2011年12月25日日曜日

がんこうじ

歩き回ったところのメモを整理し、パソコンでタイプしたら、はっとさせられる経験をした。奈良で訪ねたのは、元興寺。この三つの文字を並べてこう読むのも、地名ならではのことだなと思いつつ何気なく変換キーを押したら、出てきたのはなんと「癌工事」。一瞬目を疑った。同じ読み方でも漢字を並べ替えたらこうもショッキングなのだ。そして学生時代の思い出が戻ってきた。いまだワープロというものが非常にハイカラなものだったころ、友人が自分の経験を披露し、「四条の宮」のつもりだったのに「四条飲み屋」が飛び出して、機械を相手に無性に腹を立ったとか。

いわゆる漢字や文章の誤変換、日本語の文章を英語用のキーボートに任せて書き出そうとしたのだから、それこそ機械との騙し々々の関係の繰り返しで、不完全な方法ゆえのやりくりで、まさに日本語入力の古典的な問題だ。想像するには、いまの出版関係者たちの校正の仕事は、おそらくとっくにこの誤変換によって現われてくる問題への対応ということに注意の中心を移し、そのための工夫や訓練が要求されているに違いない。普段の読書経験などでも、なぜか間違った漢字が使われたのではないかということには敏感で、メジャーな新聞や雑誌を読むときなどとりわけ目を凝らす。間違いを見つけ出したら、書き手か編集者に声を大きくして伝えたいとの気持ちがこみ上げる。一方では、文章を入力するとなれば、個人の書きクセや表現の偏りなどならまだ機械の記憶機能などでカバー出来そうだが、長めの古文などとなれば、文章全体の規則に関わるだけあって、どうしてももどかしい。それようのシステムもかなりの数のものが利用できるようになったと分かっているが、いまだに一々使い比べる気力を持たない。

世の中には、どうやら「誤変換大賞」「変“漢”ミスコンテスト」(ネーミングは妙)などまで行われて、同じ問題を抱えている人は明らかに多い。でも、苦労や苦悩をコンテストに持ち込んで愉しむという機転、まさに持たなくてはならない。

2011年12月18日日曜日

絵の伝播

週末にある研究会に参加した。研究発表の一つは、いわゆる「予言獣」を紹介し、江戸時代の絵画文献への当時の人々のかかわりようを取り上げた。いつものように一枚の絵にかなりの分量の文字情報が入り込み、一字一句に読んでいけば興味深い。いつの世でも災難が現れれば予言が流行り、その表現媒体の一つに絵が加担し、かつ凄まじいスピードで伝播したものだった。

111219ここに文字内容に定番がある。異形の魚やら猿やらの動物たちの由来、それが常ならない身体的な特徴、災難を追い払う威徳云々に続き、きまって享受の方法を指示する。すなわち「我姿を絵に書」く、「我姿を書して張置」く、あるいは他人へと「絵を伝へ見」せるものだった。そして、ここにみる複製する、繰り返し見る、他人に見せるという一連の行動の延長、あるいは逆に普段の人々にこの動作の連鎖を開始させるためには、絵の販売があった。まさに印刷が流行り、商業流通が日常化になった江戸ならではの風景である。当時の文人たちの記録などから追跡すれば、異形の絵を手にして、「街を売行」する人、「高声に市街を呼歩」く人たちの姿が出没した。考えてみれば、売り歩く行動こそ、当時では伝播のためのもっとも効率が高くて確実な方法だったのだろう。思い切って今風の言い方に置き換えてしまえば、さしづめインターネットにアップロードして全世界に見せる、といったようなやり方に当たるに違いない。ただしこの行動はあまりにも現世的な利益と直結し、現金の流れが見え隠れした。そのような側面が強くなればなるほど、信仰とは無関係の、あるいは信仰に逆行するような結果になってしまう。

はたして知識をもつ者たちは、絵による営利のからくりを早くから看破し、「愚俗の習」と批判した。そして世の中は明治になれば、「予言獣」絵画の販売は、まさに「開化」という時代のモラルに反するものとして、発売禁止の対象になった。さらに百年以上経ったいま、そのような絵は、博物館のコレクションにまでなって、展示ケースの奥からわずかにその姿をわたしたちに見せてくれているものだった。いうまでもなくそこになんらかの威徳をもつなど信用する人などもう一人もいない。

「妖怪変化の時空」(国立歴史民族博物館)

2011年12月10日土曜日

京都・柿

111210秋の風物詩といえば、もみじと並んで柿も鮮やかだ。木々の葉っぱがほぼ落ちきったあと、土色の枝に果実のみ残り、狭い庭先からしっかりと存在を訴えて、冬の足音が聞こえてくる街角にきれいな色を添えている。

京都で柿を賞でる。これだけでもどうしても学生時代の思い出が蘇ってくる。京都という地を知り、勉強の内容にすこしでも近づけたらと、思い立って狂言教室に通った。いまならもう考えられないビッグな経験になるが、それこそ日本一流の狂言師に、口移しで稽古を付けてもらった。しばらくは定期的に通っていたが、自分のなかでもきっとわずかな留学生活のなかでの短い経験にしかならないのだとの思いがあり、ときにはカメラやウォークマンまで持ち込んで、稽古の写真撮影や録音まで敢行した。外国人だということが理由だったのだろうか、師はいやな顔を一つもせずに平然と応じてくれた。写真や録音はいうまでもなく大事な宝物で、いまやそれをデジタルの形に置き換えて、若い学生たちといっしょに観る機会まで持ちえた。その時に覚えたただの一番は、まさに「柿山伏」。「あれに登って喰おう」というせりふは、いまなお独特の節回しに乗って記憶に戻ってき、周りに人がいなければ、思いっきり声を出して語りたい衝動に形を変えたりする。

いま住んでいる地は、関西でも有名な柿の産地だとは、最近知人に教わるまでには知らなかった。週末に散歩に出かけたら、道端にたしかに農家直販の店が軒を繋ぐ。申し訳ないぐらいのコインをさし出したら、表示された値段と関わらず、お婆さんは小さなダンボール箱を探し出して、いっぱいに詰めてくれた。地元の人々の暖かいもてなしにはたと心が打たれる。

2011年12月5日月曜日

京都表展

知人から招待を受けて、週末に差し掛かった一日の午後、市内で開催されている小さな展覧会に出かけてきた。「表展」と名乗るもので、今年は数えて95回目、さしずめ100年に近い歴史をもつ由緒ある京都ならではの行事だ。表・展という二文字の組み合わせをはじめて知った自分にとっては、そこにきっと知らなかった世界が用意されていると予想していたのだが、それでも驚きがじつに多かった

いうまでもなく、「表展」とは書画表装の展覧会だ。しかし、その表装とは、和紙に描かれた作品を展示や保存のために加えられる最後のプロセスとだけ考えていた。しかしながら、京都での表展は、そのような認識が一つの大きな内容を見落としたことを教えてくれた。古い作品の修復である。展覧会に招待してくれた方は、かれの出品作品を丁寧に解説してくれた。修復前のものの写真を添えてもらいたかったのだが、壁に掛けられたものは、まるで作家の工房からいまさっき持ち出されたような、初々しくて、漲るような生命力をもつものだった。しかしながら、それが百年も近い昔のものを修復したものだと教わって、目を見張る思いだった。ここまで甦らせるためには、どれだけの時間を費やしたかと、恐る恐るに尋ねたら、「十日ぐらいだ」と、いとも簡単な答えが戻ってきた。いうまでもなく厳しい訓練や長年の経験を積み重ねてきた熟練な技術の持ち主ならではの成せ技だった。これを目のあたりにして、つい最近聞かされた、ある新出絵巻についての識者からの推測を思い出さざるをえなかった。ハイライトの画面が抜け、文字テキストが不自然に接続されたあの作品について、絵が切り取られたのだろうというものだった。いまなお保たれている不思議なぐらいの技を実際に見て、なぜかあの推測には納得した思いだった。

ちなみに展覧会の場所は、京都文化博物館。一階は無料で入り、しかも訪ねたときには優雅な室内コンサートが催されていた。博物館の入り口でスタッフは心地よい京都弁で場所の案内をしてくれた。こんどはまた時間を作って、何回も訪ねてみたい。

京都表装協会・第95回表展

2011年11月28日月曜日

カメラを構える、続々

先週は、まさにもみじが最高の数日だった。葉っぱの形は深く記憶しているが、その色がこうも一日々々と変わり続け、深まっていくとはいままで気付かなかった。この季節に似合うのは、やはりカメラ。ただなぜか綺麗に撮り尽くされた感じで、自分のレンズから一味違うものを出そうと思っても、なかなか叶わない。

写真のテーマを風景と人物という二つに分けてみるならば、後者の人物の撮り方にはいっこうに要領を得ていない。撮影対象と会話をつづけ、しかもそれが撮るための会話であって、内容よりは顔や表情にひらめきを発見するのだという心構えは、繰り返し教わるが、実際にカメラを構えると、どうしても相手に本気に話しかけてしまい、答えてしまう。そのようにしていつの間にか風景になった人物、あるいは風景を撮る要領で撮る人物をカメラに収めるほかはDSC_5297なかった。しかしながら、ここは日本。レンズを通してみるものには、ここならでは発見がある。たとえばもみじシーズンの夜。日差しの中の輝く木々こそ鑑賞の対象かと思ったら、昼以上に観光地に長い列が出来て、人工の光で照らし出す庭園の外で人々は静かに順番を待ち、料金を払って狭い空間に吸い込まれていく。さらに観察すれば、そのような人々には、夫婦のような恰好は少なく、家族連れはさらに稀で、代わりに同僚、旧友、同級生、さらに遠路からのツアーといった集まりが圧倒的に多いようだ。

ところで一人で散歩するには、カメラは最高の道連れだ。思い立って約六年ぶりにカメラを買い替えた。ただこの六年という間隔は長すぎたせいか、手に入れた新しい道具とはいまだぎこちない「会話」を続けていて、その素性を掴めきれない。

2011年11月20日日曜日

ダブル報恩

友人に誘われて、木津川市で開催されているある特別展を見てきた。けっして規模は大きくない、どちらかと言えば地域密着型文化施設による主催だが、しかしながら、木津川という地を共通テーマにもつ中世や近世の絵画資料を中心に据え、中には、地元のお寺などが所蔵する五点の絵巻が一堂に集まったことに、少なからずに驚いた。関西地域の薀蓄や歴史の厚みをしみじみと感じさせられた。

展示の中の一点、「蟹満寺縁起絵巻」は、最近になってその存在が報告され、初めて公共の場で展示されるものである。描かれたのは、動物報恩という中世の人々が好んで語るテーマだった。絵巻全体の構成から言えば、ある意味では異様なまでに動物と人間との間の恩と報恩を訴えた。現存四つの画面のうち、親子がそれぞれ蟹と蛙を助けるという二つの場面に続き、輝くような男に装う蛇の来訪を受け、そして最後は、いささか血なまぐさい、グロテスクな人間蛇退治ならぬ蟹の蛇噛み殺すというハイライトが展開される。ただし、人物の服装や建物なDSCN9764どを描く絵は、どれも色使いが輝かしくて、暗澹な思いなど微塵も感じさせない。むしろ二種類もの動物に救いを与え、蛙と蟹によってそれぞれの形で感謝され、恩を報いられるというダブルの救助、報恩という話のユニークな内容は、あくまでもめでたくてありがたい。展示室に陳列されたのは蛇に襲われる蛙を救った場面である。蛇の口から逃れた蛙は、なぜかすぐそばにある川に飛んで帰るのではなく、人間のいる方向へやってくるのだった。しかもまるで赤ちゃんのように両方の前足を伸ばし、会話まで持ちかけているようで、見ていて微笑ましい。

特別展は12月11日まで。時間を作り、電車を乗り継いで訪ねて、一見する価値が十二分にある。

木津川ものがたり
「蟹満寺縁起絵巻」を初公開

2011年11月14日月曜日

画像と遊ぶ

やや遅れた話題を記しておく。すでに数週間まえのことになるが、現在進行中の共同研究プロジェクトを外部の人々に紹介するために、それぞれ一枚のパネルを作成するような計らいがあり、そのための画像を用意することを要求された。いつもながらこのような必要は、新たな画像処理の方法を習得し、あれこれとデジタルマジックを試すよい機会となる。喜んで時間を費やした。

