しくて親しい顔が、いまでも昨日のことのように脳裏によみがえる。
(京都大学国文学会会報、平成20年9月、56号)

2008年8月30日土曜日

音読・福富草子絵巻(未完成版)

絵巻の詞書を朗読し、目だけではなく、耳も参加させて中世からのストーリーを楽しんでもらうというささやかな試みは、インターネットを通じて実行し、これまで四つの作品を取り上げてきた。ここにきて、これを小さなシリーズに仕立てて「音読・日本の絵巻」とのタイトルを冠し、新たに五作目を付け加えた。現代語訳など、半分ほどの予定がいまだ作業中だが、未完成版の『福富草子絵巻』である。

今度の絵巻の底本使用には、一つの特別なところがあった。『福富草子絵巻』は、立教大学文学部図書館所蔵の貴重書である。同図書館の特別な配慮により、作品の撮影のみではなく、それのデジタル画像の処理とインターネットへの掲載を許可していただいた。そのため、上下二巻計二十六段、あわせて約六千文字を朗読した録音ファイルに加えて、絵巻の画像を一連の動画ファイルに作成した。詞書の原文朗読において、文字の部分だけを取り出して、朗読にあわせて対象の文字を一行ずつライトアップするという形を取って、音声と文字との対応をデジタル的に提示した。

文字は、まずそれが対応する情報を伝えるものだ。しかしながら、時代が変わり、同じ情報でも使われる文字が大きく変容した中で、文字そのものが一種の画像としての特徴を強くした。したがって、文字を画像処理の対象とし、それを一つのビジュアル資料として見つめるということは、どのような結果に繋がるのだろうか。あえて言えば、おかげで文字テキストの見逃されがちな性格が余計に浮かんできたことだ。この立教本には、数はそう多くないが、詞書の空白や、段落の途中に文字が切れるなど、いくつかの問題点が指摘できる。それと関連する形で、少数でやや極端だが、文字を絵のように描いたのではないかと疑わせるような書き方(描き方)があった。絵師あるいは詞書を書写した者がもつ文字についての知識、ひいては教養のレベルを考えさせられずにはいられない。問題のありかはちょっと大きい。ここではとりあえず漠然とした印象だけを記し、しっかりした専門的な考察が現れてくるのを心待ちしたい。

朗読を聴きながら中世の文字をじっくり眺めていくということ、いわゆる変体仮名のことを知っていても、あるいはまったく予備知識がなくても、楽しい経験のはずだ。ぜひ試していただきたい。ちなみに、サイトのデザインなどの理由により、オンラインで見る動画のサイズをわずとやや小さく限定した。その代わり、ハードディスクに保存してより大きいサイズで見てもらうために、ダウンロードのリンクを用意してそれぞれのページに添えた。

音読・福富草子絵巻(未完成版)

2008年8月23日土曜日

衣をかづく

絵巻『福富草紙』の中心テーマは、いうまでもなく屁、あるいは放屁の芸だ。だが、これに付随するもう一つの隠されたテーマがあった。それは今日のそれとはかなり様相が違う衣だ。

もちろん人間さえ登場すれば、きまって衣をもって身をまとう。違う色、生地、スタイルの服は、そのままそれを着る人間の立場を伝えている。しかしながら、贅沢なアイテムとしての衣は、つねに身にするものとは限らない。『福富草紙』において、それを伺わせる典型的な様子は、秀武老人が始めてかれの特異な芸を披露する場に認められる。そこの中心人物は、家族に囲まれた一人の陰陽師だった。りっぱな巻物をはじめとする文房具、豪華な屏風、床に敷いた畳など、もろもろの調度の気品を引き出したのは、無造作に掛けられた一枚の真っ赤な衣だった。まさに主人の裕福ぶりとその高い社会の地位を象徴するものだった。

そこで、秀武老人の一番の晴れ場が繰り広げられた。中将殿の家人に呼び止められ、中将宅に招かれたかれが、大勢の貴人や女房たちに見守られて、懸命に腰を振るって得意の芸を披露した。やがて、大いに気に入った中将殿が、声高らかに「その紅のきぬ(衣)、かづ(被)けよ」と指示を出した。(写真。立教大学文学部図書館蔵『福富草子物語』上巻第九段より)これに答えて、家人の一人が恭しく両手で差し出したのは、まさに紅の衣だった。先の陰陽師宅のものとはっきりと照応していて、それがいかに上等なものか、読者がすぐに気づくはずだ。

絵巻の中で、ストーリーのハイライトは引き続き衣に当てられる。秀武の栄華を見て、福富は、妻に唆されて、同じく衣を狙おうと奮起する。けっきょくは、幸運をひき寄せることが出来なかったどころか、大きな失態を演じて、こてこてにやっつけられた。傷だらけな格好を街中に曝け出しただけではなく、これを遠くから覗いたかれの妻は、「色々の御ぞ(衣)ども、かづ(被)きて」帰ったと勘違いして、歓声を上げながら、古い衣を焼き捨てた。おかげで福富は着る服もないまま震え続けて、また一つ失笑を買う失敗を演じてしまった。

「かづく」とは、「肩に掛けさせる」こと、さらに衣の贈与に関わる表現として、「(賞品を)与える、授ける」ことを意味する。ただし、『福富草紙』において、衣は差し出されたり、頭に載せられたり、あるいは床において広げられたりしたが、人の肩には一度も乗せていない。しかしながら、たとえば平安時代の説話などでは、褒美に衣をもらって、鷹揚した格好で内裏から戻ってくるとの描写が多く登場した。画像に描かれたものとしては、『後三年合戦絵詞』に、地方の武士次任が義家から紅の衣を授けれるとの場面があり、衣がまさに肩に掛けられていた。

「衣をかずける」という、王朝文化におけるいたって象徴的な表彰や贈与の儀礼が、秀武・福富という一篇の哄笑を伴う物語において、この上ない即物的なものに変身し、その結果、衣が日常生活に引きずり下ろされたと言えよう。

2008年8月16日土曜日

現代生活の「画巻」

オリンピック開幕式のおかげで、中国で絵巻ならぬ「画巻」がいまや多大な注目を集めている。ならば、もう一回画巻のことを書いてみよう。去年の秋には、一つの現代語彙としての「絵巻」のことを取り上げた。(「現代生活の絵巻」2007年10月17日)それに倣って、中国での現代生活で「画巻」とはどのような位置を占めているのか、考えてみよう。

個人的な印象としては、「画巻」が日本語における絵巻より遥かに用例が少なく、とてもポピュラーな地位を得ていない、さほどスポットライトに浴びていない、とのものだった。しかしながら、実際に調べてみたら、必ずしも簡単にそれで片付けてしまうものでもなさそうだ。たとえばYAHOO!の中国と日本のサイトにこの二つの言葉をそれぞれ入れたら、5百万と7百万のヒットが出てきて、一応は同じレベルの用例があると言える。それらの中味を見ると、さらに絵巻と同じような使用法あるいは活用法が認められる。

いくつかの実例を見てみよう。

「画巻」は、同じように抽象的な比喩に用いられていた。『夜宴図』といった、有名な屏風絵にかたどった古代の宮廷生活を披露する小説のみではなく、現代生活を描く作品まで、衆生相を俯瞰するとの特徴を訴えるものとしてこの言葉が選ばれた。いうまでもなく、そこに古風で優雅な画巻との認識が隠されている。さらに、政治的な行事から単なる新商品のアピールにいたるまで、ほとんどなんの文脈のつながりもなくこれが持ち出されたことがある。それがわずかに写真の寄せ集めであったり、「田園画巻」と名乗ったさまざまな模様をもつフローリングの材料だったり、あるいはポストモダン的な奇抜な写真のコレクションだったりする。中では、「傑出歴史人物郵票画巻」という歴史人物を対象とする切手の特別テーマ集なら、言葉選びにまだ同感が得られるが、「鬼画巻小遊戯」となると、日本発のテレビゲームから敷衍して生まれた、日本語的な造語をそのまま中国語に直したのではないかと錯覚するぐらい、中味と表現とのちぐはぐを感じさせられる。

一方では、画巻の姿を心の奥に留めておいた、しかもそれを形にする努力をじっさいに体を張って試みたとの出来事も報道された。たとえばオリンピックを迎えるために、繁華街の歩行者天国をスタジオに見立てて、子どもたちによる百メートルにおよぶ巨大な絵巻を描かせる。日本でも繰り返し見かけられるような風景ではなかろうか。

このようなさまざまな画巻が飛び交う中で、じっさいの巻物はいまなお姿を留めているのだろうか。どうやら完全に忘れされたものではなかったようだ。現代の作家たちが「中国古代百名文化名人巨幅画巻」となるものを新作してそれを競売に送り出し、あるいは「円明園四十景図」という30メートル近い清の時代の作品を限定複製して愛好者の心をくすぶる。画巻という作品形態がもつ魅力を見据えての、巻物の再生産にほかならない。

ちなみに、以上のような漫然としたネットサーフィンも、予期せぬ古典との出会いをもたらした。「張勝温画巻」という題名がはじめて目に入った。1180年の作だと伝えられ、仏教の興隆を記録したものである。興味深いことに、巻物全体は134「開」、すなわち伝来の間にかつて巻物から折本に仕立てられていたとのこと。「巻物の変身」(2008年2月24日)において触れていた日本での巻物の実態を画巻でも確認できたことになる。

2008年8月9日土曜日

オリンピック開幕式の絵巻

北京オリンピックの開幕式は無事に終了した。一大イベントを伝える地元のテレビ放送は、朝五時から始まり、いつになく早起きして、テレビの前に座ってこれを満喫した。

盛大なショーのテーマが絵巻だと、事前に分かっていた。それにもかかわらず、絵巻がここまで主役を張ったとは、やはり驚いた。巨大な巻物の真ん中に白い紙が敷かれ、まるで一点の墨となった人間が、手だけではなく、体全体を使って絵を描いていくことをもってショーが始まり、絵巻全体がスポットライトを浴びながら、途中、巨大な画面が垂直に吊り上げられたり、宮廷を象徴する柱が聳え立ったり、荒波が飛び交う海と変身したりして、まさに豪華絢爛、言葉その通りのものだった。しまいには、絵巻の画面が突き出て、選手宣誓のためのエレガントな舞台に早変わり。まさに絵巻との発想が得られたことで、巨大なショーの全体の構想が得られたという感じだった。

しかしながら、肝心の絵巻としてこれを見るとなると、どうだろうか。舞台ショーだと分かっていても、一つの古典文化を理解する、再現するという意味で、それがわれわれの知識と常識にどれだけ合致しているのだろうか。結論から言えば、そこにあるのは、いかにも中国の絵巻であり、日本のそれとの距離が面白いぐらい出ていた。それの終極的な表現は、出だしの、絵巻が開かれるという瞬間に集約したと言えよう。紙が作られ、巻物が仕立てられるという短い画像がスクリーンに映されて、その間に千人規模の出演者が入れ替わり、スタジアムの中に出現したのは、おもむろに開かれる大きな絵巻だった。巻物の両端の巻き軸が目が眩むほどに輝きながら巻き拡げられた。しかしながら、それがまるで大きなドアが両開きするかのように左右の方向へと同時に開かれていった。絵巻を見慣れた人には、目を疑うような光景だった。これって、古い巻物が保存された状態から披かれるというはずがない。ならば見やすいように事前に用意された巻物、といったことだろうか。それだとしたら、連続する画面のつぎに移す場合は、どうしたらよいのだろうか。読者が一旦目を逸らすようにすべきだろうか。考えるほどに困惑してしまう。

いうまでもなく、大事な読者を中心にして、行き届いたサポートをしよう、という設定だといえば話は簡単だ。だが、そのような用意できるかどうか、読者のためにどれだけ贅沢な環境を提供するか、という内容のことではない。巻き軸が同時に両側へ開かれていくということは、それを見る目が自然に画面の中心に据えられ、そこから広がっていくということを意味する。一枚の絵を見るならいたって正当な眺め方だろうけど、一組の絵の続きとなれば、いかがだろうか。

じつは、中国と日本の絵巻との差異はと聞かれ、これまでいくつかの場で述べてきたが、それが、絵によるストーリの伝え方にあるものだと考える。さらに言えば、中国絵巻の名品の多くは、どの絵を取り出してみても、そのまま一枚の絵として丁寧に観賞することに耐えうるような構図をもつ。読者の立場から言えば、次から次へと展開してくる絵の流れを、半ば予期しながら興奮して目で追うという日本絵巻の楽しみ方に対して、中国の絵巻は、どうしても襟を正して、絵の前に背を伸ばして座り、それをじっと見つめることが望まれるみたい。絵師の工夫も絵の構想も、それを前提にしているとしか思われない。

北京オリンピック開幕式への中国のマスメディアの賛辞も観客からの感嘆も、まさに「山水画を見る思いがする」というものだった。ステージの構想が得られたとしても、物語を表わす絵巻より、抽象的な審美が要求される掛け軸の絵が上位にあるものだと、そのような潜在的な美意識が根強く働いていると言えよう。

2008年8月3日日曜日

絵巻と画巻

去年の秋、一度中国の絵巻のことを書いてみた。(「中国の絵巻」2007年11月21日)「画巻」という言葉で呼ばれる同じ巻物は、中国の伝統において確実に存在し、しかも千年前の作品が、原本の一部あるいは後世の模本の形で伝わっている。

絵巻と画巻。おそらくこの二つの言葉のありかたがすでに両者の距離を物語っている。その成立において中国の文化といかなる交流があったにせよ、「え・まき」と訓読をもって読まれることは、それが日本における展開する経緯を端的に示していよう。

興味深いことに、絵巻も画巻も、ともに作品が実際に作成された当時の言葉ではなく、作品がすでに古典になった後の時代において、人々が新たに付け加えたものだ。しかも中国も日本もその言葉の形成の軌道までかなり近い。日本の絵巻は、「○○絵」と呼ばれ、中国のそれは「○○図」と記録されていた。思うに、その当時において、紙を媒体に情報を記録する場合、巻物が一番基本で普通なので、わざわざ「巻」とことわる必要がなかったのだろう。「絵」あるいは「図」という呼び方は、いうまでもなく画像が眼目だということを強調している。そこで冊子本の書物が主流になってから、はじめて巻物という一つ前の時代の形態が問題となり、ジャンル名が生まれて、それの特徴がクローズアップされるようになった。

一方では、程度の差こそあれ、現代の生活における絵巻の展開も妙に同じ方向に向いている。日本での絵巻の現代風の用例は周知の通りだ。地方の祭りなどあれば、その規模の大小を問わずすぐ絵巻だと名付く。似たような用例は、中国語の表現では、数こそぐんと少ないが、抽象的にこれを捉えて、象徴的に古風で美しいものを表現するの用いるということでは、まったく同じだ。日本語では「時代の絵巻」と愛用され、中国語では「歴史画巻」が一つの定番の用語となる。

いよいよ数日後にやってくるオリンピックの開幕式。それのハイライトはまさに「画巻」だと聞く。個人的な目撃情報やリハーサルの場外風景などかなりの数の個人的な見聞がインターネットに書き込まれたばかりではなく、メディアもすでに報じている。どうやら中国の文化伝統を表わすべく、実物の絵巻の形を模る台が用意され、最先端の技術や曲芸を駆使するとの演出らしい。その出来栄えが如何にせよ、中国絵巻の認知度が高まるであろうことは、なんとも有難い。

巨大「絵巻」で歴史再現か(共同通信)

2008年7月27日日曜日

猿には馬

友人宅には一つの小さな飾りがあって、いつもみんなの話題になっている。中国からもたらされた木彫の置物で、活発な猿が馬の上に乗って戯れるというものだ。そこの子ども二人は干支で言えば午と申の生まれなので、まるでそのために特別に設えたものではないかと、感心する声が聞かれる。

