2011年7月31日日曜日

グーグル地図

オンラインの地図、たとえばグーグルマップを愛用している。いまはその使い勝手など、並のカーナビと比べてもまったく引けを取らない。それに歩行用のモードにして、経路や距離などを出したら、たとえただたんに眺めていても興味がつきない。さらに言えば、歩行用のナビゲーションに頼り過ぎたら、歩くための大事な感性が退化するのではないかと心配までするものだが、地図を画像として保存して小さな画面で時々確かめるだけなら、小道に迷い込んだときのスリリングまで味わえられて、まさに文句がない。

そこで、ついつい地図そのものの出来栄え、あるいはデータのあり方まで注意を払うようになる。たとえば週末には竹藪の中を潜って、苔寺まで歩いてみた。目的地までの三つのお寺をめぐるグーグルマップの情報は、まさに対象的なものだった。歩いてまず足を止めたのは、黄檗山末寺の浄住院。奥深い境内の中に入って周りを眺め、それが手元の地図にはまったく載っていないことに驚いた。つぎに訪ねたのは、地蔵院。こちらは拝観料を支払わなければ入れないような観光スポットになっているにもかかわらず、地図は道路からかなり離れた奥地として載せていうる。いよいよ苔寺に近づいて、すぐ近くには鈴虫寺。駐車場には数人の交通整理の警備員が忙しく働いているぐらいの繁盛ぶりで、狭い山門の奥はごったがえしていて、まるでにぎやかな喫茶店の待合スペースに化して、そそくさに退散した。戻って、パソコンの前に座り、あらためてオンラインで確かめてみざるをえない。浄住寺の情報はたしかに収録されている。ただし、さらに二つレベルにズームインしてからでないと、それが現われてこない。念のために、Bingの地図で調べると、浄住寺も110731地蔵院も同じれべるで表示され、しかも拝殿などの建物のサイズで見れば、浄住寺のほうが、地蔵院と比べて、4倍ぐらい広い。グーグルは、情報料を掲載される対象に徴収していないのだろうから、まさか対象そのものの商業価値によって掲載の方法を決めているではあるまい。不思議なものだ。

ここに昼過ぎの日差しに包まれた浄住寺の写真を一枚添えよう。この静けさは、あるいは地図にまで距離を置いたこととまったっく無関係でもないのかもしれない。

2011年7月24日日曜日

日本とは

「日本」という言葉は、中世の文献において頻繁に使用されていたと知識として分かっている。しかしながら、それでも実際の文章の中でこれに対面すれば、やはりいろいろと考えさせられる。

ここ数日、「田原藤太秀郷」(日文研本)を読んでいる。大蛇退治ならぬ大蛇救助、定番の竜宮訪問、一目ぼれから始まった横恋慕う、将門暗殺、などなど、楽しいエピソードいっぱいの、エネルギッシュな中世の一篇である。どのエピソードも、それがもつ方向性を目いっぱいに極端なところまで持っていくという、室町物語特有の傾向を持ち合わせていて、今日の感覚をもって読めば、一気に読了することは、まず難しい。ただのんびりと構えていれば、得がたい読書経験にはなる。その中で、繰り返110724し登場した「日本」は、一つの奇妙な風景をなす。それが意味するところは、ほぼ二つのグループと分かれる。一つは、「日本国をあわせて戦ふとも」、「日本六十余州」などのように、天下すべてとの思いを込めた、世の中を指し示す。「州」の数を定かなものにしない漠然さは、むしろ果てしない「日本」を際立たせるレトリックになる。もう一つは、震旦、天竺に対するものではなくて、竜宮に相対するものとして持ち出される。想像を絶する竜宮の饗宴を前にして、秀郷の思いと言えば、「酒宴の儀式、日本には様変はりて」と結論しておいて、その特異性を並べ立てた。ここに見る「日本」は、ほかならず神仙境に相対する人間の世を意味するものだった。

このような「日本」に寄せる思いに共通するものは、なによりも誇り高いものを伴う。中世人の自己認識において、日本以外との交流がけっして多いとは言えない中での、このような感情の生成と流露は、いろんな意味において興味深い。一種の自明なことだったからだろうか、いまだに十分に捉えきれていないと感じてならない。

2011年7月17日日曜日

祇園祭を観る

今年の京都暮らしの最初のハイライトは、やはり祇園祭。外出が重なることもあって、夕方には祇園に立ち寄るという展開で、山や鉾を立てる日から、ほぼ連日出かけてきた。そして、今日は山鉾巡行。御旅所まえの見物席の入場券にも恵まれ、数人の同僚と共に堪能した。このような経験は、すでに数十年ぶりになると思う。思えば学生時代には、自転車かバイクに乗りまわって一連の行事の数々を見物したと覚えている。なんといっても一ヶ月にもわたる祭りだから、見物するのも根気がいるものだと、今年もつくづく知らされた。

