2015年12月26日土曜日

個人サイト更新

今年は残りあと数日しかない。このブログは、週一回の記入を継続してきた。一方では、勤務先のサーバーにある個人サイトは、しかしながら手付かず状態がかなり続いた。ずっと気になっていて、ようやく余裕が出来て、まとめて更新に取り掛かった。ほぼ一日の作業だった。研究活動の記録報告が中心だが、それでも、主催機関の公式サイトから関連の記録を探し出すには、やはりかなり苦労した。当然あるべきところにはなかったりするようなケース多くあって、空白のままにしておくほかはない。

あらためて感じたが、公共機関にせよ、個人にせよ、公式サイトの更新は、かなりの課題になっている。これの重要性、現実的な実用性などは、およそ共通認識になったが、しかしながら、日常的に管理しておかなければならない作業だけに、機関でも個人でも、どんなに力を入れたにせよ、胸を張って満足すると言えるところはむしろ珍しい。システム更新、移転、関連リソースの形成などにあわせて、公開方針の変更やデータの作成がつねに要求される。勤務校で気づいたことの一つは、機関全体で動くデータが末端の組織にどんどん影響を与え、形を変えていくということである。大学全体での講義や人事変更などは、そのまま学科のサイトに自動的に反映されるようになる。データ形成の新たな方法は技術の進化を緊密に映し出している。

一方では、あっちこっちクリックしているうちに、古典研究という相対的に特殊な分野においても、新たな変化が随分と現れたと感じ取れた。中でも、上質な出版情報誌のオンライン全文公開(「リポート笠間」59号)、「クックパッド」や「ニコニコ動画コメント」といった大衆的なデータと隣合わせの古典籍公開(「国文研古典籍データセット」)は、とりわけ印象深い。古典にまつわるデジタル環境の変化を予感させてくれるものだ。


2015年12月21日月曜日

盛久の奇跡

「平家」をテーマにした研究書が刊行された。絵巻に描かれた平家伝説を取り上げた一章を寄稿させてもらい、印刷されたものがようやく手元に届いた。同じテーマの研究集会が開催されてから、すでに四年以上経った。そこでの口頭発表に先立って原稿を提出していたのだから、この一章を書き出したのは随分まえだった。かなりの編集作業を通じて活字となり、研究集会の主催者である編集の二方には、ずいぶんとお世話になり、いろいろな意味で教わった。

あの源平の戦や平家の人物を取り上げる絵巻は、あまり伝わっていない。その中で一番古いものに属する「清水寺縁起」の中の一場面を考察の対象とした。いわゆる観音菩薩の霊験談である。処刑の場において奇跡が起こり、首斬りの瞬間から盛久が助かった。絵巻の読み方として、構図にじっくりと取り掛かろうと、あれこれとアプローチを試みた。もともと、首斬りの処刑という究極な状況となれば、物語のハイライトとして多く表現される内容であり、関連の実例を集めようとする作業は、さっそくかなりの数に到達した。そこから共通項や特殊例、言い換えれば画面構成における常態とその変形を分析し、絵画表現の一端に触れようとするのが、この一章を書いたときの立場だった。

盛久の奇跡の描き方、それが絵画伝統の中での位置づけ、それまでの表現の受け継ぎと新たな変化、これらの設問から出発した読み方は、そのまま構図のパターンへの注目に繋がり、やがて「絵巻の文法」とまとめるものの大事な柱となった。ただ、活字になった順番は、使用言語や出版状況の理由もあり、前後逆になった。この経緯も、あわせてここに記しておきたい。

Lovable Losers: The Heike in Action and Memory

2015年12月20日日曜日

絵のような風景の中で

年末に差し掛かり、大学での仕事も一段落して、短いバケーションを取った。今度はアメリカ南部へ旅行した。言葉とおりの絵のような風景を満喫した。そのような風景の中で、さまざまな人間と、まさに一期一会の交流を持たれた。これぞ絵にアクセントをつけたようなものだった。

印象に残った会話や、それを包む人間模様を二組記しておこう。二日目の夕食に、遅くやってきて同じテーブルに着いてきたのは、見るからにエレガントな中年の夫婦だった。こちらのアジアの顔を見て、さっそく香港への経験を持ち出し、しかもなんと仕事で京都にも数ヶ月滞在したことがあると自慢した。その間の思い出はと聞けば、旅館での経験など、確かな語り口で懐かしそうに披露した。そこまで話が展開されるまえに、すでになにげなく高価なシャンパンを注文し、聞きもせずにウェターに全員分のグラスを並べさせた。しかしながら、上質なフルコースをこちらが舌鼓をしながら満喫しているところへ、前菜にもメインにも遠慮無く文句を付けて取り替えさせた。しかも夫婦ふたりともまったく同じ行動を取っていたのだから、見て見ぬふりをして理由を聞かなかいことにするほかはなかった。その翌日。今度同席したのは、いささか歳に差があるかなと思われる、綺麗な身なりをしたカップルだった。しかし、座るなり、息子さんを連れての親子関係だと自己紹介をしてくれて、まずはびっくりさせられた。若い顔をした大学生かと早合点した若い男の子は、なんとその歳はただの14歳。いざ会話が始まったらさらに感心し、若者はスポーツ好きで、いまのめり込んでいるのはアメフト、プロにはならないが、全額の奨学金で大学に入ることが目標だとすらりと言いのけた。しっかりした会話ぶりは、だれが聞いても惚れ惚れだった。一方のしゃきしゃきのお母さんは、小学校の英語教師、それこそ根からの先生気質で、どんな質問をふっかけても理路明晰に説明をしてくれた。しかしながら、フルコースの料理には、二人とも前菜もメインも二品ずつ注文し、それまたどれも半分ぐらいしか食べないで、あとは残したままだった。

いわゆる文化の違いは、暮らしの価値観に極端と現われてくる。言い換えれば、あくまでも良きように、格好良く振る舞っているつもりであろうが、それは異なる価値観の立場からすれば、とても真似ができない。理解してあげよう、それがこちらとしてわずかにできることなのだ。

2015年12月12日土曜日

想像力

今週のはじめに、今学期の講義が終了した。ここ数日の主な仕事は、学生たちのレポートを採点することだ。二、三年まえから、想像力を働かせて自由な創作作品を出してもよいとの要求を出して、それ以来、自由創作に走る学生の割合は年々増えてきた。今年になると、はじめて大人数のクラスにななったのに、レポート読みにはまったく倦怠感がなく、つぎのファイルを開けることが楽しくてならないような瞬間はいくつもあった。自分ながらびっくりした経験だった。

若い学生たちの作品の魅力は、一言で言うと、その自由な想像力。日本語の勉強も半分以上の人がまったくしていない中、言語や背景の時代考証やら、人物の間の隠された関係やらを期待すれば、間違いなくハズレだろう。しかしながら、そのような考えにさえ捕らわれなければ、若ものの遠慮がない、たくましい空想には、ときには唸るばかりだった。わずかな知識を駆使し、それをうまい具合に継ぎ合わせたりする工夫は、まさに見事。壇ノ浦の海に消えた魂がイザナギに救われるとか、信長殺害に秀吉が酒呑童子を走らせたとか、数え出したらきりがない。マルチメディアの部では、オリジナル描き語りをビデオ動画に作成したのに、どれだけの時間を掛けたか計り知らない。クラスで一度だけちらっと触れた、あの餅搗きの三巨人の錦絵は、なんと十ページもの大作マンガに生まれ変わった。調べればきっとまっさきに出てくるだろう信長の辞世の句を、わざわざダジャレに書き換えたところなど、わけの分からない洒落、場合によってはナンセンスな笑い取りは、なぜか朗らかで、心地良い。

レポートの中から優秀作を選んで、いずれ「Old Japan Redux」の続きを作りたい。いささか笑いに走りすぎたものは、割愛するほかはなかろう。ただ極端なものがなくても、学生たちのありかたの一端を映し出すことに十分だ。出来上がったら、あらためてここに記す。

2015年12月5日土曜日

カメラとレンズ

日常的に読んでいるサイトにもよるけど、感覚的にはデジタル関連の新技術を取り上げる記事が多い。その中には、宣伝や広告代わりのものもけっして珍しくなく、ほとんどの時は読み流している。一方では、想像にも及ばない、不思議にワクワクさせてくれるものも確かにある。今週に出会ったそのような記事の一つは、「FlatCam(平らなカメラ」というものがあった。

20151205アメリカの大学の研究室から報告されたこの新技術だが、簡単に言えば画像を記録することを目的とするカメラから、レンズというものを取り除き、それの代わりになるものを提案している。その代わりのものとは、いわば電子のマスクなのだ。画像情報を焦点に投影するというレンズの原理を廃止し、これをフラットな平面において読み取り、その結果を電子的な計算によって解析し、電子信号で記録し、さらにディスプレイに再現する。どうやらただの着想には止まらず、このアプローチの可能性がすでに実証され、しかもこれを報告する動画においてかなり鮮明な画像が記録されたことが実演されている。

平らなカメラには、現実的な目的や効用において、さほど革命的なことが起こるわけでもなさそうだ。画像を一点通過ではなくて、面で読み取るがために、物理的にサイズをもつレンズが不要になり、記録機械が薄くなる可能性が生まれるとか。そのような現実的な用途よりも、ここまで既成の概念となっているものまで再定義することには、その発想の自由さや、長い歴史に挑戦する勇気を感じ取り、感動するぐらいだ。ただ、そもそもレンズまでなければ、カメラという名前まで変える必要があるのではなかろうか。

FlatCam

2015年11月28日土曜日

トレース画像、その二

論文集に投稿するため、原稿を作成し、いまはその最終段階に差し掛かっている。文中に使う挿絵を用意しなければならない。白黒の小さなもので、カラーでスキャンしたり、あるいはデジタル公開されたものを切り取ったりして、それをグレーに変換し、その上コントラスを調整するぐらいのことしかできない。それでも、一枚ぐらいはすこし工夫を加え、画面の中での注目してほしい部分を強調しようと考えた。

かつて似たような作業を一度試み、活字論文に発表した。そこでは画像の中の人物だけ切り取り、背景との間に濃淡の差をつけて表現した。ただ、それを同じ分野の研究者に見せたら、「絵巻の画像とはもともとこういうものだと錯覚してしまうような読者まで想定すべきのでは」とのコメントが戻ってきて、少なからずに驚いた。考えてみれば、その通りかもしれない。そこで、今度はもうすこし違う表現の工夫をしようかと思った。画像の一部を切り出20151128して立体的に配置したりしてみたが、今度はむしろ絵巻の画像を見慣れた目にはしっくりこない。結局のところ、濃淡というアプローチをそのままにして、部分ごとに切り出し、その輪郭に大きくぼかしをつけ、さらに交差する部分を示すために白い罫線まで加えることにした。

デジタル画像の加工には、定番のPhotoshopを用いた。やり方は一旦分かったら、もちろん安定して動き、かつ同じ機能の応用はいくらでも考えられる。加工の作業を絶えず繰り返すなら、快適に違いない。ただ、ここで思いついた方法をこの次いつ持ち出すか見当も付かない。その内、やり方をすぐ忘れてしまうだろう。そのようなもどかしい経験を避けるために、きちんとメモを残すことにした。それもメニューに出てくる特殊としか思えない用語とともに、丁寧に作業の順番を書き留めるように心がけた。

2015年11月21日土曜日

泣き笑い

大人数を相手にする講義では、毎回本題に入るまえに十枚程度の写真を見せながら、現代の話題を一つ提供するようにしている。ホットな話題もあれば、いたって常識的なものもある。この間の一回は、流行語大賞のことを取り上げた。そのようなところに、英語の世界でも今年の流行語が発表された。そしてどうやら史上初と称して、言葉でも文字でもなく、絵文字だった。

20151121もともと流行語と言っても、その流行の具合を図るにはいくらでも方法があって、かならずしもすべての人々が知っているわけではなく、現実的にはむしろその逆なのだ。その中で、絵文字というものにスポットを与えているということには、まずは注目してよかろう。ただ興味深いことに、選ばれた絵文字には、なんとりっぱな文字による解説というか、定義が付いているのだ。それによると、「喜びの涙の顔」だと言われる。泣き出してしまうぐらい喜んでいる、涙が出てしまったぐらい可笑しい、といったような感情を表わすものだろうか。その解釈や使い道はともかくとして、言葉の説明や定義を加えるということ自体には、むしろ考えさせられた。あまりにも多義で、こうしてまとめてみないと誤解が発生しかねない、言葉に直さないと、にわかに分からなくて伝わらない、といったことを無言に示しているではなかろうか。

事実、周りの学生たちとのメールやコメントなどを用いての文字によるやりとりには、絵文字がたびたび登場してくる。そのような状況に出くわすと、機会さえあれば、その意味を本人に正し、かつその場で他の学生の理解を述べさせるようにしている。そういう時には、歳や言語習慣の差に対する若者たちの明るい笑いに伴い、絵文字とは交流の手段としてけっして意義明瞭ではないことを繰り返し実感し、実証できた。一つの言語生活の実態として、ここに記しておこう。

「今年の言葉」は初の絵文字

2015年11月14日土曜日

両手を差し伸べる

今週の間、複数のニュースメディアが伝えた新発見の一つには、絵巻の制作に関わるものがあった。国宝「源氏物語絵巻」を、その所蔵者主催の修理に当たり、新しい下描きが見つかったとのことだ。いわゆる絵巻についての赤外線写真はすでに数十年まえから絵巻を観察、記録するために応用され、どうしていまさらそれによる白黒の写真があらためて公表されるかと、最初のうちはよく理解できなかったが、よく聞いたり、関連の記事を読んだりして、すこしずつ発見の内容が分かるようになった。

いまだ詳細な報告に接しておらず、完璧に理解している自信がないが、どうやらこんどの発見は、最終的な絵の具によって隠された下絵ではなく、あくまでも別の紙に描かれた、最終作の原案になる下描きなのだ。そのような下描きは、なぜか廃棄されるのではなく、絵巻の下打ちに利用され、そのため剥がされて、貴重な内容があるのだと気付かされた、という内容らしい。そのため、下描きはあくまでも最終作のおよその指標であり、完成までには大きく20151114修正されるようになる。そこで、一番分かりやすい実例として、源氏に抱かれた新生児の薫が大きく紹介されている。完成された画面で見られるおとなしい赤ちゃんと違い、薫は両手を大きく差し伸べている。複雑に絡む人間関係と激しく巡らされる主人公の思いを、わずか一枚の絵の空間に収めるために、絵師の苦慮や創意が語り尽くせないほど託されている。下描きと完成作品との間のあまりにも離れた距離、二つの絵によるまったく異なるアプローチなど、絵巻を読解するうえで、この分かりやすくてインパクトの強い実例は、これからもくりかえし語られることだろう。

