2020年3月28日土曜日

インスタ日記

インスタグラム。すでに二年ほどまえに登録はしたが、ずっと放置したままだった。正直、いま一つ使い方が分からないメディアなのだ。家に閉じこもるようになり、なんとなく時間ができて、再開することにした。当面は、日常的なことを記録し、知人や友人と交流する「インスタ日記」から出発したい。

一日に一枚の写真、それに纏わる思いを、今度は英語と日本語の両方を併記するようにしようと、なんとなく決めた。ただ、肝心の写真をどのようなものを選ぶのか、これといった方向性がまったくなかった。そこへ、三枚目の写真をアップしたところでヒントを得た。たまたまレストランで昼食を取り、厨房の様子に惹かれてシャッターを押した。それをアップしたら、なんと同じ店のシェフからの「いいね」が戻ってきた。どうやら場所の情報を付けたので、それがそのシェフの視野に入ったもようだ。やはり人間の表情、反応、そして交流が魅力的なものだ。けっして得意な分野ではないが、とりあえずは人のいる風景ということをベースに歩き出してみよう。日常を眺める目には、もう一つの視点が加わったことを目標にしたい。

写真は好きだ。カメラもいろいろな用途にあわせてけっこう購入している。でも今度は身の回りの日常を切り取ることを目指すため、スマホを主役にする。ただ、そもそも閉じこもりからスタートしたこの試みは、行動半径の制限は厳しい。そのような時には、過去の写真を眺めなおし、記憶に残ったものを取り出すようにしよう。

インスタ日記

2020年3月21日土曜日

リモート

勤務校は、先週の月曜日を休講にし、火曜日からすべての授業をオンラインで行うことに切り替えた。まわりを見渡せば、一通り無事に済み、予想したほどの困難や混乱がなかった。まずはいまごろの若者たちが、教えるがわの人間よりはるかにデジタル環境に馴染んでいるところが大きいからだろう。

教える側の人間を観察してみれば、おそらくつぎの四つのグループに分けられるのではなかろうか。まずは、ずいぶん前から積極的にこのような対応の可能性などを試み、じっさいにあれこれのアクションを実行した者たちである。かれらの多くは同僚たちにノウハウを伝えたく思い、これを良い機会に熱心に伝授している。つぎは、これまでの授業などで新技術を導入することにはさすがに躊躇っていたのだが、もともと新しい教え方などへの感性が鋭く、いまの環境の変化が強い押しとなり、敏感に反応し、おそらくあっという間に新機軸が打ち出して周りをびっくりさせることだろう。三番目は、デジタルなどにはもともと非常に馴染まず、いまだに一つひとつの操作を紙にメモを取りながら覚えていこうとする。いまのような状況にはかなり戸惑うが、それでも同じ姿勢ですこしずつこなしていき、やがて大きな可能性に気づくことだろう。最後のグループは、技術の応用などには抵抗があって、しかもいろいろな理由を並べて異議をし、たいていは声が大きい。さいわい自分周辺にはそのような人が存在していない。でも、大きな環境の移行においては、このような立場の声は、一種のバランスを促していることも見逃せない。

対して、公共機関の対応は、力強くてすばやい。勤務校の例でいえば、リモートに切り替えることが決まったあと、さっそくZoomが正規なIT環境に導入された。そのうえ、教え方など全般にわたるような配慮はかなり配られ、成績評価を単に「合/不合格」のみに切り替えることさえ噂されている。

ここまで激動する状況を学生たちがはたしてどう受け止めるのか。どのような新たな交流の形態が生まれてくるのか。これからの高等教育においてどのような発展が現われるのか。恐ろしい疫病は、一方ではまったく思わぬ機運をもたらそうとしているのかもしれない。

2020年3月14日土曜日

鬼のそらごと

「新型コロナウイルス」、この言葉はいまや実際の伝染者とともに、凄まじいスピードで地球を回り、口から口へと広がっている。机の前にじっと陣取りしながら、つい『徒然草』第五十段(GIF動画参照)を読み返した。