110717ひさしぶりに祭りを観て、新たな発見などはやはり多い。まず山鉾の名前は、謡曲のものと重なり、そこから発想を得て、それにより表現の内容を手に入れたとの改めて知る。たしかに室町文化に育まれたものであり、その時代の風流に根ざしたものだと想像がつく。それから、これも結局は室町的な派手やかさに同調するものだろうが、山や鉾の飾りをなす前懸け、胴懸けは、なぜかアラビアっぽくて、それも多くは鉾や山のテーマと関連を持たない。祇園祭の稚児などは、なにかと話題に欠かせないものなのだが、それがいつの間にか先頭の長刀鉾のみのものとなり、あとはすべて人形に取り替えられ、あるいは稚児とは名乗らない若い男の子を座らせるものになった。あとは、宵山にあれだけ大きな音声で聞こえてきた祇園囃子は、巡行ではなぜか小さくて、迫力を感じなかった。あるいはその分だけ観客の熱気が上回ったことだろうか。

今年の巡行の日は、とにかく暑い。写真を見ても、まるで湯気が立っているような感じだった。道路は観客に埋め尽くされたが、一方では周りの市民にとっては、まるで日常生活の中の平凡な一日のように軽く受け止められているところがあって、いかにも京都らしい。御旅所のすぐそばにある小物屋の店は、巡行が半分済んだころにになって、何事もなかったかのようにシャッターを上げ、普段通りに商品を道路脇に押し出した。最後の鉾が見物席の前を通った途端に、座席の撤去が始まり、それと同時に道路整備の作業員たちは商店街アーチの上を歩いて、マニュアル操作で信号機を元の位置に変え、四条河原通りは、山や鉾の渋滞を持ちながらも、一瞬のうちに普段の様子に戻った。

2011年7月10日日曜日

コーパス・体

しばらくは、研究所の中で暮らすという、まるで非現実的な生活を送っている。その中で、時間の使い方の一つの大きな内容は、多国籍、他分野の学者との会話である。真剣なやりとり、あるいはなにげない雑談の中からは、時々かなりの閃きに巡り逢い、まさに会話の醍醐味だ。今週のハイライトの一つは、「コーパス」。ある意味では、これまで漠然として考えていたことを、分かるように伝える方途を手に入れた思いだった。

「コーパス」という言葉、一つの学術用語としてもちろん知っていた。ただ、それはつねに敬畏をもって接する言語学が独占するものだとばかり考えていた。もともとその言語学を業とする人間に言わせれば、かなり違う内容や意味合い、対象や作業に転用され、生成流転をさせられているものだった。中でも、感覚的に理解ができるものには、翻訳を念頭に置いた違う言語のコーパスがあげられる。翻訳され出版された文学作品、あるいは他言語で出版している新聞、雑誌などの文章を対照に並べ、検索やデータの並べ替えの使用に提供する。そのようなデータは、規模が圧倒的に大きく、さまざまな可能性を感じさせてくれる。さらに言えば、在来の辞書やら用語集やらと違って、技術処理の手段が紙からデジタルに変わったことにしたがって自然に生まれてきた、技術によって先導された一つのアプローチだと印象だった。その分、有効な利用がむしろつぎのステップに属するものであり、作成者が想定していた使い方以外の発見や活用が現れて、はじめてシステムの成功が実証されるものだ、という側面を最初から持ち合わせていたとも言えよう。

110709ところで、「コーパス」とは、体だ。しかもオランダには「コーパス博物館」と名乗るものが存在していると聞く。もともとこちらのほうは、子供たちのための遊園地、ということがコンセプトで、中身は人間の体を巨大に作って、生身の人間をその中を回遊させるという知的なファンタジーランドだ。これに照らして言えば、言語学などにみる「コーパス」とは、体というよりも、体のパーツといったところだろう。体を分解させておいて、それをもって得体の知れない体に対する新たな発見を、というのがそもそもの希望だったかもしれない。

2011年7月3日日曜日

「亰都大学」は不思議

京都にやってきた。勤務校で研究休暇をもらい、これからは京都でじっくり腰を下ろして静かな研究生活を送る。前回、ここに長く滞在したのはちょうど十一年前。わくわくしている。

まずは、周りを見て歩くことから新しい暮らしを始めた。そこで、すぐ目に飛び込んできたのは、京都大学桂キャンパスだった。開校して8年になったと聞くが、実際にキャンパスの様子を眺めるのははじめてだ。そこで、ちょっぴり唖然とした思いに打たれた。大学の看板には、110703「亰都大学」と掲げられている。それもいくつかの入り口にはどこも同じ書体のもので、れっきとした公式デザインだと知る。もちろん印刷書体ではなく、どなたか著名な書道家の文字に違いない。ただ中国の流儀と違って、揮毫した書家の名前までは記入されていない。大学の公式サイトで調べてみても、大学のマークやエンプレムについての規定が載っていても、これについての説明がない。この「亰都」という文字の選びは、なんとも不可解だ。というのも、この「京」の異体字は、明治政府が江戸を東京と名前を変えた時に用いた文字で、それも「けい」と読ませていたとのことが広く知られている。ここでは、まさか「けいと」と読ませる気持ちなどないはずだ。いずれにしても、そのような歴史的な経緯があるのだから、それを無視すれば、どうしても軽率な批判を否めない。あるいは京都大学の歴史にかかわるなにかと隠された事実や由来があったことも想像できるが、そうなれば、それを意図的に復元したのだから、広く説明して知らせるべきだろう。

学生生活から数えて、最初の京都生活からすでに30年近くの年月が流れた。変わり続ける京都、千年の年輪をしっかりと保っている京都、バランスのよい魅力に溢れる古都をめぐり、あらたな探検をしてみたい。