一方では、毎日見慣れているNHKのニュースキャスターの口から、絵巻の謎やら、構図やらの語彙が淀みなく語られたのを聞いて、古典の絵画とは、けっして狭い学問の世界に閉じ込められたものではないということをあらためて、しかも鮮明に思い知らされた。

源氏物語絵巻、下描き線描き直されていた

2015年11月7日土曜日

女方の手

映画館のスクリーンで歌舞伎を見る。考えてみればあってもおかしくないものだが、これまでには一度もそういう経験をしていない。先日、そのような上映がこの町にやってきた。都市の中心に位置する映画館でとり行われ、それも歌舞ものと人情ものの二部構成で、二つとも堪能させてもらった。

舞台で行われるものをスクリーンで見ておこうと決めてしまえば、あとは意外と楽しいことがいっぱい付いてくる。実際に舞台を前にして座っていてもけっして充分に吸収できない細部まで、じっくり、ゆったり、思う存分に見つめることが出来る。そのようにして、新たに気付かされることはいくらでもあった。一例をあげてみれば、女方の手だ。歌舞伎の舞台では、女方の演技は、考えようによればまるで人間の奇跡に近い。端正な顔立ちと上品な仕草によって表現された女性の姿は、大きなスクリーンに映しだされていても、まったくカメラ負けはしない。一方で20151107は、髪の毛も化粧も大きくクローズアップされてはっきりと伝えられているなか、個人的には、女方の手が視覚的にどうしても気になる。顔や姿があまりにも美しいだけに、その手が、役者のほんとうの性別を頑固に訴えているように思えてならない。あるいは、長い歌舞伎の伝統においても、手の表現までとくべつに工夫をしていない、ということだろうか。

映画になった歌舞伎は、「シネマ歌舞伎」とのブランドネームを用いている。しかも、作品によっては、過剰なカメラアングルを用いたりはしないが、トップクラスの監督の名前を前面におし出している。古典芸能としての歌舞伎を広めたり記録したりするには、素晴らしいアプローチなのだ。もうすこし多く作られるべきだろう。

CINEMA KABUKI Performances

2015年10月31日土曜日

有名人の使われ方

すでに何回も経験していることだ。ポッドキャストでラジオの番組を聴き、映画を取り上げる気に入りの番組の放送日は、ちょうど週一回の映画半額の日なので、そこで気持ちを動かされたら、さっそく映画館に駆けつけてそれを楽しんでくる。今週もそのような展開になった。映画は、あのジャブスをめぐるものだった。

20151031思えば、熱狂にはほど遠いが、アップルの製品をしかしながらずいぶんと買ったり、使ったりしてきた。あのデビュー作である四角のマッキントッシュ、不思議な姿をしたマック、そして何世代もわたるアイポッドやアイパッド、列に並んだことさえある。しかしながら、伝記の書籍や映画となると、なぜかどうしても距離を置きたくなった。そんなところに、ラジオ番組の紹介で気になった文句とは、シェークスピアを想起させる構成になっている不思議な映画だった、といったものだった。それに誘われるまま、映画館に入った。結果としては、そんなに感動したり、感心したりするような瞬間はなかった。たしかに思いきった構成をされてはいるが、ちょっぴりやり過ぎで、会話のリズムや内容と、その環境の設定には、不自然さが目立つだけだった。主人公のかなり偏屈した人物像になった構想も、考えかえしてみれば、とくべつに必然的な理由や深遠な意味には思いつかなかった。

雑誌記事によれば、三番目と数える今度の映画は、本人を知っている人間からは、揃って反対されていると聞く。このことは、結果として、有名人の使われ方を垣間見る思いがした。ひろく関心を集めている人となれば、およそその人の名誉やら事実やらとは無関係のところに存在するようになった。あるいは、それこそ有名人になった証拠だとさえ言えよう。そのように考えれば、こんなにすさまじいスピードで一人の個人が実像から離れて、自由に創作されるようになったという事実のほうを、もっと認識すべきだろう。

2015年10月24日土曜日

ウイルス退治

かずかずの予定内や予定外の仕事、行事がいっぱい詰まっているここ数日、一つの他愛ないが、半端ない苦労を強いられた経緯があった。ここに記しておこう。

自宅の書斎に据え付けるメインのパソコンは、いつの間に厄介なウイルスに感染されてしまった。それもかなりの重症だった。やられたのは、ブラウザで、クリックするたびにウイルスはその存在を誇示し、新しいページが開いたり、目障りな広告が雪崩込んできたり、甲高いアラームや警告アナウンスが鳴り響いたりして、パソコンの前の人を神経錯乱に追い込む勢いだった。おかげ日常の仕事ではここまでブラウザに依頼していることに気付かされるが、とても暢気に構えていられなくて、覚悟の上でウイルス退治に乗り出さざるをえない。普通に考えれば、ウイルスに悩まされるのはなにも自分だけに限るはずはなく、退治する方法もきっとたくさん案出されているものだろうが、しかしいざそれを調べたり、試したりする段になると、とても簡単にはいかない。まずは退治するソフトと、それを名乗り、苦悩に乗じてさらなるウイルスを送り込む悪どい者に用心しなければならない。ほんとうに使えるものなら有料でも想定内だが、この手のソフトは、たいてい宣伝の方法が安っぽくて、安心できない。あとは、パソコンを購入状態にリセットするという手段も考えられるが、はたしてどれだけのバックアップが必要なのか見当付かず、なかなか決行する勇気が出てこない。

20151024さいわい退治するソフトが辿りつき、なんとか目の前の難関を突破できて、めでたしだった。救世主的なソフトの名前は、「Malwarebytes」。いうまでもなく今度のウイルスに相性のよいものにたまたま巡り会えて、不運の中の幸運にすぎない。

Malwarebytes

2015年10月17日土曜日

Kahoot!

今学期の授業もすでに半分近く終えった。講義を中心とするクラスは、今年はほぼ百人を相手にし、内容からアプローチの方法まであれこれと模索を続けている。これまでの教え方を継承するものとして、十三週のうちあわせて五回のテストを書かせる、ということがある。採点の負担などもあって、十五分程度の短いものにしている。そこで、テストの日のクラスの後半は、普段の講義と雰囲気の違うことをやってみて、学生の声を掬い上げようとした。この間の授業では、新しい試みとして、学生にオンラインゲームをしてもらった。

20151017ゲームに選んだのは、「Kahoot!」というものだ。いうまでもなく「cahoot(
共謀)」という言葉をもじったもので、いま風のネーミングである。ゲームの内容は、教師が多項選択式のオリジナル質問を作成し、それに対して、学生たちは各自の端末から一斉にアクセスし、正答を競うというものである。教室にはネット環境が整い、ほぼすべての学生が当たり前のように携帯やタブレットなどを持参していることは、この手の活動を可能にした。進行の流れとして、教師が質問サイトから入ってサイトをスタートさせ、これに合わせて学生一人ひとりがスクリーンに現れたピンナンバーを入力し、勝手にニックネームを選び、ゲーム開始である。その間、教師が進度を司り、一問ごとに正答者名や正答者数が表示される。ポップな音楽や効果音、学生たちの奇抜なニックネームなどもあって、クラスは大いに盛り上がった。終わって記録をみれば、予定をちょっとだけ超過し、きっちり六分間の時間を使った。教室を見渡せば、学生たちはそれなりに満足した表情だった。

似たようなゲームなどは、きっともっとあるだろう。クラス活動を賑やかなものにし、学生たちの気分を調整するには、大いに活用すべきものだ。

Kahoot!

2015年10月10日土曜日

悔しい様子

人間は、思いの外、取り返しの付かない悔しいことになると、それを自分の体をもってどう表現するのだろうか。思いをここに至ると、いつも「平治物語絵巻」に描かれたあの有名な場面が浮かんでくる。滑稽なほどのあわれな運命を辿った藤原信頼という名前は何回も確認しなければならないのだが、絵に残されたかれのユニークなポーズはいつまで経って忘れられない。

20151010画面の中において、信頼は読者に正面に向かって立ち振舞、手足を素早くばたばたし、まるで舞台の上から精いっぱいのパフォーマンスを披露しているかのようなものだった。これを見ると、いたって自然に「地団駄を踏む」という言葉を思い出し、ポーズと言葉との両者を互いの証左に並べたくなる。もともと地団駄、あるいは、踏鞴(たたら)という、足で踏んで空気を吹き送るふいごのことこそ、絵と同時代の文献に遡れるが、それが悔しいことの表現への変身は、どうやら浄瑠璃が流行った時代を待たなければならない。一方では、「平治物語絵巻」は、かなり似たような発想に立脚して異なる表現を選んだ。詞書には「護法などの様にをどりあがり々々しけれども、いたじきのみひゞきて、そのかひなし」とあって、今日では喜びの表現に収斂した「踊り上がる」という言葉をこれに当て、それも「護法」のようなものだと、その行動の様子を描写した。「護法」には、仏を守る鬼神と、悪霊を退治する呪術という二つの意味があって、ここではそのどれを指すのか、にわかに判断できない。

絵巻の本領は、絵と言葉とのしっかりした対応をもって物語を伝えることにある。一方では、それを明らかな前提だとしても、互いに対応した画面と記述を物語から切り離し、身体表現をはじめ、その時代の人間や生活を観察するためのたしかな資料として使用することには、当然耐えうるものなのだ。

「平治物語絵巻・六波羅行幸巻」(東京国立博物館蔵)

2015年10月3日土曜日

トレース画像

絵巻の画像を研究論文などに引用したりする時など、印刷の制限から、それにトレースの処理を加えて用いるというのは、いまだ実際に行われている。だいぶ昔のことになるが、とある研究書の後書きにおいて、それの著者が自分でトレースの画像を作成したとの告白を羨望の思いで読んだことを記憶している。デジタル技術に恵まれた今、そのような特技もアナログなものとして片付けられるようになった。

週末にかけて、遊び半分に画像のトレースをやってみようと思い立った。思いついた道筋は、二つ。一つは、Photoshopのような万能のソフトの使い方を改めて勉強し、正攻法で画像を処理することであり、もう一つは、いまやかなりの数で提供されている、ほとんどは無料の専用ソフトを辛抱強く試してゆくということである。手始めに前者から取り掛かった。あれこれとマニュアルを読んだり、動画レッスンを見たりして、最小限のことは一通り出来るようになっ20151003た。思ったほど苦労がなかったので、後者の専用ソフトも覗いてみた。やはり漫画文化には人気があるからだろうか、日本かアジア発のソフトが多い。こちらのほうは、さらに意外なことにさっそく十分に満足できるものに出会った。アップルタブレット用の「Photo Sketch」というものだ。とにかく出来栄えがよくて、作業が分かりやすく、しかもかなり均一するスタイルをもつトレース画像を作成することが出来る。おまけに黄色い色の初期設定や、鉛筆風の陰影は、格調あるニュアンスを付け加えてくれるのが嬉しい。

自由に古典画像のトレースを作成する方法を手に入れて、さてなににこれを生かすべきだろうか。なぜかわくわくしてきた。

2015年9月27日日曜日

婚礼

この週末、親しい友人の一人娘の結婚式があった。こんな年齢になっていながら、不思議なぐらい結婚式には出席しておらず、自分一人だけではなく、家族全員の大事な行事として参加してきた。

どの国も民族も、結婚となればしっかりした伝統がある。一方では、家族を持つ人は全員一度は通過する人生の儀礼なだけに、その取り組み方、進行の工夫、演出の仕方は、言葉通りに千差万別で、たとえ同じ文化の中でも、実際的に比較することは難しい。それにしても、あえてそのような異なる実践を横に並べて考えてみれば、やはり興味深い大きな違いがある。ごく簡単に捉えてみれば、親や家族が中心で、主催も運営も結果も両方の親の立場に直結するのは中国、儀式の上で親の存在を大切なものとし、親への注目を大きな眼目とするのは日本、とすれば、西洋の、というか、いまごろのアメリカ的なやり方は、あくまでも新郎新婦の二人の行事だ。親の存在は極端なほど目立たないところに置かれ、スピーチの一つ、ダンスフロアでの短い時間の拍手喝采ぐらい以外、参加者の注目は、いつでも美しいカップルに注がれる。視覚的にも、若もの中心の、揃いの服装を身に纏ったグループごとの動きは、東洋風の家族に見守られる子供というイメージとの距離を極端に現している。

20150926週末に式をあげたカップルは、それぞれ中国系とカンボジア系の二つの家族からの出身である。そのため、数週間前には、カンボジアの伝統に則る式がすでに行われ、それに続いて、金曜には中国風の式が設けられ、そのうえ土曜には西洋風の式が行われた。違う伝統の共存をもって、その間の融和が図られたという、とても美しい構図がユニークな形で姿を見せている。

2015年9月19日土曜日

学生ブログ

新学期がはじまったって十日ぐらいも経ち、週末をもってクラス登録が締め切られ、学生の顔ぶれも最終決定となった。今学期の担当はふたクラス。講義の内容は基本的には前の内容を繰り返すのだが、それでも二つのクラスとも前回と較べて学生数はちょうど倍となり、この事実だけでもかなりの緊張感が持たされるものである。

20150919四年生を対象にした日本語のクラスは、作文を課題とし、今年も同じくブログに投稿するというスタイルを取る。同じブログは、六年前から開設され、それから毎年のようにその年の学生を迎え、今年は六回目に入る。数えてみれば、今年も含めて、これまでの書き手はあわせて49名。初回の授業でそれぞれにテーマを決めてもらい、週一回の文章を書かせて作文のマラソンを強いるという構成になる。それにしても、課題の文章を続けさせると、その人の個性が手に取るように伝わってくる。今年も確定となったテーマを見れば、勉強、旅行、生活習慣といったきわめて個人的な経験はもとより、スポーツ、動物や環境問題などを取り上げるものでも、その人の思いを託すものであり、普段の付き合いではとても簡単に分からない若者の世界を垣間見るものである。それから、今時の大学生は、メディアの発達に伴い、不特定多数の読者に読まれるという自己表現にはまったく抵抗はなく、発表にあたっての心構えはしっかりと出来あがっている。作文即発表という流れも、りっぱにこなし、スムーズに本作業に入った。

