2016年1月30日土曜日

描かれた事故

「古典画像にみる生活百景」は、あくまでも画像の選択に注意を払ったもので、それぞれの画面についての説明となれば、いまだゆっくり吟味する余裕はなかった。一例をあげるとすれば、世間の出来事の一つとして「事故(馬)」の項目があった。簡単な説明に「通行人の一人がすでに倒れている」と何気なく書いた。もちろん原作には文字の注記はなく、倒れた人ははたしてただの通行人なのかどうか、そしてどのような状態になっているのか、まったく知る由はない。

一方では、この場面を見つめているうちに、三条公忠の日記である「後愚昧記」の中で伝えられたつぎの記事が視野に入ってくる。永徳二年(1383)五月十日に記されたものである。実名はなく、年齢はわずか十二歳だった「衛府長」という人間についてのものである。馬に乗って、九条大納言教嗣の行列に加わっているうちに、牛童が牛車に牛を取り替えようとして牛を逃し、その牛が馬の間に追い出されて馬を驚かせ、あっという間に取り返しの付かない惨劇を引き起こした。日記の記述はつぎの文言となる。「馬驚出之時、(衛府長)忽落馬、被踏頸骨、両眼出云々、遂以死去、不便々々」。文字の数こそ多くないが、なぜか異様に生々しく、恐ろしいぐらい印象に残る死に様だった。

人間の良き友だった牛や馬も、時と場合によれば人の命を脅かす可能性を十分に持っていた。そのような実態を文字文献によって確認して、はじめて画像資料の重みや奥行きが見えてくる。「百景」の場面の一つひとつに同じレベルの注釈が望ましい。それははたしてどこまで実現できるものだろうか。

2016年1月24日日曜日

生活百景

小さなプロジェクトを一通り完成し、数日まえから勤務校の個人サイトで公開した。主に絵巻など古典画像から、分かりやすい日常生活の風景をちょうど百の場面を選び、ほぼランダムに配列してまとめた。名づけて「古典画像にみる生活百景」。

選んだ内容は、その大半において、絵巻などに特有の本筋の物語と関係ない余白的な場面である。そのため、物語の紹介は最初から無用とし、場面自体も分かりきったものなので、思いつきのささやかなツッコミをメモとして添えた程度だ。画像ソースは、すべてインターネットで公開されている高精細で利用できるものに限る。日進月歩に進化する環境への敬意と、それに見合う利用の可能性を模索しようとするのが狙いの一つである。これに関連して、模写本への注目をとりわけ強調したい。画像提示の方法は、クローズアップしたものを同じスタイルでトレースした。統一したイラスト風の画像は、古典画像同士の同質性を強調し、いわばビジュアルインデックスの役割を成して、オリジナルものに視線を向けるように仕向けようとするものである。

新しい試みであるため、問題は少なくない。それぞれの場面は、意味内容が明瞭であっても、それを特定する言葉の選びとなれば、あまりにも幅があって、どれか一つにしようとすれば、任意な操作が自然と入ってくる。そもそも画像インデックスがもともとの狙いなので、一旦言葉を通過しなければならないものなのか、そうでなければほかにどのようなものが考えられるのか、技術の可能性も含めて、これからもっと模索すべきものである。いずれにせよ、古典画像をもっと身近なものするための一つのステップとしたい。教育の場などで利用されるよう、願っている。

2016年1月16日土曜日

デジタル公開・日本

先週ここで触れたニューヨークパブリックライブラリのデジタル公開について、そのあとやや長めのレポートが出された。感心の向きにはあわせてお読みください。そこで、日本での公開はどうなっているのだろうか。とりあえず個人的に関心をもっている日本の古典について眺めてみた。出発点は、とりあえず「デジタル・リソース(増訂版)」のリストである。

