2008年9月27日土曜日

絵巻に描かれた放屁(吉橋さやか)

私が『福富草紙』と出会ったのは、ほんの一年前である。

一年前、私は、サントリー美術館所蔵の『放屁合戦絵巻』に熱をあげていた。放屁の合戦に勝つべく、様々な工夫を凝らす坊主たちの様子が生き生きと描かれた『放屁合戦絵巻』は、見ているだけでとても面白く、当時の私は、「こんなに面白い絵巻があったんだ!」と、とても興奮して眺めていた。

この絵巻の中に、放屁の真打なる尼が登場する。この尼が放屁の一発で華麗に扇を射抜く場面でこの物語は終わるのだが、この尼は自らを「秀武の娘」と称している。ここに、放屁の芸の師匠として「秀武」の名が登場していたのである。「秀武」が『福富草紙』の登場人物であると知り、それから私と『福富草紙』との付き合いが始まったのであった。 

このようにして『福富草紙』との出会いを果たした私であるが、当時、今以上に無知だった私は、『福富草紙』がこれほど豊かな物語であるとは思っていなかった。

『福富草紙』の伝本は数多く残っている。ここに掲載されている立教本もその一つであるが、私がざっと確認したところによれば、二十本ほどはある。また、上下二巻の下巻部分が独立した異本系も含めると、三十本くらいにはなり、この物語が盛んに享受されてきたことを物語っている。

『放屁合戦絵巻』も『福富草紙』も、放屁の絵巻物語である。なぜこれほどこれらの絵巻に魅了されるのか。その理由はいろいろあるだろうが、やはり、万人共通の生理現象である放屁というモチーフが、キャッチーで面白いからであろう。そしてそれに加えて、これらの絵巻が、目に見えない放屁というものを、目で見える形で描くことに成功している点が、大きな魅力であるように思う。放屁の特徴は、臭い、音、風であるが、これらはすべて、目には見えない。しかし『福富草紙』や『放屁合戦絵巻』では、それらが見事に目に見える形で描かれているのである。

まず第一に、臭い。『放屁合戦絵巻』では、鼻をつまむ者や顔をしかめる者の存在によって、読み手は臭いを感じることができる。

第二に、音。『福富草紙』では「綾つつ錦つつ黄金さらさら」という音を感じることができるし、秀武の夢に鈴が登場することからも、読み手は音を意識することができる。

そして第三に、風。これは放屁の特徴の中でも最大の特徴であろう。臭いや音は、あったりなかったりするが、風は、どんな屁にも、その強弱の差こそあれ、生じている。放屁は一種の風であると言ってもよい。『日本国語大辞典』(小学館)にも、「下風」という項があり、「屁をすること。また、屁」と記されている。この風を、『福富草紙』では、楊氏がすでに指摘されているように、秀武の踊るような腰つきや手足、衣の動きなどによって表現している。また、『放屁合戦絵巻』では、放屁の風の流れを、直線、波線、描線の長さや太さなどによって、うまく描き分けている。それによって読者は、放屁の風を感じることができるのだ。

このように、絵巻物語を目で楽しむだけでなく、放屁という目に見えないものを、詞書や絵によって五感で感じさせることができている点が、これら二つの放屁の絵巻の魅力と言えるだろう。そして五感を刺激されることによって、読み手は、二次元に描かれた静止画を、三次元の空間として捉えることができ、その空間の中に自らの身を置いて物語世界を堪能することができるようになるのかもしれない。

サントリー美術館コレクションデータベース
「放屁合戦絵巻」(「絵画・絵巻」よりアクセスする)

2008年9月20日土曜日

台所をお目に掛けよう

北米のケーブルテレビには、特定のテーマをもつチャンネルが多い。同じ内容のものだけ提供するということが前提なので、一つの番組を数日にわたり、ひいては一日に数回も繰り返し放送するのが、一つのスタイルになっている。そのため、チャンネルを回したら、「Iron Chef America」が頻繁に目に飛んでくる。

これは、いうまでもなく例の「料理の鉄人」のアメリカバージョンだ。本家の番組はすでに存在しなくなった現在、一つの日本のテレビ番組をここまで真剣に、しかも情熱を込めて作り続けること自体、不思議でならない。内容も構成も、人為的な作為が強く感じさせるタイトルのつけ方も、そっくりそのまま本家のものを引き継いだだけではなく、カメラアングル、画面切り替えのリズム、盛り上げの仕掛けなど、どれも「日本風」のものだと感じさせて、それこそちょっとした魅力的な風景だ。