新学期二週目にして、とりわけ記しておきたいのは、日本からの大学生たちとの交流である。はるばる高知大学から教育現場を体験しようと訪ねてきて、クラスの生徒数よりも多くの来訪の学生たちは一斉に教室に入ってくれた。おかげでクラスは個人授業に早変わり。作文という個性の表現を内容とする語学学習には、最高の経験をもたらしてくれた。

日本語作文ボード

2015年9月12日土曜日

ビジュアル検索

あの「エンブレム」の話題は、いまだに消えないで、さまざまな形でコダマをしている。テレビ番組などでは、まさにビジュアル的なアプローチを織り交ぜてこれを取り扱い、その中の一つは、グーグルの画像検索の方法を実際にパソコンの画面上で操作しながら説明をした。言葉を使って画像を検索することは繰り返しやってはいるが、思えば画像をそのまま使うことは、いまだ一度もしていない。思わず自分でも試してみた。

20150912手始めに、先週自分の手入れを試みた長谷雄の画像を使ってみた。画像アップロードのためにすこし時間がかかり、文字を用いるのと較べてもやもやした瞬間があったが、それさえ気にしなければ、検索結果が画面いっぱいに出てきたことには、まずはほっとした。さすがにどんな形でも楽しめられる長谷雄の画面だけあって、ヒットした内容は数多い。アップルの無料アプリから地方での小さなレクシャーの記録まで、中には、とある中国のサイトは絵巻の内容を中国語に直して丁寧に紹介したものまであった。しかしながら、よくよく眺めてみれば、先週グーグルのブログで取り上げた画像は、当然まっさきに現われてくるだとうと構えたのに、期待はずれだった。自分だけのユニークな画像を使ってさらにこの結果を確かめてみようと、つづいて三月のエントリーに用いた氷のネットの画像を入れた。今度は似てはいるが関係ない画像ばかりヒットし、エントリーの写真は見られない。ならば、二月のエントリーに使ったグーグルブックのカバーを入れた。画像のサイズは大きく、書籍のタイトルに大きな文字まで付いていて、しかもグーグルプレーからタイトルですぐたどり着けられる内容なのに、なんと見事にヒットせず、参考として出てきた文字情報も画像情報も、ともにまったく参考にならないものだった。

画像そのものを検索の手がかりに使おうとしなかったことは、あるいは自分の中でどこかこれを信用しなかったことに理由があるからかもしれない。そして以上のささやかな実験はこの思いを確かなものにした。ただし、グーグルがいつもそうやってきたように、このような検索の機能は、いつの間にかまったく違う方法や対象を導入して、全然異なる結果になるのだろう。しかも、これまでの経験からすれば、たとえそうなったとしても、まともにアナウンスされることなく、ユーザーとしてはただ期待しつつ絶えず試してみるほかそれを知る方法はない。

2015年9月5日土曜日

動く絵

すでに気づいた人が多いだろうが、インターネットで公開されている写真の中には、いつの間にか動くものが驚くぐらいのスピードで増えている。新製品の説明から、他愛のない笑いにいたるまで幅広く作成され、関心のある内容だと、ついつい見つめてしまい、文字解説以上の説得力に注意を奪われてしまう。

絵が動くと言っても、複数の写真を順番に見せるという意味で動画と原理がまったく同じだ。音声を対象としないという単純な前提に立ち、情報のチャンネルを一つ閉じることにより、動画との差を作り出す結果ともなった。動く絵の作りかたはいたって簡単だ。とにもかくにも複数の写真を用意すれば条件が十分に整う。しばらく前までは、これ専用のソフトがあれこれと開発されて使い較べれなければならなかったが、いまやほとんどオンラインの方法で用を満たすことができる。しかもすでに存在している動画にさえ対応していて、ビデオ撮影した動画を取り入れたらそのまま動く絵と変換されてしまう。出来上がったファイルのフォーマットはいわゆるGIF、その手軽さゆえに一つのスタンダードとなった。

20150905遊び半分に絵巻から一画面を取り出してみた。「長谷雄草紙」から双六対決という、眼目となるあの場面だ。適宜にパーツを切り出してずれた位置に貼り付け、そうやって出来た複数の絵をまとめれば結果達成であり、ほんの数分間だけの作業だ。用いたサイトの名前は、「gifmaker.me」。古典の絵に、勝手な動きが加えられたら鑑賞の邪魔になるという批判は、大いにありうるだろう。ただ逆に言えば、見せたいところがよりはっきりとなったとなれば、表現としてこれ以上明快な方法はないとも言えるのではなかろうか。

メモ:「絵巻詞書集」には、「枕草子絵詞」、「長谷雄草紙」、「絵師草紙」など五タイトルを付け加えた。

2015年8月29日土曜日

ライオンの武器

観光旅行に出かけたわけではないが、劇場に入ってブロードウェイの歌舞劇「ライオンキング」を見てきた。その昔、映画館で見たアニメ映画だったり、車の中で繰り返し聞いた音楽だったりしたものだが、こんどは、正真正銘、本物本家のものを舞台で目のあたりにした。それなりの期待と、懐かしみをもって楽しい時間を過ごした。

20150829舞台劇のいちばんの売りは、人間をほとんど見せないまま、さまざまな動物の姿を舞台に押し出すというものものだった。ストーリらしいストーリがなく、教訓ものといってもまったく他愛のないものだった。そのわりには、大きな舞台がいっぱい、いや舞台から溢れて何回も観客席に踊り子が入ってしまうような、さまざまな動物たちの姿だった。さまざまな造形に奇を競い、見る人の目を楽しませた。とりわけそっけない布の切れをもって河を表現したり、影芝居そっくりの演出だったりなど、ずいぶんと東洋的な舞台要素を取り入れたものだと、感心したものだった。そしてなによりも不思議に思ったのは、ライオン同士の格闘などハイライトになると、なぜか正義のライオンの両手に中国の武術風の刀を握らせたものだった。まったく滑稽なぐらいだった。古風の武器といえば、これしかないないのかと、その想像力の限界を覗いた思いだった。

上演の場所は、オペラや音楽会なら最適の、この町での最大の劇場だった。そして観客たちの多くも、まるでフォーマルなパーティに出るかのように賑やかな正装で身を纏ってのお祭り気分だ。しかも空いている席がまったく見えない、言葉通りの超満員だった。一ヶ月近くも続くという日程にあわせて考えて、驚く集客力と言わざるをえない。この町にはこのような文化行事があまりにも少ないということの裏返しだろうか。

Broadway Across Canada

2015年8月22日土曜日

絵巻詞書集

貴重な文字文献としての絵巻の詞書を纏めて電子テキストにし、いろいろな使い方に備えるということは必要だと、前からずっと気になっていた。単純なものだが、なかなか現われてこない。ならば、個人の読書メモも兼ねて作ってみようと思い立ち、夏休みも終わり近づいているここ数日、実行に移った。さっそく最初の形が出来たので、ここに記しておく。

いまのところ、対象に取り上げたのは、とりあえず10作品。短いものは、「結城合戦絵詞」で70行程度、対して「石山寺縁起」はあわせて900行も超えた。詞書の原文を提示することが目的なので、句読点やカギ括弧など一切排除して、適宜に濁音点を付け加える以外、原文をそのままテキスト化することに徹した。やや例外なのは「吉備大臣入唐絵巻」と「伴大納言絵詞」の二作品だけで、ほとんど仮名のみなので、読み下しを付け加えた。電子リソースを提供することがそもそもの出発点なので、絵巻そのものがオンラインで公開されているものについて、リンクを貼り付けた。公開されたものの形も画像の画質もさまざまだが、それにしてもこれだけすでに公開利用が可能になっていることは、現状点検という意味においても、有意義なものだった。加えて、絵巻の摸写もリンクの対象とした。いまだ正面きっての模本研究が少ないが、いずれはしかるべき注目を集めることだろう。そういう立場からすれば、特定の絵巻についての論考もオンラインで多く読めるようになったら、そういう情報のリンクも必要になってくるだろう。

20150822今度は、ページのデザインにさほど時間を使わず、単純に印刷物をイメージする白黒にした。しかしながら、縦書だけは出来ないと話にならないので、辛抱つよく対処方法を探った。さいわい「htvR.js」という名の、とてもよくデザインしたテンプレートにたどり着くことが出来た。これを用いた縦書き表示は、テキストをそのままコピペして利用することも可能だし、スマホやタブレットでの表示にも対応している。クレジットをはっきり付けて、使わせてもらった。

絵巻詞書集

2015年8月15日土曜日

淳祐の夢

「石山寺縁起」を読みなおしている。いつもは絵のほうにさきに眼が行ってしまうが、今度は逸る眼を制御して、詞書のほうをゆっくり読み進めることにした。新たに気づかされることはたくさんあった。

たとえば、夢の描写で繰り返して引用しているあの普賢院の内供淳祐の話(巻二第一段)だ。口頭発表などでこれを紹介した時、つい略約して、霊夢のおかげでそれまでの醜い顔つきからりっぱな美僧侶になったと簡単に捉えることにした。しかしながら、詞書の記述を読めば、霊験に救われたのは「面顔醜陋」に加えて、「天性愚鈍」という人間の内部まで対象となった。そしてその夢の中の様子がつぎのように描かれる。「老僧二人きたりて、左右の手をとりて、面貌端正にして智恵虚空にひとしといひて、上下すること両三度なり。」「醜陋」、「愚鈍」にはそれぞれ反対の状態である「端正」、「虚空」が用意されていた。一方では、夢の中の様子はけっして静止されたものではなく、主人公の淳祐は、正体も知らない老僧に両手を捉われるまま上下に翻弄されたのだった。絵に描かれた、淳祐を中心とした三人のきわめて不安定な構図は、このような記述に照らし合わせて、はじめてのそこに隠された激しい動きに気づくようになった。

20150815それにしても、詞書に二回にわたって出てきた「夢」という文字は、とても簡単に読めない。筆画数も筆の動きも草書体のそれと大して違うものではないが、筆画の長短配置が違うだけでこうも違うものに見えてしまうものだと、あらためて知らされる思いだった。

2015年8月8日土曜日

吉備大臣絵

「吉備大臣入唐絵巻」を読みなおしている。研究書などはさておくとして、それよりも原典のデジタル公開はどこまで進んでいるかと思い、キーボードを叩いてみた。所蔵は、アメリカのボストン美術館。キーワードを入れたらほとんど即時に絵巻全巻のきれいな画像がスクリーンに踊り出てきた。タイトル表記には、アメリカの美術館ながら日本語もはっきりと施されている。

いまさら繰り返すこともないが、単純に画像の読みやすさで言えば、デジタル画像は、出版物よりはるか上質なのだ。一方では、ボストン美術館の場合、いわゆる悪用防止のための対策なのだろうか、画像の提示は限られたスペースで行われ、画面を移動しながら細部を覗くというやや古めかしい方法を用いている。興味深いのは、画像に添えられた文字情報の内容だ。あくまでも簡単な基本情報だが、そこでなにを基本情報と捉えるかが美術館の真骨頂だ。ボストン美術館の場合、それは特定の作品の入手経路関連のものだ。この絵巻については、近世以後の伝来、とりわけ美術館に入った経緯やコレクションの所属などが、限られた文字スペースの中で細かく記述されている。作品の中身は専門の研究書に任せ、美術館の責任所在を明らかにするという立場は、かえって新鮮だ。そして、それよりも大きな文字にて使用方20150808法のボタンが配置されている。クリックすると、料金詳細こそ明記されていないが、使用するための申請方法が分かりやすく提示されている。

画像のアドレスを見れば、四巻構成の絵巻は四つのタイトルとして取り扱われ、それが通し番号になっている。隣の作品はなんなのかなと、好奇心半分に数字を入れたら、飛び出してきたのは、あの「平治物語絵巻」の炎上の画面と、「パニックしないで」との文字だった。いささか面食らった。続きの説明を読めば、「お探しのものは存在しないか、移動されている。キーワードを入れなおしなさい」とのことで、ガッテンした。なるほどただの文字での説明よりは凝っていて、美術館一流の洒落が託されている。

Minister Kibi's Adventures in China

2015年8月1日土曜日

自動変換

いわゆるくずし字の自動変換は、8年ほど前一度ちょっとした話題になった。あのころの主役は、グーグル。ただどうやら理想論に止まり、あれから以来特別になんらかの進展が報告されることはなかった。やはり商業ベースに取り掛かるほどのことはないのかと、すこぶる残念だった。そんな中、京都滞在の間には、同じ目標を目指して、新たなシステムが開発されたとのことが伝わり、周りではかなり議論された。

20150801「くずし字自動変換」システム開発成功として、NHKがゴールデンタイムで報道した。使われたサンプルの文献は、木版印刷のもの、デジタル化されたものを取り入れて、やく8割程度まで自動的に現代の文字に置き換えてくれて、実用性があるとしている。OCR技術がこれだけ成熟した今ごろの技術をもっていても、2割も認識不可を持ち続けることは、考えてみれば、ちょっぴり意外だと言えないこともない。あるいは「くずし字」という捉え方が広すぎて、真剣に時代やジャンルを限定して取りかかれば、もうすこし道筋が明らかになるのかもしれない。なお、ここに「変換」「判読」という控えめな言葉選びが深い意味を持っていると思われる。書かれた文字が現代のそれに置き換えられたからと言って、それによって記された内容まで明らかになることを意味せず、解読されるにほど遠い。よっぽどの予備知識がなければ、平仮名続きの文章に対面して、かなり頭を抱えるものだろう。そういう意味では、同じ報道に接して交わされたコメントなどは、一様に脳天気なものだった。

しかしながら、ここまで取り上げたNHKの番組だが、いくら見なおしても、肝心の開発会社の名前は、どこにも出ていない。責任者の顔と個人名があるのに、その所属はあくまでも「システムを開発した会社」となっている。さらに検索などを続けて、ようやくオンラインで公開されている東京テレビ番組録画に辿りつき、字幕で非常に小さく「凸版印刷」との名前があった。主語を持たない日本語云々の議論は繰り返されて久しい。それを地で行くような、ここまで人為的に操作された報道番組を見て、やはり不思議だと感ぜずにはいられない。

