2018年3月31日土曜日

自撮りビデオ

このタイトルは自然と出てきたが、考えてみればさほど使われている言葉ではない。あるいはビデオの自分撮りが盛んでも、具体的な作業の過程や目的などにおいて、インスタ映えを求める写真とかなり距離があるからかもしれない。それはさておくとして、先週は、必要に追われて集中的にこれを経験した。どれもビデオ作品としての完成度への追求をせず、必要最小限の録画である。それにかかわる技術的な詳細をここに記しておく。

ビデオを撮るための機材は、その目で見ればすでに溢れんばかりの状態になった。パソコンに外付けするネット会議用ネットカメラ、ノートブックパソコンに付いたもの、カメラが売りの携帯、そして高画質のミラーレスカメラ、などなど、どれも手元に置いてある。しかしながら、けっきょくは小型デジタルカメラを選んだ。液晶パネルが跳ね上がって見やすいことがその決めてとなった(PowerShot SX730HS)。撮った動画は、パソコンに移して、言い間違いや言い換えを削ったりする最小限の修正を加えるだけで、それ以上のタイトルやら音楽やらの編集をしなかった(MovieMaker)。そして、作成したものは、YouTubeにアップロードして保存し、共有した。ただ、そもそも特定の目的のために作ったものなので、あえて公開を選ばず、リンクによるアクセスにした。

すでに公開した一例はこれだ。再来週の予定になるが、日本語教師の集まりに誘われ、オンライン研修会に話題を提供する役目を引き受けた。ZOOMの使い方、ネット会議の可能性を具体的な実践を通じて模索したい。

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2018年3月24日土曜日

鯨鯢の姿

数ヶ月まえ、李白を載せて西の空へ去っていく鯨のことを記した(「昇天する李白」)。明の木版本に挿絵として描かれたもので、その当時の人々のある種の共通した認識を示したものだろうと漠然と推測したものに留まった。しかしながら、神々の姿を求めているうちに、それが遥か隋の時代の絵画にまで遡るものだと気づいて、少なからずに驚いた。

右に掲げたのは、「洛神賦図」(顧愷之、故宮博物院蔵宋模本)からの一コマである。中国絵巻のもっとも古く、極めて優れたものとして注目された作品であり、主人公の姿が繰り返し登場するなど、物語絵としての要素を過不足なく伝えている。そこで、この場面は、「洛神賦」のなかの「鯨鯢踊而夾轂」を描く。洛神の周辺を守る「文魚」、「六龍」、「水禽」とともに丁寧に絵画化され、鯨鯢(げいげい、クジラの雄と雌)は対となってしっかりと轂(こく、車のこしき)の両側に付いていく。木版に描かれた鯨と比較すれば、巨大な二本の須が見えない以外、ほとんどそっくりそのままの姿となり、丸く肥えた巨体は、なんとも微笑ましい。

故宮博物院所蔵の絵画資料は、おなじく高精細のデジタル画像で公開されていて、「洛神賦図」をはじめ、数千と数える一級品は、パソコンの前でクリックひとつでアクセスできる。なお、ブログ「琴詩書画巣」に収められた原作の賦との対応や日本語解説もあわせて付記しておきたい。

2018年3月17日土曜日

カバー・デザイン

数日まえ、SNSにて告知をしたが、学生たちのレポートから読み応えのある作品を選んでまとめた「Old Japan Redux 4」を公開した。同じタイトルを用い、同じやりかたで作ったささやかなシリーズの四冊目に当たり、勤務校の学科サイトに預け、広く読まれるようになっている。内容にはユニークなものがあるので、ぜひご一覧ください。

四冊並べて眺めて見れば、カバーはまずそれなりに目立つ。デザインの仕事をやっている人間には間違いなく笑われるものだろうが、一通り、手作り感全開のものとなった。絵巻から一場面、学生の作品から四枚の絵という、この二つの要素を組み合わせたものである。タイトル文字や絵の調整など、ワードの基本的な機能にもっぱら頼った。絵の選択も、さほど深く考えることなく、とにかくその時その時になんらかの形で作業に関連するものから抜き出した。ただ、小さなこだわりとして、模写から選ぶという方針を自分のなかで決めた。模写のほうは、むしろ色合いが鮮明でいて、インパクトがあって、分かりやすい。引用した作品名などは右下に小さく記し、個人的これに関わった時期などの記憶に連動して、時間が経てば有意義な記録になる。