研究のテーマは、デジタル環境と日本の古典画像。互いに離れているこの二つのことを一つの画像のなかに持ち込もうと、さっそくそのコンセプトを決めた。古典のほうは、中世絵巻の代表格である「百鬼夜行」からハイライトとなる鬼の顔をある模写本から切り出す。デジタルのほうは、その画像が変形されたことをもって示す。だが、実際にやってみて、「デジタル」を表現することでは思わぬ形で苦労をさせられた。画像のデジタル化といえばそれをデジタル信号のドットに置き換えるということだから、そのドットさえ持ち出せば十分だと思い込んでしまった。画像の一角に狙いを定めて、すこしずつ違うサイズの枡をかけて、色を変えて、画像がデジタルに分解され、再現されたことを意味しようとした。出来上がったものを見て、自分はそれなりに満足したのだが、しかしながら周りの同僚に見せたら、そのような意図は一向に伝わらなかった。パソコンの画面をじっと見つめ、色や桝目のサイズをあれこれといじっているうちに、はっと思いついた。デジタルとは0と1の数字だということが広く知られ111112ているものだ。ならば数字そのものを入れて、デジタルという要素を明らかに書き入れたら、分かってもらえるものとなるだろう。けっきょくのところ、最終的に提出した画像はまさにこのような構図になった。しかしながら、理由がどこにあるのだろうか、はっきりしたコメントはいまだ一つも戻ってきていない。

そもそも古典画像とデジタル環境、この二つのことを合わせて一つの研究テーマにすること自体は、すでにかなりの跳躍があったのかもしれない。しかしながら、周りの研究者たちはみんなそれぞれの形でサポートをしてくれている。この週末にも、研究の意図やありかたをめぐる発表の場が用意されて、刺激になる交流ができた。組織者や参加者たちは熱心に問いただしてくれた質問や疑問などは、いまだ自分の中でしきりに反芻している。

2011年11月7日月曜日

中国の高速道路にて

祝日を含め、週末にかけて短い帰省をした。ほぼ一年半ぶりに親や親戚の顔を見て、ありがたい数日を過ごした。

中国の変化は激しい。これは風来坊の旅人にとっても、はたまたそこで毎日生活している人々にとっても、まったく同じ感覚なのだ。故郷は間違いなく大都会に属するが、目まぐるしい発展を始めたのはなぜかほかの都市と較べてはるかに遅く、都市建設に明らかな変化が見られるようになったのはわずかここ数年なのだ。だが、その分だけあって、いざ始まると言葉通りに目まぐるしい。いまやマンションでも新築ならどこも20階以上で、かつエレベーターや広々した駐車場が付く。昔の記憶は地名のみで、ランドマークはほとんどすべて消え、コンサートホールなど同じ性格のものが建て替えられたとしても、まったく別物となった。サービス業を中心にその質が格段に高くなり、街角の写真屋さんでさえ社旨や挨拶の合唱で開店を迎える。一方では、普段生活している人々が物価の急激な高騰に戸惑う様子もかなりの場面で切実に見受けられた。

いつもながら違う土地を訪ねると、どうしても印象に刻むような瞬間がいくつ残る。今度の旅の中の一つは、こうだ。五、六車線があって、自転車も走らない高速道路で、中年の男はしっかりした足取りで車の中を潜って道路を横断していた。車の中に乗ってそれを眺めたら、なぜか思いはあの「1Q84」のハイライトの場面と重なる。だが、目の前の男は全身力を抜いて、太極拳でもやっているかのようにこの上なくリラックスした歩き方をしていた。そう遠くはない向こう側にりっぱな陸橋がバックになっていて、なぜかとても象徴的で考えさせれる構図だった。

2011年10月29日土曜日

京都・時代祭

年中行事、年に一度のみの行事が多い。時は秋、場所は京都、そのような実感はなおさらのものだ。その中で、先週の週末に「時代祭」を観た。京都の三大祭と謳われ、かつ自分にとっては、時代という言葉は中国語に言う「現代」ではなくて、過ぎ去った「歴史物」を意味するものだと、たしかこの行事のおかげで気づいたものだといまだに覚えていながらも、実際に街角に出て行列を見物したのは、なぜかこれまでに一度もなかった。

時代祭の眼目は、どうやらもっぱら服装の艶を競う仮装行列のみにあった。西洋風のバンドやら出し物を見せるパフォーマンスはごく稀にしか登場せず、乗り物は手押しで、情報を伝える旗は文字が見れないほど小さくて、馬の数だって期待したよりはるかに少なかった。行列の大きな工夫の一つは、時代展開の順番に沿うものではなく、時間を逆行して古い時代の行列が一番後ろにやってくるというものだった。時のトンネルを潜って時間の向こうへと旅行するかのようなもので、たしかに想像が刺激された。一方ではその結果、京都が自慢にする時代ではなくて、京都が国の中心から離れた時代のものが数・量ともに多く、より深い印象を与える結果となった。そして明治あるいは江戸という時代はその全体がテーマではなくて、その間に京都と関わりのあるものだけが表現の対象となった。それを眺めていて、思わずはっと気づいたことがあった。江戸時代以降、京都はあくまでも「都」という名前の地方都市だった。その意味では、地方色豊か、地方に密着する、といったような自慢になる言葉は、こと京都になれば、どこかノスタルジアを誘う、淡い失落や儚さ、それに責任の反対側に位置する気楽さを持ち合わせるものとなった。

111030今年は天気があくまでも不安定で、祭は一日延長して、それでも行列の後半は雨に降られ、多くの観光客がそそくさと座を立った。色鮮やかな写真を祭の記憶として一枚ここに置く。祭が済んでからの翌日、友人は、御所の出発地は楽しくて、時代の服装を纏った人々と会話することもできるのだよと教えてくれた。良いシャッターチャンスを逃して、いささか残念だった。

2011年10月23日日曜日

国会図書館電子資料の新公開

111023国会図書館公式サイトの記述によれば、さる18日、「デジタル化資料(貴重書等)」において新たに3万5千冊を超える貴重書資料典籍がデジタル化され、公開された。同時にさらに1万5千冊の資料がデジタル化されたが、一般公開ではなく、図書館を訪ねての利用のみとなっている。新たな公開が加わった同サイトは、検索の機能が設けられ、デジタル資料もとても高画質をとり、独立したJPGファイルのフォーマットまで用意されている。あえていうなら、一歩さきに公開され、すでに大きな反響を呼び起こしている「近代デジタルライブラリー」と比較すれば、アクセスは格段に分かりやすくて使いやすい。

公開資料はあまりにも多く、これからじっくり探検を試みなければならない。短く資料名などをクリックして覗いた印象から言えば、資料の内容も、それを選択し、公開に提供する方法も、きわめて図書館的なものだ。公開の仕方も資料のタイトルも、その数が圧倒的に多くて、量、質ともの一流のものでありながら、一方ではどこかに素っ気なくて、自己主張をしない。ユーザーに使い方を説教するのではなく、むしろ逆にどこまで使えこなせるものかと無言の挑戦を挑んでいるかのようだ。そういう意味では、あるいは提供された資料の活用と、その価値の発見は、日常的に研究活動を続けている研究者の責務の一つになるのかもしれない。公開された資料の中に、すでに研究対象としてとりあつかった研究成果、纏まりのある研究の依拠、美術館などでの展示記録、出版史などを説く入門書や辞書の実例、などなど、そういった情報はぜひとも必要で、それが加えられる方法(可能性)が得られたい。

ちなみに公開資料の目録を眺めていて、中国文献の多いことにいささか驚き、あらためて中国と日本との交流の歴史を思い出された。中国や日本の研究者に止まらず、漢字文化圏の関心あるすべての人々にこの新たなデジタル公開を知ってもらいたい。

電子図書館「デジタル化資料(貴重書等)

2011年10月16日日曜日

スカイプ授業

東京のある大学に招かれて、スカイプを用いての講義をさせてもらった。とても貴重な経験だった。今学期は御草子を読んでいるという大勢の学生たちを相手に、御伽草の絵そのものを読むということをテーマにした。日常の講義などではとても出来ないことなので、講義する自分もかなりの興味を覚えた。選んだテーマは、出産。在学中の大学生には、やや重いテーマではないかと危惧していたが、総じて好意に受け止めてくれた。授業のあとに回収したコメントには、「身近なもの」とまで記した学生は何人もいて、ほっとした

短いクラスで意図的にうち出したコンセプトは、あくまでも絵をじっくり見ようというものだった。絵巻を読む立場からすれば、至って当たり前のものだが、若い学生たちにはこのようなアプローチが浸透するまでにはいまだかなりの道のりがあるものだと感じた。そもそも話が出産となれば、それが不浄で穢れたもので、払いをもって立ち向かうべき対象だと、どうやら高校の時から一つの文化的な理解として教わってきて、それをまるで一つの常識として身に付けてきた若者がかなりいた。そのような安易な主張にすこしでも懐疑を持たせ、人生の大きな一環への地道な営為にもっと目を向けるようにと、ちょっとでも手伝えたらと願った。

技術的なことを簡単に書き留めておこう。主催校のこれまでの経験から、三十分程度の録画を前もって作成しておくとのことを要求した。それに応えて、あまり大きなサイズにならないように、数十枚の画像を、パワーポイントと同等の要領で、800x600ドットのサイズに落として、それを説明する録音にあわせて、ムービーメーカーにかけた。いま時のHD動画ファイル(1920×1080)には遠く及ばないものだが、大きなスクリーンに映し出しても、それなりに見るに耐えられるもので、しかも学生たちからは「鮮明だ」とのコメントを多数寄せられた。あるいはYouTubeの動画をスマフォンで見ている日常には、たしかに十分なビジュアルな伝達力を持つものだったかもしれない。

2011年10月8日土曜日

河の記憶

秋が訪れた。京都の街中を歩き回り、学生時代の思い出を辿り、蘇らせる。京都の記憶は、山の輪郭、河の姿にある。わたしには、山は如意ヶ岳、河は鴨川なのだ。

鴨川を見るまでには、都会にある河というものには、一つの認識を持っていた。いわば水の底には汚泥が溜まり、水の上にはコンクリートの橋が横たわる。だが、鴨川はそのような認識をかなり変えてしまった。水はたしかに広くて速い。しかしそれを受け止めたのは、しっかりした石造りの河底であり、しかもそれが綺麗な階段を成していて、見ようによっては巨大な音譜を呈している。それ自体が一つの途轍もない現代都市建築の一部だ。歴史上での川水氾濫の記録など、知識として知っていた。ならばなおさらのことで、目の前の石畳の河の姿は、かつて荒れ狂う水の流れを宥めた人間の努力の結晶として映った。

あの鴨長明もかつての鴨川を目の当たりにしていた一人だった。彼が書き残した「方丈記」を読み解く新しい連載が、先週から「京都新聞」日曜版に展開された。「行く河の」の名文を俎上に載せて、筆者は「圧倒的にチャーミング」と意表を衝いた解説をした。一読して視界が一新した思いだった。無常の代表格である「行く河」は、どんなものでも凋落する、変わりゆくものを直視するシンボルだと繰り返し議論されてきた。だが、一方では、世の中の摂理を見抜いたあとの、達観で清澄した鴨長明の精神の世界にわれわれは目を向けなさすぎたのではなかろうか。

111009 「凡語」(10月2日)

2011年10月2日日曜日

宋の絵巻を読む

二週間あとにささやかな研究発表を予定している。ここ数日、もっぱらその準備に取り掛かっている。今度取り上げるのは、中国の宋の時代に作成された絵巻。一つの小さな研究としては、伝えたい内容がだいぶ前から形になっている。いまはむしろそれをどのように有効に伝えるべきかと、関係資料を読み直し、所定の時間からあふれ出そうなことを削り落としている。

絵巻という表現媒体の中心をなす要素は、つぎの三つだと捉えることが出来よう。すなわち文字と絵の反復、特定のストーリーの存在、それにある程度熟知されたものの再表現、である。以上のような考えが成り立つものならば、これらの要素を完全に具えた作品は、中国にたしかに存在していた。しかも宋の時代のものが数点も伝わり、日本でいえば、あの源氏物語絵より百年以上も古い歴史を持つ。だが、一方では、そのような作品は、どう見ても中国的なものだ。言い換えれば、日本で成長し、愛読された絵巻が持つ数々の表現の工夫や手法は、まったくといいほど見られない。

日本絵巻についての研究は、約30年まえのカラー印刷による出版を受けて大きな展開を見せた。中国の事情に目を転じて見れば、似たような出版のラッシュがまさにここ数年の間にはっきりと見受けられる。もともとそのほとんどは高価なもので、個人読者よりも大学図書館などを対象にしていることが明らかだ。ただ、それでも絵巻研究をまつわる環境が大きく動き出したと実感できる。そのような状況を受けての研究の進展を心待ちにしている。もちろん自分なりの読み方も怠りたくない。