「くずし字」を最新技術で自動解読
くずし字を判読

2015年7月26日日曜日

デジタル研究

短い京都滞在のうち、土曜日はメイン行事が行われる一日だった。デジタルを共通のキーワードとする国際シンポジウムに参加し、自分も短く発表の時間をいただいた。新しいプロジェクトに向け、わずかにスタート地点に立ったばかりで、簡単な構想を述べるに止まった。だが、それよりも新鮮なテーマを扱う多数の発表を聞き、とても有意義で、大いに見識を広めることができた。

とりわけ人文学に関連して、デジタルについての研究、特定の目的にあわせた技術の開発と環境の構築には、いまだ多く語るべきものがある。一方では、そのようなデジタル技術や、すでに構築された新たなリソースを応用しての研究は、いまや確実に増え、成果をあげている。中でも、資料や活動のデジタル化、アーカイブの構築、データーベースの作成といった在来のテーマに加えて、内容が限定された特定の研究が、デジタル環境を応用してしっかりと形を成したような成果はすこしずつ現われ、今度の会議でもいくつか報告された。それぞれユニークで、目的もアプローチも明確でいて、デジタル資料の性格を有効に利用して新たなオリジナル知見が得られている。デジタル環境がなければ成し遂げられない、あるいはそもそも課題自体が生まれてこないという実例に接して、ときどき感動さえ覚えた。

発表者など若い研究者と会話して、デジタル研究は、すこしずつ世に認められるようになり、かつ明らかに求められていると実感できたと、教えてもらった。まさに時代が変わったものだ。一方では、当然ながらまだ十分には至っていない。研究活動という狭い意味で考えていても、発表から評価までのルール作り、あるいは規範の明確化の必要性が繰り返し触れられた。在来の、雑誌に印刷して発表するというあり方は、一つの参照となるだろう。あえて言えば、デジタル成果への捉え方は、技術や環境が絶えず進化し、変化するなか、未熟で未完成なものも遠慮なく公に公表することが一つの文化となっている。それ自体にはやむをえないところもあるだろうけど、意図的に完成型を意識的に作りあげ、責任をもって世に送り出すことは、ますます重要視されるようになってくることだろうと、せつに願いたい。

2015年7月19日日曜日

絵と遊ぶ

小さなプロジェクトに取り掛かっている。来週は、京都のど真ん中にあるすてきな博物館で「デジタル・ミュージアム展」が予定されていて、このプロジェクトも研究展示の一つとして登場し、予告リストの最後の最後に顔を出している。ほんのおまけのようなものだが、それでもどのような関心が寄せられ、如何なるコメントが残されるのか、興味津々だ。

今度の狙いの一つは、絵巻の絵の中に入り込み、その構成の部分々々を分解して眺めることだ。詞書に触れられたものだけ取り出すという作業を通じて、古典言葉のデジタル図解を構築しようとする。絵の中に分け入って探索することは、まじめなアプローチであると同時に、絵を自在に操(切り取)ろうとすることを意味する。その間のチャレンジはじつに数多い。その筆頭にあげられるのは、やはり著作権という言葉で捉えられるものだ。百年単位で数える古典作品であれば、使用の権利からの束縛は少ないはずだが、じっさいはとてもそうはならず、なかなか厳しいものがある。絵を公開するのは所有者本人のみ、公開されたものについては、追加(あるいは分解)的な処置を取らせない、というのは一通り現在の常識だ。このような立場は、公開された画像を安全に管理し、絵画内容が悪用されては困る、という考えから来たものだろう。そのために、自由な使用についての許可を取得することは非常に難しく、そういう制限から作業に取り掛かる勇気が出てこないまま逡巡してしまうのが、いまの現状だ。活発で多様な利用を通して古典がより現代人の生活に入り、いっそう生命力を発揮するものだと言いたい。それがつぎの発展段階の現象になるのだろう。

20150718このような見立てを面白いように伝えているには、研究とは無縁の、あくまでも「遊ぶ」ということだが、最近いささか話題になっているユニークなサイトがある。「鳥獣戯画制作キット」と名乗るもので、いたって単純で、さまざまな意味でヒントを与える。先月まで東京国立博物館で大々的に展示され、大いなる関心を集めたあの古典画像は、ここまで極端な使い方をされているものだ。サンプルとして提示されているものも、センスが良くて微笑ましい。はたしてどこまで正規の許可が得られているのか、公開されている情報からはよく分からない。このような、遊び心いっぱいのものまで、デジタル画像の公式サイトになにげなく顔を覗かせるようなことを、心待ちしたい。

ARC Week 2015

2015年7月11日土曜日

リソースリスト更新

周りは夏休みまっただ中。その中で、大学では使用しているオフィスの中のものをすべて一時移し出すというかつてない作業をさせられ、かなりの労力と時間を費やした。それも一段落したところ、ずっと気にかかっていたデジタル・リソースの更新を集中的に取り掛かった。公開されている作品名まで添えて、さらにすこし違う読まれ方ができるのではないかと期待している。

あらためて見てみれば、このリストを作ったのは、すでに六年も前だった。デジタルリソースそのものは、まさに生きもののように世の中で増殖している。対象を絵巻や奈良絵本に限定して見ても、新しく増えたり、読者に惜しまれながら消え去っていったりするものは、じつに多くあった。それらの一つひとつには、どれだけの関係者の努力や、外部には知られていない苦労や葛藤があったのか、想像に難くない。あくまでも利用者の立場からの観察からすれば、苦言あるいは提言について、つぎの二点どうしても記しておきたい。一つは、リソースのリンクアドレスレベルの調整はあまりにも多いことだ。おそらくサーバーの更新や整備などに伴う結果だろうが、ひいては々図書館の中での互いのリンクがすでにつながらないようなケースも複数見られた。このリソースリストの作業としては、一旦作られたものはきっとどこかにあるものだと狙いを付けて取り掛かり、キーワードを用いて機関内ではなくインターネット全体を対象にしてサーチする方法でなんとか対応できた。もう一つは、いくつかの機関において、文庫など特殊蔵書ごとにデジタル化し、公開を行っている。おそらく予算の取り方など機関内部の理由があるだろうが、外部一般に公開する場合、きわめて伝えづらい。

六年以上も年月が経ったが、新しく増えたリ機関数はけっして多くない。一方では、一番大きな変化と言えば、デジタル化された絵巻や奈良絵本は、公開機関のカタログに溶け込み、その一部になったことだ。そのような資料は、けっきょく図書検索の要領で対応するほかはない。そのため、リソースリストの内容としては例示に留まることしか出来ず、致し方がない。だが、絵巻などを対象にこれをデジタル資料にして公開するということは、多くの機関において、資料利用方法の模索と、蔵書内容の宣伝という側面を最初からもっていた。そこから考えれば、デジタル化する方法を確立し、絵を持たない古写本まで対象を広め、さらにそれを全体の蔵書の中に戻すということは、まさにデジタル環境の進化を端的に物語っていると言えよう。

2015年7月10日金曜日

デジタル・リソース(増訂版)

--絵巻、奈良絵本を中心に-- 大学付属図書館
東北大学 デジタルコレクション
✤赤穗記彩色繪;赤穗義士繪卷;石清水放生會繪卷;梅津長者物語;繪師草紙;大江山繪卷;高野大師行状圖畫;勝畫;菊池軍記繪卷;公方樣御成行列之圖;雲井の秋;後三年合戰繪詞;三十二番職人哥合繪卷;職人盡歌合;新撰三十六歌仙;相撲繪卷模本;鷹野繪;檀林皇后廿七歳命終九想之圖;追儺圖;納經行列繪卷;子日遊圖;年中行事;放屁之卷;百鬼夜行;福富草紙;身延山主日楹登;上行列繪卷;御行幸の次第;蒙古襲來繪詞;融通念佛縁起繪;融通念佛縁起繪卷筆者畫工考;驪黄物色圖;往生要集繪;儉水堂器用之策;職人盡歌合 
東京大学 総合図書館所蔵古典籍
✤電子版「百鬼夜行図」絵巻
東京大学史料編纂所 
玉ものまへ
慶応義塾大学 奈良絵本コレクション
あゐそめ川;あみだの本地;雨わかみこ;安珍清姫絵巻;伊勢物語;伊勢物語小絵巻断簡;磯崎;いそさき;伊吹;うらしま;浦島太郎;絵源氏;扇合物かたり;扇の草紙;をときり;小倉山百人一首;かけきよ;かさしのひめ;花鳥風月;くはんをん本地;きわう;ぎょうしゅん;熊野權現縁起;源氏物語・存葵;源氏物語抄出;小敦盛;こふしみ;四十二乃物諍;しゆてんとうし;しゅ天童子;酒呑童子;清少納言枕草子詞;是害坊絵巻;たからくらへ;竹取物語;玉たすき;俵藤太;土くも;常盤の嫗;ときはのうは;ともなが;鳥歌合画巻;七草ひめ;はしひめ;八幡本地・蓬莱物語断簡;はもちの中将;彦火々出見尊草子;ひしやもん;ふせやの物語;文正草子;ふんせう;辨慶物語;判官都ばなし;虫物語;物くさ太郎;もんしゆ姫;やひやうゑねすみ;夕雲雀;ゆみつき;六代;六波羅地蔵物語;わかくさ
早稲田大学 古典籍総合データベース
✤(絵巻にて検索)後三年合戦絵巻物詞書;花咲爺絵巻粉本;長崎阿蘭陀屋敷絵巻;源氏流瓶花規範絵巻;げんじ今様絵巻あふひ;今様源氏絵巻 : はつのごげんおしききぬぎぬ;絵巻物五十四帖 : 葵;げんじ今様絵巻わかむらさき;今様源氏絵巻 : 忍び頼阿古木の宇良;源氏物語絵巻断簡 : 須磨;三十六歌仙絵巻;職人尽絵巻;紫式部日記絵巻;十二神将絵巻物詞書;地獄絵巻;日光山東照宮大祭行装絵巻;職人尽絵巻物. 乾,坤;明和二年宇和島藩狩猟絵巻;屁合戦絵巻;源氏五十四帖絵巻;風俗絵巻;敦盛絵巻;寳生勧進能絵巻;合戦絵巻;江戸時代風俗絵巻;平安貴族風俗絵巻;仏鬼軍絵巻;時代不同歌合絵巻 : 模本;卜養狂歌絵巻;尾張家外山御庭絵巻物;後三年絵巻;前九年合戦絵巻;関ヶ原合戦絵巻;桜田事変絵巻 : 水戸浪士奮闘之図;求賢絵巻物之訳;十二ヶ月風俗絵巻;舟山島画巻;室町物語;三十六歌仙;随身騎馬人物図;道成寺之絵;十二類絵詞;長崎港南京貿易絵図;年中行事絵抜書
筑波大学 電子化資料・貴重書コレクション(→奈良絵本)
✤住吉物語絵巻;文正草子;一尼公さうし;浦風;住吉物語;しやかの本地
立教大学 竹取物語絵巻、竹取物語貼交屏風
國學院大學 貴重書・コレクション画像データ
✤伊勢物語;磯崎;咸陽宮絵巻;木曽物語絵巻;恋塚物語屏風;呉越絵;酒呑童子絵巻;大江山酒呑童子絵貼交屏風;大織冠;竹取物語絵巻;張良絵巻;平治物語 常盤之巻;堀川夜討絵巻;ものくさ太郎;住吉物語;田村の草子;ひいな靏;百鬼夜行絵巻;舟のゐとく;平家公達草子絵巻;義経奥州落絵詞;羅生門絵巻 
東洋大学 貴重書デジタルコレクション
✤をこぜ;松姫物語;化物婚礼
駒沢大学 電子貴重書庫
✤熊野の本地;是害房絵
白百合女子大学 貴重書画像コレクション
✤いづみがじやう;いさよひ;釈迦の本地;うばかわ;小おとこ;七草;さされ石;うらしま;大江山子易物語絵巻;伊吹山酒顛童子絵巻;福富草子;浦島太郎詞書;四十二物あらそ似 
明星大学 奈良絵本絵巻の世界
✤絵本平家物語;絵巻北野通夜物語;絵巻十番切;絵巻文正草子;絵本新曲;絵本徒然草;地誌一目玉鉾 
都留文科大学 デジタル化資料
✤冨士の人穴;冨士の人穴の由来;福富絵巻 
岐阜大学 奈良絵本
✤小しきふ 
京都大学 貴重資料デジタルアーカイブ(→彩りの挿絵、吉田南総合図書館所蔵)
✤伊勢物語;宇津保物語;烏帽子折草子;雁の草子;妓王;國女歌舞伎絵詞;車僧ノ巻物;西行物語;しほやきぶんしやう;四十二の物あらそひ;玉藻の前;付喪神;弁慶物語;病草子;寛永行幸絵巻;年中行事絵巻;五節渕酔之屏風絵;祇王物語;菅丞相;七くさ 
龍谷大学 貴重書画像データベース
✤三十六歌仙絵巻;異なものじゃ物語絵巻;狂歌絵巻;源氏物語絵巻;一休骸骨絵巻;大織冠;竹取物語;竹取物語;長恨歌;大和物語 
佛教大学 デジタルコレクション
✤いはや;大江山奇譚;十二月あそひ;法然上人形状絵図;羅生門 
立命館大学アートリサーチセンター 「酒呑童子」研究所
✤ビゲロー本「酒呑童子」絵巻;古法眼本系「酒伝童子絵巻」三巻 
大阪大谷大学 電子版貴重図書コレクション
✤長恨歌絵巻;俵藤太絵巻;酒天童子絵巻;大原御幸;志都香;ぶんしゃう;大職冠;鶴の草子;鉢かつき;夜うちそか;夜討曾我;百合若大臣絵巻;伏見常盤;満仲殿雙紙;十番きり;秋月;張良;いわや;七夕の草紙;布袋の栄花;住吉相生物語;さざれ石;玉藻前草子;源氏和歌絵巻;福富草紙絵巻;三十六歌仙絵巻;名所十二景絵巻;中将姫;七くさ;大はしの中将 
奈良女子大学 奈良地域関連資料画像データベース
✤転害会図絵(手向山八幡所蔵電子画像);多武峰縁起絵巻ほか(多武峰談山神社所蔵電子画像集);袋中上人絵詞伝(山城郷土資料館寄託電子画像);海住山寺縁起(海住山寺所蔵電子画像);橋柱寺縁起(大智寺所蔵電子画像);蟹満寺縁起絵巻(川崎大師平間寺所蔵電子画像);日張山縁起絵巻(青蓮寺所蔵電子画像集);当麻練供養図(誕生寺所蔵電子画像);春日権現験記絵模本(奈良女子大学所蔵関連電子画像集) 
奈良教育大学 奈良絵本
✤熊野の本地;烏帽子折;しぐれ 
広島大学 奈良絵本室町時代物語
✤伊勢物語;すヽめの夕かほ;硯わり;住吉物語;たはら藤太;中将姫;つるのしうけん;はちかつき;花世姫;ふんせう;やしまのさうし;横笛草紙;よしのふ;頼豪阿闍梨絵巻 
愛媛大学 電子図書館
✤多田満中 
九州大学 貴重資料
✤(絵巻にて検索)竹取物語絵巻;うつほ物語絵巻;絵巻物語今様姿;しゆてんとうし;奈良絵本では、;文正草子;文正物語;程嬰杵臼豫譲繪詞;竹とり物語;たまも;たまも下;曽我物語;ふんせう;たなばた;いせ物がたり;中将姫
図書館、美術館

