2016年10月29日土曜日

PPV

前回の話題を続けたい。まず、SNSで何人かの方がここでの議論を言及をし、とりわけ図書館情報の専門家の方が学生からの疑問に答える具体的なリソースである「明探」を教えてくださり、あわせて感謝をしたい。有料データベースの利用は、それが大いに価値あるものであるからこそ、有料という前提を問題視するものではない。当面、変化を期待したいのは、あくまで料金支払いの方法や工夫である。

そこですぐ戻ってくる答えの一つは、あの「PPV(Pay Per View)である。主にケーブルテレビなどにおいて二、三十年ほど前から大規模に利用されている方法であり、いまは多くのデジタルデータベースなどにも導入されている。現に、個人的には利用していないが、CiNiiにおいて「サイトライセンス個人ID」を取得した研究者なら一部の学術論文をPPV方式によって購入できるようになっている。ここまで現実的にPPVの方式が動いているものなら、メジャーな新聞データベースなどは、迅速に取り入れて当然なことであり、また一日でも早く実現してほしい。一方では、すでに十年近くまえのことだが、海外にいる中国研究者の話によれば、たまに中国を訪ねる楽しみの一つは、学術論文データベースから論文購読に使うプリペイドカードを纏めて買って持ち帰ることだったと聞く。オンラインでの支払い方法が大いに発達したいまは、おそらくそこまでユーザーに苦労を掛けることはなくて済むことだろう。

ところで、「PPV」という言葉はどうやらなかなか日本語にはならない。辞書などを調べたら、「ペイ・パー・ヴュー方式」との答えもあるが、とても日本語とは認めたくない。「見た分に応じて料金を支払う方式」との説明も見かける。英語に由来するコンセプトということには違いないが、中身は分かりきったことだから、なにも英語の語彙構成に拘らなければならないということでもないだろうから、「分散料金」など日本語の語彙を打ち出して、正面から取り掛かるべきだろう。

2016年10月22日土曜日

有料データベース

研究者たちの集まりに参加する楽しみと言えば、多様な発表に接することもさることながら、多くの場合、正式な日程以外での会話から有意義な交流が生まれてくる。先週週末、バンクーバーで交わされた話題の一つには、日本研究に大事なツールである新聞などの有料のデータベースへのアクセスがあった。

その会話によって触発されたあれこれと考えを反芻しているうちに、先日、格好の実例に出会った。大学の研究室のドアを叩いて入ってきた熱心な学生は、切実な表情をして、明治の新聞記事にどうやってアクセスするかとの相談を持ちかけてきた。当然ながら、現実的にはお手上げだと答えざるをえない。考えてみれば、「聞蔵II」、「ヨミダス」、「毎索」など、日本のメジャーな新聞はいまはどこもデジタル検索に対応しており、日本の大学にいれば、おそらくどれも当たり前のように簡単に利用できることだろう。しかしいざ海外に身を置いてみれば、どれも高価な利用料を特徴とするそれらのリソースは、まるで別世界のものであり、日常的には予想にも寄らない。このような現状を変えるための手がかりは、あるいは研究機関の連合体、あるいは日本研究や教育を支援する公の機関の力を借りなければならないのだろう。

自分が取り掛かっている研究課題はもちろんのこと、とりわけ若い学生たちの日本への熱心な眼差しを見れば、やはり手を貸したくなり、エールを送りたい。ただ同じことは、たとえ日本にいても、高額なリソースへのアクセスということで、地域や教育機関の規模による格差がすでに出来上がっていると聞く。デジタルというメディアの性格からすれば、縁の遠いはずのものであり、真剣な対応が待ち遠しい。

2016年10月15日土曜日

学会旅行

この一週間は、もっぱら学会参加のために時間を費やした。普段なら、大学講義が続いている間には遠慮してとても実行しづらいものだが、連休に重なるという幸運にも恵まれ、学期が始まるまえから慎重にスケジュール組み合わせのやりくりをし、思いっきり行動に移った。そのため、日曜日の出発で京都で四泊し、その足で途中下車ならぬ「降機」の形でさらにバンクーバーで二泊した。

