2018年4月28日土曜日

空海・猫

週末には、新宿の映画館に入り、先学期学生から教わった話題の映画を見た。あのクラスとの関わりは、白楽天と楊貴妃。その目で見れば、じつに妙な映画だと言わざるを得ない。名高い出浴する貴姫の姿はついに登場せず、代わりにその美貌を披露するには、度肝を抜いたブランコ乗りで、まるでサーカスさながらの見せ場になった、李白もお目見えにはなったが、俗人っぽい顔ばかり塗り固められている、などなど、ツッコミ所満載だった。ただ、そもそも妖精の猫が主人公なので、頭を空っぽにして、とにかくスクリーンに映し出された幻を眺めるこそ正しい鑑賞だと言えよう。人物も動きも色合いも、まるごと神仙境を訴えようとしている。

ストーリのかなめに「尸解」を据え付けたことには少なからずに驚いた。思えば、修士論文を書いたころーーあの時代、博士論文というものは勉学の内容に存在せず、修論が大きな到達だったーー四人いる同級生の一人が取り上げテーマはまさにこれだった。そこで初めてこの道教の用語を知ったのだが、この言葉の言おうとしたもの、目指そうとしたところなど、なかなか理解ができなかった。一方では、近年になって、言葉の神秘さも大きく貢献しているだろうが、「尸解」をテーマにした小説などかなり増えた。言葉通りに理解するなら、死んだ人を蘇えらせることも一つ分枝だろうけど、言葉の重きは、やはり体(尸)を分解することにあったはずだ。しかしながら、映画の中では、これがむしろ逆の発想で捉えられ、しかもいかにも仙人の対極にあるような発想での落ちが用意されたものだった。

映画のタイトルは、中国語でも英語訳でも「妖猫」としている。日本語版のみ「空海」となった。異国の貴姫よりも、自国の空海が身近だということだろうか。いずれにしても、この映画のおかげで空海の顔にさらに異色のものが付け加えられたことになる。無心に眺めていれば、捉えようのない猫よりは、画面いっぱいに活躍する若い僧侶の顔は、瑞々しくて親しみやすい。

空海 -KU-KAI- 美しき王妃の謎

2018年4月21日土曜日

教壇に立つ

四月も下旬になり、日本の大学は春学期の二週目の授業に入る。今年は、協定校の関係で客員教授のポストをいただき、今学期いっぱい日本に滞在することになる。大学院時代のことを計算に入れないとすれば、はじめて日本の大学の教壇に立った。

ホスト大学からはかなりの信頼を寄せられ、大きなクラスも担当させてもらっている。いうまでもなくすべては勉強の内容となる。機会を見つけては若い学生たちとの会話を楽しみ、かれらを思考や行動を観察し、自分なりに理解しようとする。そもそも大学のカリキュラムからにして、新鮮なものだ。学生たちが取り掛かるテーマはカナダより遥かに多い。単純に計算すれば、学生は20単位のコースを四年間取り続ければ卒業できるという制度だ。ならば、クラスに週計15時間通い、10人の教師の話を聞くことになる。勤務校の場合、クラス時間はちょうど同じだが、しかしテーマはその半分だ。すなわち5のクラスで、場合によって同じ教師に週3回も4回も顔を合わせることになる。考えによっては、この差はあまりにも大きい。さらに日本の場合、習得するコースは学費と関わりを持たないので、学生側の自由度が高く、学習意欲により直結できるように思われる。

最初の週を無事にこなした。素直な学生たちの対応には、やはり微笑ましい思いをかずかず体験できた。何人もの学生は、二回目にしてはじめて教室に現れたことを謝り、その理由を口々に「抽選漏れ」と言った。どうやら取りたいコースには抽選で資格が得られず、やむなくこの教室に入ったとのことだ。クラスについてのコメントを書いてもらっても、予備知識はいっさい持っていない、これから努力するという約束が多かった。教養のコースなので、ここからの出発はむしろその前提なのだ。それにしても、このような時のカナダの学生ならまったく違う態度を取るものだなあと、ついついそのようなまったく違う立ち振る舞い、いや発想に想像を走らせたものだった。