国立博物館 e国宝e国宝
✤(絵巻にて検索、38点)
東京国立博物館 カラーフィルム検索
✤(絵巻にて検索、227点) 
国立国会図書館 デジタルコレクション
✤(絵巻にて検索、241点)/絵入り本の様ざま
国立公文書館 デジタルアーカイブ
✤桜町殿行幸図;琉球中山王両使者登城行列 
サントリー美術館 コレクションデータベース(絵画→絵巻)
✤四条河原風俗図巻;鼠草子絵巻;善教房絵巻;和歌の橘図巻;扇の絵尽し絵巻;天稚彦物語絵巻;酒伝童子絵巻;吉原風俗図巻;伏見常盤絵巻;雀の小藤太絵巻;小敦盛絵巻;浄瑠璃絵巻;放屁合戦絵巻;西行物語絵巻;熊野本地絵巻;道成寺縁起絵巻;おようのあま絵巻;西行物語絵巻;隅田川名所図巻;住吉物語絵巻;藤袋草子;三十二番職人歌合絵巻;十二ヶ月景物絵巻;新蔵人絵巻;玉藻前草子絵巻 
日本芸術文化振興会 文化デジタルライブラリー
✤国立能楽堂が所蔵する能楽資料の内、文献・絵画の画像データ約2,000点 
京都府立京都学・歴彩館 京の記憶アーカイブ(→画像ギャラリー、古典籍・図書)
✤繪卷物長谷雄卿逢羅城門鬼神之圖;土蜘蛛之草紙;百鬼夜行圖 
神戸市立博物館 名品選(→中世の神戸)
✤小敦盛絵巻;源平合戦図屏風一の谷・屋島合戦図;源平合戦図屏風 屋島合戦図;一遍上人絵伝(断簡) 
秋田県立図書館 オープンライブラリー
✤御曹子島渡り;佐竹本三十六歌仙絵巻 
内藤記念くすり博物館 収蔵品デジタルアーカイブ
✤天神縁起;ささやき竹;いさよい;夜打曽我;和田酒盛;敦盛;花鳥風月   
研究機関

国文学研究資料館 新奈良絵本画像データベース
✤唐糸草紙;ささやき竹;しつか;住吉物語;火おけのそうし;文正草紙;法妙童子;狭衣;みなつる;御所まと;文正草子;保元平治物語絵;しつか(屏風);転寝草紙;貼交屏風;大黒舞;小敦盛;小男の草子;大橋の中将 
国際日本文化研究センター 絵巻物データベース
✤地獄草紙絵巻;鳥羽絵巻;長谷雄草紙;寛永行幸図巻;中納言長谷雄卿図巻;百鬼夜行絵巻;化物婚礼絵巻;道成寺縁起;土蜘蛛草紙;酒天童子繪巻;化物尽絵巻;伊吹山酒呑童子絵巻;吉光百鬼ノ図;土佐光起百鬼夜行之図;滑稽百鬼夜行絵巻;田原藤太秀郷;妖怪絵巻;付喪神絵詞;道成寺縁起;武家はんじょう;福富長者物語;風俗画巻物;小町十相図;玉藻前物語絵巻;藤袋の草子;禽獣図巻
参考リンク、関連記事
文化庁 文化遺産オンライン (部分公開の情報を含む)
藤原重雄 リンク集・デジタル奈良絵本
笠羽晴夫 デジタルアーカイブ百景(2006-01~2008-11)
山本和明 「日本古典籍コードの国際標準化」成果報告書(2014年度)
つぎのサイト、アクセスできなくなった
青山学院大学 本学デジタル資料 ✤みぞち物語
中京大学 電子図書館 ✤花鳥風月;大職官;築島;ひめゆり
諏訪市博物館 竹取物語絵巻

(更新:2017-09-09, 2019-08-23

2015年7月4日土曜日

EMOJI

今週のニュースには、興味深い一件があった。やや突飛なことに、GMが絵文字ばかりの公式レポートを発表した。しかしながらたとえ熱心な関係者でもこれを完璧に解読することはできず、しばらく経って同じ会社はこれを普通の文字に書き換えしたものを公開した。言うまでもなくあきらかに計算された行動であり、しかも予想通りにしっかりと話題をさらった。

20150704絵文字は、絵と文字とを繋げる究極的なスポットと言えよう。情報交換のための媒体としての絵と文字の特質を考える上では、両者のうちどれがさきに来るのか、さらに言えば、言葉を記録する文字に対して、絵はそれを再現したに過ぎないと漠然思い込む人が多いのではないだろうか。現実はけっしてそうではない。車開発の分野で考えてみても、カーナビでも車載ビデオでも、かつてなかったニューテックの装備は、どれも言葉や絵をもってすこしずつ形にしていくものであって、特定の言葉がさきに存在していたはずはない。そこに絵文字が視野に入ってきた。文字の規則に従って絵を運用し、分割された独立の絵をもって文字の役目を果たせようとする、といったところだろうか。原理からにして、絵をもって文字として機能させようとすることは、ごく限られた単純な状況を除いて、まずは無理だろう。

日本発の「絵文字」は、いまやりっぱな英語の辞書に登録されるようなっている。その場合、あくまでもローマ字表記に基づくもので、「EMOJI」と記される。困ったことに英語の規則では、「E」が「イ」と発音される。現実のなかでは、あの「絵巻」のことも、「イマキ」と何回聞かされたことか。したがって「絵文字」も、英語になったとはいえ、「イモジ」として語られるものだ。

ChevyGoesEmoji
Emoji Explained

2015年6月27日土曜日

酢に差す

来週からすでに七月に入る。遠く京都では、年一度の祇園祭がいよいよ始まろうとしているころだ。あの湯気が立つほど蒸し暑い天気を想像しつつ、これと関連する画像を求めてみた。祭りの様子なら、洛中洛外図ではかなりの数におよんで描かれている。それに対して、祇園信仰の根本にある牛頭天王を手がかりにすると、「辟邪絵」(「e国宝」デジタル収録)に辿り着いた。

20150627平安時代に制作された絵巻物からの五段が伝わり、その一番に数えられるのは、「天形星」と名付けられるものである。これを眺めて、どれぐらいの情報を読み取れるものか自問自答した。試しに四行足らずの文字記述と、絵に描かれたビジュアル情報との対応に注目してみよう。文字をもって記されていて、しかもそれが絵になっているものには、「天形星」、「牛頭天王」、「その部類/疫鬼」という善霊、悪霊から、「取る」、「(すに)差す」、「(食と)す」というありふれた行動に及ぶ。そのような想像と現実とを絶妙に繋げたのは、ほかならぬ「す(酢)」である。疫病を撒き散らす存在への恐怖と、それの退治をめぐる信仰は、おかげで千年を超えてもいたって身近に感じられた。一方では、絵には神や鬼の服装や装身具、酢を入れる容器、そして口から大きく突き出した牙にみる異様な風貌など、豊かなビジュアル情報が描かれているが、それらを一々言葉に置き換えることは、簡単なことではない。

はたして平安の人々の生活にあった酢とは、どのようなものだったのだろうか。たとえばその色とは、透明だったのだろうか、はたまた醤油みたいな濃いものだろうか。この絵だけではよく分からない。だが、酢といわれるものには、鬼の血が溶けて染まっている。単純な酢の色よりも、絵師がより鮮烈に伝えようとしたことがあるのを見逃してはならない。

辟邪絵

2015年6月20日土曜日

学会ポスター

カナダの大学の行政年度は、7月から始まる。年度末に差し掛かるいまごろの大事な仕事は、年度ごとの活動報告。数年まえから二年一度という形に変わり、その分、対象とする内容が多くなった。その中の基本作業は、研究活動や成果について、日時などの詳細な記録と、それを裏付ける資料の提出だ。あれこれとまとめている間に、日本ならではの資料といえば、いわゆる「学会ポスター」だと気づいた。北米なら公式サイトの記録を引っ張り出したら十分だが、日本では、大きな印刷物と結晶される。そして、個人的に関連するものとなれば、主催者から複数も郵送されてくる。

20150620大きな文字で、大量の情報をすこしでも多く記入しようとするパスターは、まさにささやかな日本的な風景だ。日本の研究機関や大学教授の研究室に入って見れば、そのようなポスターはいつでも所狭しと貼りだされている。試しにインターネットで学会ポスターと入力して検索してみれば、出てきたのは、なぜか制作に関連する情報ばかりだった。使用するフォントやら、デザインのテンプレットやら、そして印刷のコストや対応スピードのアピールなど、裏方立場の気配が圧倒されるほど溢れている。至るところで日常的に作り出され続けていることは、ここでもしっかりと伝わっている。

いつのことやら、とある友人の自宅で、その方が関わったポスターが多数集められて、客間の壁に貼られたのを見て、不思議な新鮮さを覚たものだった。一方では、研究活動の基本情報や発表の場など、とても大事なことが記録内容としていながらも、普段はあくまでも消耗品として取り扱われる。そのため、いざとなれば、数年前のものはなかなか見つからない。デジタルの形で漏れなく集めるデーターベースが、ぜひとも必要だ。個人の力ではとても適わず、研究所とか公的な機関が動いてくれることを、ただただ待ち望んでいる。

2015年6月14日日曜日

唐の美人

日本、中国への四週間近くの旅行から無事戻ってきた。旅の間にアップロードできなかったエントリーをまとめて出して、関連の書類などを整理したりして、一日でも早く普段のリズムを取り戻そうとしている。

中国西安での旅は、招待側の親切な手配により、歴史古跡の観光も数多く叶えられた。西安といえば、中国に留まらず、世界の文明においてもトップに数えられるもので、歴史的な重みは、いたるところで感じ取れるものだった。紀元前の春秋時代や中国を統一させた秦、そして中華文明の頂点を謳う唐と、どれを取り上げてみても超一流のものだった。一方では、観光となればいずれも陵や墓に終始するのではないかと予想していたのだが、実際はまったくそうではなかった。

20150613けっきょく、実際に墓室に入ったのは、一回のみだった。あの武則天の陵の近くに数多く点在する王子や王女、親近の大臣たちの墓はいまは三つほど発掘されて公開され、その中の永泰公主の墓だった。歴史上繰り返し盗掘されたもので、それでも世の中を驚かせる宝ものが出土された。その中の目玉の一つは、墓室の前に設けられたホールの壁に描かれた仕女の絵画だった。ほぼ等身大の美人の群れが生き生きとしていまでも飛び出しそうな姿を見せている。その中心に位置した女性は、一きわ目を惹く。体の曲線は流れるようなS字の形を成し、真っ赤な酒を入れられた夜光杯を両手で持ちあげる。膨よかな頬、優しい瞳、凛とした眉、言葉通りに美しい命を千年の時空を経て伝えてくれている。墓室の外に設けられた博物館には、この絵の複製に添えて長文の詩が捧げられ、「公主長眠宮女在、壁上着意塑粉黛」(葉浅予)と始まり、長眠した王女に伺候する仕女にしっかりとスポットを与えている。

墓室の中に立って絵を見つめていれば、周りにはガイドに連れられての観光客は跡を絶たない。ガイドたちはいずれも朗々と説明を続け、しかも同じ内容についてそれぞれ工夫を施して着眼を変えている。中の一人は、目の前の仕女が唐代第一の美人だという評判を下したという日本人の学者の実名を何気なくあげた。観光地のガイドたちの質の高いことに、西安の観光地全般において少なからずに驚き、感心した。

2015年6月12日金曜日

中国語による講義 (6-6)

若手の研究者に招かれて、西安にある交通大学にやってきた。大学名に交通と名乗ることは、今日の語感からすればどこか落ち着かないが、中国ではここはかなりの歴史をもつ、りっぱな重点大学だ。理学工学が中心のところだが、それでも日本を対象とする学科は今年設立30年の祝賀行事を終えたところで、しっかりした組織と熱気あふれる学生たちの顔ぶれを実際に目にして、すくなからずに感心した。

招かれてとり行う中心的な行事は、学生たちを相手に一時間半ほどの公開講座をするというものだった。夜七時半の時間台を用いたもので、意外とかなりの人数の若者が集まってきてくれた。しかもその構成をみれば、日本のことを勉強する若者の割合はけっして大きくなかったことには、これまた驚きだった。こちらから用意したテーマは、やはり絵巻だった。あまり予備知識を持ち合わせていない若者たちに向かって、中国の、とりわけ古代からの伝統を大切するという意味で近年大いに注目を集めている画巻などを意識的に持ち出したりして、話す内容を身近なものにするように心がけた。一方的なおしゃべりのあと、質疑応答は三十分も続いていて、しかもかなり要を得た鋭い質問が飛び出したりして、大いに手応えを感じた。中国語による公の場における発言は、これで去年の秋に続いて二回目。肝心なキーワードをどこまで聞く人々の共通の理解に入っているのか、はなはだ心もとなく、話すほどに、さらに時間と精力を出して取り掛かるべきものだと感じた。