しかしながら、実のところ、猿には馬、これは中国の民間絵画や工芸品で好んで取り上げられるテーマの一つであり、すこし前の時代まで、いわゆる縁起の良い吉祥物の定番の一つだった。これの裏には、楽しい言葉遊びが仕込まれている。猿に馬、これの組み合わせを言葉にして「馬上瘋猴」と言う。「瘋」とは怒り狂うとの意味だが、時には善意を込めて、自分の子どものことなど、親しみやすく指し示す。したがって、一応は「馬に乗った有頂天の猿」とでも訳せよう。そこに言葉遊びが入る。「猴」とは官吏を意味する「侯」、「瘋」とは官位を授けることを意味する「封」とそれぞれ同じ発音をする。さらに「馬上」とは、馬の上に居ながらと意味すると同時に、「直ちに」との口語表現となる。すなわち「馬に乗ったまま、ただちに官位を授けられ、出世する」との表現を、いわば絵画的に形にしたとのことである。まさに目出度いことではなかろうか。もともと、いまになったら、「封」も「侯」も、封建時代の政治形態を代表する語彙として日常会話から遠ざかり、そのため、このようなテーマの絵画や工芸品が新しく作られることはさほどなく、先の置物も、いかにも古風、あるいは擬古的なもの、ということで味わいを感じさせる。

そこで、実は猿と、馬ではないが、明らかに馬を連想させるような組み合わせは、絵巻の画面にも登場していた。たとえば『鳥獣人物戯画』からの一例が報告できる。馬の頭をした動物は、体は鹿のものになるが、丁寧に描かれた轡(くつわ)は、明らかに馬のそれだ。同じような構図は、前回触れた『藤袋の草子』の、猿たちの婚礼の行列から確認することもできる。そこでの乗り物は、鹿、それに狐だ。

遊び心がいっぱい詰められた構図には、どれだけ失った文化的な常識が隠れているのだろうか。

2008年7月20日日曜日

美女と野獣

「NHKラジオセミナー・古典講読」は、『藤袋の草子』を取り上げた。ストーリーの内容を紹介して、佐竹昭広先生は「美女と野獣型の物語」とさらりと語られた。聞きなおして、思わずあれこれと考えを巡らした。

ストーリーの内容は、猿が人間の女性を無理やりに奪い取り、自分の嫁にするというものである。その間柄は、言葉通りに有無を言わせぬ略奪婚であり、その間に大群の猿たちによって祝いの酒宴など嫁入りの行事が派手やかに繰り広げられる。ストーリーの結末は、一転して人間の立場に立ち戻り、藤袋に閉じ込められた女性を救い出し、しかも同じところに猟犬を隠し、それが猿を噛み散らすという、痛快な猿退治のハッピーエンドになった。

考えてみれば、話の主人公は、たしかに美女と野獣、その通りのものだ。しかしながら、ディズニーの名画や劇団四季の看板ステージともなった、あまりにも有名なあの西洋の童話の枠組みと重なっても、これはまったく別個のものだ。この東洋と西洋とのギャップとは、はたしてどこに由来するのだろうか。ここにあえて西洋童話の名前を持ち出したのは、佐竹先生の優雅な洒落だった。ならば、洒落となる所以の一番の理由、言い換えれば、西洋童話の最大の差は、はたしてどこにあったのだろうか。

いうまでもなく、あの「美女と野獣/La Belle et la Bête」との違いは、数多くある。人間と動物とのラブストーリか、それとも対立する両者の戦いか、一匹の超人的な野獣か、はたまたただ群集することにより人間に迷惑をかけてしまう獣か、話の展開はあまりにも対照的だ。しかしながら、このようなことを挙げ始めると、いかにも理屈っぽくなって、大事なものを見失う。

あるいは、一番大きな違いは、美女が最初からいなかったということではなかろうか。もちろんストーリーの中心にいるのは、一人の娘だ。しかも美人だとの評判も一通り受けている。だが、いくら目を凝らしてこの美女の姿を見つけ出そうと思っても、なぜか徒労に終わる。中心になるはずの女性は、まるでその存在が掴めなくて、一人の人間としての生身の温もりが伝わってこない。ヒーローインのはずの彼女は、不運を嘆く年寄りの夫婦、ひいては嫁入りを喜びあう猿たちと比較しても影が薄い。まったく同じことは、絵の表現にも明らかに現われている。生き生きとした猿たちに囲まれて、画面の中心となる美女は、場違いの十二単といった、王朝貴婦人の格好しか見せてくれなかった。まるで描写を拒もうとする絵師が、どこからか切り紙してもってきて、ここに無造作に貼りつけたような感じだった。

ここに読み出したのは、当時の人々の持つ美女への一つの心像だろうか。それとも読者の目に映し出された民衆的なエネルギーだったのだろうか。

『藤袋の草子』は、サントリー美術館に所蔵されている。しかも同美術館の公式サイトは、その全容を公開している。画像サイズはきわめて小さいが、それでも白黒写真で収録された『御伽草子絵巻』(角川書店、1982年)よりやや見やすいことを付け加えておこう。

サントリー美術館コレクションデータベース

2008年7月13日日曜日

20年前のラジオ講座

手元には、大事に取ってある一セットの録音テープがある。ここ数日、ずいぶんとひさしぶりにこれを取り出して、聞き入った。

テープの内容は、八十年代の半ばごろに放送された「NHKラジオセミナー・古典講読」の録音で、大学院の指導教授である佐竹昭広先生が講義した「御伽草子」である。全十三回に亘り、取り上げられた作品は、『文正草子』『一寸法師』『浦島太郎』といった御伽草子の代表作に加わり、いわゆる狭い意味の御伽草子ではない『藤袋の草子』『福富草子』があった。『文正草子』だけは四回、あとの作品はそれぞれ二回という構成で、一つの作品は一時間半あるいは三時間というゆったりとした放送講座であった。

佐竹先生の御伽草子の講座は、正攻法で、ずばり作品の文章を読み、その絵を説明することを通じて、昔から伝わってきた文学をしんみりと楽しむというスタイルだった。御伽草子の長い文章を、佐竹先生は原文その通りに朗々と読み上げ、そしてその表現の一つひとつについて、丁寧な現代語訳を加え、豊富な言葉を操って解説なさった。このような講義のスタイルを先生本人も「音読」だと捉えられている。そして、御伽草子そのものは黙読の文章ではない、当時の人々には非常に分かりやすいものだったと繰り返し触れられた。思えば、録音だって十分に普及されていなかった当時、おそらく大勢の熱心な聴講者たちが時間を守ってラジオの前に集まり、興味津々に聞いていたに違いない。いっさいの視覚的な要素を排除し、それを伴わせないことを前提とするラジオの向こうで、どれだけの人々が佐竹先生の講義に魅了され、その声に心を打たれたことだろうか。

このラジオセミナーは、はたしていつごろ放送されたのだろうか、確かな記録をもっていない。ただテープをもらい、そして最初から順番に聴き終えたのは、たしか1987年夏ごろのことだと覚えている。テープは、親しい先輩の一人が大事に取っておいて、題箋まで書き添えたうえでプレゼントしてくれたものだ。先輩の好意への感謝の意味も込めて、これをすべて聞いていたことだけは覚えている。ただ当時どこまで理解できたのか、あるいはなにも理解していなかったといまは思う。だが、いま、これを聞きなおして、大学院時代の学生生活のことがここに集約したような気がしてならない。あの時、大学院生のクラスでは指導教官の先生はどなたも多くは話されなかった。その分、先生が口になさった予期しない質問、短いコメントの一つひとつを、クラスから戻ってきた院生たちは、「なぜだ」「どうして」と真剣に反芻し、あるいは自分の失敗を悔しく認め、たまには辛らつにからかいあった。クラスではずっと黙っていた人も、まるで別人になった。かと言って、そのような議論をもっても分からないことが残っていても、それを先生本人に聞きただすような人は、だれ一人いなかった。指導教官と実際に交わされた言葉は数えられるほどしかなくて、指導に仰ぐことも、このように公の場での先生の発言を注意深く集め、それを分かち合うこから始めたものだった。いわば先生の背中を見て成長し、先生とはつねに緊張感、距離感を保っていた。同じようなことはいまは自分の教え子に向けるようなことはとても出来ないが、その分、自分にあのような経験があったことをひそかに自慢している。

佐竹昭広先生は、去る七月一日に逝去された。ご冥福を祈ります。

朝日新聞の記事

2008年7月6日日曜日

十六夜の月

御伽草子を実際に両手で披いてじっくり見つめていれば、おそらく誰もが思わず「美しい」と感慨をもらした経験をもっているだろう。絵巻と比較すれば、装飾や作りにおいて、たしかに豪華さが見劣りをするかもしれない。でも、無心に絵に向けば、その美しさに心を打たれる。はたしてその魅力とはどのような性格のものだろうか。一つのささやかな画面を実例にして考えてみよう。

「内藤記念くすり博物館」の公式サイトでは、「収蔵品デジタルアーカイブ」と名乗って、六点の御伽草子作品の全画像を公開している。その中の一つは「いさよい(いざよひ)」である。明るい十六夜の月に照らされ、中宮とその周りの女房たちの間に展開された優雅な王朝ストーリーが語られる。それの第一の画面は、琴を奏でる中宮と一人の女房を描く。まずは、右の絵をクリックして、画面全体を眺めてみよう。

この絵の魅力とは、一言で言えば、円熟した幼稚さ、といったところだろうか。それまでの王朝貴族の美意識への志向、あるいは安易な傾斜など、指摘しようと思えば、限がないと思われる。画面の内容、霞を靡かせるという構図、人物の配置、俯瞰する角度など、どれも「源氏物語絵巻」といった絵巻の古典を簡単に想起させてしまう。しかしながら、そのような表現の枠組みの踏襲がはっきりしていても、この絵は、明らかに異質でいて、「御伽草子」的なものなのだ。

それはいったいどのようなものだろうか。色使い、とりわけ画面全体の三分の一以上を塗りつぶしたブルーは、とりわけ印象的だ。これとともに、人物や情況の簡潔さにも目を瞠るものがある。それは、抽象的になるぐらい大胆な筆遣いだ。極端なのは、空飛ぶ鳥、寝殿造りの定番である遣り水、そしてこの場面の眼目となる琴、などが挙げられよう。言ってみれば、写実の努力を最初から切り捨て、それの反対側に大きく見得を張っているといったような描き方だ。

一方では、画面を簡潔に仕上げるという努力とは逆に、伝統的な絵巻の画面ではあまり見かけられないものを付け加えるものもあった。たとえば、女房の頭上に棚引く黄金色の霞だ。この黄金の霞はこの画面だけではなく、作品全体の五つの画面すべてに描きこまれている。これがなにか特別なことを意味しているとも考えにくいが、それぞれの画面には豪華な雰囲気を添えたとともに、作品全体にわたって一つの共通した絵画的な記号をなにげなく隠したことになる。

様式化された絵画表現には、絵師の巧みな絵心が託されている。しかも「様式」とはかならずしもネガティブなことを意味しない。突き詰めて言えば、一つの表現手段として、絵巻の絵のありかたとも、本質的に共通しているものだ。

内藤記念くすり博物館・いさよい

2008年7月1日火曜日

「KY」な日本語

去る4月の終わりに東京での八ヶ月にわたる研究滞在を終えた。久しぶりに日本でじっくり腰を下ろして暮らしてみて、言葉の表現にもあれこれと見識が得られた。その中で印象深いことを一つあげるとすれば、恐らくやはり「KY式日本語」にほかならないだろう。

カナダで生活していても、気づいた人が多いかと思う。「KY」とは、「空気が読めない」とのこと。言わば、その場の雰囲気や人々の感情には疎く、周りから浮いてしまう変わり者だという、人の性格についてのネガティブなレッテルだ。あえて解説するまでもないが、英語の略語の格好をしていて、英語の言葉とは関係なく、日本語をローマ字に書き換えたうえで、その頭文字を集めたものだ。もともとこのような言葉の作り方は、「KY」という一語から始まったものではなく、たとえば「NHK」だって、「日本放送協会」の頭文字だから、れっきとした「KY」語だ。ただ、そのような言語学的な議論とは関係なく、いまや「KY」を筆頭に膨大な数の言葉の一群が現われ、それも言葉遣いに自由奔放な若者だけではなく、大の大人やマスコミまで巻き込んでしまうのだから、シマツが悪い。

そもそも「KY」にスポットライトを当ててこれを一挙に表現の表舞台に引きずり出したのは、去年の秋ごろに、いまから一つ前の内閣総理大臣についての捉え方としてマスコミがこの言葉を選んだことに始まった。それにより一挙に「KY」、そして「KY」のような言葉の存在が注目された。わたしが実際に出会った二つの実例を記しておこう。前後して会った二人の昔からの友人のことである。その一人は、研究一徹の頑固親父のイメージを地でいくような人で、ビールを飲み交わしたら、しみじみと中学生の息子さんに「KY」と揶揄され、空気に合わせるもんじゃないと諭してやったとのエピソードを披露してくれた。もう一人のほうは、いつでも自己主張をはっきりしていて正論を張り、そのため学生に慕われるタイプの大学教師で、自分の教え子たちから、「KY」でいて、空気が読めないのではなくてそれを「読まない」と言われたんだよとにんまり。生きた言葉、そして機敏に富んだ言葉遣いがありありと伝わってくる会話は、何時まで経っても記憶に残っている。

「KY」語の妙味は、そのもっともらしい格好からは、とても簡単に想像が付かない意味あい、言い換えれば、字面と中味とのギャップだった。たとえば「AM」は「後でまたね」、「WH」は「話題変更」という辺りは、まだ無難で微笑ましい。「JK」(女子高生)、「DD」(誰でも大好き)は、洒落ていて感心してしまう。しかしながら、「MK5」(マジキレる5秒前)、「ATM」(アホな父ちゃんもういらへん)となれば、どう考えても内輪でしか通用できない隠語に過ぎない。このような言葉でまともな交流ができるとは、正常な感覚からすればとても考えられない。

ここに来て、日本の社会でのこのような言葉への対応が、むしろ興味深い。「KY」語が面白そうだと思ったら、もうりっぱな学者から大手の出版社まで一斉に取り掛かり、語学的な議論、文化論的な観察、はては「単語帳」「辞書」まで作りあげ、あっという間にそれを本屋に並べてしまう。けっして新しい潮流に乗り遅れまい、知らないで笑われたら堪らないといったような思惑が見え見えの構えだった。まさに日本風の大人の対応の典型であり、日本的な言語感覚、ひいては社会生活のバランスを覗き見できた思いがしてならない。

「KY」語とは、あくまでも一つの言語風景だ。紙上の空論だけでは始まらない。ならば、自分でも感覚が掴められるものかと、気楽に掛かって作文を思い巡らした。苦労したあげく、つぎのようなものしか思い浮かばなかった。

「世の中はKY語がはやっているが、その使い方となればどれも「CB」(超微妙)でいて、「IW」(意味わかんない)。声掛けられても「HT」(話ついて行けない)、やっと分かったと思ったら、「TK」(とんだ勘違い)。いらいらして「MM」(マジムカつく)。無理するもんじゃない。「TD」(テンションダウン)だ。お手上げだ。」

タイトルには、もっともらしく「日本語」と付けたが、実際は、はなはだ身勝手な「KYな日本語教師」にしかならなかったのかもしれない。

Newsletter No. 36・2008年7月

2008年6月29日日曜日

動画とアニメ

動画。字面通りなら「動く絵」、すなわち描かれた静止するはずの絵を動かしたもの、あるいは、動き出した絵、といったところだ。いうまでもなく、すこしずつ違う絵を、連続的に映し出すというあの仕組みを応用したもので、パソコンという便利な道具が出来上がるまでには、動き出されたものを実現しようと、プロたちがただせっせと絵を描いたものだった。ただし、妙なことに現代の言葉では、動いた絵というこの仕組みのものをわれわれはアニメと呼び、代わりに、動画とは、「YouTube」、「ニコニコ動画」などのサイトを賑わせているビデオ撮影したものを指すようになった。