兼好の筆にかかったのは、鬼についての二つの出来事と、思わぬ落ちだった。都には、「女の鬼になりたる」(鬼になった女)が連れられてきた、また鬼が一条あたりに現われたとの噂があった。どちらも突拍子のないことだが、しかしそれよりも驚いたのは、都の人々の応対だった。なんと鬼から逃げるのではなく、まったく逆に集まってこれを見物しようとした。これを記す兼好でさえ、さすが自分が出かけなかったが、確認するための下の者に行かせた。けっきょく鬼が現われなかったが、それより前に待ち受けていた人間同士が「闘争」(喧嘩)を繰り広げたのだった。この鬼に纏わる騒動は、やがて現実の中でのほんものの疫病につながった。「二三日人の患ふ事」と締まったが、想像してみれば、きっと「二三日」程度の生易しいものではなかったのだろう。

兼好のこの記述は、いろいろな角度から解読されてきた。とりわけ疫病との関連において、つぎの見解が残っている。「此の時も此の鬼の沙汰におどろきてともにいひあへる族は此のわづらひをうけしなり。心を動ぜざる大丈夫は煩ひもおのづからせぬなり。」(浅香山井『徒然草諸抄大成』、1688年刊)曰く、あるはずもない鬼に心を惑わされたからこそ疫病に罹ったのだ。たとえ疫病がやってきても、正しく心を待つことが大事なのだ。その通りだろう。ただ、さらに一歩踏み込んで考えてみよう。鬼のような噂は、まさに「そら事」(妖言)、そのような正体を持たないものには惑わされてはいけない。しかしながら、「コロナ」のような正体を持つものについて、これをまるで「そら事」のように扱ってしまえば、とんでもないしっぺ返しを喰らうのだと、覚悟を持たなければならない。

2020年3月7日土曜日

新しい人文知

雑誌『中国21』(愛知大学現代中国学会)Vol.51は、「デジタル資料と学術の未来」と題する特集号を刊行した。雑誌名通りに中国の、それも21世紀の状況のみを対象にしてこのテーマを取り上げても十分にしかるべき内容が集まるのではないかと想像するが、それよりも、あえて「デジタル」における洋の東西にわたる発展を一望するような構成になっている。編集者の慧眼や意気込みが感じられた。

242頁にわたる充実な一冊は、デジタル技術、図書館やアーカイブの運営、中国学術史の分野の識者による座談を巻頭に置き、論説には、日本、ヨーロッパ、中国のそれぞれにおけるプロジェクト例や研究例、デジタル化の歴史と現状などを取り上げる七本を載せた。デジタル時代における「新しい人文知」(内田慶市)を概観し、激しく移り変わる現在を知る貴重な特集である。個人的に一番勉強になったのは、慶応大学図書館・メディアセンターの事業を振り返りながら紙と電子の図書館を論じた一篇(入江伸)である。資料を利用する立場にいて、つい当たり前のように期待ばかりすることを反省しつつ、その資料を提供する側の苦労、とりわけ激しく変容し、進化する技術環境に翻弄されざるを得ない現状についてあらためて気づかされた。これまで個人的にも頼りにしていたプロジェクトの規模、それにかけた関係者のエネルギー、そして公開終了の結末などをつい思い起こし、デジタル時代の激変や新しいメディアの形成をめぐり考えを巡らした。ちなみに、自分のこれまでのきわめて規模の小さいプロジェクトの数々やそれらに託した思いを纏め、論説の一篇に加えさせてもらった。

『中国21』は、商業出版の形で発行しながら、一定の時期を経てから愛知大学リポジトリで全文公開することになっている。現在公開されている最新号は2018年3月発行の49号である。すこし先のことだが、いずれオープンデータとして読めるようになるだろう。海外からは待ち望んでいる。

『中国21』Vol.51「デジタル資料と学術の未来