タイトルに「享受」と書いたが、やや特殊なケースに目を向ける。すなわち普通の読者がどこで、どうやって絵巻を見るか、ということではなくて、近世の絵師がいかにしてこの絵巻を自分のものにしたのかということを、ここで一つの実例を通して考えてみたい。
「百鬼夜行絵巻」は時代の異なるいくつかの伝本をもつ。その中では、大徳寺真珠庵の所蔵本は作成の時期が早く、複数の模写本を擁していて、この絵巻の基準作とされている。
ここに、日文研は真珠庵本の上質な模写本と、これとはべつの「化物婚礼絵巻」と題するいわゆる百鬼夜行ものを二点所蔵している。両方ともインターネットでデジタル公開をしていて、後者の短い序文には翻刻まで添えて、感じの良い形で両方の作品を読者に提供している。
この二点の絵巻のうち、後者は明らかに真珠庵本かその系統の伝本を手本に用いた。全作を三巻に仕立てて、絵の分量ははるかに多い。さらに、ほぼストーリー性を認められない真珠庵本に対して、「化物婚礼絵巻」は、結婚と子供の出産という二つの状況を描きこんでいる。そのため、女性の化粧などの画面はそれなりに意味を持つようになった。一方では、器物の化物ということを表現する気力を持たないからだろうか、それにこだわることはなく、むしろ器物の表現については、真珠庵本系統のものにすでにあったものをそのまま受け継いだのみに留まった、という感じだ。その代わり、結婚式における新婦の所作、新しい赤ちゃんの入浴など、民俗的な生活を映し出す場面などは印象深い。
「化物婚礼絵巻」は、あきらかに「百鬼夜行絵巻」の内容を用いた。たとえばつぎのストーリーの結末の場面は、典型的な一例となる。右から二番目の鬼は、もとの絵巻にみる鬼の造形をそのまま使い、わずかに両手の位置を変えただけだった。それに左から一番目のキャラクターは、もとの絵巻の始めに登場したもので、それをそっくりそのままここに移してきたとの工夫で、むしろ絵師の遊び的な妙を覗かせてくれたぐらいのものだった。いうまでもなく、このように安易とさえ見られる絵の構図の流用は、当時の絵師にとっては、たいして名作をパクったといったような不名誉なものではなった。それどころか、ここまで生き生きと描くことができて、かつ思い切っての展開を見せたことで、大いに当時の読者たちを楽しませて、非常に歓迎られていたとさえ言えよう。
一方では、このような絵師たちの享受は、今日の絵巻読解に大切なヒントを与えてくれている。絵師のこのような作業は、一つの画面についての、当時の平均した理解を示してくれて、一種の絵による絵の注釈とさえ考えられる。下の画面について言えば、真珠庵本の終わりの火の玉は、表現として単純ではない。炎が燃えて、しかも火達磨の下半分という構図は、いくつもの解釈を可能にする。それに対して、「化物婚礼絵巻」は、同じ状況でも、赤い球形の頂点の一部を描く。これなら昇りはじめた太陽だとすぐに分かる。単純にして誤解が少ない。
いずれにしても、日文研本「化物婚礼絵巻」は魅力的な作品で、じっくりと読む必要が大いにあるものだ。
国際日本文化研究センター絵巻物データベース
立教大学人文科学系図書館蔵「百鬼夜行絵巻」展示解説
2007年10月21日日曜日
百鬼夜行絵巻を享受する
Labels: 絵と巻物のからくり
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