2003年12月1日月曜日

日本語教育が目指すもの

日本語教育を取り巻く環境は、時代の変化とともに確かに動いている。皆さんは、それをどのように観察し、何を体感なさったのだろうか。そして、新たな環境にどのように対応されているのだろうか。当世の学生気質をよく表していることがらの一つに、日本語を習う動機そのものが挙げられる。例えば、「アニメが好きだから」と大真面目に理由を述べて日本語のクラスに入ってくる。

その目で周りをよく見れば、アニメはいつの間にか日本のもう一つのブランド品に成長してしまった。テレビをつければ、連日のように映し出されてくるアニメ番組には、日本語が何気なく混ざっていて、仮名や漢字も平気で顔を覗かす。それはけっしてオリエンタル的な異国情調や異郷憧憬といったものではなく、ただ単に翻訳が追いつかないという単純な理由が見え隠れする。一方では、日本側もしっかりと構えて、戦略的に世界市場を狙っている。精巧にこしらえられた無国籍のキャラクターがスクリーンに溢れ、ディズニー・マジックに勝る日本アニメパワーが鮮やかなストーリーを織り出す。「ポケモン」の成功は今や古典的な範例となって数々のエピソードを残し、「千と千尋」は、アカデミーの翼に乗って一世を風靡する。

まさにこのような時代の奔流に流されて、熱心な学生が日本語入門を志す。クラスメート同士でポップカルチャーの蘊蓄を見せびらかし、情報を交換しながら、カタカナ言葉を旧知のごとく吸収する。また、幾ばくの言葉も覚えていないのに、翻訳家になるなどと、堂々と宣言したりする。逆にその熱気に押されて、教師のほうが思わず辟易し、戸惑ってしまう。だが、これも一度ならず体験されたものだと思われるが、こちらの話を大人しく聞くだけの学生よりも、そのような掴みようのない世界を持っている学生のほうが、なぜか妙に逞しくて、期待をさせてしまう。

このことは、結局われわれの携わっている日本語教育が一体何を目指すべきかという問いかけに繋がると思われる。これに対して、次のような考えはいかがだろうか。

日本語教師の仕事は、言うまでもなく学生に言葉を習得させることだ。しかしながら、ごく限られた年数で一つの言語を覚えさせてしまうというようなアマイことは、よほどの無理をしなければできない。われわれにできることは、本人がいつか本気で日本語を身につけようとして勉強をする場合の手がかりを与えることではないだろうか。では、この手がかりとは、何だろうか。古風な考えなら、文法だ。言葉のルールという骨組みを持たせ、いつの間にかそこから言葉の葉が生えてきて、やがて木となることをひそかに期待する。対して、今風の考えなら、模擬的な交流だ。手応えのある実践を通じて、言葉を操る可能性と喜びを体験してもらう。はたしてどちらがいいか、にわかには答えようがない。あえて言えば、古風なやり方には苦労と修行のイメージが伴い、今風のアプローチは、楽天的で華やかさがあり、今時の若者には似合う。

教師として大事なことは、責任感を持ち、正しい知識を持って学生に向かい合うことに尽きる。教える者も時代とともに、そして学生とともに成長しなければならない。語学教育を通じて、人間を育てる役目を担い、言葉の向こうに文化や伝統という別世界があることを学生に気付かせるように心がけるべきだ。これこそ、教育の本筋に触れるものではないだろうか。
Newsletter No. 27・2003年12月