仏教文学会

2011年9月26日月曜日

王妃と帝鑑

久しぶりに名古屋を訪ねた。朝起きて、一人で行動する三時間ほどの余裕まで出来て、名古屋城を目指して歩き、いま開催されている「帝鑑図」の特別展を観た。

110925「帝鑑図」とは、途轍もなく大きなテーマだ。つねに魅力を感じていながらも、なかなかその全容を掴めない、あるいは掴むための手がかりが分からない状態だ。はっきりした源流を持っていることから、考えようによれば分かりやすいものだが、しかし、これに寄与したメディアはあまりにも多い。それも屏風、障子画など、最初からごく限定された読者の目しか意識しない、いわば閉鎖された世界に置かれていた。一方では、画像資料として眺めれば、豊富なストーリが裏を支え、それもどれもが長い歴史の中で親しまれてきたもので、読者としての接し方が確立されている。教養、教訓、そして享楽。このような性格のまったく異なる要素を一身に備えたものに取り掛かるには、たしかにそれなりの覚悟が必要だ。

美術館での展覧会とは違って、天守閣の一階を使ったこの展示は、格別な雰囲気を感じさせてくれる。どれもじっと見つめたくなる絢爛な絵画は、暗闇に囲まれ、ところ狭しと並べられた。テーマは「帝鑑」だけに、まさに城という空間に溶け込むものだ。一方では、手元の入場券をあらためて見て、タイトルにはまっさきに「王と王妃」が目に飛び込んでくることには、苦笑を禁じ得なかった。「王妃」と「帝鑑」とでは、言葉の内容としてまったくつりあわない。さらに言えば、「王妃」に思いを馳せることは、「帝」に投げかける視線や姿勢を倭小化するものにほかならない。しかしながら、もともと城に入る前に、一番に迎えてくれたのは、城のイメージと関係ない「ユルキャラ」なのだ。世の中の人々が帝に寄せる関心は、その処身を正す鑑ではなくて、あくまでも人間としての日常に転じたことを物語っていよう。

名古屋城特別展「王と王妃の物語 帝鑑図大集合」

2011年9月18日日曜日

視線移動の流れ

同僚との雑談のなかで、いわゆる「視線追跡」技術とその応用に話が及んだ。主にたとえば言語学研究で使われるもので、特定のものを読むために、読者の視線移動の軌道を記録し、分析するために開発されたものである。なにも言語学だけに限定するものでもないだろうから、絵画を見るにあたっての視線を追跡する110918研究だって、これまできっと行われていたと想像している。思えば一篇の文章を読むものならば、読者はたいてい決まった順番を守るものであり、それは追跡する必要もないぐらい明晰なものなのだろう。でも、絵となれば、事情はどうなるのだろうか。視線の移動ということに関していえば、それを文章を読むのと同じレベルで考えることなど、そもそも可能なのだろうか。

絵巻の絵でいえば、それはさしずめ右から左への視線の流れがまず存在することだろう。典型的な読者は、巻物をすこしずつ左へ披き、右手で巻き上げるのと同時に、視線を先へと送っていく。その途中において、テキストによって語られたストーリとの対応を思い起こしずつ、画面のハイライトを捉え、一枚の絵では収めきれないストーリの展開を想像のなかで膨らませてゆく。その途中において、ハイライトを起点として、詞書には触れられていない絵の要素を見つけ出して、想像と照らし合わせる。ただ、これはあくまでも大きな流れであって、これに対する例外は、いくらでも存在するものだろう。文章の場合でさえ読者が特定の部分を読み直したりするものだから、絵の場合はそれがもっと自由な形になるものだろう。ただし、普通の読者は、たとえば一枚の絵に対面して順を追ってすこしずつ満遍なくすべてを見ておくことなどまずないのだろう。そこにはまさに絵を観るための基本的な仕組みが隠され、そこに作者と読者との対話の基盤が存在するものである。

ところで、以上のプロセスを分かりやすいように説明しようと思えば、どのようなビジュアル的な方法を取るべきだろうか。絵の上に罫線を引いたりするようなことも考えられるだろうけど、どうしても乱暴でいて、野暮にさえ思ってならない。もっと気の利いたような方法があるはずだ。とりわけアナログ名模写、デジタルの画像処理といった可能な手段を十分に生かしたら、それ自体一つの有意義なチャレンジなのだ。

2011年9月11日日曜日

明日は中秋

もうすぐ中秋になる。学生時代なら、夏休みを終えて大学のキャンパスに戻り、同級生たちとひさしぶりの再会を楽しむ年に一度の思い出の多い日だ。そのような経験を共有している大学時代の親友が、いま現在の北京の写真を撮って寄せてきた。さっそくカナダの名月を収めた自慢の写真を送り返した。

ならば、絵巻にはどのような月が出ていたのだろうか。一日の半分は月に照らされているが、画像に残されているものは、思いのほか少ない。源氏物語絵巻の「蓬生」、「宿木」などに描かれたような、月を抜きにして語れないものはかなりの例に数えられるが、一方では月そのものが視線をひっぱるものは、そう多く思いつくものではない。110911その中の一枚は、「玄奘絵」のハイライトをなす須弥山を照らすものだ。太陽と対になり、陰の世界を掌る。その下には、雲の上を走る雷神、海の中を踊る怪魚と、まさに暗のエネルギーが集合する計り知れないものだ。このような月もあったんだ、いや、月にまつわるこのような想像の世界が存在していたのだと、あらためて想起される。ただし、そのような月でも、いま目の前あるような黒く沈んだ色をしていたはずはない。最初はきっと銀の色に輝いていたに違いない。わずかに見える月の中の模様も含めて、いつかなにかの現代技術で蘇ってくることを心待ちにしている。

ところで、周りの友人知人たちは明日中秋の夜に集まろうと声を掛け合っている。実現できれば、ひさしぶりの中秋の夜の宴になる。いまから楽しみだ。

2011年9月5日月曜日

六月の霜

初会合の研究会で、一点の御伽草子作品が国宝になったと知って、驚いた。教わるままにサイトを調べてみたら、それは一群の文献の中の一点で、タイトルは「玉藻の前」、国宝指定を受けたのは2002年で、いまだ10年も経っていない。ありがたいことに作品がすでにデジタル化されて、だれでもアクセスできる形で公開されている。さっそくデジタル画像をパソコンモニターいっぱいに開いて、じっくり眺めた。

たとえばこの画面。突飛な構図はあまりにも御伽草子的だ。画面中央の美しい女性は、山間の水辺に身を置いているにもかかわらず、豪華に十二単を身に纏っている。顔には、まるで面をかぶっているかに見えるが、実はさにあらずで、笙を演奏している姿勢だ。しかもよくよく見れば、美女は巨大な尻尾を出していて、ストーリーのテーマである狐の化身だということが表現される。さらに画面全体に目を向ければ、110903描かれている風景がかなりユニークなものだと気づく。雉が空を飛び、あたりは緑いっぱいなのに、木々や岩石が真っ白い雪を被っている。清い流水と相まって、この非自然な景色こそこの画面が表現しようとするものに違いない。文字テキストを読めば、まさにその通りなのだ。ストーリーの内容として、ここでは玉藻の前が豊かな知識を持ち合わせていて、どんな難問にもすらすらと答えられると伝えている。その質問の一つは笙の由来や効用であり、玉藻の前が与えた答えはつぎのようなものだ。「しやうをつくりてふきしかは六月にしものふることおひたゝし(笙を作りて吹きしかば、六月に霜の降ること夥しい)。」すなわち画面いっぱいの白いものは、雪ではなくて霜なのだ。自然界にみる霜の様子をおもいっきり誇張したスタイルで描けば、こんな格好のものになったのだ。

中国語表現のレトリックには、「六月の雪」がある。真夏に降るはずもない雪が降ってしまったということは、ただの反自然ではなくて、冤罪を受けていることの証だと文学的に使われている。それを思い出しつつ、雪に紛われるぐらいの霜は、一種の神力を表わす超自然現象として、ほほえましい。

玉ものまへ

2011年8月27日土曜日

「ニコ動」デビュー

「ニコニコ動画」とは、いまやかなり認知されて、有意義な発表や交流の場となったことは知っている。しかしながら、ずっと動画と一定の距離を持ち続けてきたこともあり、その内容をじっくりと眺めたことはほとんどない。そんなところに、なんと「ニコ動」作者名に自分の名前が現われたのを知って、少なからずに驚いた。

作品のタイトルは、絵巻「蒙古襲来絵詞」そのものを掲げている。一年ほどまえ、この絵巻の詞書を全文朗読してウェブサイトに載せたのだが、その音声が用いられ、同じ作品の近世模写で、オンラインで素敵な形で公開されている画像に合わせて、動画に作りあげられたものである。このような作業をこなし、かつ情報の多い説明を添えて動画投稿サイトで公開しているのだから、制作者がかなりの苦労をかけたと想像できる。いうまでもなく、絵の出し方には、内容と関連をつけたスポットライトではなくて、ただ単に機械的にすこしずつ次へと移動するのみなど、議論しようと思えばいくらでも余地があるのだが、画像、音声に時間軸を加えて動画を仕上げるという試みは、大いに賛同したい。一方では、朗読者や絵の出自などをはっきりと記載したにもかかわらず、肝心の作業者本人の名前などは一切なくて、あくまでも匿名という形に貫く。これだけ作業をしたにもかかわらず、名前を明かそうとしないのは、はたしてどういう考慮から来るものだろうか。勝手に推測するのだが、なにか言われることかもしれないことへの予防策とでも考えていないのだろうか。そのような可能性が完全にないでもなかろうけど、少なくとも朗読を公開した私にはちょっと想像しづらい。わざわざオリジナル内容を制作し、公開した以上、それが異なる形で使われることも含めて、もちろん覚悟の上だ。いや、使われることは、作業が無駄ではなかったことの証であり、むしろ嬉しい。そう考えてみれば、そのような心配まで抱えながら作業に取り掛かったのかと想像して、なぜか余計に感心したものだった。

この動画には、すでに見た人のコメントが付いている。その中の一つは、「外人さんですか、wkwk」とあった。これまた初体験で、いわゆる「KY日本語」と現実的に出会った。ただ、調べなければそれを理解する知識を持ち合わさない。はたしてそれが「ワクワク」を意味するものだと知った。そうか、外人だから余分な関心を持たれるんだ。そうなれば、それも物ごとの一部だと言わなければならない。

ニコニコ動画「蒙古襲来絵詞」

2011年8月20日土曜日

概念図

数日前のことである。研究をめぐって雑談したら、近代史を専門とする同僚の一人が無造作に一枚の地図を見せてくれた。戦前の中国東北地方を描いたものだが、実用というよりも、観賞用にと掛け軸に仕立てられ、タイトルには「○○概念図」と掲げてあった。これまでまったく出会ったことのないタイプの資料で、むしろ唖然とさせられた。まずタイトルのつけ方に馴染みがない。一覧できないものを図に具像化したものだから、概念の逆にいくものではないかと、自分の中で整理が付かないまま質問を投げたら、情報学を専門とするもう一人の同僚は、否、存在したものの形に捕われないで抽象した形で表現したものだから、概念そのだと諭してくれた。

「概念」をタイトルとして使うことのインパクトを忘れられなくて、数日経って、その経験を今度は別の友人に確かめてみた。文学を専門とする方で、それはごく普通の言葉だと教えてくれた。その方向で自分の手で調べてみたら、まさにその通りだった。インターネットでこの組み合わせを入力すると、戦前など古い時期にもっといく必要などまったくなくて、いま現に行われている用例だけでも、「震源断層モデル概念図」、「放射性廃棄物処理概念図」、「東北百名山概念図」と、まさにナウなことばかりが対象にあげられ、百花繚乱だ。

110820そこでさっそくつぎのことまで連想した。中世の研究において、「古地図」(「古絵図」、「荘園図」など)という一群がある。ビジュアルで、眺めて興味が尽きない。それはまさに「概念図」にほかならなかい。琵琶湖北端の菅浦を訪ねた時に神社のホールで撮影した写真(部分)を掲げてみよう。実物は重要文化財で、これは複製だが、かなり精緻なものだった。しかも、その昔はなはだ実用的な資料だったが、いまは掛け軸の形で壁の中央に鎮座する。ここに至れば、絵図の掲示方法だって、時の流れを映し出しているものだ。