現代のアニメの手法と古代の絵との出会いを目撃した一つの視覚経験を持っている。あれはあるアメリカ映画の出だしのところで、タイトルを忘れたが、たしか大掛かりなロードショーを伴うものだった。古代エジプトのピラミッドに描かれた影絵のようなものが動きだし、大きなスクリーン一面を古代の兵士たちが走り出し、戦場で死闘を繰り広げた。単純で幼稚な絵はそこまで魅力的になるものかと、不意を撃たれたような衝撃を受けて、身を乗り出して見ていたと覚えている。そのあと、たしかギリシアの絵も同じような処理を掛けられた映画があったりして、映画表現の一つの小さなパターンになったと見受けられる。

思いは自然と絵巻につながる。絵巻に描かれた絵は、似たような処理を掛けようと思えば、いとも簡単なはずだ。とりわけ絵巻の画面を眺めるために、紙に印刷されたものからパソコンのモニターにすこしずつ切り替え、マルチメディアの環境を取り入れることにより、切り取った時間枠において画像と音声とを組み合わせるようになれば、いたって自然にこのような作りにたどり着くに違いない。たとえばストーリの展開に添って人間の手足に動きを加え、背景の中で位置を変え、描きこまれた内容に出現や消失の順序を与えるなど、単純な操作を付け加えれば、まったく違う視覚の効果が得られる。いうまでもなく、これはすべて画面内容を適確に理解することを前提として、そのような動き自体は、絵の内容への一番明らかに説明を加えることになる。古代の絵巻を現代的な感覚に訴えるために、とっぴだが、愉快な愉しみかたになるのかもしれない。

以上のような試みは、すでにどこかで実現されているだろうか。わたしの知識にはないが、お気づきの方、ぜひ教えてください。なお、自作の絵巻朗読サイトには、いずれも「動画絵巻」と名乗って、あれこれとサンプルを試作してきたが、あるいはいつか「アニメ絵巻」といったものに挑戦しなければならない。

2008年6月22日日曜日

ホームページの更新

先週に起こった出来事の経緯をここに記しておこう。

勤務校の大学ITセンターから意外なメールが届いた。私のホームページが何者かのハッカーに狙われ、そのすべての内容を即削除しなければならない、とのことだった。まさに一大事。何回かのやり取りを経て、ようやくただの削除ではなく、とりあえず別の場所に移して、こちらからアクセスできるように配慮してもらった。ファイルの中味を見てまたびっくりした。語学のドリル、学生活動の記録、古典の朗読など、約2000近くあるファイルの中のすべてのHTMLには、特定のサーバーにアクセスするためのコードが仕込まれた。いったい誰が、何のために、何の得があってやったのか、IT責任者でさえ見当が付かない。

サイトの情報は、これまで随時に更新していて、オリジナルファイルがかなり分散していて、どうやって手元のパソコンから一々見つけ出したらよいのか、ほとほと困った。最終的にはITの人が二ヶ月まえの時点のバックアップにアクセスさせてくれて、最悪の結果が避けられた。ITセンターの責任ある対応に内心感謝しつつ、冷や汗ものだった。パソコンというバーチャルな環境なだけに、こまめにバックアップを取り、丁寧に分類して保管すべしと、まさに身に沁みるような教訓だった。

ちなみに、あれこれとのやりとりの間に、一部の古いものを削除したうえで、ホームページのレイアウトを久しぶりに更新した。

X. Jie YANG's Homepage

京博の「高精密画像閲覧システム」

京都国立博物館は、公式ホームページにおいて「国宝重要文化財・名品高精密画像閲覧システム」を公開した。配慮の行き届いたサイトの構造、多方面からの検索エンジン、分かりやすい画面レイアウトから、博物館の積極的な姿勢が伺える。博物館が所蔵している名宝をデジタルの媒体に記録し、それを高精密と形で公開すること、収集と展示という博物館の在来の形態に加えて、デジタル媒体への対応に真剣に取り組むことなど、なんとも有難い。

一方では、収録する作品は、「国宝」など限定したということもあるからだろうか、たとえば全体の十五のカテゴリの一つである「大和絵」には、「病草紙」9点を含むすべて15件しかなく、かつて「大絵巻展」を主催して絵巻に大きくスポットライトを与えた博物館としては、はなはだ物足らない感じだ。タイトルは「名品」とも名乗っていることから、さらに多くの作品が公開されることを心待ちしている。

公開する作品の点数とは別に、デジタル画像公開のフォーマットの選択には、一ユーザーとしては大きな不便を感じている。せっかくの高精密のデジタル画像も、最終的な提示は、わずか500ピクセル四方の画面においてしかアクセスさせてもらえない。言ってみれば、画面を熱心に見ようとする閲覧者は、わずかに小さな虫眼鏡を手渡されたことになる。見たいところはどこでも覗いていいんだが、全体を見渡すことは不便を覚悟しなければならない。しかもオンラインでのアクセスなので、虫眼鏡の覗く先を移動する度に、デジタル信号の転送を辛抱強く待たなければならないし、その間には何回も変わっていく画面をやむをえず眺めなければならないというプロセスは、実際の使用を制限するほかならなかった。

そのことから考えれば、公開のタイトルに入っている「閲覧」という言葉の意味合いを余計に感じた。デジタル公開の場ではさほど使われていない語彙だが、主催者の思慮と意図が実によく集約しているように思えてならない。いわば「閲覧をさせるが、読者の手元に置かせるわけにはいかない」「入館は歓迎するが、貸し出しはいまのところ対応しない」。はたして飛躍しすぎた翻訳だろうか。

このような処置を取らせた理由は、いうまでもなく「悪用防止」ということだろう。しかしながら、大きな画面ならそれをそのままダウンロードさえすれば、悪用に繋がるようなことだったら、いまの公開でも画面を繋いで印刷なりほかの用途への流用なり簡単にできるはずだ。そのようなさほど効用のない悪用予防策のために、本来の使用への対応を犠牲にするのは、はたして望ましいことだろうか。国を代表する博物館だけに、ぜひとも見直してもらいたい。

京都国立博物館所蔵国宝重要文化財・名品高精密画像閲覧システム

2008年6月15日日曜日

鼠への逆変身

今度も引き続き鼠の話を書いてみよう。日本の絵巻の作品、これまでも数回触れてきた「弥兵衛鼠」に登場した幸運をもたらす白い鼠のことである。(「幸運の白い鼠」2008年1月1日、「鼠の祝言」 2008年1月6日)

中世の後期に作成されていた多数の「異類物」と同じく、作品の中の鼠は、体つきも振る舞いも人間の姿として描かれた。かれらは人間の衣装を身に纏い、宴会など人間世界の晴れ晴れとした場をその通りに実行した。一方では、多くの「異類物」作品と違って、ここでは、弥兵衛を始めとする鼠たちはときどき鼠の姿に意識的に戻る。目的や状況に合わせて、自由に人間と鼠という二つの世界を行き来するということを、まるで人間たちに自分の超能力を見せびらかすかのように、ほしいままにした。

鼠から人間への変身、そして再び鼠への逆変身のことを、絵巻は一つのハイライトとして捉え、とりわけそのプロセスをクローズアップして、大きく読者を楽しませようとした。文字テキストによって語られたところを読めば、例えばつぎのような描写が目を引く。弥兵衛が妻のために雁の肉を捕ろうとしたところでは、「烏帽子、上下脱ぎ捨て」た上で外へ出かけたものであり、弥兵衛が一家のものを全員連れて帰郷の恩人にお礼を届けた場面では、「装束は人目に立ちなんとて、ありしままの姿にて出で給ふ」と、服を脱ぎ捨てた理由まで添えてくれた。一方では、常盤の国で弥兵衛の望郷の念を慰めようとした地元の鼠たちが饗宴を開こうとしたおりには、「烏帽子、上下持ちて来たり、着せければ」と、今度は鼠の姿から人間への変身が興味津々に語られた。

興味深いことに、鼠への逆変身の瞬間の一つが絵の描写にまで登場した。弥兵衛の妻が行方不明になった主人の安否を心配して、占いに縋る場面である。まずは、これに関する詞書を読んでみよう。

「さすがによそ目の慎しければとて、いろいろの衣文重ね、褄を揃へし十二単を脱ぎ捨てて、眉もかもじも取りのけ、ありしままの姿にて(略)」

逆変身の理由は、前出の例と同じである。ただし、女性が主人公だったため、脱ぎ捨てたのは、烏帽子ではなく、正装の十二単、それも眉、かもじ(鬘)だった。この状況を描いた絵は、まさに傑作だ。

いうまでもなく、ここに描かれたものをもって、中世の服装習慣、衣裳の構成、着用の仕組み、ひいては鬘着用の実態といったもっともらしい内容を推測しようと思えば、あまりにも的外れな苦労になることだろう。現代の読者のみならず、中世の読者だって、このような画面からは、いかにもコミックっぽくで、申し分なく可愛らしいとだけ強く感じていたに違いない。

このような場面を目の前にして、なぜかハリウッドの映画に繰り返し援用される表現パターンの一つを思い出す。たしかあのランボー映画の一作目あたりから作り出されたものだと思うが、主人公が最後のクライマックスの戦場に赴く直前には、きまってその変身のプロセスが描かれる。それは一つひとつの武器や服装のクローズアップの連続によって構成される。ごく限られた空間に描きこまれた白鼠と、彼女が脱ぎ捨てた衣裳の数々を眺めて、映画のリズムとビジュアル・インパクトを感じてやまないのは、はたして私ひとりだけだろうか。

2008年6月8日日曜日

カナダの「鼠年」切手

いまどき、あまり郵便局に行くことがない。そのため、たまたま送られてくる小包を受け取るために立ち寄ったら、自然にカウンターの上をじっくり眺め、今年の干支の切手がいまだ売り残っているのに気づいた。使う道がないだろうと分かっていながらも、一枚買った。しかも「綺麗だな」と言い聞かせたら、郵便局の人が切手のまわりの飾りまで丁寧に切り取って添えてくれた。ここに載せよう。

カナダ郵政省は、年に一枚の干支の切手を出し続けて、今年で十二年目になり、干支の始まりの子の年をもってシリーズを締めくくった。今年の切手は、二枚組になっていて、手に入れたのは、花嫁のほうで、国内郵便用の52セントのものだ。書き添えられた文字は、「カナダ」「52」に加えて、英語、フランス語、中国語で「鼠年」と記して、いかにもカナダらしい。さらに切手の周りの飾りには「鼠年銭粘」との四つの文字が見られる。「鼠の年になって、銭が手にくっつけて懐に入ってくる」といったような意味合いだろうか。目出度い言葉の語呂合わせだと分かるが、わたしの持っている知識にはない表現で、なぜか新鮮だ。

一枚の絵として、見ごたえがあって申し分がない。一言で言えば、プロ的な幼稚さと洗練された装飾性、といったところだろうか。両方の目がともに見える顔立ち、花嫁にふさわしい髪飾り、天蓋傘の柄を握る手元など、切り紙など中国の伝統的な工芸のスタイルを思わせて興味が付かない。傘と髪飾りは、いわば花嫁ということへの象徴的な表現だが、花嫁自身が傘を手にするはずもないといったような詮索は、無用だと感じさせるだけの緊張感が画面から伝わってくる。

絵を眺めていて、やはりその構想、そしてそれを支える人々の常識に気づかされる。たとえば擬人表現の仕方だ。頭が鼠であって、尻尾を大きく突き出した以外、手足、体つき、そして足を踏み出す仕種など、すべて人間のそのものである。鼠が人間のように動き回るという幻想を伝えるためには、一番自然で有効的な表現の工夫だろう。一方では、伝統を用いるといっても、すべて昔のものを再現するわけにはいかない。その端的なものは、古風の靴を履いた両足だろう。中国の古典の絵画に描かれた女性の足をそのまま描いたら、たとえ鼠であろうと、今日の人々の目には醜いものだとしか映らないに違いない。

ちなみに、この切手のシリーズの中では、ここまで擬人化の表現を施し、服を着せたのは、この鼠の一枚のみらしい。鼠の結婚と花婿花嫁を持ち出したところに、鼠の伝説にまつわる重層な伝統を窺わせた。それがたとえば竜や蛇よりも濃いものがあったとは、思えばかなり意外なものだった。

中国絵画の伝統にある鼠の婚礼について、これまでも一度触れたことを付記しよう(「鼠の婚礼」2008年2月5日)。

2008年6月1日日曜日

弁慶なまづ道具

三週間ほど前に起きたパンダの故郷での地震は、いまなお世の中の人々の心を掴ん離さない。連日のように報じられてくる一瞬の惨劇と、それを乗り越えた奇跡の数々に、何回目を潤ませたことだろうか。

地震は、伝統的な絵の画題の一つでもある。日本の絵画の歴史の中でくりかえし語り伝えられ、実際の作品を大事に保存されてきたのは、あの「鯰絵」である。いまから約150年前の、江戸後期に起きた安政大地震を受けて膨大な数に作製されたこの一群の絵は、奇想天外な形で地震の正体を鯰に集約させ、さまざまな格好をする鯰を通じて、地震への恐怖、それを退治する勇気、ひいては理不尽な運命へのやり切れなさを託していた。

インターネットでは、鯰絵についての紹介だけではなく、実際にデジタル画像を載せているサイトも多い。例えば「小野秀雄コレクション(東京大学大学院情報学環・学際情報学府)」は、計36点の作品を掲載し、しかもそのすべてについて文字テキストの翻刻を添えている。鯰絵に登場する象徴的な内容(要石、瓢箪、など)、擬人描写の方法、鯰退治の仕方などに思いを馳せながら、テキストを読み、絵を眺めて、興味がつきない。

中でも、とりわけ読み応えを覚えたのは、表題に掲げた「弁慶なまづ道具」である。長文のテキストをもって、地震にかかわる状況の記録や報道、地震に対応する情報や心得を伝えるという定番に対して、この絵に見られるテキストは、わずかこの七文字しかない。しかも絵柄に登場した鯰は、猛威を振るっているわけではなく、神や民衆に懲らしめられているわけでもない。それはなんと豪華な鎧兜を身に纏り、凛として仁王立ちした英雄然の古武士の姿だった。

いうまでもなく、絵の眼目は、「七つ」と「鯰」という二つの言葉の巧みな文字遊びである。七つ道具と言えば弁慶、ならば鯰それ自身が弁慶に変身したのだった。夜空の月、そばに聳え立つ五条大橋の欄干など、すべて自然に画面に登場した。そこで肝心の七つ道具である。もともと弁慶伝説において、七つ道具のリストには異説が雑然と混在し、熊手、薙鎌(ないがま)、鉄の棒、木槌、鋸、鉞(まさかり)、刺股(さすまた)というのがその中の一説に過ぎない。それに対して、ここに見られる道具は、斧、鋸、木槌と、地震退治のものばかりで、しかもその数と言えば、両手に握られたものを入れると、じつに十に数えるのだ。地震退治のための必須道具の絵リストというものだと気づいたら、文字テキストよりも、絵そのものが一種の情報伝達の効用を担っているに違いない。

ところで、ここまでユーモアたっぷりでいて、遊び精神溢れたものの作製は、地震による苦痛を忘れることを前提とすることだろう。情報におぼれる現代において、一つの事件を忘れるスピードははるかに速くなったとよく言われている。それにしても、八万人に迫る死者をもたらした自然災害の苦難を忘れるには、はたしてどれぐらいの時間が必要だろうか。