タイトル数と、公開に携わっている機関の名前を見れば、その規模はけっして小さくはない。中では、かなり早い時期に公開されたもの、あるいは最初からカタログ代わりに取り掛かったもので、画像の存在を知ってもらいたいが、デジタルで見てもらう考えを持たないものはさておくとして、わりあい高精細の画像を作成し、公開したところも多い。上記のリストを手がかりに順番にクリックしていけば、いくつかの共通項がすぐに見つけ出すことができる。まずは多数の機関が利用しているのは、「Flash」の方法での表示である。そして、公開にあたっての最大の不安は、不正利用という名の転用である。そこで、表示の窓を小さくしたり、煩雑にロゴを入れたりして、転用を不可能にすることができないと分かっていても、それをすこしでも不便なものにするという方針を取っている。タイトル公開についての図書情報や利用方法の提示はまったく統一しておらず、機関同士の比較や同じ基準での利用は、ほとんど不可能に近い。デジタル公開の基準、公開方法の確立と共有、そして技術力など限られた機関や個人のための手助け、これらはいずれも緊喫した課題である。いたって自然なことだが、これらの解決策は、まずは資料をたくさんもっている機関、あるいは研究を仕事とする国の研究所に期待するものだろう。

一方では、公開されているものの中で特出しているのは、やはり「e国宝」。このリソースが存在しているおかげで、日本の古典を語るうえでどれだけ安心した拠り所が得られたか、日本の外への発信のためにどんなに自慢ができたのか、まさに計り知れない。


2016年1月9日土曜日

アメリカのデジタル公開


新年早々、伝わってきたニュースの一つには、ニューヨーク・パブリック・ライブラリがデジタル公開をリニューアルした、というものがあった。所蔵をデジタルで公開するという事業をかなり早い時期から取り掛かっている知名な公立図書館、このブログでもじつに十年も近い前に一度はとりあげた。さっそくその公式サイトに入ってみた。確かにいろいろなところで変化が起こっている。一方では、十年のわりにはユーザーをびっくりさせるような変化はそんなにない、というのが率直な感想だった。

あのスペンサーコレクションを擁している図書館であり、日本の古典もかなり入っている。そこで、さっそく「emaki」で調べたら、352件のヒットが戻ってきた。タイトルに纏められたものではなく、あくまでも一枚いちまいの絵が対象となっているので、そこからの不便はどうやらまったく問題とせずになってきた。ヒットされたものに添えた情報には、カタログ情報よりも、まずは永久リンク、ダウンロードリンク、そして商業利用の規則などに関する情報が前面に押し出された。デジタルリソースである以上、デジタルなりの利用をまず想定するという気配りは素晴らしい。中でも、引用規則についての対応は特筆すべきだ。リンクをもって同じページの下部に誘導され、そこにはなんとMLA、Chicagoなど四つもの引用規則に基づく実際の表記が明記されている。学術利用を前提として、研究者には引用をさせたい、それにあたっての利便を提供し、かつ基準を明らかにするということは、これからのデジタルリソースの利用全般において先駆的な作業だと評価したい。

肝心なデジタル画像だが、ダウンロードのリンクを詳しく見れば、300pxと760px、あまりにも小さくて、現実的な使い道があまり考えられないものとともに、一部については、なんと6500 x 4200px(一枚につき80メガ)の精密画像を提供している。精細画像あるなしの基準は不明だ。ただ、このような不統一、不親切さには、おそらくだれも意見をせず、ただただすこしずつの進化を静かに待ち続けることだろう。

The New York Public Library Digital Collections

2016年1月2日土曜日

申と猿

申年が明けました。謹んで新年の挨拶を申し上げます。

申は猿。日本には猿がたくさん棲息しているからだろうか、昔話や絵巻の画面には、猿が頻繁に登場してくる。それは、山や野原で群を成して自由に走りまわることもあれば、人間の生活の場に飼い馴らされた形で顔を覗かせることもある。後者の場合になると、長い鎖に繋がれ、建物の柱に止められたり、あるいは今日のペットと同じく飼い主によって町中に連れ出されたりする。一方では、その猿の登場は、馬とよくペアとなる。中世の馬厩の端っこに、まるでお決まりの風景のように猿が添えられ、そのような画例はほとんど数えきれない。馬と猿とのこの関係性の理由については、かならずしも明らかに説明されていない。魔除けというのがほぼ定説で、ひいては科学的に猿が馬の疫病防止に役立っていたとも推測されている。はたしてその通りだろうか。

新年早々、写真を一枚撮ってみた。中国から持ち帰った、中国風の根付だ。ここでの馬と猿との組み合わせには、しかしながらはっきりした理由がある。すなわち、馬の上を狂ったように自在に飛び回る猿、「馬上瘋(封)猿(候)」という言葉を具現したものだ。いわば官本位という社会での出世願望への祝言的な飾りである。