20150606講座の録画は、いずれは大学の公式サイトにおいて公開する、という枠組みになっている。それへの準備として、主催者は大きなカメラを複数持ち込んだ。ただ、これまでの記録を見れば、どうやら即時にということにはほど遠く、これまでの行事も、その多くは公開が実施されていない。それに講座について用意して提出した紹介文も、微妙に手入れされていて、読み直しの確認は求められていない。はたしてどのような形でインターネットに登場するのか、とても興味深い。

“学而”讲坛——教授系列讲座第334讲

異次元の時空 (5-30)

三週間ほど中国に滞在することになっている。しかもここ数年の似たような旅と違って、今度はちょっぴり遠くへ出かける。今週は、泰山の南にある滕州にやってきた。地元の人々からの大いなるもてなしを受けて、いろいろと見識を広めた。印象に残った場所の一つには、滕州漢画像石館がある。いまなお立て続けに漢の画像石を発見し、まさに現在進行形で漢の画像資料を見つけ出し、発掘した場所で美術館を建てるなど、生きている古代文化の伝承には、さすがにわくわくさせるものがあった。

画像石館で目に入った小さな一点を記しておこう。「水榭垂釣、庖厨」と名付けられた画像の一角には、一釣りで三尾の魚を釣り上げるという幻想的な構図に並んで、魚を調理する様子が描かれている。三つの場面に分かれて、魚を確保したところ、それを籠に収めたところ、そして魚を籠から取り出してまな板に移したところ、まるでアニメに見られる分割された三つの連続した画面のように配置されている。数年前の論文に、絵巻の文法を論じて、その中の一節には「異次元の時空」と述べた。それとはまさに完璧に対応する構図なのだ。いうまでもなく、異次元と呼ぶ理由とは、絵巻の中の物語を伝えると同時に、次元の違う、特定の行動について表現するということにある。その通りだとすれば、ここには物語という次元がないだけに、この称呼は使えないのだろうけど。20150530




漢の画像と鎌倉時代の絵巻、両者の関連性はあまりにも離れている。それにしても、とりわけ中国のことに感心を持つ人なら、やはり親近感を覚えさせるものなのだ。来週の旅先は、西安。絵巻の話をすることになっているので、これをさっそく披露したい。一方では、漢の画像石全般に言えることだが、タイトルはあくまでも現在の研究者が便宜につけたもので、どれも漠然としたものに聞こえてしまう。滕州の美術館でも、館蔵のものについて所蔵品の番号はないのかと訪ねたが、そのような必要性に対しての理解はまったく得られていなかった。いささか残念だと言わざるをえない。

滕州汉画像石馆

馬と骨 (5-23)

またまた東京にやってきた。今度は学会に参加するためのわずか数日の滞在であり、到着した夜にはすでに予定が入り、翌日からは、自分の発表も含める学会本番の連続だった。そこで、時差対策もかねて、朝の集まりが始まるまでにとにかく歩き回った。ホテルから会場までの距離は四キロ弱、コースを変えて歩いて会場に向かい、じっくり東京の街角の風景を眺めながらの散歩は、それ自体贅沢な休暇だった。

20150524そのような中で、「聖徳記念絵画館」という名の建物が目に入った。堂々と絵画と名乗りながらも、これまで自分の知識にはまったく入らなかった。さらに言えば、ここに言う絵画からはあまりにも漠然とした意味合いしか読み取れず、中を覗くまでには、その性格も由来もまったく理解ができなかった。大正時代を代表する日本画の大家たちの作品が一堂に集まるという、なかなかユニークな空間であり、単純に表現の手段や、その効果を考えるにしても、他所では簡単に気づかない要素がいっぱい詰まっている。一方では、実際に豪華なホールを見てまわり、印象に残ったのは、むしろ馬の展示だった。あの伝説な馬のこともさることながら、見る人に視覚的な衝撃を与えたのは、なによりもその素朴で大胆な展示の仕方だった。馬を剥製にすると同時に、同じ馬の骨を取り出して、骨組みを組み立てて剥製と顔合わせに立たせた。ちょっぴり予想が付かず、実物でありながらも、現実の世界ではけっして実際に目撃することができない風景だった。

建物の外は、広々とした憩いの場だった。平日の午前という時間なのに、スポーツに打ち込む多数の集合の姿があった。重厚な歴史沈殿の面影をまるで薄めようとする意思が働いているかのように、一瞬感じ取った

2015年5月16日土曜日

高精細デジタル画像

古典画像は、いまやかなりの数に及んでデジタル公開をされていて、日常的な活動においてはあれこれと目的にあわせて利用している。すこし前までは、これといった公開に気づいたら、苦労してローカルに保存するような作業もしていたのだが、いつの間にかそのような試みがすっかり不要となった。リソースの存在自体の安心感もさることながら、そもそもローカル保存ということではとても対応しきれないものなのだ。

20150516高い画質をもつデジタル画像のことを、ばくぜんと高精細と呼んでいる。はたしてどこまであれば「高精細」と言えるのだろうか。二年前に書いた文章でこれに触れて、「大まかには、奈良絵本横本の一帖の画像がパソコンモニターの四倍かそれ以上」と、かなり印象的な書き方でごまかしていた。ここでいうモニターとは、いうまでもなくそのサイズのことではなくて、解像度のことだ。手元に使っているモニターは、いわゆるフルHDで、画素数は2000×1000(1920×1080)だ。一方では、絵巻の画像は、横に広がり、四方一枚のフレームに閉じ込められないことを特徴とするので、とりあえず縦の画素数が手っ取り早い基準となる。そこで現在公開されている代表的なものを見てみれば、「e国宝」に収められた絵巻は最大で縦約6500画素、国会図書館のデジタル古典籍資料は、画像部分が最大で約5000画素、上記の「四倍」という捉え方は数値的に合致している。ただし、汎用のパソコンのモニターはさほど大きく変わらないが、対して世間では「4Kテレビ」がすっかり馴染みやすい用語となり、8Kも話題になった。4Kだと縦2000(2160)画素、8Kだと縦4000(4320)画素なので、ここでいう精細画像は、わずかに8Kよりはみ出す程度のものなのだ。

デジタル公開の基準はまだまだ流動的で定まらない。現在公開されている上記の代表的な二つの機関の画像も、最大で利用しなければならない状況となると、そう多くはない。言い換えれば、あえてこのような公開の方法を選んだのは、環境の進化を先取りする側面がある。ただ、そう言っている間に、あっという間に環境がそれを追いつき、追い越してしまう。したがってデジタルコンテンツの作成には、環境を先取りしないとかなりの不安が残る、というのも事実だろう。

2015年5月9日土曜日

男女の構図

去年の初冬、東京での国際集会に招かれ、古典の画像のテーマで発表をした。あの時の報告書はようやく出版され、今週届けられた。思えば、同じ集会には七年前にも参加し、かつその時のネットワークはいまだ貴重な形で続いている。報告書の作りもあの時のものとはまったく変わらず、あえて言えば、今度のは決まったテーマがないがため、報告書も「会議録」と名乗るのみに止まったぐらいだ。

20150509実際に取り上げたのは、絵巻に描かれた恋物語りの定番の構図だった。似たような構図はかなりの数にわたって認められ、それらを一つの型として観察するという試みは、大分前の論考で試した。それに対して、今度は典型的な恋愛ものの一篇として「なよ竹物語絵巻」に絞り、対象の場面を具体的に分析した。そこでまっさきに直面した問題は、このような構図をまとめてどういう称呼を与えるか、というものだった。発表のタイトルには、わざとぼやけて「男女の間」とした。当然ながら、恋、密会、ひいては情愛、クライマックス、どれを持ちだしてもそれなりの根拠があり、正直かなり迷った。いうまでもなく、思い切って中世の書物に用いられた言葉である「並び居る」(『十訓抄』)まで取り出すことも出来よう。言い換えれば、ただのキャッチーフレーズのための言葉の遊びではなく、このような言葉の幅に比例するだけの絵の表現の豊穣さがあるものなのだ。

発表の内容は公にするとのことは確かに事前に知らされており、印刷物まで出来上がったのだから、当然電子バージョンも公開されているだろうと思ったが、これは意外にも思い違いだった。調べてみたら、公開するための枠組みがたしかに用意されているが、いまだ中身が入れられていない。どんな作業でも時間が必要だということは、分かっている。しかしながら、研究を最大の主旨とする国家機関は、成果の公開を率先して取り掛かるのではなく、むしろ一番用心深くやっていることは、いささか嘆かわしい。

国文学研究資料館学術情報リポジトリ

2015年5月2日土曜日

トランプの小屋

一年分の講義が終了して二週間経った。片付けるべき仕事などにはかなりの対応が必要だが、日々の活動には明らかに余裕が増えた。その中で、小さな怪我をこじらせ、机の前の時間がさらに多くなった。それもあって、あの評判のドラマを覗いてみた。英語の原題は、トランプ・カードで出来上がる家、そのままの意味なら、とりもなおさず「砂上の楼閣」ということだろうが、正式な邦題には、野望やら階段やらが付いていると聞く。

普段は、テレビドラマを遠慮してきた。時間的なリズムが性にあわないというか、見はじめたら止まらないという事態をなんとなく恐れている、ということかもしれない。さいわい今度の一篇については、そのような状況が起こらなかった。ドラマとしては、かなり上出来だと言えるだろう。さまざまな工夫が施され、ストーリの設定などにも文句はない。それでも四十時間あまりをかけてしまうようなことは、ありえない。やはり連続ならではの重複性、だろうか。とりわけこのドラマの場合、テーマにしているのは、あくまでも陰謀と権術なのだ。それも、トップに上り詰めた権力者が平気に自分の手で殺人を犯したり、国会議員に言葉通りに手錠を掛けたうえで評決に強制参加させたりして、極端な作り話だと分かっていても、目に余るぐらい度を超えたものだった。悪のへの共感あるいは覗き見の欲望をベースにしたものだと想像はできるが、それならばいっそう辟易する気がしてしまった。

ただ、ドラマの生命線であるセリフは、さすがに練られている。晴と褻の対比の具合は絶妙だ。素っ気ない会話が多いからこそ、晴れが際立つ。両者のギャップの距離は、やはり見る人を惹きつける楽しさの一つだと言わなければならない。

2015年4月25日土曜日

「かかあ天下」とは

今週の間、飛び込んできたニュースの一つには、「日本遺産」があった。テレビ画面を見つめて、正直、ちょっぴり分からなかった。名前からして、世界遺産のローカル版、という印象を受けるが、説明を聞いたら、どうやらそれが正解に近く、設立の主旨としてはそれをかなり意図したもののようだ。ただ「文化遺産」を冠した、同じ政府機関が主宰するあのデータベースが身近にあるのだから、在来の文化財との関連でどのように位置づけされているか、すんなりと答えにたどり着くことはできないままだ。

最初に指定を受けたは、数えて18点。「祈りと暮らし」を内容とする琵琶湖、「おもてなし」と持ち上げられた岐阜、「西の都、東アジアとの交流拠点」と認定された太宰府、どれを見ても、納得するには一ひねりを感じずにはいられないものばかりだった。公式発表の場では、とりわけ「かかあ天下」が話題になった。「絹物語」という副題が付いて、なかなか文学的で洒落たものだが、それがあまりにもキャッチなフレーズだからこそ、はたしてなにを伝えたいのか、忖度したくなった。「かかあ天下」とは、20150425あくまでも右のはがきで伝えている内容だろう。それが絹と関係を持たせたとたんに、意味合いが変わったとは、なかなか思わない。しかも、これを伝えるNHKのテレビニュースは、親切にも「働く女性」の意味だと字幕つきで解説した。この流れだと、「亭主関白」も、これまた「働く男性」という意味になるのだろうか。

大きな名前をもつ「日本遺産」は、オリンピックまで100点、ただ認定を受けた先に対しては、「ガイドの育成や外国語のパンフレットの作成などにかかる費用を補助」という措置を取ると報じられている。なぜかどこまでも本気度を感じられないというのは、個人的な理解に問題があるからだろうか。

文化庁 新設の「日本遺産」に18件認定

2015年4月18日土曜日

アウェー・トーク

一学年の講義は水曜日に終了した。これと同時に、若者中心の活動はいっそう活発になった。中では、かなりの伝統をもつ大掛かりなイベントが開催されている。日本風に言えば「漫画フェス」、週末にかけての四日に及ぶ日程で、千人単位の入場者が予想されている。一人の学生に誘われたまま、一席の話をしてきた。そしてまたとない機会とあって、カメラを片手に会場をゆっくり歩きまわり、見物してきた。

イベントの構成は、さまざまな規模のトークショーと、数えきれないほどの出店という二つの内容につきる。前者のほうでは、かなりのファンが付いているアイドルたちが主役となる。かれらの分野は、コミックやアニメの作者、音楽家、俳優や声優から、流行をリードするコスチューム作家など多岐に渡り、その影響力に応じて簡単に数百人がトーク会場をいっぱいにするものだった。一方ではいくつも続いた巨大ホールを占領したのは、無数の売店。並べられている商品は、けっしてやすっぽいシャツやおもちゃには止まらない。りっぱな毛皮、触らせてお金を取る蛇や巨大とかげ、数人が一斉に横になっているタトー入れの現場などを見て、つくづく普段の想像力では適わないと知らされた。20150418そして、イベントの主役は、なんと言ってもコスプレー。奇抜なコスチュームを身に纏ったのは、来場者の二割といったところだろうか。その内容はまさに奇を競うものなのだ。アニメキャラの服装はおよそスターンダード。LEDライトを仕込んだスカート、音声変換のスピーカを隠したバックバッグ、室外の草むらに身を隠す偽装、長い尻尾を引っかかっての曳行などなど、まさに枚挙に暇ない。熱気あふれる人々の中に身を置いて、大昔からの市場の存在やその原理を思い出す。まさに年一度の祭りであり、日常から抜け出す非日常の仮装なのだ。

話の場は、高級ホテルなみの、椅子ばかりいっぱい詰めた綺麗な部屋だった。ただ集まってきた聴講者の一部は、奇抜な身なりやコスチュームのままだ。しかしながら、それでも非常に要領の得た質問も戻ってきた。ちょっぴり学問っぽい話しかできなかったが、それでもまったくの無駄ではなかったような実感を覚えた。

