日本絵巻の特徴を語るとなると、「異時同図」という言葉はすぐに出てくる。言葉自体の人為的な作りは、妙に専門的なニュアンスを持たせて、一種の権威を感じさせる。
考えてみれば、この言葉にはどこか落ち着かない。違う時間の中に行われた出来事が同じ場面のなかに繰り広げられる、というのがこれの指す構図である。たとえば『信貴山縁起』のなかの大仏前の礼拝、『伴大納言絵巻』のなかの喧嘩、である。ここでは、異なる出来事もその図の一部であり、「同図」が意味しようとしたのは、これらの出来事が展開される同じ背景、状況である。したがって、あえていえば「異時同景の図」「異時同場の図」といったところだろうか。いうまでもなく指す内容さえはっきりしていれば、このレベルの用語の不備はさほど問題にならないといえばそれまでのことだ。
ここで、この言葉に惹かれて考えみたいのは、これと反対する構図が成り立つかどうか、ということだ。すなわち、「同時異景」である。
同じ時間に行われた行動をまったく異なる背景のもとにおいてそれを表現する。このような構図は、今日の漫画などにはいたって基本的なパターンであり、見慣れたものかと思う。たとえば友達同士の電話会話となると、いつも一つの画面を二つにして受話器を握る二人を描く。二つの場面の差が大きいほど、会話の内容がクローズアップされ、ストーリーの深みが増す。
そこで絵巻の画面には、このような構図が用いられていたのだろうか。あってもおかしくない、あるはずだ、と睨む。あまり指摘されていないというのは、ただこれまではこのような目で画面を眺めていなかっただけのことだろう。
たとえば無数に描かれた臨終と来迎の図は、その一例と考えられないのだろうか。高名の僧侶あるいは篤誠の信者は極楽浄土への往生が約束され、その死と同時に菩薩が祥雲に乗ってやってくる。典型的な構図は、横たわる主人公と、菩薩を囲み雲の上を舞う天女である。しかも多くの場合、雲の上の様子はまわりの人々の視線には入らない。主人公の死という一つの瞬間においての、体と魂の分離と、魂を迎えるための天上界の準備という、まったく対照的な二つの場の様子が広げられていると読み取っていいだろう。このような目で読むと、ストーリーの描写においての多くの構図からは、絵師たちの隠された工夫が伝わってくるに違いない。
ちなみに、「異時同図」という捉え方はあまりにも盛んに行われたからだろうか、東洋美術研究の学者、たとえば小川裕充、古原宏伸らの大家は、いずれも中国絵画からの実例を報告して、それが日本独特のものとは言い切れないことを強調する。そのような視点も必要だろう。しかしながら、同じ構図の実例が中国の絵画に認められたにせよ、古代の中国の画家たちはこれをさほど夢中しなかった、多用しなかったことも確かだ。「異時同景の図」とは、やはりいたって日本的なものだと考えたい。(絵:『融通念仏縁起』下巻第二段より)
2007年10月16日火曜日
異時同図・その反対
Labels: 絵と巻物のからくり
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