2006年10月1日日曜日

音声メディアに思う

中世文学会成立五十周年にあたる全国大会に参加しようとする願いはついに適えられなかった。しかしながら、笠間書院関係者の好意により、大会の録音テープから起こした記録が電子メールを通じて送られてきた。普段は本や論文でしか接しない方々の顔や話しかたを想像しながら大会の雰囲気に浸り、知的な刺激いっぱいの発表や討議を文字にて聴講するというありがたい経験ができた。とりわけ中世の画像資料へのアプローチを「メディア・媒体」という切口で迫ったパネルからは、少なからずのものを学んだ。数々の在来の、そして新生のメディアが交差する中で、その恩恵を受け、時にはその発展に振り回されつつ、歴史と文学の古典を見直す有意義なきっかけを確かに垣間見る思いをした。

同パネル討論の中では、メディアというものへの捉えかたが議論され、「情報伝達のためのメディア」とこれを限定したり、あるいは「メディアとしてのジャンル」として、在来の文学研究の伝統に組み入れたりするような、教示に富む指摘があった。ここに見えてくるのは、「メディア」という言葉が中世文学の研究においてあくまでも一つの新しい外来語だという事実だ。この言葉の参加は、ニューメディア、マルチメディア、電子メディアといった、電子の世界が凄まじいスピードをもって広まったここ十数年来の世の中の変化に関連すると言えよう。新しいタイプのメディアの出現、活用、定着への関心は、そのまま在来の伝達手段への観察と再認識へと繋がり、これまでにない電子メディアが脚光を浴びることにより、それに対する印刷メディアの性格が新たに知らされ、そして伝達の方法が異なる文字と絵のあり方への新たな視線が生まれる。言ってみれば、単なる技術の進歩が、物事への考え方、捉えかたに投影するという格好の実例がここにある。

メディアへのアプローチはいうまでもなくこれからの研究課題の一つだろう。それと同時に、メディアからのアプローチが、すでに大きな課題を提出している。初心に立ち戻り、メディアで考える文字と絵を見直せば、これに同列するもう一つのものを忘れることはできない。両者にほぼつねに存在していた音声だ。

思えば、記録手段における古典と現代の一番の違いは、音声の不在だと言えよう。いつの時代においても、情報伝達や感情表現のために、人間から人間へと声が用いられ、そして先の世代に行われたそれを記憶し、再現しようと努める。しかもほぼすべての場合おいて、声は文字、絵よりさきに存在していた。日本文学でいえば、古典、とりわけ中世文学のジャンルのいくつかをまたがる「物語」という称呼がまさに象徴的だ。さらに言えば、平家琵琶で一世風靡した覚一がもし電子レコーダーを握っていれば、覚一本というようなものはそもそも存在する理由さえなかったに違いない。音声というメディアを確実に記録する方法がなかったからこそ、文字が次善的な選択として用いられた。そして、その文字資料が、今日の文学研究の最大の対象になり、ときには他の資料に対して排他的と思われる傾向さえある。

古典を記録し、過ぎ去った時代における人々の記憶や感動を体験するためには、音声メディアの復活がかならず必要だ。そのためには、音声を記録する手段は昔からなく、音声そのものが伝わっていないということは、新たな研究を始めさせるための理由となっても、それを妨げる要素になってはならない。

以上のような提言への戸惑いは、おそらくまずつぎの二つがあるだろう。一つは昔通りの音と声、文学で言えば語りや朗読を再現することは不可能だ。いま一つは、人間の声というものは、文字や文章以上に個性のあるもので、現在に生きる一人の個人と昔の文学との開きはあまりにも大きい。言い換えれば、古典を記録し、それを同時代やつぎの世代に伝えるためには、必ず昔のままで、かつてあったものをその通りに再現しなくてはならないという考えだ。