鯰絵・小野秀雄コレクション
鯰絵・日本社会事業大学
鯰絵・筑波大学附属図書館

2008年5月25日日曜日

絵巻とマンガの間

ほぼ一年まえのことである。ある集まりで研究発表のあと、オーストラリア、韓国、日本と、めずらしく多国籍の友人、知人のまえで、雑談のつもりで「絵巻は漫画のルーツだ」と持ちかけたら、意外な反応に遇った。いまさらなにを、といった思いを顔に書いたような人もいれば、それはおかしいと、声を大にして反論する友人もいた。この簡単なテーマは、やはり考えを整理しておかなければならないなあと、なぜか鮮明に記憶に残る一つの瞬間となった。

ことの順序として、まずはマンガとはなにか、ということを限定しなければなら。マンガ、まんが、漫画。同じことでありながら、表記からにしてすでにこれだけ豊かなイメージを抱かせてくれている。

今日、実際の表現として使われているマンガとは、まずは一つのタイトルで古本屋の棚の数段を優に占め、それだけを内容とする分厚い週刊誌がウン十万も売れてしまい、子供(だけ)ではなく大の大人たちが読み漁るというあの出版物のことだろう。これに対して、毎日の新聞の最後を飾る四つの枡形からなるもの、普通の週刊誌によく見かける枡型の多めのものもあるが、マンガの一部であっても、どうやら「四コマ」「コミック」といった限定した言い方にはより相応しい。

マンガのことについて、オンライン事典ウィキペディアにはとても読み応えのある記述がある。とりわけ、国語史的な目配りには感心した。それによれば、「漫筆」という表現に対応する形で生まれたこの言葉の最初の使用例は、十八世紀の終わりにまで遡り、十数年も経たないうちに、「気が向くまま」の漫画が、気が戯れる戯画という要素が意識的に付け加えられた。それよりあとは、この言葉がさかんに使われる間に、指す意味がさまざまな形で膨らみ、時代風刺のものから始まり、はてには、七十年代までにアニメや特撮の映画のことまでこれを用いて表現したぐらいだった。ちなみに、この日本発の言葉は、そのまま中国にもたらされ、いまでもほぼ同じような意味合いで使われている。

そこで、マンガの根本的な特徴とは、どのようなものだろうか。やや乱暴に、つとめて最大限に要約するとすれば、「絵による物語」と結論して、あながち間違いではなかろう。となれば、絵巻とマンガとの共通点はどうしても目に入る。もともと、絵巻とマンガどころか、絵巻と現代の映画との共通点を、カメラアングルのレベルで捉えようとする論者さえいるわけだから、同じく紙を媒体とする読み物、ということでは、その距離がいたって近いということが理解しやすい。

絵巻は数百年もまえから延々と作られ、伝えられてきたものだ。出版文化が発達になった江戸時代では、巻物が相変わらずに作られる傍ら、絵による物語表現を目玉とする出版物は、さらにさまざまな形態になって世を賑わせた。そして、今日になって、マンガとは、日本のユニークな文化の代表格と成長した。文化がつねに連続していて、今日の果実はつねに過ぎ去った歴史の中で養育されきたという考えからすれば、絵巻はルーツだ、と主張してよかろう。

いうまでもなくこのような議論は、絵巻への贔屓な視線から出発したものにすぎない、との批判も受けるものだろう。たしかに、似ているところだけ注目し、両者の隔たりを無視したり、過小評価したりすることも、一方では否めない。しかしながら、このようなルーツ論は、もともと絵巻とマンガとのいっしょにくっつけることを目的としない。それよりも、むしろあまり関連のない二つのもの、少なくとも二つを同様に貪欲に楽しむ人々の数がおそらくかなり限られているものを並列させることを通じて、古き絵巻への親近感を呼び起こし、さらにそれへの観察の新たな立脚点が確保できれば、との思いのほうが大きい。そのような目論見がすこしでも達成できれば、有意義なものだと考えたい。

「絵巻とマンガの間」。このテーマには、いろいろな議論の切り口が可能だ。作者の意図、社会生活の中の役目あるいは位相、表現の技巧や定番、などなど、並べれば尽きない。考えをもっと整理していかなければならない。

2008年5月18日日曜日

絵の効用

絵は目を愉しませる。絵はストーリを伝える。しかしながら、歴史記録に目を移せば、絵には、今日のわれわれの常識では測りきれない意外な効用を持っていた。

たとえば、中国の古典に伝わったつぎの逸話を読んでみよう。

話の主人公は、北宋第八代の皇帝徽宗(在位1100-25年)である。北にある遼の国を征伐しようと思いたつが、群臣の反対にあう。そこで、絵画の才能をもつ陳尭臣という人物を得た。徽宗は尚書という職を偽って陳に与え、かれを使者として遼に送り込む。無事に宋に戻ってきた陳は、徽宗の期待に叛かず、「(遼の皇帝が)人君に似ず」「亡、旦夕にあり」との観察を報告した上で、遼の皇帝の顔つき、そして山間の道路や関口を描いた画像を進上した。このような情報は、やがて徽宗に軍事行動を取らせる最終的な理由となったとか。もともと人君の顔とはどういうものなのか想像よりしかないが、地形や関連施設の設置状況などは、大きな軍事的な価値があることはいうまでもない。

この逸話を伝えたのは、南宋の王明清(1127-?)が記した『揮麈録』という書物である。中国の古典の中では、「筆記」という体裁のものに属するが、日本の古典研究の捉え方をすれば、さしずめ「説話」というジャンルの代表作だと考えてよかろう。

ここに言い伝えられている絵のことを、現代の学者は、ずばり「スパイ絵(諜画)」と名づける。いうまでもなく絵の性格上、それの役目、そして作画した絵師の名前が明記されることはまず期待できない。そして、そのような絵が実際に伝わったとしても、おそらく間違いなく肖像画、山水画として分類され、膨大な作品群に埋没されてしまうことだろう。以上の逸話を紹介した一篇の中国語の論文(『故宫博物院院刊』2004年3期掲載)は、現存する絵の中から、内容的に描写が詳細で、しかも描き方としては時代の嗜好とかけ離れた要素をもつ作品を数点取り出して、スパイを目的とした作品だとしたが、自ずと推測の域を出ないということは致しかたがない。

思えば、ビジュアル的な記録の手段を著しく欠けていた古代において、絵画がもつ、文字や音声に並ぶ媒体としての可能性やパワーは、われわれの想像を超えたものがある。そう考えてみれば、政治的な宣伝、宗教的な礼拝など、絵画が果たしていた効用は、たしかに長いリストとなる。それらをすぐに思いつかなかったことは、あるいは、書斎に籠りがちなわれわれに想像力が著しく退化した、というだけのことかもしれない。

2008年5月11日日曜日

絵の動き

絵は動かない。さらにいえば、人間や物事の動きを表現するためには、絵は表現媒体として、あまり向かない。しかしながら、ストーリを内容とする絵巻においては、動きが表現の基本だ。動きがなければ、絵巻自体はそもそも始まらない。

具体的な例はいくらでもある。たとえば、愉快な『福富草紙』の中の一こまを見てみよう。写真は立教大学文学部図書館所蔵の巻物からの引用である。このご老人、作品の題名となる福富という人間ではなく、その人の敵役で、文字通りに福と富を手に入れて出世した秀武という男だ。これを囲む大きな場面は引用しきれないが、それを説明すると、驚異の眼差しを一斉に注いだ老若男女の生き生きとした群集だった。かれらは一様に熱狂し、口々に感嘆の声を漏らしていた。そのような視線と歓声に答えつつ、秀武は一大の芸の見せ場を繰り出していた。描かれている激動した姿や振る舞いからは、さしずめブロードウェーのタップダンスを連想させてしまう。しかしながら、知る人ぞ知っているが、芸、あるいは常人離れのショーであるに違いないが、その内容とはなんと屁を鳴らし続けるというものだった。この話の由来には、けっこう長い歴史があり、この絵巻はそのような滑稽談を絵画化することに成功している。同じ系統の作品には、屁そのものを曲線などを用いて誇張的に表現する構図も見られるが、ここでは、軽快な踊りを持ち込んだことをもって秀武老人の見せ場を表現し、したがって、放屁の芸についての、絵師の一つの理解や工夫だったに違いない。

平面で二次元の絵は、時間的に続く動きを表現するには、明らかに限界がある。絵に描かれたのは、静止した瞬間にほかならない。ここでは、静止をもって動きを表現するための工夫は、いたって単純だ。すなわち、現実の中では一瞬でしかない、静止できないものを画面上に再現するものである。この絵で言えば、秀武の深く曲がった膝、風に高く靡く袖や裾などは、その典型だろう。思えば、限られた空間において動きを表現するに、これが一番経済的な方法である。長く続けられない一瞬の様子であるだけに、それの前後の時間の展開が自然に想像の中で広がり、描かれきれないものも、読む人が虚像をもって補っていくことを誘われる。

まえに絵の饒舌について考えた。それの反対としての洗練も思いに浮かんだ。動きの表現は、絵における磨き抜かれた、細心に配慮を配った工夫の一つだと言えよう。誤解をさけるために、さらに付け加えておこう。饒舌というのは、絵の特殊なケースであるのに対して、ここに見る動きの表現は、絵巻の絵のいたるところに認められて、いわば絵巻の「文法」の基本のなかの基本なのだ。

2008年5月3日土曜日

デジタル複製

この二三日、絵巻に関連する新聞記事では、「デジタル複製」とういう言葉が注目を集めている。見慣れないもので、思わずあれこれと読み比べた。

ことの始まりは、北野天満宮が所蔵している国宝『北野天神縁起絵巻』を日本HP社がデジタル技術をもって複製をし、それを神社に奉納したということである。それをうけて、北野天満宮は、これまで展示してきた明治期の模写を下げて、新しい技術を詰め込んだ複製本を特別展示し、関心ある人々は一つのユニークな媒体を通じて国宝本の姿を偲ぶことができるようになった。

ここに「デジタル複製」という言葉が事の内容を十分伝えていているとはちょっと思えない。新しい試みとしての複製は、デジタルの、あるいはデジタルを通じての複製ではなく、あくまでも一旦デジタルを通過した、デジタルのプロセスをもつ複製なのである。技術としての魅力とは、画像をデジタルに取り込むための精度、そしてそれを紙(この場合は和紙)にプリントする色彩に収斂され、現代のデジタル技術における入力と出力の二つのポイントにおいて、その工夫と到達が提示される。印刷されたものは、伝統的な表装など贅沢な処置を経て初めて展示に耐えうる巻物になるが、ここではとりあえず時代の寵児としてのデジタルが脚光をあびる結果になった。貴重な画像をみるためには、これまでには写真撮影したものを図書という形に印刷したもの(因みにこれを「フィルム複製」とは誰も呼ぼうとしないが)に頼ってきたが、それに比べて、もっと精密になり、しかも、おそらく近い将来により安価に手に入る可能性さえ伺わせる。

興味深いことに、ほぼ時を同じくして、「NHKクローズアップ現代」は、北野天満宮の展示とは関係なく、「デジタル複製」というテーマを取り上げた(「本物そっくりの文化財~デジタル複製の波紋~」、4月15日放送)。しかも同じキーワードを使いながら、きわめて対照的に、これを憂慮するという立場から問題を提起した。商業利用の可能性、本物からの遠ざかりへの危惧、などはその主な理由と見られる。一つの新しい技術的な試みに対して、すかさず文化的な思慮、ひいては憂慮を与えるということは、いかにも日本的な文化バランスを感じさせてくれた。

ちなみに、NHKの番組では、狩野永徳の襖絵などとともに、最近インターネットでデジタル公開された「最後の晩餐」の壁画が触れられたので、さっそくそのサイトを覗いてみた。あくまでもデジタル公開で複製とは縁がないが、160億画素と謳うだけあって、見たことのない視覚内容だ。サイトには親切にも制作過程を記録したビデオまで付いている。画像を取り込むために使ったのは、もちろんNikkonのカメラ、しかももっぱらフラッシュをたき続けていたことにはいささか驚いた。きっと照明ライトを当てるより損傷の度合いが少ないとの判断が動いたことだろう。ちなみに、せっかくの貴重なデジタル情報だが、いまの公開の仕方では、ぱっと見ての楽しみ以外は、まじめな使いようがちょっと考えられないことだけ付記しておこう。

しかしながら、文化人たちの関心の持ちようが如何にせよ、そのような憂慮や議論を横目に、技術はどんどん進む。その象徴的な一場面を、わたしは先の京都の襖絵を取り入れるための技術を紹介するサイトで目撃した。そこでは、人間の体より大きい絵をまるごと印刷してしまうプリンターの外観やその出来栄えを見せながら、その隣では、背中を裸にしたままの女性をスキャナの機械の上に横たわらせた。技術と文化とが異様に交わりあう現場ではなかろうか。

北野天神絵巻、鮮やか複製
最後の晩餐
第3のイメージキャプチャ

2008年4月27日日曜日

絵の饒舌

饒舌。その反対とは、さしずめ、洗練、エレガント、といったところだろうか。一部の絵巻作品の表現は、明らかに前者に属する。ここに一つの典型例を見てみよう。

取り上げたいのは、『後三年合戦絵詞』の中の一場面だ。これをめぐり、これまですでに二回ほど触れていて、ストーリや人物の配置などの構図の概要は、それらを参照してもらおう。(「絵巻に手紙をみる」2007年11月14日、「みちのくに紙」同18日)そこで十分触れられなかったのは、手紙を作成する三人の中の、真ん中に位置する武士の仕種なのだ。この人は、手紙をすでに仕上げたらしく、筆を口に銜えながら、手紙を左手で握り、右手は小刀をかざしてなにやらと手紙に最後の手入れを熱心に施しているところらしい。

巻物にした手紙と小刀、この組み合わせはいったいなにを表現しようとしたのだろうか。

これへの答えを探るためには、平安時代から知識人たちが丁寧に習得し、盛んに伝授して守ってきた手紙の作法というものの存在に目を向けなければならない。上流社会の人々の教養や身嗜みの表われだと大事にされていたものである。そのような作法の主体を成したのは、手紙の文章の書式や用語である。だが、外在的な行動ももちろん作法の一部であった。一例として、守覚法親王(1150-1202)という人が作成した『消息耳底秘抄』から、つぎの二つを紹介しよう。

消息礼
又立紙ノウハ紙ヲ返事ニ名所ヲ切テ用ハ咎ナキコト也。
礼紙事
又礼紙ヲ封タル時。文書多クシテ不被封之時ニハ。紙ヲ逆ニ細ク切テ可封也。秘事也。

二つの作法は、ともに紙を切るという動作に関わるもので、したがって小刀が必要とされるものである。それは、返事の場合、もらった手紙から差出人の名前や住所などを切り取って差し出す手紙のあて先に用いること、そして、手紙にあまりにも多くの枚数を費やした場合、封筒にあたる紙を切り込みを入れて工夫する、という内容である。このような作法が十分に知れ渡っていたものだとすれば、ここの絵は後者の状況を表そうとしたものだろう。すなわち、留守する家族への手紙は普通の長さにはとても納めきれないということを伝えようとしていたに違いない。

一方では、筆を口に銜えるという仕種の意味は不明なままだ。小刀を握る手を空けるために咄嗟の対応だと理解できないこともないが、あるいはそんな単純なものではなく、なんらかの理由が隠されていたのかもしれない。

手紙のありかたを表現するという意味では、後三年の戦場におけるこの小さな光景は、じつに見ごたえのあるものだ。ストーリの内容にどれだけ沿っているかは別として、手紙作成にかかわるもろもろの様相を絵画にするということでは、まさに細かな気配りが行き届いていた。しかも王朝的な文化や伝統に詳しいほど、味わいを感じるということを付け加えておこう。

