2017年6月24日土曜日

小動画

「小動画」とでも呼ぼうか。今時のFacebookやTwitterなどに頻繁に見られるあれだ。画面に映し出されたら動き出し、クリックすれば音も響いてくる。呼び名はどうやらまだまだ定まらない。ショート動画とも、ショートムービーとも、言えないことはない。料理などのノウハウもの、新製品の広告、そしてスマホに収まった個人的な生活記録。写真が多用されても、スライドショーでは捉えきれない。

このような動く画像を絵巻鑑賞に利用したい。静止画と動画との間に根本的な違いはあるが、そのギャップは考えようによれば逆に面白い。こう思いついて、印象に残る琵琶法師の画面を開いた。鳥居の下に、様々な人々に囲まれたあの場面だ(『直幹申文絵詞』)。このようなアプローチに、絵巻の模本はコミカルでより魅力的だ。動画作成にはツールが必要だ。スマホのアプリからオンラインの専用サイトなど、かなりの数のものが出回っている。想像した視覚効果の実現や目指す機能の使いやすさなど、ゆっくり比較するのも一つの課題だが、いまはそこまで気を使う余裕がない。とりあえず勝手の分かっているMovie Makerを用いた。出来上がったのは、なんとも素朴な試験作だ。

動画と名乗る以上、テキストや音声ぐらいは期待されている。一方では、絵巻を対象とするなら、なんらかのルールを設けておかなければ始まらない。完成されたものとしての絵巻へのリスペクトから、複数の作品あるいは複数の場面を組み合わせることをしないということにしよう。描かれた画面への視線誘導、一つの読み方としての視線移動の再現、絵巻鑑賞を語るときの基本課題に結びつきたい。いうまでもなく鑑賞の表現なので、繰り返して試み、可能ならいろいろな読者の手によって作成されるべきだ。

「琵琶法師がやってきた!」

2017年6月17日土曜日

デジタル時代の風景

仕事としての日本滞在が終わり、中国への短い帰省をした。久しぶりだ。いつもながら日常と人々の暮らし方の激変にしみじみと見入ってしまう。今度のそのような観察は、とりわけデジタル環境の発展に伴うさまざまなものに関連して印象深いものが多かった。

いろいろな報道で伝えられているように、デジタル環境の普及にはとにかく目を見張るものばかりだ。インターネットの普及の勢いは凄まじい。公共空間などは言うを待たず、空港バスの中でも無料のWiFiが当たり前のように提供されていて、しかもどれもスピードが早くて、安定している。プリペイドの使い捨てSIMカードは、僅かな金額ですぐにでも電話とデータの両方が使えるようになり、それを販売しているのは住宅地域の中のまったく目立たない小さな店だった。キャッシュレスのやりとりは行き渡り、予想もしないところにバーコードがなにげなく掲げられている。これをあたりまえのように使いこなしている人、用心して使おうとしない人、そして頑として拒絶する人、さまざまな立場からの熱をこもった弁舌が聞けたのも興味深い。北米や日本でスタンダートになったインターネットサービスには、かなりの範囲においてアクセスできないことは、伝えられている通りだ。ただ、海外もののサービスの内容は、ほぼすべて中国国内のサービスをもって「置き換え」られており、保存、共有、共同作業など、やろうとすることはたいてい実現できて、質もけっして見劣りはしないことに、妙に感心させられるぐらいだ。ただ、海外との交流は大きな断絶が起きていることはけっして見過ごせない。この事実への対応はそう遠くない将来図られるものではないかと、楽観的だが、個人的に見立てている。

SIMカード購入のときのことはちょっと忘れられない。身分を証明する書類の提出を要求され、かつコピーが取られることは、予想内のことだった。しかしながら、それには留まらず、なんと本人であることを記録するために、書類を顔の近くに持ち上げさせられ、顔写真が撮られるものだった。未知な要素が多いデジタル環境での個人の権利や気持ちなどへの配慮よりも、あくまでも明確に、効果的に管理するというスタンスを前面に押し出すという発想を、あらためて認識させられた思いだった。


