2002年2月1日金曜日

デジタルの誘い

世の中はデジタルに満ち溢れている。ここ数年、われわれの生活に関わるほとんどありとあらゆる分野は、この突然訪れてくるパワフルで変幻自在な新技術に よって確実に様変わりが起こっている。もともとハイカラな存在である金融、通信、放送は言うを待たず、身近な生活にある音楽、写真、ビデオも知らないうち に「デジタル化」され、文科系の研究を仕事とするわれわれでさえ、文献資料の保存、整理、検索、そして創出と、仕事の環境や形態に大きな変容が続く。世紀 末にさしかかり、人間はまるで魔法の小鎚を手に入れたかの如く、身の回りのすべてを叩いては新しい姿に変身させよと夢中になっているように見えてならな い。

このように言う私も、いつの間にかすっかりデジタルのあ る生活にのめり込んでしまった。中国で日本語を習い、京都で大学院教育を受けて中世文学を勉強し、カナダで外国人を相手に日本のことを教えるまで辿り着い たものだから、パソコンなどは普通に使って、特別に深い縁を持たなくても済むかと思った。しかしながら、やはり子供ころの、鉱石受信機を手作りして電気と 遊んだことが甘い想い出となったからだろうか、あれこれと新しい機械の話になると、ついつい特別な感情を向けるようになる。そしてのんびりしたカルガリー での生活も、この半分好奇心のようなものを育てることを十二分に可能にしてくれた。友人からポピュラーだと教えてもらった「ビジュアル・ベシック」という プログラムに狙いを絞れば、あとは市民図書館に入っているあらゆる種類のマニュアルを漁り読みし、暗中模索でプログラムを試作したりして、とにかく暇を持 て余すことはなかった。

わたしが取りかかった最初の課題は、 日本語教育であった。講壇に立つ仕事の内容から、一方的に伝えるようなものを機械にやらせて、代わりに学生と中味のある交流を楽しむ時間をすこしでも多く 持とうという考えはそもそもの出発だった。たとえば漢字の筆順や基本文型の練習などは、むしろ機械に任せたほうが学生にとっても学習の効果が高い。これは やがて自作のプログラムとしてすこしずつ実現された。時間がたつにつれ、コンピューターによって取り扱うテーマは単純な練習から一冊の教科書へ、その日そ の日のドリルからまとまりのあるパッケージへ、自分一人の作業からまわりの人々を巻き込んでのプロジェクトへと、デジタルの夢は大きく膨れ上がった。そし てついに自分の研究分野である中世文学にもプログラミングを持ち込む運びになる。気づいてみたら、いくつかの出版物に、自分の名前は「プログラマー」とい うタイトルで載せてもらうことになり、文科系の勉強をしてきた人間としては、なにかとても生産的な仕事が出来たと感じて、不思議だった。

デジタルとは、突き詰めて言えば、一つの新しいタイプの記録・伝達の手段である。これはたしかに便利な道具だ。いままで願っても適えられないようなこと は、いとも簡単に実現できてしまう。同じ一冊の辞書でも、紙に印刷したものをいざデジタルに置き換えると、あとは言葉を語尾だろうと、真中にある部分だろ うと、はたまた説明文にある語彙だろうと、思うがままに取り出すことができる。デジタルの出現は、むかし紙、あるいは印刷術の誕生とよく似た性格を持ち、 人類の文明にとって大きな一歩だと繰り返し指摘されている。長い目で見ればまさにその通りだろう。この喩えには、一つとても大事な内容を示唆していること に注目したい。デジタルの出現は、ただ単に一つの道具が出来上がったから、これまで存在した情報や知識をこの新しい容器に入れ替えて、よって既存の知識へ のアクセスになんらかの追加価値をあたえる、といったような単純なことではけっしてない。紙や活字が生まれた暁の、知識人たちの興奮と勤勉を思い浮かべて みよう。それまで想像だにしなかった伝達の手段の誕生は、すなわち伝播のありかたの変容を意味し、これはそのまま情報の中味についての再認識、ひいては新 たな知識の生産に繋がる。言ってみれば、新しい道具のおかげで、研究の内容や目的への修正、見えていなかった課題への回答が要求されることになる。