饒舌とは、普通マイナスなイメージを伴う。だが、絵師の工夫や構図における知的な遊びに波長を合わせることができれば、なぜか親しみを感じて、わけもなく楽しい。そこから、旺盛な表現欲と、過剰なほどサービス精神を感じ取れるからだろうか。

以上の内容は、国文学研究資料館主催の「第31回国際日本文学研究集会」で発表した研究の一部だ。その時の原稿は、同集会の会議録に載せられて、数日前に出版されたことを付記する。

2008年4月23日水曜日

絵巻三昧の二百日

二日前の二十一日をもって、この度の東京での研究生活が終わった。ほぼ一年前に購入した往復の航空券を使ってカナダへの帰路に着き、十五時間の時差をもつ二つの都市の間を十三時間ほど飛び、同じ日付の日にちの、出発する時間より二時間早い時刻にカルガリーの空港に到着した。綺麗な花々が満開する東京から離れて、自分のホームタウンは、時はずれの大雪に襲われ、午後三時にはすでにマイナス8度の気温になっていた。東京の春をあれだけ満喫してきたにもかかわらず、今年も冬を逃さなかったとのことで、なぜかほっとした。

去年の秋に東京に渡り、国際交流基金の助成を受け、滞在する立教大学の諸先生、学生たちに暖かく迎えられ、サポートされて、じつに快適な研究生活を過ごすことができた。そのような時間はあっという間に過ぎてしまい、いまとなっては思い出となった。

その中においても、このブログの経験は、なんとも楽しかった。振り返ってみれば、去年の十月初めにブログを立て上げ、ちょうど二百日に及んで、計五十九のタイトルを書いた。ほぼ周二回のペースを守り抜いたことは、どこか不思議な気さえした。

絵巻のことを思いが向くままに書いてみるということは、いつもリラックスした時間だ。ここにさまざまなテーマを触れてきた。いろいろなところで講演、講義、研究発表など交流の場を与えてもらったこと、滞在生活の中での見聞、日本でしか体験できない季節の移り変わりなど、取り上げるテーマの直接なきっかけだった。一方では、実際にブログを運営して分かったこともけっして少なくなかった。テーマの選び方や書き方に理由があるに違いないが、実際にブログに書き残されたフィードバックは、予想したよりはるかに少なかった。いくつかのブログを愛読しているだけに、自分の表現力がこんなに未熟したものだと、気づかされるものだった。

カナダに戻り、教えること、勤務先の雑務など、また違う生活の内容と日常となる。しかしながら、研究はあくまでも絵巻に絞りたい。そのために、東京滞在の研究期間限定のつもりで出発したこのブログも、しばらくは不定期で続けてみよう。これまでよりはやや間隔を持たせ、その代わりに書き方などにもうすこし工夫をしようと考えている。

この場を借りて、過去数ヶ月の間に出合い、再会し、さまざまな形でお世話になった人々に感謝を申し上げたい。

2008年4月19日土曜日

人を笑う

数年前の話だ。身近にいるある学者と日常的に交流をもっていた。かれの関心は、古典における人間の体の表現、絵巻も自然にその対象だった。ある日、一つの単純な質問をぶっつけられた。「病草紙」に見られるあの笑いとは、なんなんだ?不意を打たれて、まったく答えられなかった。

この質問は、いまでも時々反芻し、あれこれと答えを並べてみる。

「病草紙」は、病気をテーマとするもので、日常的に出会うものというよりは、かなり極端なものにより興味を示していた。そして、ただその病気を並べるだけではなく、それを見つめ、それを人に見せて語り、結果を共有することを表現の方針としていたように見受けられる。その態度とは、病気、というよりも難病をもつ人、すなわち自分の力ではなんともできない、いわば不幸の人を笑いにする、というものだ。(写真は国宝「病草紙・ふたなり」より)そこから一つの笑いの仕組みを見出そうとすれば、弱者、少数者のものに対して、普通の人々の常識に違反するという見地から、それを不可思議なものだとして笑い飛ばす。この笑いは、事実の確認から出発するものであり、しかも悪意がなく、考えようによっては、いたって健康的だったとさえ言える。

いうまでもなく、現代生活において、以上の笑いの仕組みは、人間の平等という理由で、極端に除外されるようになる。弱者でも、弱小のグループの存在でも、その尊厳を尊重し、その存在を理解し、助ける。同じ事実に対して、笑いの代わりに同情を、さらに同情さえ顕にしないという振る舞いが良しとするようになる。このような新たな価値観の形成に伴い、「病草紙」のような笑いは、作品が古典であることを主張するがごとくに、歴史の向こうに押し出された。

ここにたいへんとっぴな結びを記す。中国では、「病草紙」と同じ原理をもつ笑いは、いまなお根強く存在している。テレビでいつでも高い視聴率を取る「小品」と言われるコメディーでは、これを根底にする着想のものは、いまなお実に多数上映されている。そのような番組を目にし、テレビの中やテレビの周りから伝わってくる陽気な笑いを聞く度に、「病草紙」を思い出してしまう。

2008年4月16日水曜日

絵巻の使い方

たとえば近年出版された規模の大きい歴史辞書、それから古代や中世の歴史を分かりやすく紹介する入門書、解説書などの出版物には、絵巻の画面がよく使われている。そこでは、絵巻そのものについての関心が薄く、ただ辞書や解説書の内容に沿って、それに対応できそうな絵巻の画面を選び、ほんの一部分のみを切り出して載せるものである。それは歴史人物や寺院などの宗教建築だったり、戦争や火災などの歴史事件だったりする。一枚の絵は、時に百も千もの言葉に勝る。絵が用いられたことにより、述べられている内容はぐんと身近なものとなり、生き生きとしたものに映る。

いうまでもなく、そのような出版物を通じて、絵巻の画面も大きく知られるようになった。こんな素晴らしい絵があったものだと、改めて認識されることが多い。

ただし、以上のような絵巻へのアプローチ、すなわち絵の使い方が、一巻の絵巻が表現しようとした文脈から離れ、想定していた読み方と関係ないということを、われわれはつねに覚えておくべきだろう。絵巻は、特定の人物の顔や身体特徴などを記録しようとした写実的な表現形態ではなかった。それよりも、絵と文字との競演により、連続した文脈をもって、特定の状況、伝説、物語、極端に要約すればストーリーを伝えようとしたものだった。

中世の歴史に目を向ければ、絵巻とは最大の、ときにはほぼ唯一のビジュアル文献群である。そのため、教育などのために知識を視覚的な要素を交えて伝えようとすれば、そこにはさほど多くの選択の余地が用意されていない。そして、何よりも絵巻という資料群は、そのようなアプローチを拒んでいないどころか、その豊かな内容と平易な表現をもって、さまざまな試みを向こうから進んでを誘ってくれている。したがって、わたしたちに出来ることは、つねに初心に戻り、絵によって語られようとしているストーリーを理解し、吸収するという愉しみ方を忘れないでいるということだろう。

2008年4月13日日曜日

大織冠鎌足の美人局

昨日の「読売新聞」には絵巻の話題が報じられ、友人はさっそくそれを教えてくれた。前に書いた蘇我入鹿の暗殺(3月30日)と同じく藤原鎌足を主人公とするものだが、こちらのほうはいわば鎌足伝説のもう一つの極端を為すものだった。

これは、いわゆる「大織冠」と呼ばれる伝説である。大織冠とは、大化改新の結果の一つである冠位の最高位階であり、これを授けられたただ一人の人は藤原鎌足だったため、自然にかれの尊称と化した。「大織冠」というストーリはまさに奇想天外なものだった。その粗筋をごく簡略に述べてみれば、およそつぎの通りである。

藤原鎌足は、自分の娘を唐の太宗に嫁がせ、太宗からの返礼に釈迦の霊物を納めた玉が与えられ、万戸将軍がそれを守って日本に送られてくる。しかしながら、玉を狙って竜王は武力による強奪を企てるが失敗し、代わりに竜女を送り込み、万戸がその色仕掛けにまんまとはまり、玉を失ってしまう。ここに、宝物を奪え返そうと鎌足が奮起する。だが、その大織冠が取った奇策とは、同じく色仕掛けを仕返すというものだった。自ら海女と契って子を儲けさせ、その海女を竜宮に送り込んだ。海女は、玉を盗んで手に入れるところまで成功したが、企てがばれて殺される。海女の体を引き上げてみれば、玉は乳房に隠されていた。やがてそれが興福寺の本尊の眉間に納められるという目出度い結末となる。ストーリを読み返して、謀略と強奪、情欲と信仰と、まさに混沌とした中世的な世界をわずかに垣間見せてくれるような強烈なものだった。

以上の伝説の中核は、遠く『日本書紀』にすでに備わり、寺の縁起などによって伝承されていた。室町時代になって舞台芸能(幸若舞)として上演されて、ストーリのプロットが完成された。一方では絵画の作品でもこれをテーマの一つとし、絵巻のみではなく、屏風絵などもたくさん作成されていた。

因みに、絵巻の公開を「読売新聞」の全国版と関西版はやや異なる文章で伝えている。たとえば拝観料のことまで報じた内容は、地方と密着して頷けるが、室町時代の絵巻を紹介して「現存最古」云々と記事のタイトルに出すこと辺りは、混乱を招くだけだろう。(写真は志度寺蔵『大織冠絵巻』、『朝日百科・国宝と歴史の旅』より)

鎌足伝説描いた絢爛絵巻、初公開へ…京都・慈受院門跡
鎌足伝説あざやかに、現存最古「大織冠絵巻」初公開へ

2008年4月9日水曜日

人質事件発生だ!

絵巻には、代表的な画題、互いに共通する構図が多い。一方では、時には突拍子もない事件がテーマとなり、予想もしないような状況が目の前に展開してくる。『宇治拾遺物語絵巻』に描かれた人質事件の顛末は、まさに良い例である。

ストーリの主人公は、甲斐国の大井光遠という相撲取りの妹である。歳は二十を超えて、見目麗しき、なかなかの美人との評判だった。ある日、強盗が入ってきて、よりもよって一家の大事なお嬢様を人質に取った。慌てふためいた下人たちとは対照に、お兄さんの光遠はいっこうに動じる様子がなかった。人質の現場はと言えば、女性はうす色の衣に紅の袴という寛いだ格好で、強盗の恐ろしげなる男は短刀を逆さに握り、足を伸ばして乱暴に女性を後ろから押さえていた。しかしながら、ここに信じられない逆転が起こった。女性は声を上げていながらも、右手で目の前の二三十本の矢を軽々と床に押しつけると、頑丈な矢は粉々になってしまった。男はあっけに取られ、自分はとても敵わないと悟って逃げ出し、その場で取り押さえられてしまった。

以上の世にも痛快なストーリは、『宇治拾遺物語』に伝えられるものだった。そこで同じタイトルの絵巻(陽明文庫蔵、狩野探幽他画)はこれを丁寧に絵画化した。恐ろしい形相をする男はもろ肌を脱いで短刀を逆さに握り、刃の先は女性の首ではなく体に向けられている。しかも左足はたしかに女性の体の後ろに回し、体全体で女性を押さえつけている。女性は前かがみに座り、手はが散乱した矢に伸びている。建物の入り口からは、男たちが緊張した面持ちで中を覗き込み、さしずめハリウッドの映画の中によく見かけられる野次馬か警察の顔を連想させてくれる。

しかしながら、矢に伸びた女性の手は、右手ではなくて左手だった。絵師のいささかな不注意からだったのだろうか。それとも、あくまでも典型的な王朝絵画の画題の伝統を守りたいが一心で、美女を描く絵の型をそっくりそのままここに持ってきただけのことだろうか。

2008年4月6日日曜日

祥雲に乗った楽器たち

遠来の友人を誘い、前回書いた「花下遊楽図屏風」を拝観し、ほんのりと照らされた夜桜を博物館の閉館間際まで堪能した。それと共に、博物館本館で開催されているもう一つの企画展示「絵巻――模本が伝える失われた姿」をも楽しんできた。

そもそも絵巻の模本は、公の場にあまり取り上げられていない。学術研究の見地からいえばいずれは避けて通れないものであり、しかも実際の古本の市場においては評価が日に々々増しているが、その扱い方にはいまだ十分に定まっているとは言えない。その中にあって、この展示のタイトルには強く惹かれた。

特別陳列は、「失われた絵巻たちを模本を通じて見」るという方針のもとで、『天狗草紙(興福寺巻)』はじめ九点の作品を十分にスペースを取って展示している。その中では、とりわけ『大山寺縁起絵巻』の一続きの画面を思わず見入った。

画面が表現したのは、仏の来迎と浄土への往生というテーマである。しかしながら、吉祥天女といった見慣れた構図を取らず、その代わりに瑞祥の雲に乗ったのは、数々の和楽器であった。笙、篳篥、笛、小太鼓、鉦鼓、書き出すとじつに長いリストになる。それらの楽器の一つひとつは、人の手から離れてそれだけで舞い上がり、長くて綺麗な帯をたなびかせながら、まるで命を得たがごとく空の彼方へ飛び行く。浄土への往生というテーマにおいては、祥雲の上に、貴人、牛車、輿、ひいては人を乗せたままの馬など、さまざまな構図が絵巻の中で確認されている。その中でも、突然に生命を得た楽器という物体群は、なんとも異様で、奇抜な想像を見せている。

絵巻の前に立ち尽くして、画面の表現から食み出した突拍子もない連想を捉われ、それをあえて記しておこう。空を飛び上がった物体は、なぜかわたしには、賑やかに都の夜を繰り出したあの百鬼夜行の行列を思い出させてしまった。人間の常識を超えた生命力が、画面の奥からひしひしと伝わったからだろうか。

絵巻――模本が伝える失われた姿

2008年4月2日水曜日

花見を眺める

東京は、桜のシーズンを迎えている。学生時代に住んでいた京都の街並とは違って、満開の桜が街角全体の色を変えてしまうというような迫力を持たないが、その代わりに、公園や並木の中の一本や二本の桜は、まさに木々の中の花に見えて、特別な風情を感じさせてくれる。

いうまでもなく、花見とは、一つの日本ならではの年中行事である。花見の歴史は長い。遠く平安時代の「右近の桜」から始まって、これを人為的に植えて愛でるという伝統は早くから根付いていて、綿々と受け継がれてきた。

中世の、室町時代の花見の風景とはどのようなものだったのだろうか。たとえば狩野長信(1577-1654)筆「花下遊楽図屏風」(国宝、6曲1双)左双を眺めてみよう。ここに描かれたのは、明らかに花を主役とする、日常から離れた平和で賑やかなひと時である。画面のほぼ中心に据えられた数台の駕籠がなにげなく伝えているように、ここはだれかの邸宅ではなく、空間的にも普段の生活の場から切り離された、まさに浮世を抜き出たところだった。長い幕に括られた庭の中で、静かな自然を打ち破るかのように、声高らかな歌や囃子が辺り一面を一変してしまう。花見をする人とは、あくまでも縁側に座った少人数の面々だろう。これらの貴人を囲み、人数の上ではそれの数倍にあたる人々は、踊りを演出したり、食事の準備をしたり、駕籠を担いだあとの休憩をしたりと、それぞれの役目をもってこの行事を支えている。ただしそのような仕える人々でさえ、華やかな風景に溶け込んでいて、それを存分に楽しんでいる。

念のために書いておくが、この画面の半分を占める木は、桜ではない。だが、同じ屏風の右双はこの場面の続きを描き、そこにはりっぱな桜がいっぱいに満開している。

「花下遊楽図屏風」は、いま東京国立博物館本館(日本ギャラリー)にて展示されている。あわせてライトアップされた博物館の庭園では、「博物館でお花見を」との行事が開催されている。今週の日曜日までだ。