菅浦与大浦下庄堺絵図

2011年8月13日土曜日

菩提の色

すでに十五年ほども前のことになる。招待をうけて、東京で数ヶ月の研究生活を送った。その直接な成果として、「玄奘絵」の画面を見つめて、短い研究報告にまとめた。ただ、実物の絵巻に実際に対面することがついに叶えられていない。そこで、いまはそれが奈良国立博物館においてそれが展示されていると分かって、さっそく駆けつけて行った。

絵巻は、近年の美術館の展示においてかなり頻繁に登場していると聞く。しかしながら、それでも一点の作品のみを対象とし、その作品全体を展示期間において前半と後半に分けて、すべてを一斉に見せるというような企画となれば、やはりかなり珍しい。広い展示ホールは、メインの場面の提示や現代の風景写真を数点飾っただけで、あとは胸の高さにあわせた展示ケースに本物の絵巻を披き、じっくり鑑賞することに提供するものである。一点のみの作品を、長い観衆の流れに押されてひたすらに見続ける、まさに非現実的で至福な時間だった。いうまでもなくすべての画面は印刷されたアルバムや書籍の挿絵などにおいて繰り返し眺めてきたものばかりである。しかし、それでも実物と対面して、本物の迫力に圧倒される。あず第一、絵巻のサイズが大きい。普通の出版物としてすでにかなり大きめのアルバムでも、実はサイズをだいぶ落としたものだとあらためて知らされる。それから、作品の保存状態がよく、色合いはとにかく鮮やかだ。そのため、絵師の色についての感性がより目立った。110814たとえば秣兎羅国で十弟子のお墓を詣でるという場面(巻四)である。複数の菩提を描き分けようとしている意図があるだろうが、それにしても、金・銀・青という色選びはなんとも妙で、まるで突拍子がない。なにかの根拠に基づいての写実でもなければ、夢を託す理想図でもない。あえて言えばただただ想像にまかせての他愛もないものに過ぎず、むしろ想像力を形にするための、絵師たちがつぎ込んだ配慮や苦労が伝わるものだった。

絵巻を眺めて、大いに満足できたところに、隣の展示ホールに「おまけ」が用意されていると知って、意外だった。しかも、その迫力はこれまた大きい。中国宋の木版本から、手作り感溢れる電子展示のコーナーまで、言葉通りに時空を超えたものが一堂に集まり、見る人を大いに満足させた。

特別展 天竺へ~三蔵法師3万キロの旅

2011年8月6日土曜日

カメラを構える・続き

京都の街角を歩いていれば、写真の対象になるものが次から次へと目に飛び込んでくる。しかも観光客を大事にする町だけあって、カメラを大げさに構えていたら、まわりはすべて理解のあるまなざしを向けてくれるし、先日は、一度英語で声をかけられたことさえあった。しかしながら、カメラレンズの先は山や花ならいざ知らず、それが由緒あるお寺などとなれば、とたんにさまざま常識が絡んでくる。

国宝レベルのものであれば、たとえ高い拝観料を払わされても、問答無用の禁止だ。それも、普通の説明では伝わらないことを実際に分かっているからだろうか、カメラ没収などの警告文句を添えて、さまざまな外国に翻訳されて告知されていて、その告知自身が一つの風景だ。これより一ランクの低いところとなれば、三脚禁止、あるいは、山門を潜ったら撮影禁止という規則が多い。きっと修行の邪魔にでもなるからだと思って中に入って覗いてみれば、かなり荒れ果てた、だれもいなくて、手入れがまったくなっていない古い庭だった。眺めていて不思議な気に打たれる。いうまでもなくまったく逆の状況にも出くわした。古びれた山門の裏側には大きなサイズの張り紙が貼られ、よくよく見れば、そこを撮影した写真がどこかの写真コンテストに入賞したとの報告だった。

110806建物などをめぐる撮影禁止とは、はたしてどういう発想から来るものだろうか。建物などは最初から人々の目に映るものであり、それをより多くの人々に見せても、価値が増えるだけあって、減ることはなかろう。限られた想像力で考えてたどり着いたのは、あるいは日本ならではの撮影愛好家たちのスタイルに関連するのかもしれない。何々ファンのような、大群で押し寄せるような熱狂的なまなざしには対応しきれないということは、一つの理由にはならないのだろうか。しかしながら、遠出で東京国立博物館を訪ねたら、館内において大きなカメラを構えた人々、それもどう見てもプロではないカッコウをして歩き回っているのを目撃して、かなり意外な思いだった。思わずスタッフに尋ねてみた。なんと、常設展だから、特定の作品以外なら撮影可能、との答えだった。これまたなんとも言えない嬉しい驚きだった。
(写真は西本願寺阿弥陀堂)

2011年7月31日日曜日

グーグル地図

オンラインの地図、たとえばグーグルマップを愛用している。いまはその使い勝手など、並のカーナビと比べてもまったく引けを取らない。それに歩行用のモードにして、経路や距離などを出したら、たとえただたんに眺めていても興味がつきない。さらに言えば、歩行用のナビゲーションに頼り過ぎたら、歩くための大事な感性が退化するのではないかと心配までするものだが、地図を画像として保存して小さな画面で時々確かめるだけなら、小道に迷い込んだときのスリリングまで味わえられて、まさに文句がない。

そこで、ついつい地図そのものの出来栄え、あるいはデータのあり方まで注意を払うようになる。たとえば週末には竹藪の中を潜って、苔寺まで歩いてみた。目的地までの三つのお寺をめぐるグーグルマップの情報は、まさに対象的なものだった。歩いてまず足を止めたのは、黄檗山末寺の浄住院。奥深い境内の中に入って周りを眺め、それが手元の地図にはまったく載っていないことに驚いた。つぎに訪ねたのは、地蔵院。こちらは拝観料を支払わなければ入れないような観光スポットになっているにもかかわらず、地図は道路からかなり離れた奥地として載せていうる。いよいよ苔寺に近づいて、すぐ近くには鈴虫寺。駐車場には数人の交通整理の警備員が忙しく働いているぐらいの繁盛ぶりで、狭い山門の奥はごったがえしていて、まるでにぎやかな喫茶店の待合スペースに化して、そそくさに退散した。戻って、パソコンの前に座り、あらためてオンラインで確かめてみざるをえない。浄住寺の情報はたしかに収録されている。ただし、さらに二つレベルにズームインしてからでないと、それが現われてこない。念のために、Bingの地図で調べると、浄住寺も110731地蔵院も同じれべるで表示され、しかも拝殿などの建物のサイズで見れば、浄住寺のほうが、地蔵院と比べて、4倍ぐらい広い。グーグルは、情報料を掲載される対象に徴収していないのだろうから、まさか対象そのものの商業価値によって掲載の方法を決めているではあるまい。不思議なものだ。

ここに昼過ぎの日差しに包まれた浄住寺の写真を一枚添えよう。この静けさは、あるいは地図にまで距離を置いたこととまったっく無関係でもないのかもしれない。

2011年7月24日日曜日

日本とは

「日本」という言葉は、中世の文献において頻繁に使用されていたと知識として分かっている。しかしながら、それでも実際の文章の中でこれに対面すれば、やはりいろいろと考えさせられる。

ここ数日、「田原藤太秀郷」(日文研本)を読んでいる。大蛇退治ならぬ大蛇救助、定番の竜宮訪問、一目ぼれから始まった横恋慕う、将門暗殺、などなど、楽しいエピソードいっぱいの、エネルギッシュな中世の一篇である。どのエピソードも、それがもつ方向性を目いっぱいに極端なところまで持っていくという、室町物語特有の傾向を持ち合わせていて、今日の感覚をもって読めば、一気に読了することは、まず難しい。ただのんびりと構えていれば、得がたい読書経験にはなる。その中で、繰り返110724し登場した「日本」は、一つの奇妙な風景をなす。それが意味するところは、ほぼ二つのグループと分かれる。一つは、「日本国をあわせて戦ふとも」、「日本六十余州」などのように、天下すべてとの思いを込めた、世の中を指し示す。「州」の数を定かなものにしない漠然さは、むしろ果てしない「日本」を際立たせるレトリックになる。もう一つは、震旦、天竺に対するものではなくて、竜宮に相対するものとして持ち出される。想像を絶する竜宮の饗宴を前にして、秀郷の思いと言えば、「酒宴の儀式、日本には様変はりて」と結論しておいて、その特異性を並べ立てた。ここに見る「日本」は、ほかならず神仙境に相対する人間の世を意味するものだった。

このような「日本」に寄せる思いに共通するものは、なによりも誇り高いものを伴う。中世人の自己認識において、日本以外との交流がけっして多いとは言えない中での、このような感情の生成と流露は、いろんな意味において興味深い。一種の自明なことだったからだろうか、いまだに十分に捉えきれていないと感じてならない。

2011年7月17日日曜日

祇園祭を観る

今年の京都暮らしの最初のハイライトは、やはり祇園祭。外出が重なることもあって、夕方には祇園に立ち寄るという展開で、山や鉾を立てる日から、ほぼ連日出かけてきた。そして、今日は山鉾巡行。御旅所まえの見物席の入場券にも恵まれ、数人の同僚と共に堪能した。このような経験は、すでに数十年ぶりになると思う。思えば学生時代には、自転車かバイクに乗りまわって一連の行事の数々を見物したと覚えている。なんといっても一ヶ月にもわたる祭りだから、見物するのも根気がいるものだと、今年もつくづく知らされた。

110717ひさしぶりに祭りを観て、新たな発見などはやはり多い。まず山鉾の名前は、謡曲のものと重なり、そこから発想を得て、それにより表現の内容を手に入れたとの改めて知る。たしかに室町文化に育まれたものであり、その時代の風流に根ざしたものだと想像がつく。それから、これも結局は室町的な派手やかさに同調するものだろうが、山や鉾の飾りをなす前懸け、胴懸けは、なぜかアラビアっぽくて、それも多くは鉾や山のテーマと関連を持たない。祇園祭の稚児などは、なにかと話題に欠かせないものなのだが、それがいつの間にか先頭の長刀鉾のみのものとなり、あとはすべて人形に取り替えられ、あるいは稚児とは名乗らない若い男の子を座らせるものになった。あとは、宵山にあれだけ大きな音声で聞こえてきた祇園囃子は、巡行ではなぜか小さくて、迫力を感じなかった。あるいはその分だけ観客の熱気が上回ったことだろうか。

今年の巡行の日は、とにかく暑い。写真を見ても、まるで湯気が立っているような感じだった。道路は観客に埋め尽くされたが、一方では周りの市民にとっては、まるで日常生活の中の平凡な一日のように軽く受け止められているところがあって、いかにも京都らしい。御旅所のすぐそばにある小物屋の店は、巡行が半分済んだころにになって、何事もなかったかのようにシャッターを上げ、普段通りに商品を道路脇に押し出した。最後の鉾が見物席の前を通った途端に、座席の撤去が始まり、それと同時に道路整備の作業員たちは商店街アーチの上を歩いて、マニュアル操作で信号機を元の位置に変え、四条河原通りは、山や鉾の渋滞を持ちながらも、一瞬のうちに普段の様子に戻った。

2011年7月10日日曜日

コーパス・体

しばらくは、研究所の中で暮らすという、まるで非現実的な生活を送っている。その中で、時間の使い方の一つの大きな内容は、多国籍、他分野の学者との会話である。真剣なやりとり、あるいはなにげない雑談の中からは、時々かなりの閃きに巡り逢い、まさに会話の醍醐味だ。今週のハイライトの一つは、「コーパス」。ある意味では、これまで漠然として考えていたことを、分かるように伝える方途を手に入れた思いだった。

「コーパス」という言葉、一つの学術用語としてもちろん知っていた。ただ、それはつねに敬畏をもって接する言語学が独占するものだとばかり考えていた。もともとその言語学を業とする人間に言わせれば、かなり違う内容や意味合い、対象や作業に転用され、生成流転をさせられているものだった。中でも、感覚的に理解ができるものには、翻訳を念頭に置いた違う言語のコーパスがあげられる。翻訳され出版された文学作品、あるいは他言語で出版している新聞、雑誌などの文章を対照に並べ、検索やデータの並べ替えの使用に提供する。そのようなデータは、規模が圧倒的に大きく、さまざまな可能性を感じさせてくれる。さらに言えば、在来の辞書やら用語集やらと違って、技術処理の手段が紙からデジタルに変わったことにしたがって自然に生まれてきた、技術によって先導された一つのアプローチだと印象だった。その分、有効な利用がむしろつぎのステップに属するものであり、作成者が想定していた使い方以外の発見や活用が現れて、はじめてシステムの成功が実証されるものだ、という側面を最初から持ち合わせていたとも言えよう。

