2015年11月28日土曜日

トレース画像、その二

論文集に投稿するため、原稿を作成し、いまはその最終段階に差し掛かっている。文中に使う挿絵を用意しなければならない。白黒の小さなもので、カラーでスキャンしたり、あるいはデジタル公開されたものを切り取ったりして、それをグレーに変換し、その上コントラスを調整するぐらいのことしかできない。それでも、一枚ぐらいはすこし工夫を加え、画面の中での注目してほしい部分を強調しようと考えた。

かつて似たような作業を一度試み、活字論文に発表した。そこでは画像の中の人物だけ切り取り、背景との間に濃淡の差をつけて表現した。ただ、それを同じ分野の研究者に見せたら、「絵巻の画像とはもともとこういうものだと錯覚してしまうような読者まで想定すべきのでは」とのコメントが戻ってきて、少なからずに驚いた。考えてみれば、その通りかもしれない。そこで、今度はもうすこし違う表現の工夫をしようかと思った。画像の一部を切り出20151128して立体的に配置したりしてみたが、今度はむしろ絵巻の画像を見慣れた目にはしっくりこない。結局のところ、濃淡というアプローチをそのままにして、部分ごとに切り出し、その輪郭に大きくぼかしをつけ、さらに交差する部分を示すために白い罫線まで加えることにした。

デジタル画像の加工には、定番のPhotoshopを用いた。やり方は一旦分かったら、もちろん安定して動き、かつ同じ機能の応用はいくらでも考えられる。加工の作業を絶えず繰り返すなら、快適に違いない。ただ、ここで思いついた方法をこの次いつ持ち出すか見当も付かない。その内、やり方をすぐ忘れてしまうだろう。そのようなもどかしい経験を避けるために、きちんとメモを残すことにした。それもメニューに出てくる特殊としか思えない用語とともに、丁寧に作業の順番を書き留めるように心がけた。

2015年11月21日土曜日

泣き笑い

大人数を相手にする講義では、毎回本題に入るまえに十枚程度の写真を見せながら、現代の話題を一つ提供するようにしている。ホットな話題もあれば、いたって常識的なものもある。この間の一回は、流行語大賞のことを取り上げた。そのようなところに、英語の世界でも今年の流行語が発表された。そしてどうやら史上初と称して、言葉でも文字でもなく、絵文字だった。

20151121もともと流行語と言っても、その流行の具合を図るにはいくらでも方法があって、かならずしもすべての人々が知っているわけではなく、現実的にはむしろその逆なのだ。その中で、絵文字というものにスポットを与えているということには、まずは注目してよかろう。ただ興味深いことに、選ばれた絵文字には、なんとりっぱな文字による解説というか、定義が付いているのだ。それによると、「喜びの涙の顔」だと言われる。泣き出してしまうぐらい喜んでいる、涙が出てしまったぐらい可笑しい、といったような感情を表わすものだろうか。その解釈や使い道はともかくとして、言葉の説明や定義を加えるということ自体には、むしろ考えさせられた。あまりにも多義で、こうしてまとめてみないと誤解が発生しかねない、言葉に直さないと、にわかに分からなくて伝わらない、といったことを無言に示しているではなかろうか。

事実、周りの学生たちとのメールやコメントなどを用いての文字によるやりとりには、絵文字がたびたび登場してくる。そのような状況に出くわすと、機会さえあれば、その意味を本人に正し、かつその場で他の学生の理解を述べさせるようにしている。そういう時には、歳や言語習慣の差に対する若者たちの明るい笑いに伴い、絵文字とは交流の手段としてけっして意義明瞭ではないことを繰り返し実感し、実証できた。一つの言語生活の実態として、ここに記しておこう。

「今年の言葉」は初の絵文字

2015年11月14日土曜日

両手を差し伸べる

今週の間、複数のニュースメディアが伝えた新発見の一つには、絵巻の制作に関わるものがあった。国宝「源氏物語絵巻」を、その所蔵者主催の修理に当たり、新しい下描きが見つかったとのことだ。いわゆる絵巻についての赤外線写真はすでに数十年まえから絵巻を観察、記録するために応用され、どうしていまさらそれによる白黒の写真があらためて公表されるかと、最初のうちはよく理解できなかったが、よく聞いたり、関連の記事を読んだりして、すこしずつ発見の内容が分かるようになった。

いまだ詳細な報告に接しておらず、完璧に理解している自信がないが、どうやらこんどの発見は、最終的な絵の具によって隠された下絵ではなく、あくまでも別の紙に描かれた、最終作の原案になる下描きなのだ。そのような下描きは、なぜか廃棄されるのではなく、絵巻の下打ちに利用され、そのため剥がされて、貴重な内容があるのだと気付かされた、という内容らしい。そのため、下描きはあくまでも最終作のおよその指標であり、完成までには大きく20151114修正されるようになる。そこで、一番分かりやすい実例として、源氏に抱かれた新生児の薫が大きく紹介されている。完成された画面で見られるおとなしい赤ちゃんと違い、薫は両手を大きく差し伸べている。複雑に絡む人間関係と激しく巡らされる主人公の思いを、わずか一枚の絵の空間に収めるために、絵師の苦慮や創意が語り尽くせないほど託されている。下描きと完成作品との間のあまりにも離れた距離、二つの絵によるまったく異なるアプローチなど、絵巻を読解するうえで、この分かりやすくてインパクトの強い実例は、これからもくりかえし語られることだろう。

一方では、毎日見慣れているNHKのニュースキャスターの口から、絵巻の謎やら、構図やらの語彙が淀みなく語られたのを聞いて、古典の絵画とは、けっして狭い学問の世界に閉じ込められたものではないということをあらためて、しかも鮮明に思い知らされた。

源氏物語絵巻、下描き線描き直されていた

2015年11月7日土曜日

女方の手

映画館のスクリーンで歌舞伎を見る。考えてみればあってもおかしくないものだが、これまでには一度もそういう経験をしていない。先日、そのような上映がこの町にやってきた。都市の中心に位置する映画館でとり行われ、それも歌舞ものと人情ものの二部構成で、二つとも堪能させてもらった。

舞台で行われるものをスクリーンで見ておこうと決めてしまえば、あとは意外と楽しいことがいっぱい付いてくる。実際に舞台を前にして座っていてもけっして充分に吸収できない細部まで、じっくり、ゆったり、思う存分に見つめることが出来る。そのようにして、新たに気付かされることはいくらでもあった。一例をあげてみれば、女方の手だ。歌舞伎の舞台では、女方の演技は、考えようによればまるで人間の奇跡に近い。端正な顔立ちと上品な仕草によって表現された女性の姿は、大きなスクリーンに映しだされていても、まったくカメラ負けはしない。一方で20151107は、髪の毛も化粧も大きくクローズアップされてはっきりと伝えられているなか、個人的には、女方の手が視覚的にどうしても気になる。顔や姿があまりにも美しいだけに、その手が、役者のほんとうの性別を頑固に訴えているように思えてならない。あるいは、長い歌舞伎の伝統においても、手の表現までとくべつに工夫をしていない、ということだろうか。

映画になった歌舞伎は、「シネマ歌舞伎」とのブランドネームを用いている。しかも、作品によっては、過剰なカメラアングルを用いたりはしないが、トップクラスの監督の名前を前面におし出している。古典芸能としての歌舞伎を広めたり記録したりするには、素晴らしいアプローチなのだ。もうすこし多く作られるべきだろう。

CINEMA KABUKI Performances