博物館でお花見を

2008年3月29日土曜日

蘇我入鹿の暗殺現場

千四百年もまえに起こった大化改新につながる蘇我入鹿暗殺の現場など、現代のわれわれにはとうてい覗きようがない。しかしながら、それがかつて絵巻に描かれていたのだ。それもさまざまな規模の戦乱が後を絶たない物騒な室町時代に作成されたものだから、やはり特別視しなければならない。

じつはこの話題を持ち出したのは、一昨日の朝日新聞(関西)オンライン記事である。談山神社が所蔵する「絹本著色多武峯縁起」が、28日に「中世の社殿縁起絵巻の優品」として奈良県の県指定文化財となったものである。注目度の低い一点の絵巻がクローズアップされて、嬉しいかぎりだ。

上の記事では、絵巻上巻之ニから一つの場面を選んで併せて掲載した。それはほかでもなく鎌足や中大兄皇子らが入鹿の首をはねる場面である。畳の上正座していた思われる入鹿は前屈みになって倒り、冠は畳の外に放り出され、体・両手・冠という四点に囲まれた真ん中は、首を失った真っ赤な胴体の切り口だ。思わず首の行方を探すが、それはなんと上向きのまま高々と空中に飛び上がった。目を背きたくなるような、凄まじくい構図だった。

残虐性とは、間違いなく中世の絵巻の特徴の一つである。さまざまな倫理の制限を受けて、今日のビジュアル表現ではまずは不可能に近いようなものであり、その分、戦乱に満ちた世の中の息吹を強く感じさせられるものである。いわば中世と現代との感性の距離を極端に示していると捉えられよう。

因みに同じ絵巻は、「奈良地域関連資料画像データベース」の一点として奈良女子大学図書館によって早くからデジタル化され、オンラインにて公開されている。

蘇我入鹿の暗殺描いた絵巻秘蔵500年ようやく光(朝日新聞・28日)
絹本多武峯縁起絵巻(上下巻4巻)

2008年3月26日水曜日

デジタル情報の担い手・その二

数ヶ月前、同じタイトルで書いてみた(2007年12月16日)。去る日曜日のチェスタービーティー・ライブラリーでの研究発表では、その文章で述べたいくつかの要点を触れた。発表が済んだあとの夜の飲み会で、図書館の運営に携わったある方と興味深い議論を交わすことできた。同じことに対する違う立場からの鋭い視線を教わり、ぜひともここで紹介したい。

<前回に書いたことの引用>
「たいへん貴重なデジタル情報を提供していながら、それをなんのために提供しているのか、図書館という役目には沿っているかどうかということに、曖昧なままに続いていることが読み取れる。」
<ご指摘>
図書館の運営だって、大学なり政府機関なり、それの母体があるものだ。そのような機関の思惑、方針、ひいては利益が図書館の運営に反映されることを見過ごしてはならない。
<コメント>
社会の一部分である図書館である以上、すべて図書館の倫理だけで動くことができないことに気づかされた。ならば、良識ある意見を図書館のみならず、社会全体に訴えるべきものだ。

<引用>
「これまでのデジタル情報の公開者からは「公開されたものが悪用されはしないか」との心配はよく聞かれる。」
<ご指摘>
文明の進歩という目で見れば、「悪用」だって一種の情報応用であり、それをすべて除外するわけにはいかない。
<コメント>
まさに情報を取り扱う立場からの発言であり、寛大な心を表わしているだけではなく、文明進歩の本質を見極めた上での発言だと言いたい。悪用とは悪だと、良識をもつ人なら判断できるはずだ。しかも、価値ある情報は、悪用までされれば、「善」用が必ず付くものだと信じて良かろう。

<引用>
「それのもっとも端的な動きは、グーグルと慶応大学図書館との共同作業だろう。」
<ご指摘>
営利を目的とする一会社が、営利の見込みなど到底ない分野への進出は自ずと限界があり、そのうち失敗を悟って撤退するのではなかろうか。それに翻弄されないことがむしろ大事だ。
<コメント>
情報の使用者である読者の目とそれを管理・提供する図書館の役割との距離を端的に感じさせられた見解である。問題の本質をよく考えているだけに、傾聴すべきだ。ただ、あえて反論を加えよう。ここの「商品」とは、人間の知恵の集合であるだけに、たとえ営利という目標が成功しなくても、その成果が完全に切り捨てられ、なにも残らないという結果にはならないことだろう。まして、営利としても成功するというシナリオを完全に除外することなど、まだ早すぎる。現にわれわれの目の前には、JSTOR (Journal Storage) 、CAJ (China Academic Journals)といった成功したビジネスモデルがすでに存在しているものだから。

なお、このような交流ができることは、まさに学会ならではの魅力だ。ブログの性格上、個人名を記さないが、つたない発表をここまで聞いて、正面から反論を聞かせてくれたことに深く感謝する。

2008年3月23日日曜日

チェスタービーティー・ライブラリーより

いまは、アイルランドのダブリンにあるチェスタービーティー・ライブラリーに来ている。国際会議に参加するために、約一週間の滞在となる。貴重書閲覧室、特別展示ホール、そして学会の会議室に出入りする、まさに夢のような時間の続きである。

ライブラリーは、2000年にここダブリン城の一部となる広い庭園に建てられたビルに移ってきた(写真)。展示などはすべて無料で公開され、観光客の訪問も後を絶たない。チェスタービーティーという名をもつコレクションは、2万点以上の書籍、美術品からなり、まさに量・質ともに世に誇る。紀元2世紀に遡る聖書などをはじめとする十の西洋のコレクション、二つのイスラムのコレクション、中国、日本、チベット、南アジアの四つのアジアコレクションに分けられ、日本関係のものの中では、写経、浮世絵、鍔などの古書、古美術品に並んで、約120点に及ぶ絵巻、御伽草子(英語の説明は「Nara Ehon」)が入る。この「奈良絵本」作品群こそ、日本中世の研究において過去四十年多大な注目を集めきたものであり、しかもNHKの特別番組、天皇陛下のご訪問、作品の里帰り展示や修復など、広く紹介され、その都度話題になるものである。一方では、普通の人々の知識にあまり上らないこともたしかで、たとえば観光客のほぼ一人一冊持っているあの観光ガイドブックも、かなりの文字数をこのライブラリーに使っていながらも、絵本などの文字はついに現れていない。

記憶の中では、チェスタービーティーという名前は、学生時代の恩師への思い出、仕事駆け出しころの掛け替えのない出会いなどに繋がる。それらを思い起こしながら、ここ数日、資料調査では数々の名宝、秘宝をじっさいに自分の手で披いて拝見し、学会や懇親会では過去四十年の間にそれぞれの研究に携わってきた研究者本人の思い出や報告を聞き、思いを整理するには数倍の時間が要るような充実で至福な時間を過ごしている。

わたしの発表は今日の午後と予定している。そのテーマは、「御伽草子研究におけるマルチメディアのアプローチ」。ここで数回書いた「音読・義経地獄破り」も発表の一部として報告する。この素晴らしき古典コレクションが、自分のやや一人よがりなアプローチまで受け入れてくれることを内心に祈りつつ。

March Nara Ehon Conference

2008年3月18日火曜日

『義経地獄破り』雑感(宮腰直人)

今回、楊さんのお誘いで、勉強し始めた頃から関心を抱いている『義経地獄破り』の現代語訳の「音読」を試みる機会を得た。不思議な魅力をもつ、「音読」の世界にふれる貴重な機会をくださった楊さんにまず感謝申し上げたい。

「音読」をやってみてわかったことは、声をだして物語を読むという行為が思いのほか楽しいという事実である。たどたどしくも文字を声に変換し、物語を追いかけることが、テキストの起伏を丁寧にたどることになる。テキストにいつも声が従うわけではない、むしろ、慣れない音読においては声がテキストを省略したり、言いやすい言葉に言い換えたりする。物語の見せ場では気分を高揚させるし、教えが示される場面では、一つ一つの言葉を味わいながら、じっくりと読むことになる。「音読」は、自分のなかの「語り手」と「読者」がせめぎあう様を発見する装置となるのだ。今回の音読によって、例えば怪力の武者たちが勢ぞろいする、地獄の門破りの場面はやはり盛り上がる場面だったのにちがいないことを実感した(「動画絵巻」 2008年3月12日)。

物語の読者が語り手でもある――ごく当たり前のことのようだが、現在の私たちには、案外実感としてつかみにくいことのようにも思う。テキストに導かれるままに「音読」すると(忠実に「音読」することは難しいと痛感)、そこには読み手の力量に応じた物語の世界がそこにあらわれる。読み手の数だけ、そこに物語が生まれるのである。滅多に紐解かれることのない、「秘蔵」の絵巻も含めて、一巻の絵巻、一册の絵本に秘められた様々な可能性が探られてよい。「音読」は、その試探の重要な手がかりの一つなのである。

ささやかな「音読」体験からは、テキストの言葉が、時間や場所、相手等、状況に応じて変換し得ることがすぐに想像される。さらに『義経地獄破り』が絵も伴うことを加味すると、テキストの言葉は、周囲に絵があったかどうかでもその改編の度合いは異なっていたのだろうことが想像される。中近世の文芸、とりわけ絵巻や絵本には、言葉と絵、そして音声と、様々な語りの媒体をめぐる、たいへん興味深い問題が横たわっている。テキストを尊重しつつ、「音読」から示唆される、柔軟性のある物語経験を捉えてみたいと思う。

さて、じつは『義経地獄破り』には、物語内の私たちの代理人ともいうべき、「修行者」がいる。詳しくは『甦る絵本・絵巻義経地獄破り』を参照して頂きたいのだが、少年姿の「修行者」によって、読者は存分に義経達の活躍を楽しむことができるのである。私が夢想するのは、彼になりきって、地獄破りの物語内外に溢れていた声や音に耳を傾けることである。この点につき、注目すべきことがある。それは、前後関係は定かではないものの、『義経地獄破り』が古浄瑠璃正本でも刊行されていたことだ(『新群書類従』九)。太夫により語られ、人形によって演じられた義経の地獄制覇の物語は、絵本の読者たちとどう響きあっていたのだろうか。

「音読」から絵巻や絵本の世界にふれるとき、黙読とは異なる、もうひとつの親密な物語の世界が開けてくることは間違いない。ただし、それがかつての読者たちの経験とどこまで重なるかどうかは慎重にならざるをえないのだけれども――『義経地獄破り』を人々はどう読んでいたのか。あるいは絵本の作り手たちは、どんな思惑でこの物語を送り出したのか。この問いを考えるヒントは、どうやら古浄瑠璃正本『義経地獄破り』の「音読」にありそうだと、今密かに考えている。

【「音読・義経地獄破り」共同作者の宮腰さんが原稿を寄せてくださった。深謝。】

2008年3月15日土曜日

ニュースガジェットに「絵巻」をみる

デジタル環境の特徴の一つは、目まぐるしく変わっていることだ。いつの間にかまったく新しいコンセプトが現われてきて、あっという間に日常のスタイルを変えてしまう。「ガジェット」というのも、その一つだと数えられよう。日本語としてどうも響きがしっくりとこないが、これも間違いなく適当な訳語が見つからないまま、カタカナ新語リストに加わることだろう。

ガジェット(gadget)とは、道具、装置、仕掛けのこと。いかにも遊び要素の強いこの言葉をデジタルの世界に取り入れたのは、おそらくグーグルで、それに続き、Vistaの環境に組み入れられて急に脚光を浴びた。分かりやすく言えば、ごく限られた作業を見た目をかなり意識して小さく纏めたユニットのことで、ユーザは自分の選択でそれを選び、好きなように自分の環境に組み入れる。

インターネットでのガジェットの使い方の一つは、個人用のページを作ることだろう。グーグルやヤフーが力を入れて提供しているサービスだ。いわば個人のページを作って人々に見せるという作業とはまりっきり反対のもので、「iGoogle」「My Yahoo!」といった個人のページは、溢れんばかりの情報を自分の必要にあわせてコンパクトに纏めるという、自分一人だけのための環境作りだ。そのようなページの作り方は、まさに無数のガジェットを選んで並べることだ。これにより、ブックマークを頼りに一つひとつのサイトを訪ねて行く代わりに、さまざまな情報が自分のページに上がってくる。例えて言えば、図書館に入って本棚を眺めるのではなく、新聞を毎日届けられるように取り寄せるというスタイルだ。

自分用のそういうページには、時計、天気、路線、住所調べといった定番のものを並べている。その中で、ニュース関係では「Google ニュース・カスタマイズ」というのを選んだ。サーチのキーワードを入れておけば、それに関連する記事を地方の新聞も含めて取り出してくれる。とりあえず「絵巻」を入れた。その結果、平均一日に一点の新しい記事が報告されている。ちなみに記事内容の傾向は、このブログに書いた(「現代生活の絵巻」2007年10月18日)ことを確認したものだと付け加えておこう。

HANATSUKI

2008年3月12日水曜日

動画絵巻

前回に続き、最近作成した「音読・義経地獄破り」について書いてみる。

サイトのオープンページには、「特別バージョン:音声と画像の連動」というのを設けた。実はこのささやかな音読シリーズにおいて、最初からこの画像との連動、いわば「動画絵巻」を試してきた。パソコンのマルチメディアという環境を古典に持ち込むための楽しい可能性を探りつつ、音声と画像との連結のみならず、時間軸をここに取り入れ、音声の進行により画像を動かし、変化させるということで動画を実現し、それによって、目と耳と両方を働かせる古典の享受ができるのではないかと、ずっと思い描いていたものだった。

一方では、これまであくまでも「特別バージョン」として、絵巻のほんのわずかな部分だけを対象にしてきた。画像の所有にかかわる著作権のこともさることながら、技術的にはあれこれと試行錯誤をしているのもたしかだ。わたしの考えるところ、理想的な「動画絵巻」には、少なくともつぎの三つの技術的な条件を満たさなければならない。一つ、ある程度以上の画質。「ある程度」とは簡単に定義できないが、とりあえず「YouTube」の動画より精密で、文字がはっきりと読み取れる、ということを基準にしたい。二つ、基本的なパソコンの環境に対応すること。動画を再生するには、あれこれのコーデックやらプレーヤーやらが必要だとされるものが多いが、一つの動画を再生するためにわざわざパソコンの設定をいじることはなんとしても避けたい。三つ、オンラインにて素早くアクセスできて、しかも個人のパソコンに保存できること。せっかくの動画再生を途中にファイル転送で待たされたとの苛立ちだけは、強制したくない。画質とスピードとはつねに矛盾するものだが、幸いインターネット環境の進歩によりこれの解消も現実になりつつある。

これまでの四つの音読サイトでは、Windowsのプレーヤー(wmv)、Flash(swf)、それに自分が作成したオリジナルプログラムといった、違う方法を意図的に試してきた。その中で、あるいはこの新しいサイトのほうが上記の条件に一番近いかもしれない。

つぎは今度の二つの「動画絵巻」のリンクだ。どうぞ試しにクリックしてファイルをパソコンに保存し、あとはMSメディアプレーヤーでゆっくりご覧ください。

義経地獄破り・第七節(文字)
義経地獄破り・第七節(絵)

(これを書いている最中に、熱心な読者からメールをいただき、「義経」音読サイトのリンクの間違いを一つ指摘された。この場をかりて感謝を言いたい。)

2008年3月8日土曜日

「音読・義経地獄破り」

インターネットを通じて、絵巻を愉しんでもらうということを目指して、これまでささやかな「音読」シリーズを作ってみた。数日前、その四作目を作成した。取り上げたのは、アイルダンドにあるチェスター・ビーティー・ライブラリー所蔵の絵本「義経地獄破り」、数々の義経伝説の中でも、奇想天外で、一風変わった作品である。