110709ところで、「コーパス」とは、体だ。しかもオランダには「コーパス博物館」と名乗るものが存在していると聞く。もともとこちらのほうは、子供たちのための遊園地、ということがコンセプトで、中身は人間の体を巨大に作って、生身の人間をその中を回遊させるという知的なファンタジーランドだ。これに照らして言えば、言語学などにみる「コーパス」とは、体というよりも、体のパーツといったところだろう。体を分解させておいて、それをもって得体の知れない体に対する新たな発見を、というのがそもそもの希望だったかもしれない。

2011年7月3日日曜日

「亰都大学」は不思議

京都にやってきた。勤務校で研究休暇をもらい、これからは京都でじっくり腰を下ろして静かな研究生活を送る。前回、ここに長く滞在したのはちょうど十一年前。わくわくしている。

まずは、周りを見て歩くことから新しい暮らしを始めた。そこで、すぐ目に飛び込んできたのは、京都大学桂キャンパスだった。開校して8年になったと聞くが、実際にキャンパスの様子を眺めるのははじめてだ。そこで、ちょっぴり唖然とした思いに打たれた。大学の看板には、110703「亰都大学」と掲げられている。それもいくつかの入り口にはどこも同じ書体のもので、れっきとした公式デザインだと知る。もちろん印刷書体ではなく、どなたか著名な書道家の文字に違いない。ただ中国の流儀と違って、揮毫した書家の名前までは記入されていない。大学の公式サイトで調べてみても、大学のマークやエンプレムについての規定が載っていても、これについての説明がない。この「亰都」という文字の選びは、なんとも不可解だ。というのも、この「京」の異体字は、明治政府が江戸を東京と名前を変えた時に用いた文字で、それも「けい」と読ませていたとのことが広く知られている。ここでは、まさか「けいと」と読ませる気持ちなどないはずだ。いずれにしても、そのような歴史的な経緯があるのだから、それを無視すれば、どうしても軽率な批判を否めない。あるいは京都大学の歴史にかかわるなにかと隠された事実や由来があったことも想像できるが、そうなれば、それを意図的に復元したのだから、広く説明して知らせるべきだろう。

学生生活から数えて、最初の京都生活からすでに30年近くの年月が流れた。変わり続ける京都、千年の年輪をしっかりと保っている京都、バランスのよい魅力に溢れる古都をめぐり、あらたな探検をしてみたい。

2011年6月25日土曜日

カメラを構える

この一週間、長い旅の準備に打ち込んだ。その合間に、友人との会食を何回も持たれた。その中の一回、あれこれと雑談をしていたら、写真の整理術に話が及んだ。はっと気づき、思わず古いものに手を伸ばして、写真のデジタル化を決行した。

学生時代の写真、丁寧なコメント付きで大きなアルバムに収められている。まずはスキャナーに掛けるようにしてみたが、その作業にあうような機械を持ち合わせていないことにすぐ気づかされた。サイズも合わず、時間もかかり、そしてなによりも出来上がった結果が満足できない。やむを得ず、とりあえずはデジタルカメラで撮ることにした。もともとそれもそれなりのスタンドがどうしても必要になってくるが、いまだぴったりのものに出会っていない。それでも、記録するためならまずは問題なさそうなレベルまでに一通り作業をしあげた。ほとんど一日を掛けて、アルバムページを600枚撮影した。1枚に平均4枚の写真が貼られていて、ざあっと2400枚の写真が入っている。留学生の生活はあわせて六年、こうして見ると、ちょうど一日一枚の写真がアルバムにたどり着いた。24枚入りのフィルムで撮影し、現像してあれこれと選んだものだけアルバムに入れたものだから、いまから思ってもかなりの数のものを撮っていたものだ。もちろんあの頃、FacebookもFlickrもなかったから、写真はまず記録のためのものであって、友人と共有することは最初からそのような方途がなく、したがって予想もつかなかった。

110625その時のカメラそのものは、当時の自分にはまさに一点の贅沢な財産だった。日本での生活を記録するということを理由に、いま風にいえば、よっぽとの「自分への投資」だった。その分、ずっと大事にされていて、いまだ本棚の一角に押し込まれている。これだけ年月が経ったら、もう骨董だ。すくなくとも自分の持ち物として、明らかに一番年季をもつものに属するものだ。

2011年6月18日土曜日

古典現代語訳

英語圏で生活しているせいもあって、翻訳はいたって身近なものだ。それも日本語となれば、身の回りのものとあまりにも離れているから、異なる文字がつねに踊るようなインパクトをもって目に飛び込んでくる。

一方では、同じ日本語の文献においての古典現代語訳は、どうなるのだろうか。似たような感覚をもつ人もきっと少なくないはずだ。古典テキストの「けり」「たり」を見れば、さっさと目を移してしまう。そのような感覚が求めようとしているのは、丁寧な現代語への翻訳だろう。となれば、じっさいにそのような翻訳がはたして十分に行われているのだろうか。それが、大きく言えば二つの流れになっているのではないかと思う。一つは学問の翻訳で、一つは鑑賞の翻訳である。どちらも十分に多く行われたわけではない。前者は、古典全集などのシリーズものの一部などの形で提供され、その延長に教科書あるいは教育参考書にもなる。後者は名の立つ文学家たちの作業に思いが付く。「源氏物語」だけで言葉通りにさまざまなバージョンを重ねてきたことが、それの象徴的な結果だろう。さらに言えば、前者は正確さを最高の目標として、後者は意図的な創作、あるいは感性をつぎ込むことを追求する。

このような捉えをするならば、両者の中間に位置するものは、まさに古典の外国語への翻訳だと思えてならない。原文への忠実をモットーとしながらも、それに過度に拘らないで、読みやすく、しかも過剰な文学性などを訴えることがない。あるいは同じ日本語への現代語訳も、そのようなあり方を狙うべきかもしれない。普通の読者が肩を凝らないで古典を楽しむ、遠い昔の人々の感性を素直に追体験する。いずれはそのような環境が出来上がってくるに違いないと、ひそかに期待したい。

2011年6月11日土曜日

インターネットのアーカイブ

二週間前に記したアーカイブの話題、なんと日本との関連がちょうどその間に起こっていた。新聞報道などを読んで、自分がとんでもない誤解をしていたことに気づいた。公開されている資料と個人的な関心から、もっぱらインターネットでのアーカイブだと解していたたが、そのような意味を持ちつつ、その成り立ちは、あくまでもインターネットそのもののアーカイブだった。「ウェブ・アーカイブ」という呼び名がよりふさわしく、インターネットの内容をせっせと保存してしまおうという試みなのだ。

インターネットで公開されているページをすべてアーカイブにしてしまう。その規模や構想は、途方もなく大きい。ただし、ここでは技術的なことはさほど問題にはならない。考えようによれば、むしろ逆に収集、保存する技術を持ちあまして、それなりの使い道を探ろうと自然に浮かび上がった課題の一つだとの側面さえある。存在しているものを用途など見極めていなくても、とにかく収集し、いまだ予想できないなんらかの将来の状況に備えるというものである。一方では、これを真剣な課題とさせるには、より深層にかかわるものがる。それはインターネットという環境に言ってみれば根本的に逆行するものだ。インターネットで公開されているものは、すべての人に読まれることを前提とし、日々更新を続けて時の移り変わりにそって内容を新たにすることが最大の特徴で、しかも一旦公開されたものなら巨大な網(ウェブ)に織り交ぜられることにより内容の存続が保証される。すなわち、以上のどれもが「アーカイブ」というアプローチの対極にあるものなのだ。公開されたものを究極的に言えば一つの完成品だと捉える立場があって、はじめてこれをアーカイブにかけて保存しておこうとする発想が生れるものなのだ。

だから、ここでも「著作権」に絡んだ議論が起こる。直接に利益に換算する権利ではなくても、たとえば著者が意図して消したものをまるで証拠ものでもあるかのように「記録」していくということは、著者の意思に反する可能性があるのだろう。インターネットアーカイブ創設者のケール氏の国会図書館での講演を伝える「OnDeck」(2011年6月9日号)は、同氏がお土産に東日本大震災以降の日本のWebサイトをアーカイブしたデータを国会図書館に寄贈したと報道する。その中身ははたしてどのようなもので、どのように生かされるべきで、はたまたどのような問題を呼び起こすものか、興味深い。

国立国会図書館・インターネット資料収集保存事業

2011年6月4日土曜日

膾と鱠

生牛肉にまつわる出来事は、いまや忘れ去られようとしている。しかしながら、「ユッケ」という言葉はどうしても気になる。韓国語から来たもので、「肉膾」だと新聞で読んだ。「膾」は中国語では「快」と発音が同じで、日本語でも「かい」と読むべきだろうけど、韓国語だけちょっとした異変が起こった。もともと現代の中国語ではさほど多く使われることがなく、ただ「膾炙人口」という熟語はいまだ広く知られている。そこで、「膾」とは切ることだと学校で教わったが、なぜか「炙」に先立つプロセスとして理解し、「切ってから火を通す」とばかり思っていた。普通の料理ならたしかにその通りだが、古代の生活常識では、むしろ両者が平行するものだと捉えられ、対応する二つの料理方法だったらしい。

110604料理する材料が肉だったり、魚だったりする。前者は「膾」で、後者は「鱠」となる。ここで料理のありかた、さらに言葉の変化を示すのに興味深い実例がある。元の雑劇に「望江亭中秋切鱠」という一駒が伝わる。主人公の女性は、普通なら会えるはずもない貴人の前に出るために、新鮮な魚を手に提げ、これを「切鱠」、すなわち「鱠に切ってあげよう」という口実を作った。しかも、手にした鯉の魚とは、「水煮油煎」には向かないで、まさに「薄批细切」にして最高のものになるのだと説明する。火を通すという料理の仕方を取らないで、しかも腕前に自信を持ち、これを切ってみせるということで相応の報酬を要求するという、一つの鮮やかな実例がそこにあった。いうまでもなく「鱠」とは料理する方法のはずだが、ここではむしろ一つの結果であり、料理の動作を示すには「切」という動詞が新たに加えられ、その分「鱠」がすでに古風のものになったことが示される。

だが、鱠とは「薄批细切」でなくちゃならない。薄く、細かく、となればその結果とは糸状のものにほかならない。日本の刺身とはまったく異質なものだ。ならば、その更なる先に現れたのは、粉々になった「ユッケ」なのだろうか。これなど、はたして料理の進歩したシナリオなのだろうか。

望江亭中秋切鲙

2011年5月28日土曜日

インターネットアーカイブ

「インターネットアーカイブ」。いまや極普通の名詞を二つ並べた感じのものだが、じつは一つの固有名称だ。去年の秋に一度オンラインの講演録画について記したが、そこで語られたプロジェクトの結果なのだ。短い期間ですでにここまでの規模をもつものになったものだと、感心した。

サイトには、一つのサブタイトルが添えられている。「Universal access to all knowledge」、人類のすべての知識を手に入れる、とでも訳すべきものだろうか。さすがに人類すべてと名乗るだけあって、日本語によるものもかなりの数が入っている。サイトの運営者については、サンフランシスコにあると、関係者全員の顔ぶれを写真つきで紹介されているが、細かな説明を丁寧に読んでいても、はたしてどのような方針で資料を選び、敏感な著作権の対処にどのような方針を取っているのかは、ついに見出せない。それぞれの国々には違う事情があり、簡単に線引きが出来ない、というのがその一番の理由ではなかろうかと推測する。ただし、参加機構の規模には、圧倒される。カナダだけで36の機関がリストされ、しかもたとえばトロント大学だけで25の図書館が協力している。これらの機関が所蔵している資料を電子化した、ということだ。

収録されている資料は、動画、音声などメディアの形態により大きく分類されるが、一番関心をもつのはやはり文字資料だ。収録の規模もさることながら、アクセスの方法は、これまで見てきたさまざまな電子テキストの出版や電子図書館の中で、一番質が高い。オンラインで読む場合は、最小限のツールバーとともに、ページの解像度は画面のサイズにより変わり、しかもアクセススピードは不思議なぐらい速い。PDFファイルも用意され、ダウンロードを支持するどころか、それを推奨するとまで説明にある。およそ400頁の本なら40メガ程度のファイルだから、いまの環境だと、さまざまなリーダーで対応できて、使いやすい。

