2007年10月18日木曜日

現代生活の「絵巻」

今日は、「絵巻」という言葉そのものを眺めてみる。

そもそもこの言葉も、字面の意味だけでは内容を十分に伝えきれないというソシリを持つ。絵巻とは、いうまでもなくただ単に絵が描かれた巻物ではない。それには詞書という文字によって記されたテキストがあり、かつ文字と絵との組み合わせを交互に用いてストーリーを伝える。さらに言えばその文字テキストは、すでによく知られたものの一節だったりして、いわば既知の物語を言葉と絵で再現するという表現形態である。もちろん『鳥獣人物戯画』や『百鬼夜行』といった詞書のない名作もあるが、膨大な絵巻ものの作品群ではそれはあくまでも例外なものである。

ここに興味深いことに、「絵巻」という言葉は、そのような古典作品を指示すると同時に、現代の生活においてすこしずつ変容したという事実である。

今日では、日常生活のなかで「絵巻」という言葉と出会い機会はじつに多い。しかもその多くは古典作品としての絵巻と関係がありそうでない。無造作にインターネットで検索したら、つぎのような用例にはすぐたどり着いて、微笑ましい。町の図書館では、子どもたちに絵本に親しんでもらおうと、みんなで長さ30メートルの巨大な絵巻を作ってしまう。これならたとえ巻けなくてもまだ「巻きもの」の形あるいは可能性をもつが、博物館の「○○立体絵巻」、地方の年中行事の行列を繰り出す「時代絵巻」となりますと、巻物とそもそも関係がない。「絵」といわれる、それも古代のものから受け継ぐビジュアルなもの、という理解でこのような用例が生まれたのだろうと推測できる。一方では、「音楽絵巻」「和菓子絵巻」となると、もう理屈が分からない。耳で聞いたり、口や鼻で賞味したりする対象と「絵巻」との共通項は、いったいどこにあるのだろうか。

特定の概念の延長や広がりは、いうまでもなく固有のものへの認知を伴うもので、喜ばしい現象ではある。しかも狭い概念が抽象的に捉えられて、物理的な対象にこだわらないぐらい思考に加えられたことも、歓迎されるべきだと言えよう。ただし、あまりにもの広がりにより肝心の実物が忘れられはしないか、とりわけ言葉表現の立場から言えば、はたして同じ意味合いを共有しているかどうかと、いささかの戸惑いを感じることも否めない。その意味では、つねに原点に立ち戻ることをひそかに願う。

(紹介した用例は、この夏JSAC学会での小さな発表の一部である。)

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