2005年12月1日木曜日

「ポッドキャスティング」の勧め

個人的な体験をまず一つ披露しよう。思えば十数年前、「インターネット」という表現がまだ言葉の市民権を得ていなかったころ、パソコンに辞書一冊分ぐらいのサイズの外付けモデムを取り付け、日本語が使えるように何重もの苦労をしてシステムをいじり、ようやくモニターに朝日新聞の記事を出現させた。そして週に数十と現れてくる新しいサイトの記事を丁寧に追いかけ、その結果を学会で発表したりまでしていたものだった。いうまでもなく、そのようなインターネットとの接し方は、いつの間にか不可能となってしまった。新しいタイプのメディアの成長と共に情報を吸収していたその頃の満足感には、恐らく二度と出会うことはなかろうと、密かに誇らしく思っていた。

しかしながら、最近になってまた新たなメディアに夢中になってきた。さきの体験とダブらせて考えると、どうやら似たようなことに再び直面しようとしているようだ。今度は文字をモニターで読むのではなく、インターネットから伝わってくる音声を耳で聞くというものである。それは、やたらにカタカナを並べた「ポッドキャスティング」といって、一世風靡しているアイ・ポッドからくる造語である。ポッドキャスティングの仕組みは、いたって簡単だ。定期的に提供してくる音声の情報を特定のソフトを使って「予約」し、新しい情報がインターネットに載せられたら自動的に(あるいは手動で)個人のパソコンに保存する。その後、パソコンから音声を再生するディバイスに転送して、音楽を楽しむ感覚で聞くのだ。すなわち、音声ディバイスが電波を受信するわけではないので、ラジオのようなリアルタイムの連動はなく、あくまで受信者が内容を選んだうえでの受信なのである。ちなみに、音声の情報は、ストリーミングなどのいわば発展途上の技術から一歩下がった、MP3 といったすでに確立されたものを用いるものだと付け加えたい。

英語の世界では、ポッドキャスティングという言葉はようやく満一歳になる。それに比べると、日本での展開はまだまだこれから、という感じだ。内容のあるサイトは週にいくつか現れてきて、まだどれもさほど情報の量は多くなく、一通り聞いてみることが可能だ。膨大な個人運営の、日記風のもの以外、メジャーなところの参入が目立つ。例えばTBS ラジオ、ABC ラジオ、文化放送といった放送の大手が提供するニュース、文化記事、流行作品のラジオドラマなどがあって、実に聞き応えがある。

わたしが音声というメディアに惹き付けられる理由はいくつもある。日本語教育という仕事からして、音声のリソースにはつねに特別な愛着をもつ。日本から遠く離れて生活していれば、日々に移り変わる日本の事情や、あれこれ取り上げられる話題にはよけいに興味を感じる。それに、自分の研究分野である古典の世界への思いがある。古典と現代の、記録のメディアにおける一番の大きな違いは、音声を記録する手段の有無にある。だから古典を今日の人々に楽しんでもらうためには、音声による古典の再現がつねに期待される課題であり、音声メディアの形成と発展は、わたしにはいつも大きな刺激となる。

ごく最近行われたある調査によれば、日本での「ポッドキャスティング」への認知度は4割を超えていると言われる。どのようなデータを踏まえてかは不明だが、実感としてはそこまでにはとても至らない気がする。いずれにしても、読書や仕事の合間にさまざまな内容の音声を聞いてみるのは、理屈抜きに楽しい。興味のある方はぜひ試してみるようお勧めする。日本語の内容なら「Podcast Now!」(http://podcastnow.net/blog/ )、英語の内容なら「Yahoo Podcasts」(http://podcasts.yahoo.com/)から始めたら良かろう。音声プレーヤーさえ一個あればこと足りる。あとは目をモニターから逸らして、悠然と構えて、楽しもう。

Newsletter No. 31・2005年12月

2005年6月1日水曜日

日本アニメのマジックパワー

今年の二月に、JETプログラム参加者の採用面接を手伝わせてもらった。予想していた通り、個性豊かなカナダ青年の溢れんばかりのパワーに接して、心が洗われる思いだった。とりわけ印象に残ったものの中には、車椅子に乗って四百キロ以上も離れた町からやってきた一人の若者との会話があった。話を聞けば日本のアニメとの出会いが縁で、今はアニメ全般の仕事をセミプロでやっていると言う。そこでわたしも本気になって、かねてから気にしていた質問をぶつけてみた。ずばり「日本アニメのマジックパワーとは」という素朴な問いだった。だが、本当にアニメに夢中になったら、このような漠然とした質問には答えようがないと感じるものだろうか、こちらの期待した答えは戻ってこなかった。

想像するに、ディズニーアニメが確固たるマジックを持っているように、今やはるかにそれ以上の成功を収めている日本アニメもそれなりの秘密を持っているに違いない。それはなんだろうか。

まず、これに取り掛かるには、宮崎駿の作品だけを見ていても答えは見つからないと言いたい。言ってみれば、宮崎アニメは日本アニメの「花」であって、その平均像ではない。したがって、「ナウシカ」「千と千尋」や「動く城」などを見ただけでは、日本アニメの全体像を掴むには程遠い。きれいな音楽、華やかな受賞、目が眩むような宣伝や膨大な市場など、どれも日本アニメの成功の一例であって、そのすべてではない。むしろこの「花」を支える葉っぱや根っこのほうに、日本アニメの本当の姿があるものだ。

実は、この「マジックパワー」という質問に、わたしは一つの答えをひそかに抱いている。それは「量」と「型」の二つの要素だ。

これまでアニメに接するメディアの主流は、テレビだった。代表的な番組となると、どれも週一回あるいは数回、場合によっては一日一話の形で放送され、しかも十年単位で続いている。驚くばかりの生産力と気が遠くなるような持続力は、一流のアニメを生み出す必須条件だと言っていい。それに、そのようなアニメは、どれもはっきりしたストーリーの運び方や似たような結末を持っている。ストーリーの内容が予見できるということは、けっして悪いことではなく、むしろ見るものに安心感を与える。さらに多くのものには、料理、テニス、碁といったテーマを持たせてあるということも、ここにいう型の一部だろう。量と型、この二つの要素は、いわば大衆的な消費のニーズにしっかりと応えたアニメパワーの構造だ。

ここで、日本アニメが北米など英語圏の国々にこれほどまでに広がった理由の一つを忘れてはならない。それはアニメを伝えるメディアだ。これまで主にテレビだったそれは、今ではインターネットやDVDディスクなどを媒体として、まったく違うグループのユーザーを獲得している。字幕を付け加えるソフトの発達は、さらに伝播のスピードを速めた。いまでも製作者は著作権ということを過剰なほどに主張するむきがあるのだが、それも近いうちになんらかの変化が出てくることだろう。どうにもならない現実だとあきらめるのではなく、むしろ逆にこの新しいメディアの効用とありがたさに気づいて、新たな戦術を打ち出すものだと想像する。

現在、わたしたちの日本語のクラスにやってくる学生たちの多くは、日本アニメをきっかけにして日本語、そして日本への興味を持つ。日本アニメのマジックパワーを理解し、それをいい意味で乗り越えるのを手伝うということは、日本語教師としてのこれからの課題の一つになるのかもしれない。

Newsletter No. 30・2005年6月