さっそく飛びついたのは、「続群書類従」や「古事類苑」だった。日本にいれば、ほとんどの大学図書館に備えられていて、書庫の一角に押し入れられているものだが、外国にいると、手元で調べることが適わなくて、ときに苛立たしい思いに苛まれるものだ。ただし、ダウンロードしたファイルを開いて見たら、かなりの部数のものはページ順が逆になっている。洋書とともにスキャンにかけられたもので、文字など一つも識別できないまま作業されたもののではなかろうか。しかも作業が終わったら、トータルな見直しもほとんど施さないで公開しているのかもしれない。あとは、書籍タイトルの掲載や検索には、アラビア語などが原語なのに、日本語の文字は一つも出てこない。なんとも言えない気持ちだった。

Internet Archive

2011年5月21日土曜日

カメラを取り出す

ようやく春になった。庭に座って読書すれば、芝生の手入れをしてあげようかと、近所の若者が大げさな専用機械を押しながらやってくる。もちろん有料だ。じっくり見れば、周りは一日々々と変わっている。つい手を伸ばしてカメラを取り出した。

思えば写真は、かなりの枚数を撮り続けてきた。デジタルを使ってからもたしかすでに14年もの時間が過ぎた。デジタル以前はアルバム、デジタル以後はDVDや専用のハードディスク、整理するだけでどれだけの時間を使ってしまったのか。しかしながら、それでも趣味だと名乗れるぐらい自信を待たない。機能を覚えていても、使うべき時に思い出せないというレベルとんちんかんな失敗をいまでもしでかす。写真をきれいに、はっきりと撮る、構図を端正に構える、楽しい瞬間があればシャッターを切る、という程度のことしか出来ず、実感としてはいくら苦労していてもどうしても見えない殻を破ることができない。

110521写真構図の真髄の一つには「マイナス思考」だとどこかで聞いた。絵を描くなら、内容を一点ずつ加えていく。したがってなにを描くかとの構想で勝負にかかる。一方では、写真となれば、シャッターを押したらレンズの向こう側のものがすべて一遍に入ってしまう。そのために、一枚の写真には、なにを入れないか、写らないように配慮したり工夫したりするかによって、腕前に差がつく。とりあえずこれを自分への一つのタスクとしよう。

2011年5月14日土曜日

中国語語学教育

春学期がようやく始まった静かな大学において、アメリカの研究者を招き入れた交流を週末にかけて行った。ゲストの得意分野は中国語教育。北米で大いに活躍しているとのことで、公私にわたったかなりの会話が出来た。語学教育、大学授業の教育法などとなれば話題が尽きることもなく、あれこれと楽しかった。

これまでのかなり広範囲の経歴などもさることながら、ゲストの方の目下一番の関心事は、どうやらもっぱら本物の学習者の養成と、若い教師を育てることにあるようだ。もともとそちらの職場は、言葉通りの私立貴族カレッジであり、仕事環境も教育理念も学生気質もかなり異なっていて、なかなか簡単に複製することが出来そうにない。でも、それらのことを差し引いても、教育にかける熱気が伝わり、このような話を聞いて、日常の仕事にはやはりよい刺激になるものだ。それから大学という職場に居ながら、初等教育、高校での大学相当科目の設置、運営、審査などに熱心に当たっていることも印象に残った。初等教育となれば、対象が違うだけにアプローチもまったく異なり、そのための発想や対応、極端に言えばそれにかかわる語彙を熟知することから始めなければならないので、とても単なる物好きで取り掛かるわけにはいかない。

ゲストの職場は、同じように日本語やほかの外国語教育の関係者が一堂に集まるものだ。しかも出版の実績などからみれば、それぞれにはかなり似たようなテーマを取り上げていることが分かる。その中で、こちらから何回となく日本語教育と中国語教育のことを持ちかけてぶつけてみたら、つぎのようなコメントが興味深かった。曰く、語学教育において中国語は日本語より10年遅い。でも、アラビア語と比べれば、10年進んでいる。こういう相対的な見方も出来るようなものだ。自分にはなぜか新鮮に映った。

2011年5月7日土曜日

目が合う

今週に入って、職場の日常的な仕事が一段落して、ようやく自分の時間を持てた。しばらくは「清水寺縁起」下巻第五段をじっくりと眺めることにする。例の謡曲「盛久」の霊験談だ。e国宝のおかげで、絵巻の全容だけではなく、思うように画面を拡大したりすることもスムーズに出来て、一枚の絵をどこまでもズームインしてとことん見つめることが可能だ。

110507気づいたことの一つには、「目が合う」があげられる。これ自体すこぶる日本語的な表現だが、図説しようとすれば、いまの画面が最高の実例になるに違いない。さまざまな形で目と目が合った。視線が交差する、視線を投げかける、視線を無視する。じつに豊かで、見ごたえがある。二紙を用いた長い一段の絵の中には、あわせて十二人の人と二頭の馬が描きこまれる。そこで左へと画面を披いていけば、まず目に飛び込んでくるのは、馬とそれを制御しようとする人間との緊張に満ちた見つめ合いだ。このささやかで騒がしい一瞬には、続きの四人の人間と一頭の馬が一斉に見つめ、いわばかれらの視線は人と馬との睨み合いに集合する。さらに画面が進み、武士の処刑という出来事において、当事者の三人を中心に残りの人間がこれを囲む。かれらの中では、二人は互いに視線を交わし、あとは一人だけやや遠いところに位置する人に視線を送ろうとするも、それが完全に無視される。全体の画面ははなはだパターンされた描き方ではあるが、豊かな視線の交差は、なんとも味わい深い。

これらの視線の焦点になったのは、いうまでもなくいまでも首を斬り落とされようとする盛久その人である。かれは一心不乱に読経に耽る。だが不思議なことに、普通ならそれをするために目を瞑るはずだが、盛久はしっかりと両目を見開いている。どうしたのだろうか。あるいは絵師が目の表現にあまりにも夢中になり、眼目の人間のあるべき姿を捉え間違えたのではなかろうか。

e国宝「清水寺縁起」

2011年4月30日土曜日

洋風和食店

近くに新しい和食の店が出来た。日本人がやっているとのことだが、店の評判というよりも、なぜかじっさいに試してみた人がさほどいない。ならばと、友人と誘い合って、昼食を試食してきた。

IMG_0185-1024x682店に入ってすぐ、料理の内容よりも、一回の経験としてはけっして悪くないと分かった。外から見た低い建物や狭い駐車場とは比例にならないぐらい、中は広い。背もたれの高い席、窓際のブース、定番のカウンターまでほんの一角に押された感じだった。腰を下ろして店定めをしていたら、さっそく鮨やてんぷらの二品が無料サービスでテーブルに並べられた。食事をしている間は、頻繁に繰り出される「出し物」に目を奪われた。シェフやウェーター総出で誕生日ソングの合唱、なぜか太刀を振りかざしてのパフォーマンス、若い子供へのおもちゃやお菓子の振る舞い、若いカップルと見定めたらとことん質問攻めの会話、一瞬クルーズにでも乗ってしまったような錯覚に陥った。ただ、手渡された店のメニューはちょっぴり分からない。今時の高校生、それも日本との接点といえば和食しかないような若者が主なターゲットにでも絞ったような感じで、大の男二人ながら、「ラブボード」ならぬ「キスキス」という名の一品を注文するはめになった。中身はてんぷらとウナギの二種類の寿司を、春雨などを使ってドラゴンに飾った豪勢なものだった。

和食の変容、あるいは強靭な生命力など嘆く必要など、なかろう。生活の感覚として、オーナーの国籍でもって、店のスタイルが左右される。そのような定説も、この場合はちょっと外れかなと思ったら、友人からさらなる裏話を聞かされた。店のオーナーはたしかに日本人だが、奥様はインド系の顔立ちをして、かつ流暢な広東語をこなす方だとか。ナットクできて胸を撫で下ろした。

2011年4月23日土曜日

青色とは

同じ「白蛇伝」をめぐって、さらに一題。ストーリに登場する女性は二人、侍女の立場にいるのは、小青という名前を持つ、蛇ではなくて鯉だった。青は白と対応的で、分かりやすい。ただ、青とはたしてどのような色なのだろうか。英語の翻訳は、「リトル・グリーン」。自分のイメージとなぜか大きな開きがあった。周りにはまさにこれを名前にしている友人がいて、試して本人に聞いてみたら、迷いなく「草色だ」と答えてくれた。こうも単純だと、自分の中ではかえって迷いがますます深まるばかりだ。

110423「青」は、たしかに緑だろう。日本風に言えば、「青信号」だ。一方では、ブルーもけっして的外れではない。「青空」だ。さらに言えば、青とはけっしてただのブルーではなく、「藍より青し」だから、どちらかといえば黒に近いものだろう。同じ空でも、あるいは月に照らされた澄み透った夜空を思えば、二つの青が依拠した共通点が浮かんでくるのかもしれない。そこにさらに一つ、「青ざめる」。こちらとなれば、黒とはまる反対の、むしろ灰色か白に近いものになってしまう。「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」と、青は確かに原色の一つのはずだ。だが、こうも違ってしまえば、なんとも不思議だ。

幸い日本語で記してきたこれらの多様多彩な事情は、中国語においてすべてそのまま今日の言語表現に生き続いている。一つずつあげるとすれば、「青天」、「青草」、「青出於藍」、「土青」といったところだろう。二つの言語は、ここまで共通しているということは、どれだけ面倒が少ないのか、計り知れない。一方では、深く考えずに言葉を使用できることから、そこに隠された誤解の可能性も、けっして見逃せない。

2011年4月16日土曜日

山鬼の姿

大学では今学期の最後のクラスを迎えた。例年ならいつも学生の発表に割り当てたが、今年は、まとめて画像資料を見せることにした。画像のことをクラスで口ばかりで説明してきたこともあって、学生たちは素直で熱心に見てくれた。そこで、見せる立場にいる自分は、これを準備するなどにおいて、やはりデジタルリソースの存在が助かった。

110416一例として、ボストン美術館に所蔵されている宋時代の絵師による「九歌図」があげられる。中国絵巻を伝えるためには非常によい実例で、構図から画面の細部まで、見ごたえの要点は数え切れない。とりわけクラスでは「山鬼」の一章を取り上げたので、美しい女性に描かれたその姿は、実際に見てみないと、言葉だけでは伝えきれない。しかしながら、いざ絵を見せようとすれば、やはり簡単には手に入らない。美術館の公式サイトは一通り全点の画像を載せていて、考えようによれば、並たいていの印刷物のカタログには相当していても劣らないぐらいの内容はすでに与えられていて、すでに十分に期待が応えられていると言えないこともない。だが、何気なく調べてみたら、やはり驚いた。ずいぶんと高い画質の画像がインターネットに載せられているだけではなく、どうやら特殊光線を施して撮影された画像まで簡単にアクセスできた。資料の性格から考えて、きっと美術館関係での作業の結果に違いない。ただし、それは美術館関係で正式に公開されたものではないことだけは、残念でならない。よく言えば熱心な愛好者たちの持ち合わせの資料の交換であり、悪く言えば、いわゆる「非法コピー」で一括して捉えられているものである。

絵巻研究において、カラー図版の出版によって開かれた環境の躍進やそれによってもたらされたインパクトは、いまだに語り継がれている。そのような経験についての記憶がいまだに鮮やかなだけに、電子データによる伝播の時代に踏み入れたいま、如何にして可能性を現実に変えられるか、やはり大きな課題なのである。

The Nine Songs of Qu Yuan (Museum of Fine Arts Boston)

2011年4月9日土曜日

地獄の美女

大学の講義は、今学期の最後の一章を迎えた。テーマは、「春日権現験記絵」から四段。中には、例の狛行光の地獄巡りも含まれる。地獄、それも難しい表現抜きの絵となれば、若い学生たちにも分かりやすい。連想ゲーム的に「西遊記」に描かれた地獄巡りだの、西洋のダンテの地獄だの、一つまた一つと話題が飛び出した。

地獄をテーマにした絵画資料は、洋の東西を問わず、たしかにたくさん作られていた。一方では、画像内容の性格も関わって、一流の、保存されるべきものよりも、大勢の読者に見せるための、いわば消費のためのものが多かった。その中では、春日験記はいうまでもなく格別だ。あらためて絵を見つめる。一段の絵の最後を飾る「剣樹」はとりわけ興味深い。この間の事情を詞書がまったく伝えようとしなかったが、その分、昔の読者にとっては、生活の常識の一部だったことを意味しよう。注釈書などを頼りに、たとえば「往生要集」の記述を披く。女性の様子と言えば、「以欲媚眼、上看罪人」とされ、女性が発した言葉と言えば、「汝今何故、不来近我、何不抱我」と記される。状況も会話も、まるで三流小説に用いられる誘惑文句の定番なもので、この上になく露骨でコミカル、それにどこか滑稽なぐらいだ。