しかしながら、古典は昔のままというのは、ただの錯覚にすぎない。われわれが一番安心して読んでいる文字資料からして例外ではない。文章をなす仮名遣い、漢字の使い方は絶えず読む人の知識や習慣に従って変わり、書写と印刷の字体、巻子、冊子と現代書籍の様式といった物理的な形態は時代の移り変わる中で大きく異なる。現代のわれわれが読んでいる古典は、昔の人々に読まれていたものとはかなりかけ離れている。同じことは画像資料についても言える。分かりやすいヒントは、おそらく近年模索されている絵巻の復元といった実例から求められよう。気が遠くなるような膨大な作業の果てに、絵巻は平安時代にかつてあったと思われる姿を見せた。突如して現れた鮮明な色彩や精細な描写から、本物を目にした興奮を感じるのか、はたまた違和感を覚えるのかは、見る人の立場によるものだろう。だが、同じはずの作品が呈示するほとんど異質に近い別の姿は、古典の昔と今の相違の大きさを端的に物語っている。

声の個人的な性格はやや違うことを考えさせる。書写された文字資料が翻刻され、印刷されるようになったプロセスは、古典作品がかつて帯びていた個人的な面影を無くし、共通にして均質な様相をもたらす。これに対して、音声をもって古典を記録することは、一人の個人をもって昔の別の個人を置き換えることを意味する。しかしながら、どのような作品にせよ、一つしかないような声はかつて存在していたのだろうか。声はいつでも個人的なものだったからこそ、長い時間の中で、伝達と表現が無数の人々により多様に繰り替えされてきた。ここでは、そのような実践の続きを望み、それが記録されることを願うのである。

以上の考えを現実に試みるものなら、どこから始めたらよいのだろうか。絵巻こそ格好の内容ではなかろうかと思う。絵巻の享受には、音声の参加がつねに伴い、音声というメディアの存在は、絵巻そのものに接するために最初から欠かせない一部分である。これまで行われてきた文字資料の翻刻、画像資料の撮影と同様、現代の人々に分かる、楽しめるものを目標にし、目で読む詞書を音声に記録しなおすという「絵巻音読プロジェクト」が実施できないものだろうか。ちなみに、『源氏物語』を平安日本語に復元して読み上げるという試みが行われたが、現代の人を対象とし、今の人々に聞いてもらうことが目的なので、そのようなことがたとえ可能だとしても避けるべきだと付け加えたい。

絵巻の詞書なら比較的に取り扱いやすい理由はいくつも挙げられる。文体として仮名書きが多く、絵の対応があって、しかも文章は短い。だが、それでも紐を解いたらすぐ読み始められるというものではない。人名、地名などの固有名詞もあれば、さほど常用されない漢語もある。それに加えて、声を出して読まないと気付かない課題は数々存在している。たとえ「今日」という言葉を持ち出しても、はたして「けふ」なのか「こんじつ」なのか、決めなければ声に出すことはできない。丁寧な考証を行い、文字資料を翻刻して定本を作るという古典文学研究の経験と知識を生かした、音声の定本を仕あげるという態勢が望まれ、多数の学者や大学院生の参加が期待される。

最後に、近年目まぐるしい発展を続ける電子メディアのありかたに触れておきたい。人々の日常生活に関わりを持ち始めた電子メディアは、文字や画像資料の記録、検索などに続き、音声の分野へようやく大きく関わりを持つようになったと見受けられる。インターネットに登場した「ポッドキャスティング」という音声伝播の方法は、わずか一年あまりで驚くばかりの人気を得て、膨大な数の人々を捉えた。音声を記録するという作業を行うには、ラジカセのテープに吹き込むということは、いまやすでに過去の時代の方法となってしまう。アナログの磁気信号をもって音声をテープに記録するという技術は、内容を正確に記す、簡単に聞ける、という利便を与えてくれたと捉えるならば、音声をデジタル信号に置き換える電子メディアは、この二つの要素を受け継ぎながら、さらにそれを確実に伝えるという可能性をつけ加えた。より低いコストをもって、記録の保存、伝播ができ、しかも製作者、享受者の拡大に伴い、新たな使用への対応、単一のメディアからマルチメディアへの展開が期待できる。

時代が進む中で、古典の作品を目だけではなく、耳を使って接し、これを楽しむという、かつてあった享受のしかたを改めて体験できる日はやがてやってくるだろう。そのような可能性を現実のものにし、音声による記録をつぎの世代に残してあげることは、中世研究におけるこれからの課題の一つだと提言したい。

『中世文学研究は日本文化を解明できるか』
中世文学会編、笠間書院
2006年10月、359-363頁