台所をお見せする。料理を作るということを隠すのではなく、それどころか、台所を一大ショーのステージに早変わりさせてしまう。このようなテレビ番組制作の着想は、わたしには、いかにも日本的なものに思えてならない。身近な生活からその根拠を確かめるならば、一つ、鮨屋のことを思い浮かべれば十分だろう。「スシ・バー」という、こっけいなぐらいの英語の言葉にさえなったこの表現に集約されていると言って過言ではなかろう。食事を用意するということは、もてなしの一部であっても、美食のじゃまにはぜったいにならないという考えがそこにあるものだ。

忘れてならないのは、同じ考え方を持たない文化もあることだ。その筆頭に中国のことが挙げられよう。中国語には広く知られている古典のフレーズがある。「君子遠庖厨」という表現で、君子と呼ばれるにふさわしい者は、台所を遠いところに置くものだ、と意味する。『孟子』にあった文章だが、それが驚くほど長く親しまれ、守られてきた。いまでも、親しい親友はさておき、大事にもてなしをしようと思うお客様をわざわざ台所に入れることはなく、むしろ丁寧に作り上げた料理を、視線の届かない台所から心をこめて食卓に運んでくることこそ、美食にふさわしい風景だと、中国では考えている。

絵巻に描かれた一つの饗宴、それも、戦場に繰り広げられた台所風景をとりあげて、短い文章に認め、それを載せた雑誌が今週発行された。興味のある方は、どうぞご一読ください。

国文学解釈と鑑賞別冊・文学に描かれた日本の「食」のすがた

2008年9月13日土曜日

「美術館」に思う

勤務する大学では、今週から新学年が始まり、今学期は日本語のクラスを一つ担当している。最初のレッスンの単語表には「美術館」が出た。あれこれと仕来りや役目などの説明の仕方を思い描きながら、手元にある『日本美術館』(小学館)のページをめくった。

この一冊の魅力は、まさにカラー写真の充実ぶりにほかならない。さながら机上の美術館という観がある。室町時代の部では、屏風画を取り上げ、伝狩野之信筆「四季耕作図」屏風、それにそれの規範だとされる中国の画巻『耕織図巻』の模写を大きな写真で掲載し、あわせて屏風画製作における中国画家のスタイルの影響を説明した。長閑な田園風景や田植えの様子など、まさに見ごたえのあるものである。この「耕作図」と名乗る作品群は、まるで一つの特殊なジャンルを成したような感じで膨大な数で作成され、各地に伝わり、さまざまな形で用いられ、社会生活の風景に溶け込んだ。巻物の形態のものが屏風絵の構図に展開し、しかもその中の一級品がどれも幕府の将軍に秘蔵されていたことなど、絵と時の権力との繋がりにまで思いが馳せる。

一方では、田植えといった自然風景のテーマは、中国絵画の伝来がなくても十分に成り立つものではなかろうかと、素朴な疑問も浮かぶ。水田の様子といえば、たとえば『一遍上人絵伝』(巻九第一段、写真)において非常に近い構図のものが確認できる。とりわけ畑を囲む畦、その上を歩く人々、それに全体の絵の色遣いなど、どれもまさに「既視の風景」である。

一枚の絵あるいは一群の作品の成立をめぐり、絵師、注文主、同じ時代の鑑賞者のありかたを教えてくれることは、まさに美術館の大事な役目の一つだろう。そのようないわば美術史の知識をわれわれはまず把握しておかなければならない。いまの例の場合、「耕作図」のなり立ちをめぐり、中国伝来の画巻と日本の寺院に伝わった絵巻とは、室町将軍の周辺の絵師に取ってはまったく違うレベルの存在だったことも事実だろう。ただし、このような当事者の認識や価値観を理解したうえで、絵の伝統の交差、特定の文化サークル以外に存在していた作画の存在を忘れないことも、それまた大事だ。

ちなみに、伝狩野之信筆の屏風はいまや京都国立博物館に寄託保管されているとのこと。いつかまたそこを訪ねることができたら、ぜひ見てみたいと思う。

2008年9月6日土曜日

言葉を味わう

『白鼠弥兵衛物語』は、不思議な物語である。白鼠の浮沈をめぐる奇特な状況、都と地方、夫婦と家庭といった魅力的な昔の常識、もてなしの饗宴や黄金を運び込んだ報恩という奇想天外な展開、挙げればきりがない。中でも、とりわけ妙に心をくすぶり、繰り返し味わいたくなるような言葉の表現があった。

そのいくつかを取り出してみよう。

胸に食い付かれた雁は、「肝を消し」て飛び去り、弥兵衛を常盤の国に運んでしまった。弥兵衛を失った妻は「如何なる花心移したるか」と心配し、苦難のすえ無事戻った弥兵衛はさっそく美女に会っても自分が「心の散らざりし」ことを語り聞かせる。突然戻ってきた弥兵衛のことを、みんなが「天より天下りたる」と驚き、謝恩のために息子を差し出すことに抵抗する妻を、弥兵衛が「よく御馳走候へ」と説教する。

