2013年7月27日土曜日

デジタル人文学

デジタル人文学のすすめ_j2『デジタル人文学のすすめ』」と題する一冊を勉誠出版から出版した。この週末あるいは来週早々にも本屋の店頭に並べられるとの知らせをもらった。もともと海の向こうに身を置いているなので、実物が手元に届けられるのはもうすこし先のことになる。この一冊は、三人の編集者によって共同で編集され、あわせて十六人の執筆者による論考が寄せられ、いずれも二年まえの秋から始まった一年をかけての研究会から生まれたものである。

本のタイトルに思い切って「デジタル人文学」という言葉を用いた。もともと日本語の言語表現、あるいは日本における教育や研究での分野分けから考えて、かならずしも自明の選択ではない。英語における「humanity」にあたるものを、文学、法律、情報学などより具体的な分類をもって捉える傾向があると言えよう。そのため、英語では「DH(Digital Humanities)」という略語までかなり定着したのに対して、日本ではむしろ「デジタル・ヒューマニティ(ズ)」と名乗る学科や研究会があって、言葉の表現としてはいまだ流動的な印象を受ける。ただ、いうまでもないことだが、一つの用語の有無や使用頻率などはあくまでも表面的なものに過ぎない。どのような言葉で表現されるにせよ、デジタル環境の確立という事実、それが既存の歴史、文学、情報などの各分野にもたらした衝撃は無視できず、デジタルのある人文学とはまさに時代の縮図の一つであり、誰一人これとの付き合い方を直視こそすれ、目を逸らすわけにはいかない。

小さな一冊は、「現状」、「反省」、「未来」という隠れたキーワードで部立てをし、それぞれかなり具体的な、その多くはいまの日本のデジタル環境を代表するような実例を取り上げながら、詳細に報告し、あるいは忌憚のない批判を繰り広げている。関心ある読者にはきっと参考になることが多いと信じる。ぜひ手に取ってみてください。

『デジタル人文学のすすめ』(楊暁捷・小松和彦・荒木浩編) (立ち読み

2013年7月20日土曜日

神田古本屋

春から続いた日本滞在は、すべて予定通りに終了した。その後半は訪書と称して、絵巻の書写を各地に訪ねるという、非常に恵まれたものだった。そのような長旅の最後の締め括りは、思わぬ形のものだった。友人、知人の心のこもった好意による最高のもてなしを受け、いまだ学界に報告されていない一点の書写の所在を教えてもらったのみではなく、その所蔵先に実際に連れて行っていただき、実物を心行くまで披いて見させてもらった。

訪れたのは、神保町にある中野書店。テレビ番組や新聞記事などにもよく登場し、新たな古本の町の姿を摸索し、これまでにはなかったやりかたを精力的に実践することで広く知られ、尊敬されている店である。見せてもらったのは、その店が所有している「後三年合戦絵巻」の模写である。かなり質の高いものだ。同絵巻の豊かな模写群にあっても他のものになんら遜色なく、丁寧に、贅沢に制作され、長い間大事にされてきたものだと一目で分かり、いろいろな意味で絵巻の魅力を伝えている。一方では、模写本の通例として絵師や過去の所蔵などに関する情報はなく、絵や詞など模写の内在の手がかりをもってどこまで作品の性格を推測できるものかと、まさに可能性を孕み、見る人を魅了するものである。

130720貴重な絵巻は、ほとんど無造作にガラスの展示ケースの中に入れられている。今時、どこの図書館やコレクションが購入しても、間違いなく恒温の書庫に保存される貴重書になるだろうが、その落差はあまりにも大きい。一方では、「中野書店デジタル美術館」と名乗って、同絵巻模写は高精度のデジタル画像に記録され、高質な再現ソフトに乗せて店頭に鎮座し、だれでも手軽に触れられるようになっている。しっかりと息づいている古典、すこしずつ変容し、再生していく古典というきわめて貴重な縮図を見た思いだった。

中野書店

2013年7月14日日曜日

巨大絵巻

今週はいささか遠いところを旅した。乗り換えの苦労なども含めて一番の目的地は横手、目指したのは、そこから一駅手前の「後三年」という名前のJR駅だった。この妙な名前をした駅と、そしてその近くに位置する絵巻をテーマにした公園をぜひともこの目で見ておきたかった。到着時間がやや遅れ、やむなくタクシーを走らせた。人懐こい、かと言って「後三年」についてほとんど関心を持たない運転手さんの行き届いたサポートで、最小の時間でかなりのものを見てまわった。

駅に降り立ったら、展示パネルになった絵巻画面がすでに迎えてくれた。駅舎も含めて意外と新しかった。聞けば、数年前の市町村合併の結果として、駅舎が新しくなったとのだと、運転手さんが説明してくれた。公園のテーマは、戦ではなくて、平安。ただし、どうやらなんらかの手掛かりがあったわけではなく、ただ広い、京都の感覚から言えば倍ぐらい大きな橋が真ん中に据えられ、ほど近いところに「後三年」絵巻から数場面のみ取り出したレリーフが楽しいハイライトを成した。絵巻の場面を思い切って大きなサイズにする、再現するにとどまらずに、それを浮き彫りにする、こういった巨大化、立体化した対処は思いのほか少ない。巻物という既成概念からすれば、その枠から飛び出して、自由に内容を伸ばし、それがもつビジュアルな魅力を大胆に見せるという意味では、とても望ましい試みではないかと大いに感心した。

130714一方では、「後三年」とは、そこではあくまでもご当地の自慢という文脈で息づいていると見受けられる。しかも、駅の巨大看板や写真パネルなどを見てすでに気づいたのだが、看板もパネルもレリーフも、いずれも当地出身の画家の模写を再現しているものである。権威あるオリジナルものは重要文化財に指定されて、このような使い方だと、その気さえあればけっして不可能ではないはずだ。なのに、あえて画家の個性が存分に盛り込まれた画作が用いられている。ここに、模写のある風景がかなり強烈なメッセージを発信してように感じてならない。

平安の風わたる公園

2013年7月6日土曜日

祇園の鶴

京都にいる時間を大切にと、蒸し暑い中でも外を歩いた。土曜の午後は祇園界隈。圧倒的に外国人観光客が多い。それも小さな子供連れの家族の姿が目立ち、顔だけでは分からなくても、仕草ならすぐ分かる。どの国の言語でもたいてい音程が日本語より高く、遠く離れていても聞こえてくる。そこで、そのような観光客に囲まれた人だかりの中心には、一羽の鶴が静かに立っていた。

130707街角での鶴の目撃は、言葉通りの初体験だった。たいへん興味を持ち、すぐカメラを向けた。うっすらと黄金色を帯び始めた夕日に照らされて、実に申し分ない。鶴は、おおらかにゆったりと構えていて、落ち着き払っている。大きな目を見開いてまわりを見ているのだが、多国語の会話にもシャッターの音にもまったく動じない。尻尾を道路側に向け、頭はあくまでも道端に向けて、店の中に慇懃な視線を送っている。しかもやっとなにかのアクションが起こったと思ったら、ぴったりと横の店に移って行ったのだった。一方では、店の主人たちの対応を見れば、鶴はかなりの「常連」らしく、なんら特別な反応は見られなかった。

思わず数多くの鶴にまつわる伝説が頭を過ぎった。ここまで生活に溶け込んだ鶴なら、報恩されるような言い伝えが取り沙汰されてもぜんぜん不思議ではないと、不思議なほどに納得した思いだった。