2009年7月25日土曜日

「彩絵粲然」の日本屏風

中国の古典に見られる日本の美術工芸、とりわけ絵画についての記録は、言葉通りに数えきれないほどあった。一例として、つぎの数行を読んで見よう。

日本国、古倭奴国也、自以近日所出、故改之。有画不知姓名、伝写其国風物山水小景、設色甚重、多用金碧。考其真未必有此、第欲彩絵粲然、以取観美也。然因以見殊方異域人物風俗、又蛮陬夷貊,非礼義之地、而能留意絵事、亦可尚也。抑又見華夏之文明、有以漸被、豈復較其工拙耶?

現代日本語に訳せば、およそつぎの通りだ。

日本国、昔は倭奴国、日が昇るのに近いゆえにこの名に改めた。絵師不明の絵が本朝に伝わり、その国の風物山水などの景色を描いたとされる。その色使いはきわめて誇張的だ。金箔などを多用して、本当の景色を描いているはずはなく、ただ鮮やかな色を狙い、それが美しいと考えただけだ。しかしながら、そこから異国の人物風俗を見ることができよう。開化されず、礼儀も伝わらない土地なのに、絵のことを大切にしていることは、讃えるべきだ。これをもって中華の文明が東に伝わることを知り、その絵の出来栄え云々など見過ごしてもよかろう。

文章の後半の、日本という存在についての議論は、一笑に付すべきだろう。異なる文化への無知、そこからくる軽視は、自我中心の価値観に縛られたことの表現にほかならない。むしろそのような偏屈な認識に立脚していても、絵の出来栄えに驚嘆を感じざるをえなかったことにもっと注目してよかろう。さらに言えば、同じ山水画をテーマにしていても、日本の絵師が中国のスタイルや技法とまったく異なる境地を開いたことをここに確認できたと言えよう。上記の段落に続いて、約同じ字数を用いて渡宋した僧侶との交流、とりわけかれらがいまだに隷書を用いていることなどを記し、さらに「海山風景図」「風俗図(二帳)」という三つの所蔵屏風の名を書き留めた。

この記録は、北宋に作成された宮廷所蔵の絵画6396点、絵師231人を記録した『宣和画譜』(卷十二)による。同書が成立したのは、宣和庚子(1120年)、あの『源氏物語絵巻』の成立よりさらに数十年前のことだった。

『宣和画譜』(宋・逸名)

2009年7月18日土曜日

音読・蒙古襲来絵詞

「音読・日本の絵巻」に新しいタイトルを加えた。『蒙古襲来絵詞』である。

これまでの音読のどのタイトルもけっして「易しい」ものがなかったが、「蒙古襲来」のこの一篇は、詞書との格闘となれば、また格段だった。文字の分量は約9200字、原文と現代語訳の音読は合わせて70分をちょっと超えた。上質な全巻写真、さまざまな研究による翻刻や語彙、段落の内容検討など、基礎的な条件がかなり整備されていると言わなければならない。それに加えて、詞書の原文には人名などの漢字語彙には多くの振り仮名が付けられていることも、声に出して読むためにはなんとも有り難いものだ。

それでも、やはり難しかった。

まず一番に挙げたいのは、詞書に消えてしまったものがあまりにも多いことだ。中世から伝わる絵巻には、詞書の散逸はむしろつき物だが、この一篇はとりわけ違う。なにせ段落ごとだけではなくて、連続して一行に数文字ずつ読めないのだから、およその意味合いが推測出来ても、声に出して読むにはいかにも響きが悪い。

二番目は、その特殊な文章のスタイルだ。かなりの長文にも関わらず、その多くはまるで自分の子孫のために書いたものだとも思えないような、内輪でない人間にはとても伝わりにくい書き方だった。あえて言えば、共に戦場を潜り抜けた者同士、ひいては著者自分自身にしか分からないような内容ばかりだった。分かってもらうという意識の希薄さと、膨大な作業を経ての絵巻の作成という行為との距離は、いったいどのような精神構造に支えられたのだろうか。もともとそのような困惑に襲われながらも、声で伝えるということを考えれば、文字よりは音のほうがいく分読者に届けやすいのではなかろうかとも思った。もちろん、それは音読するこちらの理解が間違っていなければの話に限るものだが。

このタイトルの作成に大いに助かったのは、全巻にわたる現代語訳がすでに施されたことだ。大倉隆二氏の『蒙古襲来絵詞を読む』(海鳥社、2007年)である。インターネットに公開されている情報を辿って、唐突に著者に連絡を取ったところ、さっそくのご快諾が届けられて、感謝に堪えない。努めて翻訳文を変えないで、読むための情報(注釈的な人名や年号、語彙単位の言い換え)を一部省略して朗読した。著者の意図を大して背かなかったことを祈るのみである。

最後に、技術的なことを一つ記しておきたい。詞書の掲載は文字テキストによる縦書きに拘ってきた。しかしながら、安心して対応できるのはいまだ「Internet Explore」のみ。日増しにユーザーを増やしている「Firefox」、「Chrome」などへの対応の方法もあれこれと報告されているが、どれも便宜的なもので、ブラウザーの更新には対応しきれない。仕方なく「Internet Explorerにて縦書きの詞書をご覧ください」との一行を加えた。

