2005年6月1日水曜日

日本アニメのマジックパワー

今年の二月に、JETプログラム参加者の採用面接を手伝わせてもらった。予想していた通り、個性豊かなカナダ青年の溢れんばかりのパワーに接して、心が洗われる思いだった。とりわけ印象に残ったものの中には、車椅子に乗って四百キロ以上も離れた町からやってきた一人の若者との会話があった。話を聞けば日本のアニメとの出会いが縁で、今はアニメ全般の仕事をセミプロでやっていると言う。そこでわたしも本気になって、かねてから気にしていた質問をぶつけてみた。ずばり「日本アニメのマジックパワーとは」という素朴な問いだった。だが、本当にアニメに夢中になったら、このような漠然とした質問には答えようがないと感じるものだろうか、こちらの期待した答えは戻ってこなかった。

想像するに、ディズニーアニメが確固たるマジックを持っているように、今やはるかにそれ以上の成功を収めている日本アニメもそれなりの秘密を持っているに違いない。それはなんだろうか。

まず、これに取り掛かるには、宮崎駿の作品だけを見ていても答えは見つからないと言いたい。言ってみれば、宮崎アニメは日本アニメの「花」であって、その平均像ではない。したがって、「ナウシカ」「千と千尋」や「動く城」などを見ただけでは、日本アニメの全体像を掴むには程遠い。きれいな音楽、華やかな受賞、目が眩むような宣伝や膨大な市場など、どれも日本アニメの成功の一例であって、そのすべてではない。むしろこの「花」を支える葉っぱや根っこのほうに、日本アニメの本当の姿があるものだ。

実は、この「マジックパワー」という質問に、わたしは一つの答えをひそかに抱いている。それは「量」と「型」の二つの要素だ。

これまでアニメに接するメディアの主流は、テレビだった。代表的な番組となると、どれも週一回あるいは数回、場合によっては一日一話の形で放送され、しかも十年単位で続いている。驚くばかりの生産力と気が遠くなるような持続力は、一流のアニメを生み出す必須条件だと言っていい。それに、そのようなアニメは、どれもはっきりしたストーリーの運び方や似たような結末を持っている。ストーリーの内容が予見できるということは、けっして悪いことではなく、むしろ見るものに安心感を与える。さらに多くのものには、料理、テニス、碁といったテーマを持たせてあるということも、ここにいう型の一部だろう。量と型、この二つの要素は、いわば大衆的な消費のニーズにしっかりと応えたアニメパワーの構造だ。

ここで、日本アニメが北米など英語圏の国々にこれほどまでに広がった理由の一つを忘れてはならない。それはアニメを伝えるメディアだ。これまで主にテレビだったそれは、今ではインターネットやDVDディスクなどを媒体として、まったく違うグループのユーザーを獲得している。字幕を付け加えるソフトの発達は、さらに伝播のスピードを速めた。いまでも製作者は著作権ということを過剰なほどに主張するむきがあるのだが、それも近いうちになんらかの変化が出てくることだろう。どうにもならない現実だとあきらめるのではなく、むしろ逆にこの新しいメディアの効用とありがたさに気づいて、新たな戦術を打ち出すものだと想像する。

現在、わたしたちの日本語のクラスにやってくる学生たちの多くは、日本アニメをきっかけにして日本語、そして日本への興味を持つ。日本アニメのマジックパワーを理解し、それをいい意味で乗り越えるのを手伝うということは、日本語教師としてのこれからの課題の一つになるのかもしれない。

Newsletter No. 30・2005年6月