かつて、とある尊敬する研究者の研究室に招かれ、本棚の一角に並んだかなりの数の学生たちの作品集を見て小さな感動を覚えたことがある。学生主体で作られたものだろうが、それでも教えた側の気持ちが伝わる。この小さなシリーズは、それの真似から出発したものだ。ただデジタルの環境が利用できるようになっている今、より多くの読み手に届けられ、環境の進歩に恵まれた。

Old Japan Redux (1) (2) (3) (4)

2018年3月10日土曜日

マイクはどこだ!

水曜日には数ヶ月かけて準備してきた一つの行事があった。ふつうなら恙無く済んだと言いたいところだが、今度はしかしながら予想もしなかったハプニングがあった。繰り返し使っていた会議ホールには、大きなスピーカーがしっかり設置されてはいたが、なんとマイクが用意されていなかった。それも開始時刻になってはじめて気付かされた。そのあとの展開、関係者の神対応、まさに記憶に残るものとなった。

勤務校での所属学科が、この三年間ほど二回の合併が行われ、ようやくすべての外国語や言語学の部署を統一した「スクール」という到達に至った。行事とは、このスクールの設立行事、日本風に言えばキックオフの儀式だった。二百五十名を超えた来客に軽食やアルコールを含む飲み物を振る舞い、歓談を交わしたうえで、大学の総長が祝辞を述べ、知名の教授に一席の講演を披露してもらうというような大掛かりな内容だった。そのような中での、マイクなしの展開だった。その対応というのは、とにかく講演者に肉声でお願いするというものだった。来客たちはこれまた素晴らしい応対を見せて、静かに話に聞き入った。お陰さまで予定した四つのスピーチは、ほとんどすべて内容の変更がなく行われた。

頼もしい後日談が一つ付いた。その翌日、貴賓としてお越しになった一人の方と会話する機会があり、あらためてハプニングのことに触れたら、面白いコメントが戻ってきた。司会を務めた二人の若い学生こそ明らかに力不足だったが、あとのスピーチの四人は、それぞれじつにりっぱな声だった。教壇に立ち続けた経験が物を言わせるという職業の成せ技は、妙な形で気付かされたものだった。

2018年3月4日日曜日

王と妃と

先週の週末、楽しい集まりがあった。中国語を話す少人数の人々の集合に招かれ、何か古典についての話をするように頼まれた。友人関係なので気楽に応じた。ただ中国関係の話題をさほど持ち合わせていなくて、去年の秋、学生たちと一緒に読んだ長恨歌絵巻の話を改めて持ち出した。

長恨歌の詩は、言うまでもなくたいていの人々にそれぞれの形で馴染みをもつものである。一方では、詩の内容を丸ごと絵巻にするということは、決して多く行われず、新鮮なものとして皆さんの関心を集めた。異国の風景を表現するための太湖石、異国あるいは異界を象徴する四角の模様をもつ床、赤い色を施された室礼など、いちいち説明したら皆さんは一様に感心した趣きを見せた。その中の一場面についての議論は興味深かった。入浴を終えた美女の楊貴妃を王が振り返るというあの構図である。王と妃との位置関係はには不可解さ、ひいては一種の滑稽さが読めるのではないかと個人的な印象を語ったら、楽しい説明が戻ってきた。曰く、王と妃との間を動きまわる無数の美女は、もともと二人の目にも入らないような存在しかならない。その前提で、王その人もまさに同じく入浴をともにし、二人が熱愛に陥ったものだったのではなかろうか、と。もともと絵の読み方には正解などない。そこまで熱心で大胆な読み方を引き出せただけで、一席の話は成功だったと言えよう。

日本では様々な文化的な講座などが多く設けられるが、ここ地元では、子供たちを対象にする習い事や、健康志向のダンスクラブなどがあっても、文化的な集まりはなぜかかなり少ない。そのような中での一時、いささか思いに残る時間だった。