Calgary Expo

2015年4月11日土曜日

メールグループ

いつごろから、どういうきっかけで入ったのかよく覚えていないが、日本の古典をテーマとする研究者のメールグループに参加している。普段はきわめて静かなところだが、昨夜からは一挙に百を超えるメールが舞い込んだ。どうやらいま利用しているグーグルの関連サービス終了が噂され、フェースブックへの移動との提案が上がり、それへの熱心な反応だった。簡単に想像できるように、意見はまさにまちまちなのだ。単純な賛成、反対から、検索機能の利用、グループメールを送った場合の不在返信への不満、フェースブック以外の代替サービス、はたまた日常的にメールグループを運営している者からの提案にいたるまで、ほぼ想像できるタイプの答えが一遍に集った。普段は古典を対象にした研究者の集まりなのに、こうも多彩な人間が集まっているのだと改めて認識させられた。

メールグループをもっぱら利用してきたこういう集まりが、フェースブックに移動できるとは、そもそも考えられない。どちらもインターネットで繋がった情報交流のプラットフォームであり、その違いというのは、突き詰めていえば、あくまでも利用方法の仕方に過ぎない。さらにいえば、研究者の情報交流という目的に絞って考えてみても、メールという形が最適だとはとても思えない。ただ、長くやってきたのだから、この実績はなかなか変えられない。どうしてもプラットフォームの変更を実施してしまえば、結局はこれまで集まってきた人々の大多数が離れ、代わりに新しい人間が参加してくる、ということだろうか。利用者の習慣、それがもつ慣性と言えばそれまでのことだが、けっして軽く見ることができない。いまのインターネットの展開も、そのような慣性への対応を、あまり強調してはいないが、現実的にこなせなければならない。具体的に、目の前の実例にしても、これまでの枠組みに添ったやり方を、大きなサービスなり、個人のサーバーなりを利用することで決着することだろう。いまの技術からすれば、けっして難しいことではなかろう。

ちなみに、このグループで個人的にはしかし発言したことはほとんどない。数名の知人をはじめ、発言者の顔を想像しながら、その熱心な議論を読んできている。これも一つの参加であり、しかも同じ方針を取っているのはきっと少なくないと、想像している。

2015年4月4日土曜日

いまごろ、桜が大いに咲いている。今年の春は、開花が早いだの、皆既月食だの、話題が尽きない。日本語学習者たちに向かって、テレビニュースを見せながら、花の下に座って飲み食いをしなければ「お花見をした」とは言わないのよと説明したら、一様に感心した表情が戻ってきた。そこで一つのささやかなことをここに記しておこう。

20150404日本語を習ったところの学校は、去年の秋に創立五十周年を迎えた。祝賀行事の呼びかけに応えて、同じクラスに通っていたクラスメートたちは、桜を贈ろうと思いついた。話が上がったのは、行事まで一年前のことだった。さっそく行動に移り、当時三十二人のクラスメートのうち、賛同した三十名は、決まった金額を熱心なリーダに送った。そこからの展開は、すごい。苗の購入、土壌の改良、植樹の儀式、はては記念石碑の作成、すべてほんの数ヶ月の間にみごとに実施され、完成されていた。しかも提案からわずか半年の後の去年の春、きちんと花が咲いたものだった。まさに「中国スピード」。地球の裏側からは、ただただ目を瞠る思いで見つめるものだった。

それからさらに一年の時間が流れた。この土曜日、クラスメートの数人は花見で集まっている。遠くから駆けつけることが適わない面々はチャットルームで盛り上がっている。ちなみに花の下で酒を飲み交わすことはさすがになくて、一同はレストランに移動して歓談を繰り広げたとか。国が違うことを思えば、これもいたって自然な変容と言えるだろう。

桜姫と共に

2015年3月29日日曜日

太鼓と言葉

学生たちが主催する楽しい行事が行われた。週末の時間を利用して、和太鼓をステージにあげて、講義を聞くスタイルで鑑賞するというものだった。かつて学生だった若者が短い日本での生活から戻ってきて、しっかりしたグループを立ち上げ、熱心に取り組んだことがありありと分かるような完成度の高いパフォーマンスに、百人近く集まった人々がすっかり満足した。

20150328太鼓実演の合間に、丁寧な説明まで織り交ぜた。その中に、「口唱和」という用語が持ちだされた。しかもそれがどういう言葉で、どうやって表現されたかということを具体的に解説された。いうまでもなく、口唱和という言葉自体、実際に太鼓を稽古する人には非常に身近なもので、一歩そのような集まりから外に出たらほとんど使われないようなものなのだ。そもそも太鼓の叩き方と言葉とは相性が良くない。叩き方には、打ち方の強弱、太鼓の真ん中、周辺、胴体といった叩く部分、それに叩かない休止という限られた種類しかなく、言葉に直してもほんの「ズードーコン」などの数語しかならない。それによって織り出されるリズムは、それこそ音楽に属しても、言葉の領域とは交わらないものだ。

実演のあと、質問応答の時間が設けられ、そこでさっそく飛び出されたのは、レクリエーションだった。どうやら観客の多くは、舞台上の演出というよりも、自分でも参加できる、健康によい娯楽という視線で捉えていた。言ってみれば、ヨガやダンスに同列させるところもあるのだろう。さらにその向こうには、たとえば「ゲーセン」で時々見かける、モニターを見つめながら一人で集中して叩き込む様子が重なる。まさに現代の生活に入り込んだ和太鼓なのだ。ただしそこには巧みに制作された動画があっても、言葉が介在する余地はまったく残されていない。

2015年3月21日土曜日

「震動が過ぎて」

来週、特別講義を頼まれ、東京をテーマに語ることになった。なにかの作品をベースにすれば伝わりやすいかと思い、分かりやすく、タイトルからにして東京を出す短編を取り上げることにした。内容は地震と関わるものであり、上のタイトルは、原作と関係なく英訳された短篇集の題名を日本語に戻した場合のものである。作者はあの阪神大地震と浅からぬ縁を持ち、かつそこから出発してこの短篇集を書き上げたのだった。

関連の写真などを眺めながら、もうちょうど二十年も経ったものだと、あらためて時間の流れを噛み締めた。あの瞬間を実際に経験した友人や知人には、数えきれないほど会ってきた。一方では、あのころはすでに遠く地球の裏側で生活を始め、恐ろしくて生々しい記録などは、衛星を通して入ってきたテレビ番組や、繋げたばかりの、テキスト一杯のインターネットを頼りに集めていた。やっとのことでたどり着いた情報をすこしでも周りの人々に分け合うようにすべてプリントアウトをし、それで時間を忘れてしまい、車に残した子供二人がすっかり騒ぎ出したことだけは、なぜか昨日の出来事のようなものだった。地震を話題にすれば、個人的にもあれこれとずいぶんとインパクトある経験を持っている。ただし若い学生たちを前にすれば、恐怖ばかりを煽るのではなく、地形変動の激しい土地だからこそ、温泉など人間の日常にはためになる豊かな資源にも恵まれることへの言及を忘れないようにしておこう。

20150321そのような日本に較べて、いまはたしかに地震のない土地で日々を送っている。地震の心配はたしかにないが、その分、四季も不正常なままだ。目下のところ、すでに夏時間に変わったにもかかわらず、ここ数日はまた雪やみぞれの連続だ。ただそれでも自然の造形は美しい。さきごろカメラを取り出して外に出かけたら、濃い霧の向こうに、くっきりと浮かびあがった氷のネットを捉えた。

2015年3月14日土曜日

寂光院再訪

留学生として日本に渡ったころ、研究のテーマを「平家物語」とするという計画をはっきりと抱えて京都に住み始めた。それを知った忘年の友人は、京都到着から数日も経たないうちにはるばる訪ねてきて、観光と言ってあの寂光院に連れて行ってくれた。車で若干時間がかかる行き先だった以外、あとの詳細はすべて記憶の向こうに消えた。

20150314あの時のことを思い出したい気持ちもあって、今月はじめの京都への短い旅行では、無理をして大原へ足を伸ばした。ただいざ決行してみると、市バスで簡単に行けて、かつ一時間四本も五本も運行されていることが分かり、現実と記憶との距離のほどにいまさらながら驚いた。そこで、ウキウキして寂光院に入ってみたら、大きな看板に細かく書かれた内容にびっくりした。なんと当時の寂光院はすでにない。15年まえに火災で灰燼と化してしまった。いまある本堂はあれから五年後に再建されたもので、そしてひと際大きな宝物庫はやや異様に鎮座している。説明文には、「心無い者」、「放火」など痛ましい表現が連なっている。関連の記事を検索して、犯人未逮捕のまま七年後に時効成立というような結末にはなっているのだが、こんなこと、あまりにも忌々しいからだろうか、お寺の説明文には一切記されていない。これはまるで、半世紀まえのあの金閣寺事件の再現ではなかろうか。静まり返った寂光院の境内に立ち竦み、内心深く愕然とした。しかしながら、この出来事は、どうやら世の中からの関心は小さい。周りの人々に聞きまわっていても、ほぼ一様に気付かなかったという答えだった。

個人的な記録を辿ってみれば、事件が起こったのは、京都での一年滞在を終えて、一家そろって帰宅した翌日にあたるはず。これだから日本からのニュースを丁寧に見ていなかったのだろうと、なぜか自分を懸命に説得して納得させようとする自分が、いた。

京都・寂光院放火事件
犯人像絞り切れず7年

2015年3月7日土曜日

高膳

京都で開かれた国際研究集会の最終日、すべての発表などが終わったあとの夜、打ち上げの宴会があった。国際色豊かな参加メンバーを載せたバスが向ったのは、京都ならではの観光地にある料亭だった。

20150307純和式の料理と、畳の上での正座などを想像して宴会会場に入ると、金屏風を前にして用意されたのは、なんと黒く塗られた小学校の教室に用いられるようなテーブルだった。いささか意表を衝いた光景に、参加者からは少なからずの感嘆があがった。やがて料理が運ばれてくると、すかさず机の正しい呼び名を尋ねた。「高膳」だと、はっきりした答えが戻ってきた。言われてみるとまさにその通り、この名前しかないと妙に感心した。さらに、ならば椅子はどうかと聞くと、特別になにもないと、軽く困惑そうな顔だった。会場を後にして思わず確認しようとあれこれ調べてみた。その結果は、これまたいささか意外だった。高膳という言葉は、料亭の宣伝などに広く使われているが、しかし『広辞苑』にも『日本国語大辞典』にも収録されていない。いまだ公式な市民権が得られていない言葉なのだ。対して、高膳とあれば椅子にはきちんとした呼び名が付けられている。それは「高座椅子」だ。念のために「高座の椅子」ではなくて、「高い座椅子」なのだ。背もたれがあって脚がない、和室で使われるという「座椅子」は辞書に載せてある。そのような座椅子に脚が着いたら自然と「高座椅子」に変身したということだろう。

畳が苦手な外国人を意識しているであろう料亭の風景の変化には、しっかりと国際的な色合いが織り交ぜている。「膳」に「椅子」、そこに「高い」ということを取り入れるだけで、和洋折衷の鮮やかな一章が出来上がった。

2015年3月5日木曜日

地図のメタファー

京都で開催される国際研究集会に参加するため、一週間だけの慌ただしい日本滞在をしてきた。旅の間はやはり落ち着かず、その代わりにたくさんの人々と膨大な分量の会話をしてきた。休憩、食事、それに移動の時間のすべてに渡って、つねにしゃべったり、人の話を聞いたりして、言葉通りに片時も休むことなく、じつに刺激の多い濃厚な時間だった。その中での一つの記憶に残る会話をここに記しておこう。

研究会のテーマは「夢」、それも学際研究を目標に掲げるものだった。研究発表の一つのセクションでは、脳科学の最先端の成果が語られ、その場のコメンテーター役を与えられ、ある意味では会場の人々を代表して質問をぶっつけることが期待された。いうまでもなく文科系的な発想しか持たず、苦労して捻出したものは、進化著しい地図を用いての比喩的なものだった。地図には、思いっきり抽象化された荘園図、足でその地を踏破して制作された古地図、そして現代の技術の粋が結集された衛星図、航空図、ストリートビューという、その展開はあまりにも鮮やかで、その進歩の様子は分かりやすい。その上、どの時代においても、人々はその時の地図を精密なものだと思って疑わず、つぎの時代に入れば、逆にその不備の度合いにあきれてしまう。そこで人間の体を対象とする地図とは、どのようなレベルまで来ているのか、その眺めを知りたかった。しかしながら、この「地図」という言葉は、誤解を招くもととなった。脳科学において、地図、あるいは「マッピング」とは、まさに人体の中の小宇宙へのアプローチの基本らしい。そこで、戻ってきた答えとは、十数年まえまでの研究では、世界地図の洲レベルの情報しか得られておらず、現在は、それを国のレベルまで精密な情報を手に入れることが出来た。いずれは、人間全体の平均図ではなく、一人ひとり個人の脳内の様子をきちんと把握することだろう。期待されたものではまったくなかったが、あきらかにこれまたもう一つのきわめてメタファ的な答えだった。

学際的な研究においては、それぞれの分野において豊かな積み重ねがあるからこそ、どんなテーマでも一から説明を試みなければならず、しかもその説明の方法を真剣に工夫しなければならない。研究の発見を語りあうとは別の、もう一つの本領が試されていることをあらためて知らされた。

2015年2月21日土曜日

グーグルプレー・デビュー

20150221一ヶ月ほどまえ、ここで触れていた小さなプロジェクトは、ようやく完成した。去年の秋に教えた二つのクラスから集まった学生たちのレポートから、日本をめぐるフィクション、漫画やビデオ動画をふくむ九点の作品を一冊の電子書籍にした。学生たちが書いたストーリを広めるとともに、これからの同じ作業のスタンダードを簡単に示すこともその狙いの一つである。

電子書籍として最終的にここまで辿り着いたのは、いささか紆余曲折があった。作品が決まったあと、まずはEPUBファイルにして作者の学生たちに見せた。その上、まず考えたのは、アマゾンだった。しかしながら、ファイルのアップロードやその結果確認まで済ませたあと、無料の公開というオプションが公式に用意されていないことにはじめて気づいた。無料で読めるものはかなりあるというのは、あくまでもその販売方法の一つにすぎず、すべて有料という前提からでないとそもそも採用されない。ちょっぴり納得できなくて、あれこれ調べてみたら、どのようにして無料で公開できるかという裏ワザを紹介する記事まで見て、一人で苦笑いした。