2017年6月10日土曜日

撮影する歌舞伎

学生たちの語学研修が終盤に入ったら、いつも楽しいハイライトが用意されている。国立劇場における歌舞伎鑑賞教室と名乗演目を観劇するものだ。今年も、劇場を埋め尽くす大勢の中学生、高校生とともに、英語を遠慮なく大きな声で会話するカナダ人の大学生が加わった。語学の能力を明らかに超えるものに直面するのだが、それでも大いに楽しめたと見られる。

舞台上には、興味深い一時があった。最初の三十分ほど、鑑賞への入門ガイドだった。巨大な廻り舞台、様式に則った立ち回り、拍手喝采を得た白頭の舞など、あとからあとから歌舞伎の基本がテンポよく展開された。そこへ、最後の特別サービスとして、観客全員はそれぞれカメラを持ち出すことを勧められた。舞台上でポーズを取りながらその様子を写真に納めて、そして各自のSNSにアップロードするようにと言われた。この演出は、満場の若者に明らかに受けられ、大きな歓声の中、俳優はシャッターとフラッシュに包まれた。まさにレンズを通して味わう感動だった。今時の若者は、その場にいない友人との交流やデジタルによる記憶にスマホのカメラをまるで自分の体のいち部分のように操っている。そのようなかれらに混じり、右の一枚も、自分にとってのよい記録になった。

歌舞伎と言えば、写真や動画によって接する機会はけっして少なくはない。一方では、普通の観客として劇場に入ったら、カメラとはまさに無縁な存在となってしまう。その理由は、いろいろと考えられよう。だが、撮影だって一つの観客と舞台との交流の方法であり、カメラを通しての参加は、たとえ短い一瞬にせよ、確実な喜びとなっている。大いに参考になる試みだと言わなければならない。

歌舞伎十八番の内・毛抜

2017年6月4日日曜日

豚を料理

大きな美術館の常設展には、さまざまなユニークな魅力を持っている。個人的にその一つは、写真撮影可能というものだ。(「展覧会で広がる”写真撮影OK”その裏側とは」)多くの資料は、すでにデジタルの形で利用できるようになったと知っていても、やはりカメラを構えてみたくなる。自分のレンズを通したら、なぜか落ち着きを覚え、作品との距離が近くなる。週末に自由の時間に恵まれ、東博を訪ねた。

今度も、あれこれじっくりと見て回った。絵巻関連では、あの「綱絵巻」が全巻広がる形で展示されていて、人に囲まれることなく気が済むまでゆっくり見れた。国宝館には、年間の展示予定が掲げられ、あの「一遍聖絵」が九月に登場してくる予定だ。一方では、アジア館は、やはり素晴らしい。とりわけ中国の画像石の展示にはとても充実なものがあった。なかでも、料理関連の場面は、いくつも集められている。つねに関心をもつテーマであり、すっかり見入った。たとえば右に掲げる豚と、これに取り掛かる男の姿は、なんとも印象的だ。(画像石・酒宴/厨房、TJ-2030)男の右手は包丁を握り、高々と力強く振り上げられている。説明の文にあったように、料理の前段階としての、豚解体に取り掛かったところだろう。生き生きとした状況を伝えるにはシンプルな線しかないが、それが確実でいて味わい深い。画面をよくよく眺めてみれば、料理師の突き出す気味のお腹は微笑ましい。二千年前のメタボ男は、その歳と貫禄を遺憾なく今日に訴えている。

豚料理の隣に描かれたのは、天井に吊るされた魚と、酒の醸造。料理法、料理の環境、料理その行動の意味や位置付けなどもろもろの課題についてきわめて示唆が多く、語られ甲斐のあるものに違いない。ただ、誇張されたタッチで伝えられたものは、おそらく写実の対極的なところに位置するものだろう。画像が分かりやすい分、この事実を見落としたり、見逃したりすることへの警戒を忘れてはならない。