2018年4月14日土曜日

ZOOMで語る

二週間前にここで告知した行事は、先週予定通りに実施された。カナダの日本語教師を対象に想定したもので、ZOOM会議を利用して一時間のワークショップ、それの最初の集まりに声を掛けられた。技術環境が提供できる上限にはほど遠いが、それでも予想していたより約二割ほど上回る人数だった。参加者の顔ぶれを見れば、じつは半数以上がカナダの外からアクセスしてきた方々だった。時差の関係で真夜中の時間台で出られないとの連絡さえ寄せられた。普段よっぽどの機会がなければ顔を合わせることがとてもできないからこそ興味を持ったという、バーチャル集まりの魅力、その醍醐味の一端が現われた。

自分としては、あくまでも話題提供をするという気持ちで参加し、取り出したテーマは、去年の秋に進行した「カナダ日本語ビデオコンテスト」である。行事の内容を基本から触れ、とりわけその企画、運営の詳細、具体的に試みた道具や利用の工夫、注意して対処したことなどを順番に説明した。グーグルが導入している音楽著作権管理の方法など、一度体験しなければなかなか気づかないようなことなどは注意を惹いた。一方では、せっかく集まってくれても、話題になるビデオサイトを覗いているわけではなく、コンテストの存在すら知らなかった人々もいたのには、すこし驚いた。そうと知っておいたら、もうすこし話の内容を調整できたものだった。学生気質を触れたが、オンライン集まりの一側面に気づかされた思いがした。

集まりの様子は録画公開と予定されている。自分の話をビデオで睨めっこする(される)ことを想像すれば、あまり自慢するものではない。でも、どうもそうとも言い続けられなくなってきた。録画公開のコストが劇的に小さくなったことが遠因の一つだろう。思えば時間が経ってしまえば、録画資料への視線もすこしずつ変わっていくに違いない。

2018年4月7日土曜日

織り物考古

いま中国において、模倣からスタートし、瞬く間に驚いた発展を遂げた実例は枚挙に遑ない。このごろ、ときどき覗いている講演録画のサイトがある。サイトの名前は「一席」(「一席の話は十年の読書にも勝る」との故事からくる表現)。録画の作り方も、会場の配置も、そして動画導入の音楽まであのTEDの複製だと一目で分かる。だが、あくまでも中国の知識人に登場してもらうもので、その話題は古今に亘り、飾らなくて濃密な知識をもって聞く人々を魅了してしまう。数日まえに見て深い印象を受けたものには、「織り物考古」というテーマを取り上げた講演があった。

講演者は、過去四十年以上考古の現場に活躍し、とりわけ織り物についての発掘、保存、復原に努めた学者である。あの馬王堆の発掘をはじめ、それこそ錚々たる実績を積み重ねてきたのだ。けっして広く知られておらず、苦労と冒険と喜びの織り交ぜた数えきれないエピソードなどを一つまたひとつと語られたのを聞いて、目の前に未知の世界が生き生きと開いていく思いがした。途方もない辛抱強い作業の末に鮮やかな色が甦った千年前の宝物の姿を捉えての感動、内容の分からないものには、早急の名前などを付けずに番号のみで公表して各方面の専門家に参加してもらうなどの慎重な対応への感銘、倍葬する若い女性たちの身元への推理への納得など、どれも特筆すべきものである。一方では、織り物に施された竹の模様が、発見した瞬間の緑色から見る見るうちに枯れ葉の色に変色し、描かれた竹の生涯を目撃できたことを考古学者の冥利としたところには、千年単位で伝わったものをはたしてそんな軽率な対応で良いのかと、疑問も禁じ得なかった。

写真は、録画の中に紹介された北宋時代の画像の一例だ。人間の行動の捉え方も滑稽味のある円熟な線も、日本の絵巻から切り取られてきたものだと言っても信用してもらえるぐらいだった。講演者の説明によると、入れ墨を体いっぱいに彫った男がお金を洗っているところだとのこと。はたしてそれでよろしいだろうか。あまりにも関連の情報がなくて、しかし極めて魅力的な画像で、妙に惹きつけられる。

王亞蓉:紡織考古