音読というささやかな試みは、名作の絵巻が楽しまれ、勉強や研究の場でもすこしでも役立てればと願う。

音読・蒙古襲来絵詞

2009年7月11日土曜日

戦場の竹崎季長

『蒙古襲来絵詞』の詞書は、妙な味わいを持つ。

一つの絵巻としてきわめて異色なこの作品は、そもそも個人的な記録との立場を貫き、制作者竹崎季長という一人の下級武士の武勇談をもって構成され、それを記録することだけを目的とする。前後して登場したさまざまな人間も、かれを中心とし、戦場におけるかれ自身の伝説的な行動の信憑性を保障するために語られたものばかりだった。

その中につぎのエピソードがあった。弘安の役(1281年)の最中、後世には神風と信じられた7月30日の夜の台風が起こった後の出来事である。大勢にやってきた蒙古軍に対して、竹崎たちはおよそ防戦ではなく、敗退する敵を追跡し、すこしでも自分の手にかかる戦果を増やしたいという合戦の流れとなった。そこに、一人の武士から「割れ残」った船に「しかるべき物ども」が乗船したとの情報をもたらされた。これを聞いた季長はとっさにつぎの判断を述べた。

「おほせのごとくはらひのけ候は、歩兵とおぼえ候。ふねにのせ候はよきものにてぞ候らん。
これを一人もうちとゞめたくこそ候へ(船から大勢追い払われたのは、下級兵士の歩兵であり、その代わりに船に乗ったのは身分の高い将領たちに違いない。一人でも逃したくない。)」

これに続いて、自分の配下の船が到着しない季長は、なりふり構わずに他人の戦船に乗り、連れの侍どころか、自分の兜さえ持たないまま敵船に向かった。絵巻の絵は、かれの乗船、追跡、そして敵船上での死闘の様子を細かく描く。絵に見る敵船の乗員たちは、たしかに戦場の一線を走る武士とは異なる服装になるが、そのかれらがはたして季長の言う「良き者」だったかどうか、その詳細は、現在伝わった部分では確かめ出来ない。

そこで、季長の推論がはたして正しかったのだろうか。そもそも合戦の勝敗がほぼ決まったあととは言え、下級兵士を残して、将領だけが船に乗って逃げてしまうという行動は、簡単に起こるものだろうか。手掛かりを求めて中国のほうの正史に目を移すが、なんと明白に記されているものだった。『元史』列伝九十五につぎのような一行があった。

「文虎等諸将各自択堅好船乘之、捨士卒十余万於山下。(文虎らの諸軍将は、それぞれ頑丈な船を選んでそれに乘り、兵士十余万人を島に見捨ててしまった)。」(至元十八年八月五日)

蒙古襲来の歴史研究は、この合戦の背景、とりわけ元軍失敗の要因となる民族の対立、軍隊構成の欠陥、戦術の未熟など、多くのことを報告している。そのような歴史的な要素もさることながら、戦場を走り回る一人の練熟な兵士たる竹崎季長の知恵と判断は、われわれを深く感嘆させるものがあった。

2009年7月4日土曜日

会話の日常

大学の研究室にいれば、ときどき誰かがドアを叩く。たいてい教えた、あるいはこれから教えるであろう学生だが、大学という場にさほど縁のない人も現れる。勇気をもって訪ねにやってきたということが顔に書いてあるような、畏まった姿勢であり、こちらもいつになく丁寧に対応する。

そのような知らない人々との会話は、どこかスリリングでさえある。まずどの言語を使うかを判断するところから始まる場合が多い。英語が母国語かどうかは、ほぼすぐに見当がつくが、英語でなければ、それが中国語、日本語、ひいては韓国語のどれかとなると、服装や身なりでは簡単に見分けられない。中国語だと言われても、台湾や香港ならなんとか気づくが、マレーシア、ベトナム、あるいはインドネシアなどとなれば、本人が説明するまでとても区別がつかない。しかも共通の母語が中国語だと互いに了解したとしても、そのまま英語での会話を続けたいとの人もけっして少なくない。

短い会話を成し遂げるためには、互いにどのような知識を持ち、どの分野に関わり、どういう結論が期待されるかを把握することが肝心だ。なにせ突然持ちかけられてくる話題は、あまりにも広い範囲にわたる。それこそ小学生でも知っている漢字の書き方や意味から、骨董品の鑑定メモ、自作の漢詩、法律書類の説明など、見ず知らずの人にさっと見せてよいものやら、あるいは逆に知らない人だからこそ見せてしまったのではないかと、こちらが考えさせられるものばかりだ。

先日もそのような訪問客がいた。今度は、本人では解けないという一点の禅詩を持ち込まれた。努めて分かりやすい言葉に置き換え、似たような詩の読解要領などまで交えて説明してあげた。こちらの話をどこまで理解してもらえたのだろうか、あのようなアプローチではたしてためになったのだろうか、その人が帰った後もなぜかしばらくずっと気になっていた。

大学という職場ならではの、一つのユニークな日常風景である。