2010年6月26日土曜日

日文研・妖怪データベース

先週週末の新聞記事によると、日文研は長年の研究プロジェクトの一つである「怪異・妖怪画像データベース」を公開した。さっそくサイトにアクセスしてみた。

同研究所は、これまでも所蔵している古典画像資料を精力的にデジタル化し、それを惜しみなく公開してきた。その多くは、新たな購入、あるいは学術的な発見を伴うもので、他の研究機関への刺激が大きい。今度のデータベースは、まさにそのような公開の成果に基づいたもので、個別作品の閲覧に留まらず、横断に検索できる道具を与えてくれた。計百のタイトル、延べ二千に近い画像データを対象にし、専門の作業チームによる文字描写などのオリジナルデータを付加し、画像データの価値を大きく増やした。怪異、妖怪という興味深い分野にスポットライトを当てて、それへの新たなアクセスを用意してくれた。あれこれとキーワードを試してみて、あの「日本常民生活絵引」を連想して感慨深い。

一方では、デジタルという環境におかれたものだから、製作者へのさらなる注文も自然と湧いてくる。データ検索は、いまだ文字から絵へという限られたものしか用意されていない。デジタルデータならではの双方向の検索が可能なはずで、絵から文字へ、そして絵から絵へ、というような検索システムが開発され、使用に提供されることを望む。

データベースの公開がいまだ二ヶ月にもならないが、アクセスの数はすでに6万回近くなった。普通の出版物と単純に比較するわけにはいかないが、一般ユーザーからの関心の度合いが覗かれる。デジタルコンテンツ開発のためによい励みだと言えよう。同時に、学術研究にどのように生かさせるかは、つぎの課題の一つになるはずだ。研究方法の模索もかねて、これを応用するプロジェクトチームの発足も予想されるのではなかろうか。研究におけるあらたな地平が開かれてくることを期待したい。

毎日JP

2010年6月19日土曜日

バックパックに巻物

短い中国旅行は、じっくり周りを見て回る時間さえ持たないまま、あっという間に終わってしまった。旅行の終着地はいつでも空港だ。ただ今度は飛行機トラブルに巻き込まれて、二日も同じ空港ロビーをうろうろするはめとなった。おかげでそこの風景だけが印象に残るようになった。

100619 空港には観光帰りの外国人の姿が多い。それも元気のよい若者が目立つ。そのような人々の装いから、ここが中国であってほかの国ではないという要素を一つ見出そうとすれば、間違いなく巻物を手にするということが挙げられよう。それも意外なほどに頻繁に目撃するものだった。中国からのお土産に部屋を飾る掛け軸、といったところだろうか。若い人になれば、それがバックパックの中に半分差込んだり、あるいはバックパックの外に繋ぎ止めたりするスタイルだ。どうしてもあのオリンピックの閉幕式に登場した西洋人のキャラクターを思い出す。もともとあれは開幕式のショーと対応させたもので、巻物は画巻、しかも両方の軸に半分ずつ巻き上げたままバックに突っ込ませるという乱暴なやりかただった。あれをテレビで見たとき、突拍子もない作為的なものだとかなりの違和感を感じたのだが、空港でそれと瓜二つの若者たちを見て、かれらを止めて、あの閉幕式を見たかどうか確かめてみたい衝動にまで打たれた。

搭乗までの待ち時間に、三人連れの若者と会話を交わした。仲良しのカップルは漢字の掛け軸を手に入れたことを自慢にして、「愛」ともう一つの「女」がつく文字だったと説明し、三人目の人は虎の干支を刺青にした腕を披露してくれた。文字を知っていないだけの神秘と憧れを感じさせて微笑ましい。

古本市にて

短い帰省のなかで、のんびりと繁華街を歩き回る時間を努めて作ってみた。いうまでもなく町の様子はすっかり変わった。とりわけここ五、六年の間に、20階以上の高層ビルが突然のように群をなして現れてきて、眺めていて驚きの連続である。昔の面影などあるはずもなく、残されたのは、同じ地名のみという、非常に奇妙な経験を繰り返し味わされた。

町の中心地は、古い城壁や門を再現して、昔時や伝統への憧憬を形にした。その一角は、観光客を相手の店が軒を連ね、さながら典型的な観光スポットになっている。だが、平日ともなれば、観光客の姿がまばらで、これまた違う意味で奇妙だった。さまざまな品を商う店の中には、古本を取り扱うものもある。しかしあがらどうやら値段でしか勝負する気がなく、その結果、安物だけ集まって、まったく魅力を感じさせない。なにげなく覗いた露天の棚には、なんと画巻が数点おいてあるのではなかろうか。タイトルを見れば、「九歌」「詩経」といった超一流のものばかり。思わず手に取って触ってみたが、その印刷や作りがあまりにも無造作で安っぽく、内容とのギャップが大きい。素晴らしい伝統がぞんざいな取り扱いを受けて、もともと持つべき価値まで失ったのだと、なぜか言いようのない義憤まで感じてしまった。

中国はすべてのことにおいて凄まじい勢いで変わっている。街角の様子だけではなく、古典を愉しみ気持ちの余裕も自然と生まれてくることを強く信じたい。(6月12日記)

北京空港

二年ぶりに中国にやってきた。今度は前回より長めに時間を取り、あわせて十日ぐらいの滞在となる。

100605北京の国際空港は、オリンピックの開催に合わせて新たなビルが出来上がり、使 われるようになった。うわさではあれこれと聞いてはいるが、実際にその中に入ってみれば、新しい空港の兆候をあれこれと探してみても、意外に目に止まるものは多くなかった。飛行機が降りたところから荷物や税関などの建物に辿るまでには、今度はモノレールの電車に乗らなければならないという、実用としてはむしろ不便を感じたぐらいで、建物そのものも、大きくて新しいということ以外は、印象に残るものが少ない。しかしながら、その中では、特筆すべきなのは、やはり絵巻ならぬ画巻だった。どうやらいまや中国文明の視覚的な代表となれば、画巻がもう迷いもなく第一位のものとなった。ただし絵巻といっても、それを巨大なモニュメントのように作り変えたのだった。しかも取り上げるものは宋の作品一点のみ対象にすぎない。古典を大事にするというよりも、古典に新たな生命力を吹き込んで、今日の環境のために貢献してもらう、という発想のほうがより鮮明に動いたものだった。

今度は、北京もひさしぶりに歩いてみるつもりでいる。はたしてどのような時代の風景が目に入ってくるものか、ワクワクしている。(6月5日記)