数えてみれば、学会の会場に朝から晩まで座り続けたのはあわせて五日。時差も十五時間と二時間という中で、意外とまったく疲れを覚えていない。いうまでもなくすべて刺激の多い研究発表のかずかずのおかげだと言わなければならない。はっきりと記憶に残るものを取り上げてみても、絵巻の構図を析出してそのままマンガ作りに応用する試み、映画撮影にあたっての具体的な記憶と個人史、社会の移り変わりの中での女性の地位とその変化、戦争テーマの商業映画にみる記憶作りと社会道徳の形成、アメリカでの日系移民たちのローカルな言語と語彙、などなど、じつに多彩なものなのがあった。いつもながら学会に出かけるということは、さまざまな流動する考え方に接し、研究現場にこだまするなまの声や切実な苦労を交流し、語り合うことに醍醐味がある。この一週間もまさにその通りのもので、数えきれない会話を通じて旧交を温め、新しい出会い恵まれた。一方では、立派な業績を持っていながらも、研究者としての発言の仕方をしようとしない、これまでには経験したことのないような方と質疑応答の形で対話を交し、個人的に見識を広めることができた。

二番目の発表は、旅の連続という理由もあって特別に調整してもらい、学会のほぼ最終の時間台に組まれている。その結果、最初の学会は一番乗り、二番目の学会は終盤を待つというユニークな結果になっている。そのいずれの場合においても、それぞれの形で楽しんでいる。

「大衆文化の通時的・国際的研究による新しい日本像の創出」キックオフミーティング
Globalizing Japan

2016年10月8日土曜日

名作を読む

三年ぶりに開講する近代文学をテーマとする講義では、読書リストに「藪の中」を加えた。繰り返し読んできた名作だが、その時その時の学生の顔ぶれにより、いつでも新鮮な経験が得られるものだ。今年も例外ではなかった。

クループ分けをしておいて、それぞれ担当の作品について調べてきたことを話してもらうという形を取る。今年の発表では、藪の中に落とされた櫛がクローズアップされて、そこからはなんと黄泉の国でのイザナギとイザナミの様子にまで話が及んだ。「羅生門」以下、縷々作られてきた映画のことも紹介され、短い予告編は程よい材料となった。そこからさらに話題が広がり、新出のビデオゲームの名前が上がり、そのゲームの規模はと訊ねたら迷いなく100時間ぐらいかかるとの答えが戻ってきて、こちらは思わずびっくりした。一方では、この作品の場合、けっして殺人の真相探しに走らないようにと事前に念を押したものだが、その代わりに出てきたのは、女性が夫を庇うために嘘を付いたのではないかとの珍説が説かれて、いささか意表を突かれた。

若い学生たちは、いずれもこの作品についての予備知識がない。しかも歴史や古典について、きわめて限られた知識しか持たない。それでも、真剣に調べたら、それなりにユニークな読み方を展開している。勉強や知識吸収のプロセスは、生き生きとして魅力的だ。

2016年10月1日土曜日

打ち言葉

一年以上前にはなるが、「EMOJI」のことが話題になり、ここで触れてみた。ここ数日なんとなく気づいたのだが、どうやら日本での日常において、これへの注目がさらに進化し、対象が「文字」から「言葉」へとますます存在を大きくし、いつの間にか「打ち言葉」という捉え方をもって語られるようになりはじめたらしい。

新種の言葉が現れたとなれば、やはり興味深い。ただ、関心をもってあれこれと実際の用例を探ってみたら、やはり絵文字、顔文字などがその核心の構成をなしている。かなり人為的に作り出されたこの概念は、話し言葉や書き言葉に相対するだけの規模、影響力、利用実態などがはたしてあるかどうかは別として、「話すこと」と「書くこと」に対峙する姿勢を持っていることだけは、はっきりした事実だ。そのほとんどの用例は、口で伝えることも難しければ、ペンなどで書こうと思ってもまず無理な相談だ。ただ一方では、現状として「打つ」という行動もかなり覚束ない。キーボートならたしかに打ったり、叩いたりはする。しかしスマホなどとなれば、入力の効率化から画面をプッシュすることに限界があり、そこからの脱出として、フリック、スワイプ、アルテなどと呼ばれる入力方法がつぎからつぎへと案出されている。そう遠くないうちに、指を滑らせて入力するのが主流になるのかもしれない。

正直に言うと、打ち言葉と呼ばれるこれらの表現には、個人的には疑いが多い。若者が実際に使っているところを目撃すれば、いつも反射的にその同年代の人にそこに書かれたもの意味が理解できるかどうか確認したくなる。完全に共有されていない「打ち言葉」は、相互理解さえ拒絶するようなものでしたら、そもそも言葉だと言えるかどうか、心もとない。