右のような考えを説明する格好の例として、現在取り掛かっている絵巻の注釈があげられる。もともと巻物としての絵巻は、近年絵画などの美術品を紹介する 様式を用いて本の形でたくさん出版され、おかげで普通の読者も簡単に手にすることが可能になった。そこで巻物から書物に変わるプロセスにおいて、現代人の 必要にあわせて文字による説明が取り入れられる。しかしながら、例えば文字による文学の古典を注釈するのに比べて、われわれには、絵についての注釈のため にいまだ最適なスタイルを見つけ出していない。一番単純なことに、どうやら絵に番号でも振り付けたりしなければ、絵と説明の文字との対応関係だに満足に表 現できない。そこで絵巻をデジタルにして、これをパソコンの画面上に表現してみると、以上の問題は一遍に解決の手がかりが見えてくる。画面上の内容は、マ ウスの移動により隈なく、かつ正確にカバーし、絵の説明にも文字や絵など多様なメディアを自由に利用できる。その上読者がしかるべき操作で意図的にこれら の情報を取り出すのだから、情報の分量を余分に多く提供しても、不要な負担になることはない。さらに、音声、動画、3Dなど、注釈の対象である絵に因んだ あらたな情報を付け加えることも可能なので、これは在来の書物の形ではとうてい太刀打ちできない表現の新天地になってしまう。ここに残されている課題はた だ一つ、一点の絵巻について、われわれにははたしてどこまでの知識と理解を持っているか、ということである。われわれには絵巻をこのような形で表現する可 能性を手に入れてはじめて、表現の内容となる知識をいまだ満足に持ち合わせていないことに気付く。新しい道具によって突きつけられた課題をこれから丁寧に 答えなければならない立場に立たされている。

ソコンの使い 方を習うのは、手遅れだということはない。どうせ一つの道具だから、必要になったらこれを覚え、使いたい機能だけ分かればそれで十分なのだ。これとまった く同じ理屈で、寄せてくるデジタルの波だってのんきに構えて眺めてよし、気が向いたらそれに乗り出したらいいと思う。想像を絶する鮮やかなデザインや、気 が遠くなるような情報量を詰め込んだものもよかろう。しかしながらそれだけがデジタルの理想像ではあるまい。余計な飾りのことで苦労しなくともデジタルの 恩恵は受けられるはずだ。同じく本の喩えで言うと、豪華版の写真集もいいものだが、新書も文庫本も、読むに堪える内容さえあれば、人々はこれを手にしてく れる。身軽だから読者は返って多いかもしれない。ことデジタルになると、一番新しい機能や環境を追わないで、すこし古い技術を用いたほうが、作品はかえっ て安定していて、より多くのユーザに受け入れられやすい。贅沢な道具を手にして、価値ある仕事を地味にこなす。これこそ文科系に携わる人々がデジタルに向 かうに当たっての一つの心構えだといえよう。

デジタルの誘いに魅せられて、「絵巻とマルチメディア」という思い切ったテーマを自分に課して、日文研で快適な研究生活を過ごしている。いまの読書や思考を意味ある仕事のスタートにしたい。あわせて同じ考えに興味をもつ諸先生の方々からのご助言、ご助力をお願いする。


『日文研』Vol.23
国際日本文化研究センター
2000年2月、30-34頁

長谷雄の冒険

二〇〇〇年の春、永青文庫から特別の許可を得て、『長谷雄草紙』を閲覧させてもらった。古風の家具を飾り、カーテンがしっかりと閉まった一室に案内され、中世の秘宝をこの手で披いて、少なからぬ感動を覚えた。あれから早くも二年近く経とうとするいま、ようやく『鬼のいる光景』と題する小さな一冊をまとめることができた。