つぎに選んだのは、グーグルプレー。こちらのほうはしかしながら、EPUBは不発だった。アップロードしたものは数日経っても音沙汰なしで、細かくログ情報を読んでやっとファイルに故障ありとの結果が分かった。推薦される確認ソフトを用いてEPUBのファイルを試してみると、書式への細かなダメ出しばかりで、どうやらかなり限定された基準に基いている。同時にPDFも対応とのことなので、その通りにしたら、あっけないぐらい許可された。しかも公開するとの連絡さえ入らないまま、名乗った一冊はすでにグーグルプレーに登場したのだ。しかも嬉しいおまけがついている。グーグルブックスに連動しているため、書籍の一部分だけ公開するというあの馴染みのスタイルにてダウンロードなしで読むことができるようになっている。

しかしながら、PDFで投稿したものは、あくまでもPDFの形でしか読まれることができない。電子書籍はやはりテキストベースでなければ意味が半減してしまう。これも今度知らされる結果の一つになった。現時点では解決策が見つからず、とりあえず個人のスペースからアクセスを提供することにしておいた。環境の移り変わりを見守りたい。

Old Japan Redux (in Google Play, Google Books, EPUB)

2015年2月14日土曜日

漫画の文脈

学生たちを相手にする正規授業外の講義は、今年も設けることになった。カナダ三井基金からの助成を去年と同じく授与され、かつ二年目を迎えるということで、レクチャーシリーズを今年はより規模を大きくして実施することにした。外部からの招待レクチャーに加えて、現役の教員がそれぞれ一席を受け持ちするというやり方を継続し、自分の担当では今年も漫画の話題を取り出すことにした。

日本語のクラスに通っている学生の多くは、たしかに漫画、アニメといったポップ・カルチャーから流れ込んできた。かれらの口から平気に出てくる固有名詞には、さっぱり着いていかないのは、ほとんど日常茶飯事となっている。その一方では、いまどきのメディア伝播のルートなどが発達していても、日本での現在進行形のもろもろの状況となると、漫画一つにしても、漫画誌から中古の書店にいたるまで、どれ一つ取り上げてみても、いたって異国的なものだ。これらのことをツカメとして、広く古典画像の世界を選択的に紹介してみようかと、レクチャーのパワポを用意した。話を通じて感じ取ってもらいたいのは、とにかく古典の伝統とそれがもつ現代との距離である。具体的に言えば、はやりの漫画について、そのすべての要素が古典の中にすでに用意され、応用されていいたにもかかわらず、現実的にはそのような古典からの寄与は、発想の上で下地とみられる程度にすぎない。まずはなによりもこの事実とこれにかかわる理由を議論の内容としたい。

20150214ちなみに、イベントのポスターは、学生の設計によるものだ。絵巻からの画面も提供したが、なぜか使われなかった。あらためて要求するというやり方もあるが、若者たちをもり立てることも含めて、とにかく良きとした。浮世絵を持ちだしたら、十分に古典だという平均的な発想のサンプルとして、あるいはそれなりに意味をもっているとさえ言えよう。

Mitsui Lecture Series

2015年2月7日土曜日

年一回の面接官

面接という形で選ばれた若者たちと対話するという、とても貴重な機会は、自分にとってのささやかな年中行事となった。今年も、例年より二週間早めにその日程がやってきた。一日のみ務めることとなり、集中してきっちり10人の若者とスリリングな会話を交わし、とても有意義な時間を過ごした。同じ経験を四年前にもこのブログに書いたが、そっくりそのまま時間が再現されたとさえ言える。

面接に出てきた若者は、あきらかに最大の準備をして取り掛かってきた。その準備の方法となれば、知人友人親戚に話を聞いておいたものもあれば、関連の書籍を丁寧に読んできたのもある。あるいは今どきらしく、関連のサイトをたっぷりと読んできて、その中で感じた質問を素直にぶっつけてくる人さえいた。かなり限られた時間の中での会話なので、面接される人はやはり緊張する。なかには顔に出なくても、十本の指がすっかり充血した若者を見れいれば、逆に応援したくなるぐらいだった。一方では、緊張が解かれて、あまりにも気さくになった人もいたが、ちょっぴり度を過ぎたら、これまた見たくはない。面接の性格上、正答があるわけではない。それにしても、確実な言葉を選んで気持ちを正確に伝え、意味あるエピソードを簡潔に披露できる回答などを聞いていれば、やはり感心せざるをえなかった。

キャリアを積んでいくうえでは、いまの時代では試験を受けたり、ひいては与えたりすることはどうしても避けられない。日本でも生涯雇用が段々過去のものとなり、面接を特定の活動として、それへの対応をまるで技能の一つとして取り扱う向きがある。あまり行き過ぎず、一人の人間本来の様子をそのまま伝えるべきだと、アドバイスを求めてきた教え子にはつとめて言い聞かせている。

2015年1月31日土曜日

タブレット購入

あれこれといくつかの作業に追われる中、息抜きにガジェットの買い物をした。好意なレビュー、ユニークなデザイン、それに同ランクのものに較べてほぼ半分程度の価格に惹かれて、ほとんど衝動買いで「Yoga Tablet 10」の購入ボタンを押した。

20150131購入先は、北米でほぼ一番大手の電気屋だった。カナダにしては珍しく、ただの三日できっちり郵便受けに到着した。しかもその包装は、店頭購入の場合のカラフルなものではなく、郵送専用だった。大手小売店におけるインターネット購入への対応の真剣さが伺える思いだった。低価格の理由は、購入の時点ですでに分かった。ディスプレイの解像度そのものである。ちょうどほとんどの同ランクのものの半分ぐらいしかない。だが、手に入れてみれば、アイコンの配置などからそれがすぐ分かるものだが、実際の使用感覚としては、たとえば新聞や雑誌などを読んでもまったく窮屈を感じないものだ。一方では、メモリーカードの利用可能など、タブレットの使い方としては、新しい自由を手に入れた側面は確実にあった。

手元の小さなプロジェクトの一つは、電子ブックをまとめることだ。タブレットの使用を想定しているので、ちょうど良い実験台となってくれた。ただ、結論から言えば、かなりの苦労をさせられた。iOSにおける「iBook」にあたるものは「Play Book」。グーグルの基本サービスなので、もうすこし完成度の高いものを想像していたのだが、完全に期待はずれだった。まずは利用からにして、グーグル・ドライブなどとは別にアクセスすることが要求され、しかも特定のファイルへのアクセスはローカル利用をさせてくれず、ローカルのファイルをサーバーにアップロードすることから使用を始めなければならない。しかしその先には、共有などの基本的な機能さえ見つからなかった。これに対して、電子ブックのリーダーは、信じられないくらい多く提供されている。ただ審査がさほど機能していないせいか、その出来はあまりにも不揃いで、結果として使用の経験を悪くするばかりだ。そのため、不特定多数の人を対象にする場合、リーダーアプリを丁寧に試し、どのアプリを使用するかというところから説明を添えることを余儀なく要求された。

タブレットは急速に普及されているのはたしかだ。一方では、ハードにしてもソフトにしても、あくまでも発展途上で、完成形にはほど遠い現在進行形がまだまだ続くものだと、いまはただ覚悟をしておかなければならない。

2015年1月24日土曜日

タイトルにたどり着くまで

学生たちとともに一冊の小さな電子ブックを編集している。いくつかの段階を経て、目下の作業は、タイトルを決めることである。いうまでもなく大切なもので、作品の受け止め方を大きく左右する。学生たちの意見も聞き入れながら、あれこれと試しながらも、思わず小説出版の実績まである同僚に助言を求めた。

聞かれた同僚は、こういうことは得意分野で、大いに協力しようと快い返事をしてくれた。そして、約束通りに一日かけてじっくり考えたすえ、はっきりした返事が送られてきた。提案されてきたタイトルには「Redux」という言葉が入っている。自分ではとても思いつかない、個人の語彙にはまったく登録されていないものである。それどころか、英和辞典を調べてもぴったりした解説が見つからず、あれこれと参考書を読み比べて、ようやくラテン語に由来するもので、文学的なタイトルに使われる表現だと分かった。そこで、辞書ではなく、仮想したタイトルをまるごとサーチにかけたら、似たような書名や論文名は複数出てきて、まさに文脈にぴったりふさわしいものだ。

素晴らしいタイトルの基準とは、簡単、明瞭、キャッチにある。いうまでもないことだ。それにたどり着くには、ユニークな、特定の文脈のみに使われる言葉を選んだり、あるいはきわめて分かりやすい言葉を取り出して、普段はされていない組み合わせを慎重に作り出したりすることである。こう記していれば、まったく新味のない理想論に聞こえてしまうが、実際にこれを可能にするには、やはり日常の読書だろう。今学期の担当クラスの一つには、少人数の学生たちを対象にする作文があって、週一回のブログを書かせている。それこそタイトル選びは一つの基礎作業だ。初心者の学生たちには、繰り返しの実践を通じてこれを体感してもらおうと心がけている。

2015年1月17日土曜日

絵を描いてもらえば

テレビの画面に映り出すいかにも日本らしい風景には、あの街頭インタビューがある。人口密度が高いからだろうか、どこのテレビ局もことあるごとに、あるいは何もなくても街角にビデオカメラを繰り出す。そして、そこにはいつでも親しそうに質問に応える熱心な歩行者がいて、ニコニコしてカメラに向かって語り出す。なんとも平和なものだ。

20150117何気なくテレビをつけてみれば、今度は街角でカラフルなクレヨンを差し出してその場で絵を描かせている(「サラメシ」#030)。テーマはその日の昼食。描いてもらった絵から、レストランの定食を前提に当ててみるという、きわめて他愛ないものである。興味深いのは、カメラの前で足を止めた面々の弁だ。白紙とクレヨンを前にして、応じるとしながらも、誰でもきまって絵は「得意でない」、「苦手だ」、「(学校のころ)美術は一だった」(はたして五段階評価なのか、はたまた百点採点なのか)と、とにかく恐縮しきりだった。考えようによれば、絵というものの特質の一面をじつによく表している。絵というものは、単純なもので、無理やり書かせてみれば、だれでもなんとか紙に残せる。かといって、なんらかの訓練、繰り返した実践、そして思い込みや愛着がなければ、たいていの人はほとんど思う通りのものを描けない。一方では、絵の出来栄えは上手にせよ下手にせよ、読み解く人が真面目に向かってしまえば、描かれた内容はなんとなく伝わる。

ここのところ、暇を見つけて読み返しているのは、説話に出る昔の絵師をめぐるあれこれの伝説などだ。昔の人々もまったく同じく絵や絵を描く才能を受け止め、物事を思う通りに描ける絵師たちに驚異の視線を送っていた、そのような絵師たちについての評判と言えば、すぐに「手早筆軽」(とにかく筆が早い、さっさと描き上げてしまう)(『新猿楽記』)、「生きたるもの」(時には非現実的に生きるものと化けてしまう)(『古今著聞集』)と驚いてしまう。絵を評価するには、文化や伝統などいくつもの重層があるはずなのだが、そこまで行くまでには、まずは実物に似ているかどうによって、最初の基準が用意されているのだ。

2015年1月10日土曜日

雪の京都

20150110年末年始のあいさつに、元日京都の写真が飛び込んできた。一面の覆われた雪だった。新聞記事によると、58年ぶりだとか。京都の冬には、積雪は数回ぐらい確実に起こるが、それがお正月に重なることはやはり珍しい。初詣などには大いに影響したのではないかと想像している。

学生時代の寮生活から始まり、その後の研究のための長期、短期の滞在を加えて、月単位で数えれば京都での生活はちょうど10年になる。長いようで短い、短いようで長い。多くの知人、友人は京都で生涯の職場や住処、あるいは頻繁に滞在する拠点を得ている。一方では、たいていの人々は「修学旅行」の記憶を頼りに京都との繋がりを求める。自分はここの前者にも後者にも属しない。ただ、それでも京都のことを「第二のふるさと」だと名乗って憚らない。「そうだ京都、行こう」のシリーズも、いまや大分アクセスしやすいから、クラスで機会あるごとに学生たちに見せている。そのような学生たちの中では、今年も卒業生のグループの一つからは、春に京都を訪れることにしているとの報告を聞いた。

京都というテーマで、去年の初夏には一つの行事に招かれ、その時の報告が活字になった。個人的な思い出を思いっきり織り交ぜたので、リンクをここに添える。

古都の時空」(「論究日本文學」第101号

2015年1月3日土曜日

ビッグホーン

未の歳になりました。明けましておめでとうございます。

今ごろ、日本や中国では、羊の絵を載せたカードや飾りものなど、どれだけの数のものがとり交わされ、掲げられているのだろうか。一方では、遠く離れていて、日常の生活に干支がまったく入っていないカナダでも、国レベルの公式なところに、これにかかわるアイテムが披露され、ささやかな話題になっている。それはカナダ造幣局が秋の間から正式に製造し、公開した羊をテーマにするコインである。それも一気に似たデザインを五種類もラインアップされてい20150103る。それぞれ5ドルか、10ドル、15ドルの額面の価値を持ち、金、銀の材料を用いて上品に仕上げられ、70ドルか100ドルなどの金額で販売されている。最初から東洋的なテーマであるが、それを伝えるには、とにかく大きな「羊」という文字を取り入れている。あとは、画面いっぱいを占めているのは、伝統的なイメージの羊とはほど遠い「ビッグホーン」と呼ばれる山羊である。古代エジプトの太陽神アモンが頭にしている角から名を得た渦巻き状のアモン角が特徴で、立派な顔立ちだが、やはり未の年を暮らしている人々の目からしてはなんとなく異様なものなのだ。説明を読んでいれば、ここアルバータ州のロッキー山脈で生息しているとはっきりと書いてある。その通りだ。たしかに観光で山に入ったら、何回となく目にしている。ここにカナダと東洋との文化的な交流をしっかりと訴えているものだと、はじめて気付かされた。

日常生活にないものだけに、公式の告知文章では関連のことを分かりやすく説明している。羊という文字の意味、未の年に当たる最近九回ほどの実際の年、太陽暦と農暦との区別、そしてまるで運命判断のような語り口での羊の徳まで陳ねた。ただし、干支を表記するのに羊ではなく「未」をいまだ用いているという日本の現在などは完全に視野から外れたことは、ちょっぴりカナダらしくて微笑ましい。

カナダ造幣局の告知