2015年5月16日土曜日

高精細デジタル画像

古典画像は、いまやかなりの数に及んでデジタル公開をされていて、日常的な活動においてはあれこれと目的にあわせて利用している。すこし前までは、これといった公開に気づいたら、苦労してローカルに保存するような作業もしていたのだが、いつの間にかそのような試みがすっかり不要となった。リソースの存在自体の安心感もさることながら、そもそもローカル保存ということではとても対応しきれないものなのだ。

20150516高い画質をもつデジタル画像のことを、ばくぜんと高精細と呼んでいる。はたしてどこまであれば「高精細」と言えるのだろうか。二年前に書いた文章でこれに触れて、「大まかには、奈良絵本横本の一帖の画像がパソコンモニターの四倍かそれ以上」と、かなり印象的な書き方でごまかしていた。ここでいうモニターとは、いうまでもなくそのサイズのことではなくて、解像度のことだ。手元に使っているモニターは、いわゆるフルHDで、画素数は2000×1000(1920×1080)だ。一方では、絵巻の画像は、横に広がり、四方一枚のフレームに閉じ込められないことを特徴とするので、とりあえず縦の画素数が手っ取り早い基準となる。そこで現在公開されている代表的なものを見てみれば、「e国宝」に収められた絵巻は最大で縦約6500画素、国会図書館のデジタル古典籍資料は、画像部分が最大で約5000画素、上記の「四倍」という捉え方は数値的に合致している。ただし、汎用のパソコンのモニターはさほど大きく変わらないが、対して世間では「4Kテレビ」がすっかり馴染みやすい用語となり、8Kも話題になった。4Kだと縦2000(2160)画素、8Kだと縦4000(4320)画素なので、ここでいう精細画像は、わずかに8Kよりはみ出す程度のものなのだ。

デジタル公開の基準はまだまだ流動的で定まらない。現在公開されている上記の代表的な二つの機関の画像も、最大で利用しなければならない状況となると、そう多くはない。言い換えれば、あえてこのような公開の方法を選んだのは、環境の進化を先取りする側面がある。ただ、そう言っている間に、あっという間に環境がそれを追いつき、追い越してしまう。したがってデジタルコンテンツの作成には、環境を先取りしないとかなりの不安が残る、というのも事実だろう。

2015年5月9日土曜日

男女の構図

去年の初冬、東京での国際集会に招かれ、古典の画像のテーマで発表をした。あの時の報告書はようやく出版され、今週届けられた。思えば、同じ集会には七年前にも参加し、かつその時のネットワークはいまだ貴重な形で続いている。報告書の作りもあの時のものとはまったく変わらず、あえて言えば、今度のは決まったテーマがないがため、報告書も「会議録」と名乗るのみに止まったぐらいだ。

20150509実際に取り上げたのは、絵巻に描かれた恋物語りの定番の構図だった。似たような構図はかなりの数にわたって認められ、それらを一つの型として観察するという試みは、大分前の論考で試した。それに対して、今度は典型的な恋愛ものの一篇として「なよ竹物語絵巻」に絞り、対象の場面を具体的に分析した。そこでまっさきに直面した問題は、このような構図をまとめてどういう称呼を与えるか、というものだった。発表のタイトルには、わざとぼやけて「男女の間」とした。当然ながら、恋、密会、ひいては情愛、クライマックス、どれを持ちだしてもそれなりの根拠があり、正直かなり迷った。いうまでもなく、思い切って中世の書物に用いられた言葉である「並び居る」(『十訓抄』)まで取り出すことも出来よう。言い換えれば、ただのキャッチーフレーズのための言葉の遊びではなく、このような言葉の幅に比例するだけの絵の表現の豊穣さがあるものなのだ。

発表の内容は公にするとのことは確かに事前に知らされており、印刷物まで出来上がったのだから、当然電子バージョンも公開されているだろうと思ったが、これは意外にも思い違いだった。調べてみたら、公開するための枠組みがたしかに用意されているが、いまだ中身が入れられていない。どんな作業でも時間が必要だということは、分かっている。しかしながら、研究を最大の主旨とする国家機関は、成果の公開を率先して取り掛かるのではなく、むしろ一番用心深くやっていることは、いささか嘆かわしい。

国文学研究資料館学術情報リポジトリ

2015年5月2日土曜日

トランプの小屋

一年分の講義が終了して二週間経った。片付けるべき仕事などにはかなりの対応が必要だが、日々の活動には明らかに余裕が増えた。その中で、小さな怪我をこじらせ、机の前の時間がさらに多くなった。それもあって、あの評判のドラマを覗いてみた。英語の原題は、トランプ・カードで出来上がる家、そのままの意味なら、とりもなおさず「砂上の楼閣」ということだろうが、正式な邦題には、野望やら階段やらが付いていると聞く。

普段は、テレビドラマを遠慮してきた。時間的なリズムが性にあわないというか、見はじめたら止まらないという事態をなんとなく恐れている、ということかもしれない。さいわい今度の一篇については、そのような状況が起こらなかった。ドラマとしては、かなり上出来だと言えるだろう。さまざまな工夫が施され、ストーリの設定などにも文句はない。それでも四十時間あまりをかけてしまうようなことは、ありえない。やはり連続ならではの重複性、だろうか。とりわけこのドラマの場合、テーマにしているのは、あくまでも陰謀と権術なのだ。それも、トップに上り詰めた権力者が平気に自分の手で殺人を犯したり、国会議員に言葉通りに手錠を掛けたうえで評決に強制参加させたりして、極端な作り話だと分かっていても、目に余るぐらい度を超えたものだった。悪のへの共感あるいは覗き見の欲望をベースにしたものだと想像はできるが、それならばいっそう辟易する気がしてしまった。

ただ、ドラマの生命線であるセリフは、さすがに練られている。晴と褻の対比の具合は絶妙だ。素っ気ない会話が多いからこそ、晴れが際立つ。両者のギャップの距離は、やはり見る人を惹きつける楽しさの一つだと言わなければならない。