『長谷雄草紙』は、由緒正しい伝来を誇り、江戸時代に多数の模作を残して幕府の終焉と共に姿を消し、昭和に入って再び世に現われた絵巻の名作である。一巻の絵巻としては短い作品の部類に入り、これまで十分に研究されたとは言えず、いまなお神秘なベールに包まれている。物語の出自は、近年ようやくそのおぼろげな輪郭を見せはじめたが、いまだ不明なままだ。だが、絵巻の内容は理屈抜きに楽しい。長谷雄がかれの知遇の師だったはずの道真のことを「北野天神」と呼んで加護を願うといったとんちんかんな時代錯誤を平気でしでかす一方、貴人と鬼とが双六を打って美女を賭けるという、スリリングで奇想天外、いささかエロチックな展開は、見る者を魅了する。この絵巻は、いったいどのように読まれていたのだろうか。ややもすれば「双六賭博」「子どもの遊び」など現代人の興味をそそる断片的な画面だけに関心が寄せられるが、長谷雄の冒険を伝える絵巻としての完成ははたしてどのようなものだったのだろうか。

これらの質問にすこしでも答えられるようにと、長谷雄をめぐるわたしのささやかな冒険が始まった。

そもそも、わたしたちは文字によって記されたものより、絵に描かれたものに安心感を持ち、これをすなおに信用し、絵は嘘をつかないと無意識に決めつけてしまいがちだ。古代の様子を伝えるビジュアル資料が非常に限られているため、絵の説得力に心を奪われることはたしかに致しかたなかろう。だが、絵は写真ではなく(写真だって嘘をつくが、それは別として)、あくまでもフィクションだ。絵に描かれるもの、それの描き方などは丁寧に選択され、構想されたことはいうまでもない。したがって絵を理解するということは、すなわち絵師が試みた工夫と技巧を知ることであり、絵師と読者との間にあった約束を模索することである。

例えば、絵の中における時間の表現である。絵巻の絵は、けっしてものごとの展開を止め、その一瞬を切り取って描いて見せるのではなく、長谷雄と鬼との双六対局、都大路における鬼退治、などの場面にみられるように、限られた画面において、あきらかにいくつもの異なる時間が流れており、見る者はこれを想像のなかで還元させることが要求される。一方では、長谷雄と男が通る都の街角に、われわれは賑やかで和やかな夕暮れのひと時を目撃したかのように錯覚するが、そこに隠されたテーマを見つけ出すことに成功すれば、これは関連する人物・事項を寄せ集めることにより巧妙に作り出された虚構の世界だと自ずから気づくことになる。ここで、一番のチャレンジは、絵に描かれたもの、絵が語ろうとしたものを、時代の背景や知識を頼りにして見つめ、昔の読者の視線を思い起しつつ、絵に仕掛けられたさまざまな仕組みを読み解いていく作業である。

絵巻は、あくまでもストーリーを伝えることを目的とするジャンルであり、絵からものごとの展開、それを包む雰囲気と情調を読み取ることが絵巻読解の基本だ。そのため、長谷雄と鬼との葛藤を追いながら、つねに心がけていたことは、絵巻の表現様式、表現原理への模索である。誤解を恐れずに比喩的に言えば、絵巻における絵の文法、絵の語彙なのだ。そのようなものははたして存在していたかどうか、それらを取り出すことがいったい可能かどうかは、いまのところ未知だと言わざるをえない。ただし、『長谷雄草紙』に見られる豊かな絵の表現は、この魅力的な課題にとりかかるために手掛かりとなるような例証をすでに提供してくれていると考えたい。今後、他の絵巻を読むうえで検証し、絵についての理解を深めるための一助とすることができればと願っている。

(『本の旅人』2月号、20-21頁)