この音読シリーズは、原文の翻刻、原文と現代語訳という二つの内容の朗読に加え、テキストと音声ファイルのパソコンへの保存を簡単にできるという方針を取っている。その中で、今度の四作目は、これまでのと違い、現代語訳の底本をすでに出版されたものを用いることが出来た。三年ほどまえに勉誠出版から出版された絵本全文収録の同タイトルの書籍によるものであり、しかもその作者の一人で、現代語訳を施した宮腰直人さんが快く現代語訳の朗読を担当してくださった。「音読」シリーズにおける最初の合作サイトである。

日本古典の絵巻や絵本は、美しい絵と文字を目で楽しみ、そして文字に記された内容を読み上げてもらって耳で聞く、というマルチ的な形で享受されていた。画像や音声の記録のみならず、それらの伝播もインターネットという斬新な手段が得られた現在、手に入れた新しい技術によって、旧き良き楽しみ方を新たに体験することにより、絵巻絵本の魅力の再発見に繋げたい。

「音読・義経地獄破り」は、上下二冊、計13節、1万文字を超えた文字テキストを対象にし、原文では41分、現代語訳では26分の朗読となった。一節々々の音声をサイトに載せられた文字を目で追いながら聞くのもよし、あるいは音声のみをパソコンにダウンロードしてiPodでも使って散歩に持ち出してもよし、と、お暇な折にぜひお試しください。

音読・義経地獄破り

2008年3月4日火曜日

贅沢な「耳学問」

今日も興味深い古日記に見られる一つの記事を記しておく。古代の日常生活の中でどのような声が飛び交っていたかということを考える上で、あまりにも強烈な実例なのだ。

この記録は、「天下一の大学生」との誉れをもつ藤原頼長(1120-1156)の日記『台記』に収められたものだ。康治2年(1143)11月17日の条に、つぎの通りの文字が見られる。

「余近年学経、不暇学史、因之、自今春命生徒五人、食物及沐浴之時、令語南史要書三反、昨終其功。(余、近年経を学し、史を学する暇なし。これに因り、今春より生徒五人に命じ、食物及び沐浴の時、南史要書を三反語らしめ、昨その功を終ふ。)」

千年近くも前の記録なのに、「生徒」「食物」といった、今日でもきわめて身近な言葉の数々に驚く。あえて記事全体を現在の言い方に置き換えれば、おそらくつぎのような文章になるだろう。

「私は、近年、経書を学び、史書を読む暇がない。そのため、この春から五人の教え子に頼み、食事あるいは入浴の時、南史要書を三回ほど読み上げらせ、昨日をもって目出度くすべて終了した。」

わずかな説明を加えるとすれば、『南史』とは中国歴史書の「二十四史」の一つで、南北朝時代(439-589年)の南朝にあたる四つの国の歴史を記したものである。『南史要書』という書物は、きっと『南史』を抄出した平安時代の注釈書だったのだろう。

思えば、読みたい本があっても事情により適えられず、そのため、目で読む代わりに、生身の人間を録音機よろしくと働かせ、内容を耳で聞くという、まるで至福の勉強法だった。まさに耳から入るまともな学問、今日のわれわれにとってもいたって耳寄りの話だ。考えようによれば、iPodといった音声を記録する道具の普及により、生身の人間を立たせなくても済むというのが、この千年の間の文明のわずかな変化だとすべきかもしれない。

2008年3月1日土曜日

縦書きHTML

HTMLとは、いうまでもなくインターネットのウェブサイトを組み立てるためのプログラミング言語である。普通のテキストファイルの形を取り、その中にさまざまな定義付けのフレーズ(マーク)を入れる。それがサイト閲覧をする人々の各自のパソコンで読み取られ、サイトの内容と共に、色、フォント、レイアウトなどさまざまな情報を確定する。

ここ数日、これに関連してぶつかっている難問の一つをここに記し留めておく。

以上のような仕組みなので、読者が選ぶサイト閲覧のソフト(いわゆるブラウザー)の違いにより、最終的なサイト表現には差が出てしまう。いまやかなりの人々は、Windowsに付随するIEというソフトを使っている。一方では、閲覧の軽快さを求めて、IE以外のものを選ぶ動きも根強くある。その中で、最近Firefoxというのを使い始めた。さっそく安心して使えるようになったが、そこにいまの問題に気づいた。なんと自分が作っている「音読」ページは、これではきちんと表示できないのだ。

「音読」ページには、一つのささやかなこだわりがある。絵巻の絵などを出さない代わりに、文字テキストの作成に自分なりの校正をし、しかもそれを読みやすくて、簡単に使えるような形にする。具体的に言えば、それを縦書きにし、しかも文字テキストのままにして、ハイライトしたらコピー・ペーストで引用できる、というものだ。さらに原文にあるフリガナも絵巻の文体の大事な特徴だと考えて、再現したい。

上の考えにより、「div」というマークを使って縦書きを実現した。ページのレイアウトもそれなりに読みやすいと思った。しかしながら、それはFirefoxでは再現できないと気づいた。よくよく調べてみると、「div」マークは、そもそもIE専用のものである。Firefoxなどのソフトに掛けると、内容自体には変わりがないが、肝心の縦書きが横書きになったしまう。

テキストファイルの内容を縦書きにする他の方法はないかと、あれこれと調べてみたが、いまだに満足するものには出会っていない。文字の並べ方を変えた上で文字間隔を調整して横書きをもって縦書きのように見せかける方法が一番普通のようだが、それではハイライトしてコピーしても使えなくて、テキストファイルを使う意味がなくなる。文字を一字ずつの縦長のフレームに閉じ込めるという方法もあるが、スペースや記号に対応しなくて、なによりもフリガナが表示できない。

結果として、いまでも試行錯誤をしている。パソコンの作業にはつねに妥協が必要とする。一方では、一つの表現である以上、表現するための本来の目標もじっと見つめ、最大限に実行したい。

2008年2月27日水曜日

日本義民之鑑

手元に一枚の美しい刷り物がある。タイトルは「日本義民之鑑」。作者や制作の時間などの情報は一切記されておらず、絵の内容やスタイルなどから、恐らく明治に入ってからの作品だと思われる。三十の枡形に等分された一面は、それぞれ要領の良い説明を添えて三十の伝説のエピソードあるいは名勝旧跡を描く。

ここにいう「義民」とは、江戸初期の伝説な人物木内宗吾、通称佐倉惣五郎である。民衆の苦しい生活を変えようと、かれは江戸の将軍に直訴し、やがて一家六人全員死刑に処せられる。宗吾、そしてその叔父の光全和尚の霊の祟りにより領主堀田正信が発狂し、堀田家が断絶してしまう。「義民」という名の英雄像は、いかにも江戸から社会の風潮、そして民衆の精神のありかたの一面を映し出す。

刷り物の三十の場面には、例えば右のような一齣を含む。佐倉惣五郎伝説の名場面の一つであり、説明の文章はつぎの通りである。「妻は悲しみ子は叫ぶ。宗吾の心果たして奈何の情をされど、身命を堵して生民を途炭の苦より救はんとす。」

木内宗吾の伝説は、さまざまな形で語り継がれてきた。中でも、とりわけ実録文芸『地蔵堂通夜物語』、歌舞伎・浄瑠璃『佐倉義民伝』が有名だ。豊国の浮世絵には、「仏頂寺寺光ぜん霊」という画題の作品が数点伝わり、民衆の関心のありかたが伺える。それに対して、この明治の刷り物には、宗吾や光全の墓を訪れる人々の中には洋服の学生まで登場し、時代の様変わりが余計に印象付けられる。

一枚の刷り物に枡形で数々の場面を描きこむことは、いわゆる双六というスタイルである。ただしこの作品には番号も振っていなければ「上がり」もない。それにより、双六というスタイルがもつ叙事的な特性をむしろ確認できるような思いがした。一方では、一つの画面に絵と文字でストーリーを伝えるというのは、あくまでも絵巻の叙事方法の延長だが、しかしながら、目の前の刷り物の絵の構図は、その一つひとつとして、むしろ舞台劇を覗いた錯覚に陥らせるものだった。

2008年2月23日土曜日

巻物の変身

先日、「巻物の日記」(2月3日)を書いて、本心とても適えられそうもないと諦めつつ、軽い気持ちで「本人の思いを聞きたいものだ」と結んだ。しかしながら、読書を進めていくうちに、「本人」ではないが、なんと答えが現われてきたんだ。単純でいて、しかし自分の想像にはまったく浮かばなかっただけに、いささか衝撃を受けた。

なんのことはない。巻物という形態は、もともと冊子という装丁と隣り合わせのものだった。右の図(『日本史用語大辞典』より)が示しているように、巻物を披いた状態で、繰り返し折りたたんだら、そのままりっぱな冊子に変身する。そうしておいたら、冊子本がもっている「飛ばし読み」に対応する特徴などがすべて保証され、しかも必要があれば、巻き上げて一瞬にして巻物に戻ってしまう。日記の研究者たちによれば、現存する日記、それも『名月記』『実隆公記』といった広く知られているもののいくつかの巻には、折本に仕立てておいて筆記しはじめたもの、あるいは巻物で書き上げてしまってから必要に応じて折本に折った跡が鮮明に伝わっている。さらに、たとえば『実隆公記』の場合だと、記主の三条西実隆は、巻物、冊子、再び巻物と、記入するにあたって意識的に違う媒体を選んでいた。いわば媒体そのものが変身するのみならず、書く人も、さまざまな考慮から「変心」をしていたものだった。

今日のわれわれが推測する巻物の不便さを数百年前の古人たちもたしかに感じていたことを知って、なぜかほっとする思いだった。そして、その中で当時の人々があえて巻物を選んだことにはきっとそれなりの理由があったことも推測できる。同じく先学の説によれば、冊子本に較べて、巻物にはすくなくとも二つの利点があるとのことだ。一つは、当時の日記は関係の文書などの書類を纏めて保存するという役割があり、そのため、断片のものを日記に貼り付けるため、巻物ならそれらを巻き上げて保存するには最適だった。いま一つ、暦などに日記を記すにあたり、紙の裏をあわせて利用するという情況もあり、表と裏を合わせて使えるということは、これまた粘葉綴の冊子本に備わらない特徴だった。

書物の物理的な展開と屈折、尽きない想像を誘う。

2008年2月19日火曜日

地獄絵観賞記

短い数行の日記のことを記しておきたい。これを残してくれたのは、三条西実隆(1455~1537)という、室町後期の屈指の文化人である。

晩頭有召之間参候。□□、奈良霊物、以大般若経料紙、由託宣六百巻画図者殊勝之由有勅語、当時纔三十巻計相残る云々、拝□之、人間病苦之体、鬼界飢渇之憂、地獄苦痛之趣等、惑涙銘肝、更驚無常者也。深夜退出就寝。(『実隆公記』文明十年三月二十六日)

時は文明十年(1478)春のある日の夜である。後土御門天皇に呼び出されるまま、実隆は内裏に入り、きっとめずらしい出来事に違いないという絵巻の拝観が適えられ、それが一気に真夜中まで続いた。奈良からもたらされた絵巻の肝心のタイトルは、日記の損傷によるものだろうか、伝わっていない。ただ当初六百巻にもおよぶといわれるものがわずかに三十巻程度しか伝わっていないと記されている。五百年以上も経った今日からすれば、それだってずいぶんと分量の多い作品である。絵巻の内容を記して、実隆は「人間病苦の体、鬼界飢渇の憂、地獄苦痛の趣」と思わず美麗な漢文を持ち出す。そしてこれに続いて、かれ自身の打たれた思いを記して、「涙に惑い、肝に銘じ、更に無常に驚くものなり」と結ぶ。「惑涙」という表現は今日すでに使わないが、きっと「銘肝」と同じような重い意味合いが込められていたに違いない。

実隆に深い印象を与えたのは、いうまでもなく絵巻にある絵というよりも、まずはそこに描かれた内容だったのだろう。一方では、今日のわたしたちにこの日記がもつ真摯な思いを伝えてくれたのは、私的な記録にもかかわらず、思わず練りに練った表現に結晶したことが象徴しているように、実隆が受けた名状しがたい感慨は、まさに絵ならではの表現媒体がもたらしたインパクトに拠ったものではなかろうか。

文明十年とは、まさにあの応仁の乱がようやく終着を見せた年であり、十年の戦乱を経た京都の巷は、時の人々、とりわけ知識人たちにはきっと地獄を思わせただろう。その中でのこの短い観賞記は、読み返して、なまなましい。

2008年2月15日金曜日

王朝の恋

天気予報では、ずっと続いてきた冬の天気はようやく終わりが見え、これからは陽気な春が訪れてくるとのことである。気持ちの良い日差しの中を出かけて、出光美術館で開催中の「王朝の恋ー描かれた伊勢物語ー」を見てきた。

平日の午後にも関わらず、展覧会会場は大勢の人出で賑わっていた。丁寧な解説も理由となって、展示の前の列はとてもゆっくりと移動していた。おかげで、おもむろに作品を隅々まで眺める年配の方、興奮気味に語り合う若者、知人と挨拶する中年の学者、そういう観覧をする人々を観察する余裕にまでめぐまれた珍しい経験となった。

展覧会は、二つの作品(群)を眼目とした。一つは鎌倉時代に成立した『伊勢物語絵巻』、もう一つは俵屋宗達の『伊勢物語』の色紙。これに合わせて、嵯峨本の『伊勢物語』やそれと対照する御伽草子、物語の画面を組み合わせた屏風など、丁寧に選び抜かれた作品が並べられている。「東下り」「井筒」「芥川」など、物語の名場面が異なる表現媒体において描かれ、まるで豊かな音楽のように違う音色のメロディーを奏でる。展示ホールの真ん中に立ち、周りを見渡して、一つの古典のテーマが数百年の中でゆっくりだが、すこしずつ変容し、力強い流れを成して繰り広げられ、引き継がれてきた様相を絵画を通じて確認できて、まさに至福の時間だった。

会場には外国人の姿は見かけなかった。だが、展示の解説には英語の翻訳が多く見られ、しかも物語の世界には深く共鳴した労作だと分かる。一例を挙げれば、展覧のキーワードの一つには「恋の行方」が繰り返し用いられた。これに対して、「行方」を「course」だと訳された。なるほど王朝の恋を語るために、それを「結果」「結末」「果て」といったような意味合いの言葉なら、どれも納まりが悪い。「行方」との表現を、あくまでも恋の始まり、そのハイライトを現在進行形として捉えるものと理解したほうが理屈にあうことだろう。翻訳者の苦労が垣間見たような思いがした。

五週間にわたる展覧会は、今度の日曜日までで、あとはわずか二日だ。

王朝の恋―描かれた伊勢物語―

2008年2月13日水曜日

双六を舞台に見る

今月いっぱい、新橋演舞場にて「わらしべ夫婦双六旅」と題する舞台劇が上演されている。大正時代を背景に取り、心温まる人情劇を、中村勘三郎、藤山直美、矢口真里をはじめ、現代の演劇界を代表する豪華なキャスト陣が熱演する。友人が親切に手配をしてくださったおかげで、素晴らしい舞台が堪能できて、ただいま観劇から戻ってきた。

前回に書いたように、同じ「双六」という言葉でも、平安と江戸とではまるきり違う対象を指していた。そして、いわゆる紙双六を意味する「双六」という用語の使用法は、明治、大正にかけて継承され、現在でもお正月の少女雑誌の特別付録などの形で双六が作成されつづけているものだから、今でも生きている言葉である。あえて言えば、多くの双六の作品は、最初からゲームとして遊ばれることをさほど意識されなかった。むしろ特定のテーマをめぐり、さまざまな情況、とりわけ良いことも悪いことも並行に、一堂に集めることを特徴として、それらをじっくり眺めることに醍醐味があると言えよう。したがって、双六とは、一つのゲームというよりも、伝統色豊かな出版文化の一ジャンルである。

