二週間前に記したアーカイブの話題、なんと日本との関連がちょうどその間に起こっていた。新聞報道などを読んで、自分がとんでもない誤解をしていたことに気づいた。公開されている資料と個人的な関心から、もっぱらインターネットでのアーカイブだと解していたたが、そのような意味を持ちつつ、その成り立ちは、あくまでもインターネットそのもののアーカイブだった。「ウェブ・アーカイブ」という呼び名がよりふさわしく、インターネットの内容をせっせと保存してしまおうという試みなのだ。
インターネットで公開されているページをすべてアーカイブにしてしまう。その規模や構想は、途方もなく大きい。ただし、ここでは技術的なことはさほど問題にはならない。考えようによれば、むしろ逆に収集、保存する技術を持ちあまして、それなりの使い道を探ろうと自然に浮かび上がった課題の一つだとの側面さえある。存在しているものを用途など見極めていなくても、とにかく収集し、いまだ予想できないなんらかの将来の状況に備えるというものである。一方では、これを真剣な課題とさせるには、より深層にかかわるものがる。それはインターネットという環境に言ってみれば根本的に逆行するものだ。インターネットで公開されているものは、すべての人に読まれることを前提とし、日々更新を続けて時の移り変わりにそって内容を新たにすることが最大の特徴で、しかも一旦公開されたものなら巨大な網(ウェブ)に織り交ぜられることにより内容の存続が保証される。すなわち、以上のどれもが「アーカイブ」というアプローチの対極にあるものなのだ。公開されたものを究極的に言えば一つの完成品だと捉える立場があって、はじめてこれをアーカイブにかけて保存しておこうとする発想が生れるものなのだ。
だから、ここでも「著作権」に絡んだ議論が起こる。直接に利益に換算する権利ではなくても、たとえば著者が意図して消したものをまるで証拠ものでもあるかのように「記録」していくということは、著者の意思に反する可能性があるのだろう。インターネットアーカイブ創設者のケール氏の国会図書館での講演を伝える「OnDeck」(2011年6月9日号)は、同氏がお土産に東日本大震災以降の日本のWebサイトをアーカイブしたデータを国会図書館に寄贈したと報道する。その中身ははたしてどのようなもので、どのように生かされるべきで、はたまたどのような問題を呼び起こすものか、興味深い。
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