どれもこれも、なかなか興味が尽きない言葉ではなかろうか。現代の言葉遣いの感覚をもっていても、だいたいなんの難もなく理解できるが、かといって実際に用例を見ないと、とても思いも寄らない。「天下り」とは、まさに天から降って湧いたという、字面その通りの意味だが、いまはまったく別の使い道になった。「御馳走」もその意味あいが大きく変わり、狭く限定したものとなった。「馳せたり、走ったり」することは、立ち振る舞いすることを指すほうが、より適当だが、いまやなぜか台所の中での活動に限定するようになった。「花心」に至れば、なおさら微笑ましい。この言葉、日本語では確立された表現とは言いがたいが、じつは現代の中国語ではいまでもこのままの言葉が使われ、それも弥兵衛の妻とまったく気持ちやニュアンスを担う言い回しである。

表現はつねに変わる。だが、百年単位で時間が流れて行っても、昔の読み物はそのままわれわれの感性に訴えつづけている。まさに古典の魅力、言葉の魔力と言わなければならないだろう。言葉の変容を距離をもって眺め、まるで手で準えるようにじっくり弄び、読み返して味わうこと、これこそ古典を読む大きな楽しみの一つだろう。

2008年9月1日月曜日

『岩波古語辞典』をいただく

楊暁捷(昭六三博士)

手元に一冊の『岩波古語辞典』がある。本屋や図書館でもあまり見かけない机上版で、何回引越しをしても、いつでも本棚の手がすぐ届くところに置いてきた。佐竹先生からいただいた大事なプレゼントである。

あれは、国文研究室の門を潜って数ヶ月経ったころのことだった。中国の大学を出て、まったく未知の世界に足を踏み入れて、言葉も文化も仕来りも人の顔も何一つ分からないまま、ただただ周りの好意に縋っての無我夢中の毎日だった。そんな中、佐竹先生に廊下で名前を呼び止められ、先生の研究室に案内され、これをさっと手渡された。辞書に挟まれた贈呈の便箋には「祝京都大学大学院修士課程入学・一九八三年三月」と先生ご自筆の文字が添えられている。人に見せることも憚るような、この上ない喜びを伴う宝物である。

佐竹先生の思い出は、国文大学院の先輩や同級生の間に交わされた会話の数々から始まった。佐竹先生の浩瀚な学問や大きな存在感は、つねに研究室での学生同士の好話題だった。先生の本が出版されたら、みんなで競って通読して自分なりの読書感を披露し、一般の視聴者を対象にした先生のラジオ講座が放送されると、それを丁寧にテープに取り、大事に分け合った。いうまでもなく、なんの予備知識も判断の基準も分からなかった私には、そのような会話に参加できるはずもなく、ただ張りつめた集中力を以ってじっと聞いて、理解しようと懸命だった。「ダンディー」の一言が出ると、こっそり辞書を披いて意味を調べ、自分が目にした先生の後ろ姿、書籍などに掲載された写真などを眺めて、実際に意味するところ、それを取り巻く価値感覚を確かめた。そのような経験はすべて新鮮でいて刺激に満ち、研究書を読む以上に勉強の思い出となった。

あのころの国文研究室では、先生と学生との間につねに言いようのない緊張感があった。リラックスして先生と交わした会話は、数えられるほどであった。毎年、忘年会や新歓コンパが開かれ、それも普段は訪ねることのない珍しいところを会場にし、宴会の場で歌を歌わされたりしたこともある。しかしながら、宴会が済み、院生たちがほぼ全員つぎの飲み屋へ向っても、そのような二次会に先生方が現われるようなことは、一度もなかったように覚えている。そのような距離感が、勉強の励みになった。先生には厳しく見守られている、そのような先生を失望させないためにでも失敗を少なくしないと、との思いはみんな共有していた。修士論文試問の席で、佐竹先生から受けたご指摘、そして新しい研究方向へのご指示には、どんなに勇気を与えられ、そのあと、どれだけ反芻したものだろうか。短い大学院での学生生活の単純でいて朦朧としたひた向きな読書の毎日は、すべてその年齢ならではの貴重なものであり、一生の財産である。

佐竹先生に最後にお目にかかったのは、国文学研究資料館の館長室内だった。先生から親しく声を掛けられ、研究のことなど恥ずかしくてとても持ち出せなかったが、その代わり、カナダでの仕事、自分の家庭や子どものことまで話したと記憶している。大学院で教わったころからすでに十年以上経っていたはずだが、やや痩せられた以外、佐竹先生のまったくお変わりのない、厳しくて親しい顔が、いまでも昨日のことのように脳裏によみがえる。
(京都大学国文学会会報、平成20年9月、56号)