一方では、中村勘三郎の舞台劇は、もちろん以上のような理屈っぽい理解にこだわることがなかった。劇の宣伝資料も、舞台一面に立体的に用いたデザインも、典型的な双六の色合いと模様である。「夫婦双六」と名乗ったのも、二組の夫婦の生き様を、幸運と悲運に押し流されての、上がったり、下がったりしたものだと捉えたからにほかならない。だが、それと同時に、ゲームとしての双六とセットになる賽(サイコロ)もストーリーの眼目となり、さらに賽からの連想で、紙双六とはまったく無縁の賭博まで繰り返し演じられた。夫婦の生活、そして人生の一生そのものを一枚の双六に見立てる、これこそこの舞台劇の発想であり、現代の人々に簡単に理解できる双六というものの象徴的な意味に違いない。

海外舶来の遊戯、出版文化のジャンル、そして教訓的な比喩。「双六」とは、まさに一つの概念が変遷する極致な実例を見せつけている。

わらしべ夫婦双六旅

2008年2月10日日曜日

双六の平安と江戸

「すごろく」という言葉は、とても不思議だ。時代によって、それの指す内容がまったく違う。歴史の中で理解がこうも中身が違うものかと、言葉というよりも人々の常識の変容を表す一つの極端な例である。

平安や鎌倉時代の絵巻の中に登場した双六とは、中国から伝来された木盤のゲームである。かつては、中国でも日本でも人々が異常なほどにこれに夢中し、国家の政府が特別な法律を決めてこれを禁じたこともしばしばあったぐらいだった。絵巻の中で見られる有名なのものは、『長谷雄草紙』に描かれた長谷雄と鬼との間の一局だった。鬼に競い勝った長谷雄は、ご褒美に絶世の美女をもらったのだから、話はおもしろかった。これより古い絵巻では、『鳥獣戯画』、『病草子』など平安時代のもの、そしてこれより新しい作品では、『石山寺縁起』などに、双六の盤あるいは双六に夢中する人々の姿がさまざまな状況のもとで描かれた。

一方では、江戸時代になると、双六(現代の言葉では、誤解を避けるために「紙双六」とも)というものが大いに流行った。ひとつのゲームとしての形態も、道具の形も材料も、競技の方法もまったく異なるものである。そもそも江戸や明治時代から現代にかけて多くの人々を魅了した「双六」とは、はたして平安時代に中国から伝わったあの双六とはどのような関連をもっていたのやら、どのような経緯を通じて共通の名前を持つようになり、当時の人々の如何なる意識を反映したのやら、これらの基本的な質問には、いまなお推測もってしか答えることができない。

考えようによれば、紙双六は、ひとつのゲームよりも、ユニークな表現形態である。これに興味をお持ちの方、私の友人が主催している「双六ねっと」をぜひお訪ねください。

双六ねっと

2008年2月4日月曜日

鼠の婚礼

陰暦では、今月七日になってようやく子の年に入る。中国はじめ、ベトナム、韓国など多くの東アジアの国々はいまなおこれを守り、春節を一年の中での一番の祝日としている。

子は鼠である。したがっていまの中国では鼠の話がさかんにメディアを賑わせる。その中で繰り返された語彙の一つは、「鼠咬天開」、鼠が噛んで天地が開く、とでも訳すべきだろうか。きっと鼠の小さな歯をもっての壮絶な破壊力から着想を得たに違いないが、天地開闢まで鼠のそうした力によるものだとされるとは。人間に被害をもたらすといった鼠の生態は、遠く『詩経』においてすでに詠われていたぐらいだから、人間との付き合いの永いこと、そして人間からの敬畏の目で見られてきたことが思い浮かべられる。

一方では、中国のお正月には「年画」と呼ばれる素朴な絵の飾りを付ける慣習がある。そのような晴れ晴れとして目出度い表現媒体にも鼠が登場した。そのテーマの一つには、鼠の婚礼がある。御伽草子『鼠の草子』などを読みなれたわれわれには、まさに興味が尽きない。たとえば、今度の写真は、最近の新聞に紹介された「綿竹年画」(李方福作)の一例である。人間の格好をして行列を成して町を練り歩き、花嫁を行列の中心に囲んで、ラッパや旗などをもって人々の注目を集め、沿道の祝福を集めるといった内容は、御伽草子のそれを強く想起させてくれる。とりわけ日傘や扇子、安逸に日本的なアイテムとしてしまいがちな小物まで描かれている。一方では、御伽草子では思いもよらない着想もあった。その極致なものは、画面の一角で大きく構えた鼠の天敵の猫である。行列のメンバーを容赦なく爪に掴り、口に銜える。その様子にまで平然と視線を向けた鼠の姿は、あくまでも絵の愛嬌か。画面の上方の鼠取りに捉われた鼠も同じ悪運を辿っている。中国の民間伝説では、結婚の行列は、鼠たちに自分の家からどこか別のところに引越しをして出て行ってもらいたいという期待が託されたものだとする。猫の出現はまさにそのような希望と一致するものに違いない。

先月、カナダでは鼠の切手が発行された。そしてそのテーマはまさに鼠の婚礼であり、新郎新婦と思われる二匹の鼠は、なんと日傘と扇子をそれぞれ手にしている。いつの間にか鼠の婚礼が世界的なテーマとなって東西を走り回るようになった。

年画《老鼠娶親》里的民俗(沈泓)
東方網:世界に発行された鼠年の切手
Canada Post: The Rat Wraps up Canada Post's Lunar Stamp Series

2008年2月2日土曜日

巻物の日記

『看聞日記』の中の一点を確認すべて、図書館に入っているタイトルの一つを使ってみた。別置されていて、かつ巻数の多いことにはすこし気になっていたが、さして深く考えることもなく図書館員に頼んだら、持ち出されたのは、なんと綺麗な巻物だった。図書カタログも良く読んでいなかった分、いささか驚いた。現存する同日記をそっくりそのままの複製で、宮内省圖書寮によって1931年に出版されたものだとか。

短い閲覧は、小さな楽しい経験となった。目指す記事にたどり着くまでには、かなりの時間がかかり、記録者の筆跡を眺め、紙の使い方や筆の運び、墨具合など、活字ではまずは得られない情報が存分に飛び交った。そして、読み終わったあと、およそ披いた時の倍ぐらいの苦労を経て、ようやくもとの通りに巻物の形に巻き戻した。

現存の『看聞日記』は、その大半あるいはほとんどが筆記者により清書されたもので、かつ原文が伝わっていないことが知られている。そういう意味で単純に日記と呼ばれるにはやや複雑な経緯を持ち、したがって日記以上のなんらかの記録者の思いが裏に隠されていると言えよう。ただし、こういった理由とは関係なく、日記というものを巻物に記すというのが、室町時代の人々の常識だったようだ。

考えてみれば、日記、すなわち一日々々に記し続ける記録には、巻物はいかにも向かない。あるいは記し続けるために、巻物を戻さないで披いたままに置く、という処置が取られていたものだろう。だが、書いた記録を見直したり、調べたりする場合はどうしよう。ついつい想像してしまう。

室町時代の一流の知識人、そして「大御所」として晩年公家の頂点に君臨した伏見宮貞成にとって、巻物とは日記を記すための唯一の媒体だったのだろうか。それともあえてこれを選んだのだろうか。本人の思いを聞きたいものだ。

2008年1月29日火曜日

絵のある巻物を聞く

平安末期に成立されたものを基に、南北朝時代に作り直された物語『しのびね』には、その始まりにおいて、絵巻を楽しむ様子を伝える貴重なエピソーが記されている。物語のヒーロー少将は、琴の音を聞いて心を惹かれ、夜になって、朧げながら意中の姫君を見初める。少将の目の前に展開されてきたのは、まるで神秘な様子だった。

「隅の間の方に、細き隙見つけてのぞき給へば、人々集まりて、絵にやあらん、巻物見居たり。

少し奥の方に添ひ臥したる人や、もし姫君といふ人ならんと、目をつけて見給へば、菊のうつろひたる五つばかり、白き袴ぞ見ゆる。髪のこぼれかかりたるは、まづうつくしやと、ふと見えたるに、顔はそばみたれば見えず。四十あまりなる尼君、白き衣のなえばめる着て、より臥して、絵物語見居るたり。「目のかすみて、小さき文字は見えぬこそいとあはれ。積もる年のしるしにこそ。火明かくかかげんや」といふに、小さき童よりて、ことごとしくかかげたれば、きらきらと見ゆる。

奥なる人、腕を枕にして居給へれば、「御殿篭るにや、さらば読みさしてん」といふに、少し起きあがりて、「さもあらず、よく聞き侍るを」とて、少しほほゑみたる顔の、(略)」

ここに、一つの絵巻享受の現場として、記述を読み返そう。姫君をはじめ人々を惹きつけたのは、絵の付いているに違いない巻物だった。複数の人々がそれを囲み、中で年寄りで、一番の知識の持ち主である尼君が書かれた文字を読み上げる。歳を嘆く口調で文字が良く見えないと言えば、だれかがさっそく明かりを強くした。そして、主役のはずの姫君は、控えめに奥に居たので、「もうお休みの時間でしょうか。止めましょうか」と気を使うと、「聞いているよ」と元気の良い声が戻ってくる。

物語が語ろうとしたのは、男主人公の垣間見である。そして、絵のある巻物を囲む女性の一群は、それに十分に応えられる、まるで精緻に設けられた舞台の一齣のように、少将の目の前に繰り広げられた。

いうまでもなく、絵に接することは、人、時、場によって違う。絵巻をすべてこう見なければならない理由はどこにもない。だが、だれかの声に引かれつつ、複数の人々でストーリーを共有し、耳で聞いて目で見て思いに馳せるという楽しみ方は、長らく語られ、記憶され、憧れられる情況だったと言えよう。

京都大学附属図書館創立百周年記念公開展示会図録

2008年1月26日土曜日

変体漢文

絵巻の楽しまれ方を探っている(1月9日の投稿)。そのために、変体漢文による資料、とりわけ室町時代の日記をすこしずつ読んでいる。

「変体漢文」。この言葉自体はあまりにも随意的なニュアンスがあって、おそらくどうしても気に入らない人も多いのではなかろうかと思う。あれこれと代わりの用語も模索されているもようだが、いまだにこれが一番分かりやすい。中世の実用的な文献、たとえば日記、手紙、契約書などは、たいていこれによって記されている。あえていえば、和歌や漢詩といった、気取った文学行為や公式行事を除いて、人々の生活の中の文字活動の大半を占めたのがこの文体によるものだった。

いうまでもなく、「変体」とは、異常を意味する「変わったもの」ではなく、あくまでも正規な漢文表記のルールに従わない、漢文から変化し、漢文と異なったということを指す。その結果、文章はほぼすべて漢字によって記されるが、漢文ではない。そのような文章を理解するためには、したがって漢文ではなくて、当時の日本語の知識が必要だ。表記には読み方を指示する仮名がほぼ皆無なだけに、日本語力が余計に大事となる。

一方では、このような変体漢文を読み始める初心者にとっては、読解知識を習得する環境はけっしていいとは言えない。古典の日本語についての知識があってはじめて読者との資格があるといった暗黙の前提からだろうか、変体漢文を文法的に説明する入門書はいまだ知らない。古文書の語彙、ひいては文章の書式を取り扱う辞書はかなりの数の種類があるのに、それの付録として格好のテーマと思われる文法要綱みたいなものには、いまだ出会っていない。こう言う筆者もあくまでも初心者なので、このブログを読んでいる読者、そのような資料の存在をご存じの方、ぜひ教えてください。

これを書いている最中に、数年前に試みた「インターネット古文講座」に対して一通のメールがモスクワから届いた。一つの練習問題の間違いを指摘したものだ。さっそくそれを訂正し、この場でお礼を言いたい。

インターネット古文講座

2008年1月23日水曜日

石山切

久しぶりに会った友人から、去年の秋に開催された徳川美術館新館開館二十周年記念特別展「王朝美の精華・石山切」のカタログをいただいた。特別展の副題は「かなと料紙の競演」、内容は昭和初期に分割さた「本願寺本三十六人家集」から92点が78年ぶりに一堂に会したというものである。平安のロマンと昭和の激動に思いを馳せながら、きっとたくさんの人々が展覧会を訪ねたに違いないと、拝観できなかったことを残念に思いつつ、友人に感謝し、二冊からなる綺麗なカタログのセットを読み返した。

一方では、このような規模の展覧会に相応しく、展示の主役をしっかりと支えた周りの出品も、どれも味わいがあって、光っている。とりわけ色紙貼込屏風、色紙貼込帖、かるた、そして伝土佐光起筆の「女房三十六歌仙絵巻」。王朝の和歌をめぐり、貴族女性を中心とした人々から、こんなにもさまざまな形でそれが楽しまれていたものだと、あらためて認識させられた。

実際に伝来された作品からにしても、歴史上のそれぞれの時代の享受者たちの熱い視線からにしても、歌仙絵というのは、明らかに絵巻の大事なテーマだと分かる。だが、絵巻を全体的に考えるにあたり、われわれは、詞と絵とストーリーという三つの要素を同時に持ち合わせることに重心を置きがちだ。したがって、和歌をテーマとする絵巻の取り扱い方には苦労している。この作品群は、はたして読者としての異なる姿勢が必要だとされるのか、それとも、例えば「三十六」という古典的な数字への執着から、古代や中世の人々が抱いていたストーリー性への志向を読み出すべきものか、とても興味ある設問である。

王朝美の精華・石山切

2008年1月19日土曜日

残虐とは

現代映画の「ホラー」「パニック」を題材とする作品群を持ち出すまでもなく、ビジュアル表現の世界では、残虐、そしてそれによる恐怖は、つねに重要なテーマの一つである。ことは中世の絵巻においても、例外ではなかった。

絵巻を披ければ、背筋をぞっと寒気が走るような画面にはよく出会う。それも心の用意がないほど、受けた衝撃が大きい。

例えば、この画面は東京国立博物館所蔵の『後三年合戦絵詞』(中巻第五段)からの一部である。表現されたのは、平安時代の後半、東北の地に繰り広げられた戦争の状況である。源義家の軍勢は清原武衡・家衡を囲み、城を落とすために悪戦苦闘を展開していた。囲まれた一方は、リスクを減らそうと女や子どもを城の外に送り出し、囲む方は兵糧攻めで一日でも早く結果を出そうと、彼女たちを城の中へ追い返す。そのための対応で武士は武装をしていない女性や子どもをその場で切り捨てにして見せしめにする。地面に打ち伏せになった花模様の服の女性はいまだに両手や両膝に力をいっぱい入れていながらも、首はすでに体から遠く離れたところにあった。右側には一人の武士が長い刀を振りかざしている。その下に、女性の右手は黒い服から大きく伸ばされているとしか分らないが、じつはこれは絵の具の剥落によるもので、この部分を対象にしたいくつかの近世の模写本を見れば、この女性は頭を縮め、しかも左手で赤ちゃんを抱いている。まさに地獄さながらの光景だ。

注目したいのは、ここに描かれている絵は、同時代に多く作成された地獄絵、地獄めぐりのストーリなどと根本的に違う。いわば絵師は想像に頼る、空想を愉しむような姿勢を見せていない。それよりも、あくまでも乾燥しきった筆遣いをもって、クールなまでの視線を正確な構図に託したものだった。それだけに、よけいに読者の心を揺さぶる力が漲っていると感じさせる。

恐怖はあくまでも個人の感情である。そして、残虐の内容もありかたも、それへの受け止め方も、時代に従い変貌する。話が飛ぶが、現代の映画に極端に象徴されているように、恐怖が娯楽の一角を占めるようになったというのは、これまた平和な世の中における、いたって現代的な文明の現われの一つだと言えよう。

東京国立博物館・名品ギャラリー