巻物の思わぬ姿に出会った。まったく予備知識を持たず、正直どのように解釈すべきかいまも戸惑っている。正面から取り上げた研究はきっと存在しているだろうから、それにたどり着くまでに、ひとまず気づいた疑問などを記しておこう。
右の絵である。登場したのは、バチカン宮殿内に建てられたシスティーナ礼拝堂の天井画だ。あのミケランジェロ・ブオナローティによって描かれたもので、ルネサンスを代表する画作なのだ。描いたのは、聖書に登場する七人の預言者の一人であるヨエル、そのかれが羊皮紙の巻物を読み入る。それにしても、この巻物はどのような作りになっているのだろうか。一見して、文字が書かれた表の面が巻かれる軸の外側に来る格好になった。しかしながらさらに目を凝らしたら、両手の間において巻物は一度捩じられている。これなら文字の面が軸の裏側にくることになるが、そうであればわざわざ捩じってまで巻物を操作しなければならない理由は分からない。さらに言えば、文字の方向ははたしてどうなっているのか。見詰めるほど疑問の数が増える。材料、体裁、言語、文字、洋の東西においてその距離は思ったほど遠かった。写真は、「ミケランジェロが描くシスティーナ礼拝堂天井画の複製展示」からである。すでに北米のいくつかの都市で展示され、今月からここカルガリーにやってきた。決して上質とは言えない複製、会場もまったく飾り気のないものだった。それでも訪ねる人は後を絶たない。圧倒的な迫力をもつ原作に思いに馳せらせる意図には敬意を払いたい。インスタグラムに会場内外から数枚の写真を載せた。



さな楽しい経験となった。目指す記事にたどり着くまでには、かなりの時間がかかり、記録者の筆跡を眺め、紙の使い方や筆の運び、墨具合など、活字ではまずは得られない情報が存分に飛び交った。そして、読み終わったあと、およそ披いた時の倍ぐらいの苦労を経て、ようやくもとの通りに巻物の形に巻き戻した。
「御伽草子」という名前は、もともと「渋川版」と呼ばれる出版物の名前だった。したがって最初に浮かんでくるのは、巻物か冊子本かという作品のスタイルだろう。しかしこの作品形態のことは、室町や江戸の人々にはさほど意味を持たなかった。現に「文正草子」や「浦島太郎」といった御伽草子の代表格の作品の綺麗な巻物は、かなりの数が作られ、いまでも日本や海外に多く所蔵されている。
たとえば無数に描かれた臨終と来迎の図は、その一例と考えられないのだろうか。高名の僧侶あるいは篤誠の信者は極楽浄土への往生が約束され、その死と同時に菩薩が祥雲に乗ってやってくる。典型的な構図は、横たわる主人公と、菩薩を囲み雲の上を舞う天女である。しかも多くの場合、雲の上の様子はまわりの人々の視線には入らない。主人公の死という一つの瞬間においての、体と魂の分離と、魂を迎えるための天上界の準備という、まったく対照的な二つの場の様子が広げられていると読み取っていいだろう。このような目で読むと、ストーリーの描写においての多くの構図からは、絵師たちの隠された工夫が伝わってくるに違いない。
絵巻の中では、貴人の邸宅を描くにあたり、多くの場合、門前あるいは地下に伺候する従者の姿を描く。それはふつう男二人であり、しかもほとんどの場合その中の一人はすっかり居眠りの中いる。二人の男のささやかな対照や心地よいぐらいの格好は、愛嬌があって憎めない。さらにストーリーがまさになんらかの進展を見せようとし、このような居眠りの姿は、奥あるいは殿上でくりひろげられてくる劇的な一瞬ともう一つの比較を成す。ここにおいて、門前の従者、とりわけその居眠りの姿は、計算された時間流れを演出する。男が居眠りをするほどゆっくりした時間と、クライマックスの一瞬という、時間の異なる姿をすべて巧みにこの一つのパターンと化した構図によって描きだされたと言えよう。