110409そもそも地獄というところには、牛頭馬面の獄卒と、かれらに折檻されつづける罪びとという二つのグループの存在しかない。たとえ妙齢の女性がいたとしても、ぼろぼろの服装をして懲罰の対象とされ、取り乱した振る舞いで普通の人間としての面目も保たない。その中にいて、誘惑の道具として登場したこの美女の姿は、まさに一風変わったものだと言わなければならない。

2011年4月2日土曜日

絵と文字と

今週の講義テーマは、中国古代詩人屈原の詩を題材にする「九歌図」。一時間ずつの二回の講義では、集中して話を聞いてもらいたいとの思いから、絵を出さず、絵を見つめることをクラスの後の復習の作業に回した。

110402

「九歌図」と名乗る作品は、大きく二つの流れを持つ。中では、祭儀の様子などを内容にした、構図的には明らかに古いものは、なぜか関心の度合いが低い。作品に記された制作時間と、文字遣いからみた内部証拠と矛盾し、記録の内容が信用できないことがその一番の理由だとされる。代わりに、元の絵師張渥の作が多くの注目を集める。九つの詩(歌)にそれぞれの肖像画風の絵を当て、詩を絵の後に添えるというスタイルを取る。それぞれの絵は、互いに関連を持たず、しかもほとんどの構図は、文字が左へ展開するのに対して、反対の右向きになり、巻物という特性を考慮したとは思えないし、われわれが持つ絵巻に対する常識がほとんど通用しない。ちなみに同じ作品は世界中に五点以上の伝本が報告されるが、それらすべて同じ画家の作だとはとても考えられないが、判断するための確かな手がかりがないままである。

屈原の歌を記した文字そのものが興味深い。伝本の一つは隷書を用いた。制作者としては一番古風の文字を選んだとの自負でも持ち合わせていたのだろう。ただし、隷書は確かに中国歴史上の最初に統一された文字だ。ただ、屈原の生涯は、まさにそのような秦の統一に反抗して自ら命まで絶ったものだった。そのような考えは、絵巻成立の時点から見て、すでに千年も前のこととなり、なんら意義を持たないものになったと考えられていたに違いない。

吉林省博物館蔵「九歌図」

2011年3月26日土曜日

弁慶の役どころ

学生たちと読む謡曲「船弁慶」。その続きを書いてみたい。

講義の最後の一節は、担当の学生に議論のテーマを作り、それをめぐりクラス全員が電子掲示板に意見を書き入れるというやり方を取る。今度、担当学生が掲げたのは、なんと「この謡曲と室町時代の精神との関連は如何に」という内容だった。このような問いをあえて持ち出す狙いが読みきれないまま、ともかく議論の行方を見守ることにした。

いうまでもなく、日本のことにさほど知識を持ち合わせていない学生には、この問いはあまりにも無謀だ。そもそも、室町時代の精神とはどういうもので、それが文学に反映するということはどういうものか、簡単に分かるはずはない。案の定、答えには、「わび」「さび」「禅」、はてには「武士道」や「五山」と、これでもかと教科書に見られるキーワードが飛び交った。果たしてなにを言おうとしているのか、議論を読んでいて、こちらが混乱するぐらいだった。

ならば、自分なりの答えを試みなければならない。ただ、それを為すには謡曲に向き合う経験はままりにも少ない。だが、それでもこの一曲だけは、なぜか一つの答えを持ち合わせている。それはすなわち中国文学の投影だ。これは、せりふに引用された中国故事などというレトリック・レベルのものではない。むしろ一つのまとまりをもつ表現においての、主役弁慶の役どころだ。この一曲の中で、弁慶はなぜか義経に進言を与える理想的な補佐の顔を担った。そこには、中国故事の色合いが感じられてやまない。すなわち一人の帝王を覚らせるために、忠を尽くす臣下の典型なのだ。このような弁慶の役作り、あるいは弁慶の文学造形の展開には、中国文学への憧れ、それに安易なぐらいの繰り返しが見て取れる。これこそまさに一つの室町文化のユニークな風景ではなかろうか。

2011年3月19日土曜日

べんけい

今週の講義テーマは、謡曲「船弁慶」。たしかに学生時代には能楽堂でこの演目を実際に見たものだと思うが、たしかな記録を辿るよしもなく、気持ちを集中してテキストに立ち向かった。こんなに短いテキストだとは言え、内容が多岐にわたり、講義のためにはむしろどこから削り取り、なにを省略するかを考えざるをえなかった。しかも、読み進めていくうちに、まったく関係ないものまで目に飛び込んできた。

110319なにげなく「弁慶」という条目を国語辞書で確認すると、そこには、現代生活に関連する使い方として、台所道具との一項があった。思わず目を凝らした。自分の語彙リスト、いやそもそもそれに対応する知識として、まったく持ち合わせていないものだった。はたして実際の生活のどのような場面で出会うものかと、首傾げながら読み返した。インターネットで調べてみても、一部に相当する画像はあるにはあった。いわゆる藁で出来た、伝統農家の博物館に陳列するようなものだった。対して竹の筒で出来たものだといわれる現代のキッチンに登場するだと言われるものは、つい見かけなかった。「べんけい」と表記すべきだろうか。考えてみれば、はなはだビジュアルなネーミングに違いない。「七つ道具」を身の上とする弁慶ならではのものであり、かれを勇姿を囲炉裏の傍でつねに思い起こし続けるということは、きっとどこか気持ちのいいものだったに違いない。

講義そのものは、残り時間二分のところで、ようやく「判官贔屓」を黒板に書き出した。若い学生たちには、それがどこまで通じたのやら、心もとない。いつものことながら、だれかが、将来いつかはためになったと思えるような、一つのタネでも思いに蒔いたとすればいいなあと、願いつつ。

2011年3月12日土曜日

人面蛇身

今週の講義テーマは、明の話本小説の一篇である。取り上げたのは、日本では「白蛇伝」で知られるあの話。中国では、それが杭州西湖にある雷峰塔の縁起話として有名だ。それも、現代の中国になって魯迅などの文人たちが伝統文化の最批判を込めて読み直し、それが高校の教科書にまで取り入れられたのだから、知名度が格段に高い。

110312話のハイライトは、いうまでもなく蛇の本身を見せたところにあった。蛇と人間との対峙という構図を基に、人間と異界、異界における道・仏・魔のパワー関係、人間世界の男女の間柄など、学生たちの議論はまさに活発で果てを知らない。中でも、担当グループの学生は、古典画像まで探し求め、頤和園の長廊に描かれた一こま(ウィキペディア所収)をクラスで見せた。このようなイメージになった白蛇は、もう無力で、どこか滑稽なぐらだった。蛇をまつわる伝説における日本の古典的な構図、たとえばあの十二類絵巻に見られるものを紹介して、読者の想像に合致するイメージとは、はたして人面蛇身か、はたまた蛇頭人身かと、学生たちに投げかけてみたら、案の定、かなり熱気を帯びる議論が沸きあがった。言うまでもなく、学生たちに興味を持たせられたが、これと言った答えを用意しているわけではない。

たしか半世紀前、ソビエトの科学者たちが熱心に取り込んだ研究の一つには、犬とロボットとの合体があったと聞く。そこにあったのは、まさに犬頭人身の怪物だった。あるいは、日本の構図こそ道理に適っているかもしれない。

ソ連の「ロボット犬」と「双頭の犬」研究

(週末にかけて、日本からは津波災害のニュースが伝わり、身辺では長年の同僚が病気で亡くなった。ご冥福を祈る。)

2011年3月5日土曜日

言葉の競演

新聞紙一紙をほぼ毎日アイポッドで読んでいる。今日のそれには書評が載り、そのタイトルの一つは、「言葉による鮮烈な絵巻物」。まったく関係ないが、今日は、まさに言葉と向き合い、さまざまな言葉を楽しんだ一日だった。

週末に入る今日は、勤務大学を会場に、学生たちによる所在地区の日本語弁論大会が開かれた。今年は20回と数えるこの年度行事において、今年は30名近い学生が五つの大学から集まってきて、中には、七時間におよぶ夜行バスに乗っての遠路参加者までいた。学生たちは勉強歴などに合わせて四つのレベルに分かれてスピーチを競った。スピーチのテーマは自由、発表時間以外はほとんどなんの制限もない。独自の発想をもとに自由に織り成す言葉だけでのコンテストだった。語られた内容は、それこそ夢、専攻、友人など学生らしいものから、家族、生まれや育ち、病気や悩みといった個人的な体験、ひいてはストーリ、小噺、法律の判例と話題が広い。幼稚にしてたどたどしい日本語の向こうには、たしかに豊かな若者たちのまぶしいぐらいの世界があった。

このような行事となれば、どんなに工夫をしても、受賞が叶えられるのはわずかな人数に留まる。長い間、苦労に苦労を重ねた学生たちの多くが、けっきょくは手ぶらで行事会場を後にするのを目にして、組織者としてはどこか心苦しい。でも、学生たちは、実にりっぱに対応している。受賞など結果如何と関係なく、若者たちには習うものがあったんだと、なぜか感じられて、胸をなでおろす思いでいた。

20th Alberta Japanese Speech Contest

2011年2月26日土曜日

面接官を勤めて

今週一週間は、大学の「読書週間」。講義がすべて休講したこの短い時間に、長めの会議や行事がいくつも設けられ、とりわけ週の後半は、ここ数年続いてきた面接官の役目を勤めた。日本政府が設立した学校教育に携わるプログラムのために参加者を選定するものである。ぎっしりとしたスケジュールの中で、若い学生と密度の高い会話を経験できた。

面接に現れてきた若者たちは、りっぱな服装に身を纏い、ふだん教室などで見かけるのとは明らかに違う身なりである。中でも、かなりの人は、飛行機なり、三時間や六時間の運転のすえに試験場に辿りついたのだから、わずか二、三十分にかける意気込みようが伝わる。面接には、半分は公式質問のやり取り、半分はその場の状況にあわせての会話だったが、緊張を持ちながらも、丁寧でてきぱきした答えはもちろんのこと、考えようによってはかなり酷なロールプレーまで余裕をもって対応してくれた。会話の合間に、このような状況を日本の学生を対象にすれば、マニュアルから仕入れたような標準答案ばかりを聞かされるのじゃないかと、なぜか想像してしまった。目の前の若者は、総じてそのようなことを潔きとせず、むしろ自分のカラーを見せる、たとえ根拠がなくても自信たっぷりなところをアピールしようと努めた。面接をする立場として、職業上、ついつい受験者の在学の成績、学位修得にかけた年数などの記録に目が走ってしまうが、それでもかなりの場合、本人を前にして、熱気あふれる答えに押されて、知らず知らずに高い点数をつけてあげた。

例年の数字から言えば、実際にこの仕事を手に入れられたのは、全体の申請者の二、三割、面接に漕ぎ着けられた者の半分弱に過ぎない。しかしながら、おそらくこの申請に合格できなくても、それぞれの若者にはかなりの思い出になる。頼もしくて逞しい、清々しい若者たちとの会話を終えて、気持ちの良い疲れを久しぶりに感じた。

2011年2月19日土曜日

裏も表も絵巻になる

今週、あの国宝「鳥獣戯画」が新聞を賑わせた。絵巻の一部は、もともと一枚の紙の裏と表に描かれ、それが二枚に剥がされて、台紙に貼り付けて一巻に仕立てられたものだと、絵巻に関心をもつ者にはちょっぴり衝撃的な発見が報道された。

110219ことの詳細はいまは新聞記事に伝えられたものに留まる。そこから総合して得た情報によれば、一枚の紙の裏表に人物と動物が分かれて描かれ、それも人物が先で動物が後だった。これを分離し、台紙に貼り付けて巻物に仕立てたのは江戸時代だと思われる。以上の情報からはつぎの推論が自然に導かれる。江戸までには、絵のどちら側にも台紙が付かなかった。すなわちまとめて保存されていただろうが、普通の巻物ではなかった。さらに遡って考えれば、絵の制作当初は、人物と動物というさほど関連性のないものを物理的に一枚の紙を用いた。紙がこの上ない貴重品だったという客観的な理由がもちろん働いたのだろうが、古典文献によく見る「紙背文書」とはまた異なる成立の理由の存在を思わせる。もちろん理由を突き止めることはなによりもの魅力的な課題だ。

