2020年9月26日土曜日

夢のプロット

古典の物語、絵巻や奈良絵本、能や狂言、そして現代小説などに語られる夢のことについて、これまでこのブログでも何回となく取り上げてきた。振り返ってみれば、どれも記された夢、語られた夢であり、自分との距離を努めて持たせていた。夢とはだれだって経験するものだが、そのような個人的な夢を記録して他人に伝えることは、あるいはそれなりの覚悟が必要かもしれない。

よく言われるように、夢には、色、匂い、触り、声と音と、人の五感に訴えるところがある。さらに、物語的な展開、言い換えれば物語のプロットをもつ夢を見たことがあるのだろうか。それには込み入ったストーリーが展開され、人の会話はもとより、状況を説明するナレーションまでついたものなのだ。それは、時にはしんみり、時にはミステリアスに感覚に訴え、切実にして切羽詰まり、そのまま小説になるのではないかと斜めに眺める瞬間さえある。はてにはそれが夢だと悟り、それでも物ごとの結末を見たいが一心で目を瞑ろうと我慢する。ただ、醒めてみれば、あれだけ真実のようなこともあまりにも突飛でわけが分からず、しかもその詳細はまるで朝の露みたいにあっという間に記憶から消え去っていくものなのだ。

夢というテーマに関連して、かつて研究会(「夢と表象-メディア・歴史・文化」)に参加し、そこから生れた論集に投稿までした。いまから思えば、いろいろな意味でたいへん勉強になった。上の写真は、論集のカバーの一部だ。

2020年9月19日土曜日

弥兵衛鼠を読み直す

noteへの投稿は、三週間続いた。なにを、どのように書くか、正直いまだ方向性を見いだせないまま模索をしている。ただ、分かってきたことの一つには、写真や画像の掲載が簡単で、しかもみやすい、ということがある。投稿のレイアウトについてオプションが少ない分、全体のデザインは簡潔で、スマホやタブレットなどのデバイスへの対応がよく工夫されている。


今週取り上げたテーマは、『白鼠弥兵衛物語』(「
鼠のお話に耳を傾けよう」)。記録を見たら、このブログですでに四回ほど取り上げた。すべて「音読・白鼠弥兵衛物語」という特設サイトをめぐって生れたもので、しかもそこまでたどり着いたそもそもの理由は、干支が子の年だったからだ。そこで今年はまさに子の年、干支一回りが過ぎた。思えば、あのサイトを制作したころ、画像といえば白黒のコピーしかなく、それを取り出すことを早々あきらめ、文字情報を電子テキストにして、しかもそれを縦書きに表示することに力を入れた。けっこう苦労した。そのあと、あえて手入れをせず、これだけ時間が経っても、テキスト、縦書き、そして音声というコアな部分はまだ動いていることには、すなおに嬉しい。一方では、同じ系統の伝本は慶応大学図書館に所蔵され、かつて小さな画像でオンライン利用ができたが、いまは高精細のデジタル画像で、IIIFの規格を用いて公開されている。古典画像をめぐる環境の変化を実感しつつ、まだまだ十分に生かされているとは言えないことをあらためて思い返した。

なお、音読に選んだ底本は、フォッグ美術館に所蔵されている。かつてハーバード大学で開催されたシンポジウム(「The Artifact of Literature」)でこれをとりあげ、実際に底本に出会えないかと淡い希望を持っていた。叶えられなかった。資料調査や展示など、はたしてそのような機会がいつかめぐってくるのだろうか。

2020年9月12日土曜日

寺の風景

ここカナダの町にも、お寺が数軒ある。その中の一つは、ダウンタウンのすぐ北側に位置し、建ったのはわずか20年前、建物ができた時のことは、わずかだが今でも印象に残っている。数日前、お寺の中を覗き、写真を数枚撮った。コロナの影響で週末しか開かないと、戸が閉ざされていた。

正殿の中には、それでもたくさんの光が灯され、供え物も結構な分量に捧げられている。普段訪ねると、お寺の管理に携わると思われる人の姿が常に確認できるが、袈裟を身にまとったような僧侶の姿は一度も見たことがない。入り口の前には立派な観音像や獅子像が鎮座する。ただ、庭と言われるほどの空間はなく、それらしい休憩の場所が用意されてはいるが、行き届いた手入れとは程遠い。どこか無愛想で投げやりな風景なのだ。あるいは僧侶の不在、修行する人間の欠落と関連することだろう。仏法僧という三宝の一つが抜けたら、それでもお寺と言えるのだろうか。

そもそもお寺の名前は、中国語では「居士林」とそれらしく聞こえても、英語訳となれば、「Indo-Chinese Buddhist Temple」。どうやら「インド」「中国」と入れないと十分に人々には伝わらない。仏教とこの土地との距離が極端に覗かせてくれている。 

2020年9月5日土曜日

洛中洛外図

週末に入って、日本のテレビ番組を眺め、この夏に放送された番組の再放送である「国宝へようこそ・洛中洛外図屏風」を見た。内容によるところも大きいが、国宝屏風の魅力を現代の生活から痕跡を求め、伝統を確かめるというテレビならではのアプローチ、大いに共鳴を感じ、いろいろと啓発を受けた。


この「上杉本」の国宝屏風、これまで自分の視線でじっくり読んではいなかったにもかかわらず、なぜか親近感を感じる。よく考えてみれば、学生時代に指導教官の著書を新刊で読んだという読書経験とは切り離せない。(『標注洛中洛外屏風』、1983年)屏風の詳細をめぐり、和歌、俳句、随筆、小噺などいわゆる近世の文芸によって辿り、確認するという、古典画像への視線、古典資料を操る熟練した知の追及は、絵巻をはじめさまざまな古典画像資料を読むための最初の指針がそこに示されたと、つくづく思い返すものだった。

テレビ番組は、祇園祭りとの関連を切口にした。すでに秋の入ろうとしているいま、あらためてその祇園祭り自体が今年は中止せざるをえなかったことを想起させられた。その理由は、ほかでもなく疫病。人間と疫病との関係、疫病の猛威とそれを退治するに違いないという明日を思い描きながら。