中国美術史の上で、絵の偽造に関わってよく知られている一つのやり方がある。表装のやり直しなどの際、一枚の絵を二枚に剥がし、それにより一枚の絵から同じ絵柄が描かれる二枚の絵が得られるというものである。「鳥獣戯画」をめぐる発見からはどうしてもそれを連想させられるが、結果はまるで違う。なによりも、江戸の表装師のおかげで、国宝なるりっぱな巻物が今日に伝わっているのだ。

朝日新聞:鳥獣戯画・技法解明

2011年2月12日土曜日

ヒーロー悟空

クラスで今週のテーマは、孫悟空。まずは、ドラゴンボールなどは、ぜったい絡ませないでと念を押した上で、学生たちに議論を展開させた。それでも、発言は自然と日本と中国の悟空像に走った。たとえばこのような見解が述べられた。日本の悟空は、ヒーロー、対して中国の悟空は、ワルだと言わないにしても、凡人以上に失敗する、周りを構わずに面倒を起こす。なるほどと思った。さらに追求すれば、日本のそれは、外国もののゆえに自由自在に変化を与えられるが、中国のそれは、大事な伝統だたら自由にできない、などと文化論まで話が大きくなった。

若い学生たちの意見を聞いて、思わず自分の学生時代の記憶が呼び起こされた。日本に渡って、日本バージョンのさまざまな西遊記話に初めて接したとき、それがなんと自由闊達なものだとかなりの驚きを覚えた。いうまでもなく自分の中にはっきりとできた唐三蔵、孫悟空像に相対させてそう考えたのだった。テレビドラマの中で有名女優が三蔵法師を扮すると聞けば、目からウロコの思いだった。中国では考えもよらなかった、かと言って西遊記の自由自在な精神に妙にマッチしたものだと、ひそかに感心もした。

110212しかしながら、だ。いまの中国に目を転じてみれば、古典ストーリの再生産に限っていえば、束縛されるものがすっかり解かされたことだけはたしかのようだ。同じく孫悟空の例でいえば、最新のドラマシリーズでは、それがいっそうの変わりようを見せた。あの名高いナタ太子とのエピソードでは、「断背」(これまた中国語の新語。あのアメリカ映画のタイトルから得た表現)、すなわち男性同士の恋愛までにおわせるものだったとか。ウロコどころか、開いた口が塞がらない、といったところだ。

2011年2月5日土曜日

「車争図屏風」を学生と見る

講義の場では、画像資料をオンラインでアクセスして見せるということは、昔の紙のレジュメが比較にならないぐらいの迫真さ、使いやすさを持つ。ただ、限られた時間の中で絵を見せることは、かならずしも効果的なものではなく、かといって、ただリンクを教えてあげても、どれぐらいの学生が見てくれるのやら、心もとない。その中で、スケジュールをやりくりして、とにかく絵をスクリーンに持ち出した。

110205講義のテーマは、「源氏物語・葵」、タイラー氏の英語訳を二週間ほどの時間をかけて学生たちと読む。あまりにも基礎知識を持ち合わせていない学生には、あの英訳でも学術的な注意が払われすぎた感じがして、理解することはかならずしも簡単ではない。やむをえず思い切りストーリのラインを追いなさい、とのアドバイスで対応した。その中で用いたのは、「e国宝」で公開されている「車争図屏風」。ストーリの場面や雰囲気を味わうためには、非常にためになった。源氏が中心を構える派手やパレードと、轟々とした荒声まで聞こえききそうな喧嘩という、二つのエピソードによる構成は、いたって分かりやすい。

画面をじっくりと眺めた。とにかくりっぱだ。しかもどこかコミカルで誇張されたのが微笑ましい。その一番には、牛車のサイズがあげられるだろう。屋形の高さは、「延喜内匠式」によれば3尺4寸、一メータをちょっと超えたところだろうか。だが、屏風に描かれたのは、人間の平均的な身長などから推算して、これの倍には優になる。それが巨大な車輪に乗せて、牛車の全体の高さはおそらく五メートルにまで届き、思うに屋形の中で女房たちは座るのではなく、数人にして踊りでもしているのではないかと空想してしまった。ただし、一枚の襖絵あるいは屏風としては、その分、たしかに迫力がある。

狩野山楽筆「車争図屏風」

2011年1月29日土曜日

「e国宝」がiTunesにやってきた

今週、いくつかのメディアが前後して取り上げたニュースの一つには、20日に公開されたiPhoneアプリの「e国宝」があった。iPadにはいまだ対応していないが、小さなスクリーンだけでも十分満喫できる。多数の美術館が自慢にしている所蔵品にこんな形でアクセスできて、いささか驚きを覚えた。

110129アプリが対応した言語は、英語と日本語。タイトルの英訳は、字面にこだわらずに「e-Museum」としている。もともと、アクセスする情報は国宝に限られたものではなく、重要文化財も多数含まれる。アプリの内容は、あくまでも一つの専用ブラウザ。すなわち同じ名前で去年三月から開設されたサイトの情報を、使いやすい形でiPhone、iPodなどの機械にもたらしたのである。言い換えれば、これがなくても同じ情報を携帯に呼び出すことができないことはない。だが、これこそアップルのスタイルが私たちにもたらした貴重な経験の一つだ。無限にある情報の中から、特定のものを必要に沿って整理し、それを特化した方法で提供してくれる。提供のありかたに工夫が託されているので、きちんとした思いが伝わってくる。パソコンがあるのになぜタブレットの機械が必要なのかと、じつは昨日も友人に聞かれた。特定のアプリを通じて接する発見続きの魅力、どうやらいまだに十分に伝わっていない。

ちなみに、絵巻の詞書はiPod、iPadのホーム画面に最適だ。流麗な文字と規則正しいアイコンの配列は、互いにマッチしていて、並たいていの風景写真などよりはるかに見ごたえがある。あくまでも個人の趣味にすぎないものだが。

2011年1月22日土曜日

辞の至らぬ所は、絵

明時代の画像資料をあれこれと探ってみるうちに、つぎのような短い記述に出会った。どうも演義小説を論じる学者の中で繰り返し引用されたもののようである。明の後期(十七世紀初頭)に刊行された「禅真逸史」という南北朝(五世紀初頭から六世紀後半)時代を背景にした小説に添えられた八項目にわたる解題内容の一つである。

110122図像似作儿態。然史中炎凉好丑,辞绘之,辞所不到,図絵之。昔人云:詩中有画。余亦云:画中有詩。俾観者展卷,而人情物理,城市山林,勝敗窮通,皇畿野店,无不一覧而尽。其間仿景必真,伝神必肖,可称写照妙手,奚徒鉛塹為工。

現代日本語に書き直したら、およそつぎのような感じだろうか。

絵は、幼稚に見える。しかしながら、世の中の浮き沈みや善悪を、言葉をもって著わし、伝えきれないところは絵をもってそれを描く。昔の人なら、詩の中に絵があるとよく言うが、我はそれに倣って、絵の中に詩があると言いたい。これを観る者は、頁を披き、人情道理、都会や山林、勝敗応変、中央や地方、市場や店舗の様子などすべて一覧してしまう。とりわけ自然を絵いて迫真のこと、人間を伝えて巧妙な出来栄え、まさに一流で、ただの活字を並べ変えたり、版を刻んだりするような工匠の域を遥かに超えたものだ。

絵の役目を解説して、それが言葉と絵との相補完する関係にあるものだと真正面から取り上げることには、感嘆を禁じえない。この解題を書き残した出版者の名前は夏履先、号は心心仙侶。杭州で書肆を営んだということ以外、かれについてさほど伝わっていない。おそらく一介の地方文化人にすぎず、独特の見解で世を驚かせるような存在ではなかったのだろう。その目で読めば、叙事の絵を述べながらも、「詩・画」との数百年も前の言説を繰り返すのも、いささかの陳腐を感じさせた。ただ、あるいはそれだからこそ、ビジュアルの表現を世の中の常識になったと、いっそう教えてくれているのかもしれない。

2011年1月15日土曜日

哪吒伝説

110115今週の講義は、哪吒伝説である。子供時代の読書記憶を呼び起こしつつ、学生たちとともに古典の原作を読み直し、少なからぬ愉しみを味わえた。

哪吒とは、中国伝統において一つのユニークなアイコンに違いない。明時代の小説に描かれたそれをいま読んでみても、ストーリの展開、エピソード表現のリズム、作者の想像力など、どれを取り上げてみても、初々しくて、魅力が衰えない。その理由の一つには、やや文学研究っぽく言えば、逆転の構図が挙げられよう。三年六ヶ月の妊娠の末に生まれてきた子供を迎える父親の最初の行動は、剣を振るい落とすことだった。しかも真っ二つに割れた肉の塊から赤ちゃんが飛び出す。竜宮とは遥か彼方に存在する巨大な建物なのに、哪吒が腹掛けを海に入れただけで、それが大地震に見舞われたように揺れ動く。強靭無敵な竜は、子供の腕飾りの輪の一撃であっけなく命を落とし、おまけに筋まで抜き取られてしまい、竜王本人でさえ、哪吒に命じられるまま、蛇(!)に姿を変えさせられてしまう。人々の常識を悉く反転させたエピソードの展開は、愉快痛快、極まりない。

哪吒伝説を記す「封神演義」は、同時代の作品の中で、格が劣る。しかも版本でしか伝わらず、ビジュアルものは数枚の挿絵に過ぎない。しかしながら、遠い昔に初めてこれを読んだとき、繰り返し現れた殺伐したエピソードで、目を覆いたくなる気持ちでいたことだけは、妙に覚えている。生々しい文学描写の裏返しだった、ということだろうか。

2011年1月8日土曜日

公開シンポジウム

知人に教わるまま、オンラインで公開されたあるシンポジウムの録画に辿りついた。去年の暮れに、東京藝術大学が主催したもので、電子メディアに関わる学者やトップ責任者たちが一堂に集まって、最新の研究や見解を報告するものだった。このような講演を東京に身を置かなくても、ほぼ同時進行的にアクセスできるようになったものだと、いささかの感慨を覚えながら、見入った。

発表者の発言から習ったことはじつに多かった。国立国会図書館館長のご報告からは、まさに日本の国力の一端を窺えた気がして、電子メディアのあり方をあらためて思い返した。とりわけ、そこに「法整備」という言葉も登場した。メディアと公立機関と、二つを連結するものとして、時代の発展に対応する法律があるものだと、気づかされた。一方では、法律となれば、どうしてもあのGoogleが取った一連の行動を思い出さずにはいられない。アメリカ的な法律へのアプローチと、法律の「新制」あるいは「修正」ではなくて、「整備」という言葉に集約された日本的なアプローチが表現されて、両者を並べて眺め、じつに興味深い。

ところで、有名人の演説だという気持ちを抱えたからだろうか、ついついあの「TED」と比較してみた。もともと、学術のシンポジウムと、一般者向けのスピーチと、両者の狙いはまったく異なる。ただ、それにしてもこのような講演録画の公開が三週間以上も過ぎて、アクセス回数がわずかに「3,299」との数字には驚いた。さらに一桁上に行ってもなんの不思議もない。そこには、公開する機関が本腰を入れて取り掛かることが必要ではないかと、内心、エールを送りたくなった。

アーカイブから紡ぎ出される知

2011年1月1日土曜日

卯の歳

明けましておめでとうございます。

またまた新しい一年を迎えた。まったく異なる文化圏で生活していて、卯の歳ということ自体が、すでに一つの文化的なテーマであり、周りの人々にささやかな意外や悦びをもたらすものである。職場の忘年会(中味もスタイルも違っていて、日本のそれとはおよそまったくの別物)の雑談でこれに触れたら、同僚たちが、さっそく家族へのお土産にウサギの置物に決まったと宣言したり、自分の歳などぜったいに口にしないのに、あっさりと干支を誇らしげに言ったりして、一つの文化を、あくまでも異なるものとしておおらかに接する心温まる風景がそこにあった。

110101一方では、ウサギ、と言っても野ウサギだが、現在住んでいる区域にかなりの数が生息していて、日常的にその群れに出会うことがしばしばである。その生態には、つねに感心する。冬になれば、それまでのとはまるで別物かのように変身し、毛皮が真っ白になり、体形さえ真ん丸いものに変わった。厳しい吹雪や厚い積雪の中を跳ね回るかれらを眺めて、つくづくと自然の造化を思い返す。